shin-1さんの日記

○叔父危篤

 「親父が危ない」と従兄弟から電話がかかってきたのは「さあ寝よう」と思った午前0時前でした。昨日からわが家に泊まりにきていた孫を寝かせ、そろそろトイレへ小便に連れて行こうと思う矢先のことです。従兄弟の親父、つまり私の親父の弟は85歳なのです。十二人兄弟の長男に生まれた私の親父は大正7年生まれです。私の親父の末の妹、つまり私の叔母は54歳で昭和18年生まれなのです。上手く説明しないと分らないくらい私の祖母は26年間に12人の子どもを生んだ計算になるのです。よくもまあと思うのですが、いろはかるたに詠まれた「律儀者の子沢山」という言葉そのままに子どもを産み育てているのです。しかも戦前・戦中・戦後の食う物とて少ない赤貧洗うが如き激動の時代にですから、想像を絶する他はないのです。

 昨晩危篤の知らせを受け叔父は最近急に衰えが目立ち、認知症がかなり進んで、介護している叔母の手を随分煩わせ、介護で叔母が病気になる限界まできていたようなので、そろそろ特別養護老人ホームへと相談し始めた矢先のことでした。

 私たち夫婦は身支度を整えて孫を起こし車に乗り込み、御前様の酔いタンボがそこら辺をウロウロする松山の道を走って日赤病院へ向かいました。途中で孫を娘の家に降ろし、病院へ到着したのは深夜1時頃でした。ロビーには救急当直病院なのでしょうか、様々な病気や怪我の人がロビーに詰めかけ、まるで昼間のような賑やかさです。

受付で名前を告げると、第3病棟5階と案内してくれました。夜の病院は静まり返り何となく寂しいものです。度々病院へ見舞いに来ている妻は要領よく事を運んで、エレベーターの乗り口まで熟知していて、さすがと感心しました。病室へ入ると叔父はまるで機械のように幾つものパイプを口から鼻から入れられ、側の生命維持装置が無造作に体温、脈拍、血圧などのデーターを表示しながら右から左へ波打つように流れていました。また分厚い輸血のための真赤な血液が病気の重さを物語っていました。

 叔母も従兄弟夫婦も心配そうに叔父のベットの横で座っていましたが、私たち夫婦の見舞い来訪を叔父に告げ、叔父もかすかな記憶を引き出そうと目を開けて反応しているようには見えるのですが、直ぐに目を瞑ってしまうのです。「医者の話では体内の動脈瘤が破けていて手術は不可能なので24時間以内しか・・・・」と息を殺したような低い悲しい声で私に話しました。10分ほどの面会で深夜のことなのでひとまず家に帰り、叔母連中に連絡する役目を引き受けました。深夜のことながら叔母たちは家族がしっかりと対応してくれ、大坂の叔母を除けば直ぐに見舞いに駆けつける言ってくれホッとし、浅い眠りに着きました。

 親父が起きる6時に親父に叔父の危篤を告げ、病院へ連れて行きましたが、道すがら叔父の幼い頃からの思い出話を話す親父は悲しそうでした。十二人兄弟姉妹といいながら2人の妹を大坂戦災で亡くし、二人の弟も既にガンで亡くなっています。今度弟と別れれば、一番長男の自分しか残っていない順番の狂いを嘆いて、「出来れば変わってやりたい」とも話しました。僅か10分ほどの面会でしたが、叔父も懸命に応えて穏やかな面会で幾分救われたのか、親父も満足そうでした。

  午後2時15分頃、従兄弟から「叔父死亡」という携帯電話が入りました。それからは慌しく、松前の叔父の家を何度も往復し馴れない従兄弟そ相談相手として通夜や葬儀の決め事を葬儀社の人と相談し、今晩は身内だけの通夜、明日は式場で午後6時半から通夜、明後日午前10時半から葬儀などを決め、忙しくも空しい一日を過ごしました。それでも叔父は自分の過ごした家に戻って、眠るように穏やかな顔で横たわっているのが印象的でした。

  「一日が こんなに長い ものなのか 叔父の最後に 行ったり来たり」

  「もの言えず それでも目開け 応えたる 叔父の姿に 感動涙」

  「ロウソクの 灯り消えゆく ように逝く 叔父は現世に 終りを告げて」

  「ああ無常 人の命の はかなさよ 親父も俺も いつかこのように」


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shin-1さんの日記

○人間牧場の工事

 人間牧場がオープンして3周年になりました。最初に中心施設水平線の家が出来、ロケーション五右衛門風呂、ツリーハウス、倉庫と小さいながらも4棟が完成し一応の施設が整いました。その後耕運機小屋、給水タンク設置と、こまごました工事はありましたが、まあ日常の活動には困らないようになり、ホッとしています。

 先日水平線の家やロケ風呂の敷地造成と土台造りをしてくれた土木業者の社長がわが家にやって来て、「何か仕事はないか」というのです。聞けば最近は公共工事などが激減し、しかも公共工事の入札見直しなどによって経費が削減され、会社の運営が厳しいというのです。かつては役所に勤めていたのでその辺のことは薄々感じていました。町内には15もの土木業者がいましたが、次々と倒産し今では6業者に激減しているのです。毎年この頃になると公共工事がなくなるので羽振りの良かった昔はどの業者も社員を海外旅行に連れて行ったり、社長はみんな33ナンバーの車でゴルフ三昧の週末でした。しかし最近は自己破産や夜逃げなどの暗い話題ばかりで、知人友人もいるだけに心を痛めたものでした。

 「そんなこと私の知ったことではない」といえばそれまでなのですが、少しでもお役に立てたらと、人間牧場内の石垣工事を思いつきました。早速社長と人間牧場へ足を運んでウッドデッキ下の切り取り斜面を見てもらいました。社長の話によると15メートル石垣だと15万円ということでした。即その場で口約束のようにして仕事を発注し

ました。その後時々雨が降るため工事が延び延びになっていましたが、この二日間で仕事をやると通知があったので、合間を縫って覗いてみました。




 午後3時ごろ現場に行って見ると人夫さん三人が忙しそうに働いていましたが、たった二日間で石積みの工事は殆ど終わっていて、後は刷毛で汚れた石を磨いたり、側溝を塗り固める仕上げの作業だけとなっていました。その手早さに感心するとともに、綺麗に仕上がりつつある石垣工事につい嬉しくなりました。本当は自分でやりたい作業なのですが、いかんせん手間と暇、それに技術が伴わずやはり餅屋は餅屋なのです。これでウッドデッキの下の崩壊の心配もなくなりました。

 ダンプカーに積み込んで用意したセメントが少し残ったとのことなので、草が生えて困る部分に流し込んでもらい事なきを得ました。

 人間牧場は目に見えない部分での進化と目に見える部分の充実で随分様になってきました。後は茅葺の茶室風建物と、子どもたちが夢に描いた小さな砦のような木の上の物見台、それに珍しい竹の家を残すだけとなりました。また炭窯やご飯を炊くオクドさん、それに燻製釜などなど出来るかどうか分りませんが、少しずつ夢を膨らませてゆきたいと思っています。

 まあ焦らずに出来るだけ手作りを極めたいと思っています。

  「またひとつ 夢が叶って 次の夢 夢はどこまで 死ぬまで続く」

  「石垣が 牧場グレード 上げてゆく 資金の工面 何とかなるさ」

  「さすがです 餅屋は餅屋 かゆい所 手が届くよう 仕上げてくれる」

  「石を積む 石垣造る 城建てる 同じようだが 目的違う」

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○熊野古道旅の終り⑤

 憧れていた熊野古道の旅もいよいよ最終章です。熊野古道を歩くといいながら実はバスの旅で殆ど歩かないのです。それでも最後の那智大門から那智大滝までは、祈りの路に相応しい自分への問いかけにも似た何かがありました。過ぎ越し自分の人生への問いかけ、今何をなすべきかへの問いかけ、更には今後いかに生きるべきかへの問いかけなど、3キロ余りの坂道を歩きながら様々な事を考えました。

 紀州和歌山はくろしおの恵みを受ける温暖な地域です。それでも行き惜しみするように山々には山桜の花が燃えるように咲き誇り、神社仏閣にはこれまた見事な山桜が彩りを添えて私たちを迎えてくれました。最後に撮った次の4枚の写真がそれを物語っているようでした。




 何年か前といっても私が青年団長をしていた頃ですから、もう40年も前に「南紀」へ青年団の研修旅行にやって来て、この滝を初めて見ました。そのスケールの大きさにただただ驚き大きな夢を滝に向って大声で、恥も外聞もなく仲間とともに叫んだものでした。「結婚するぞー」「アメリカへ行くぞー」などと・・・・・・。

 その後も何度か来ているはずなのにどの路をどう来たのか、まったく記憶に残っていないのです。40年の時の流れは私にとって一体何だったのかしみじみ考えました。あの時滝に向って誓ったことは一応成就したように思いますが、40年を加齢し初老の域に達しつつある自分の今を考えながら、恥かしい気もあって大滝に向い心の中で決意とも祈りとも思える幾つかの想いを語りました。

 ふとわれに帰りバスはもと来た道を那智勝浦まで引き返し、右に迂回して串本を通るコースを選びました。途中鯨の太地を横目に国道42号線を走り、串本橋杭岩で一服休憩し、すさみ、白浜を通って田辺に出て土産に梅干しを購入し再び和歌山まで阪和自動車道に乗りました。

 私のカメラは何故かここから飛んでいて写したはずの写真がまったくないのです。枚数オーバーなのかどうかを分りません。でも和歌山城は今年の2月にバッチリ記録しているので問題はありません。惜しむらくは森さんが教えてくれたポイントで和歌山城をバックに記念撮影したみなさんの集合写真がないのです。それぞれの人がカメラを持っていたので「まあいいいか」で諦めました。

 この二日間好天に恵まれいい旅の思い出が出来ましたが、和歌山から南海フェリーに乗り込んだ頃から本格的な雨が降り始め、徳島では強い雨足となりました。吉野川サービスエリアで最後の軽めの食事を取り、それぞれのふるさとへ帰って行きました。

 「次はどこへ行こうか」、バスの中は早くもそんな話題で盛り上がりました。「世界遺産」がテーマの旅は来年も続きそうな雲行きです。道案内をしていただいた森さんありがとう。そして楽しい旅をご一緒できた仲間の皆さん有難う。

  「古道路を おのが生き方 尋ね行く 同行十四 自分問いかけ」

  「大滝に 叫んだ昔 懐かしい そんな馬力も 失せし年代」

  「桜咲く 熊野古道の あちこちが 今も鮮明 頭を過ぎる」

  「案内が いるといないは 大違い 旅はやっぱり ガイド次第で」

   

  

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○熊野古道を楽しむ④

 早朝7時30分にホテルを出発した私たちは、那智大社を目指しました。メンバーの中の児島女史はひざ腰足に自信がないため、森さん、河野さんと三人で前もって那智大滝の近くまで車を移動するためその車に乗って出かけました。那智大門坂入口付近で降ろされた私たちはいよいよ最後の難関3.1キロの道を歩くのです。

(那智大門坂入口、左の道が古道です)

(少し歩くとなだらかな石段になっていて、まるでどこかの家の庭先に張り込むような錯覚を覚えました)

(途中にあの有名な南方熊楠が三年間滞在した大阪屋旅館跡があり、末光さんや私が南方熊楠について薀蓄を語りました)

(そこからはなだらかな杉木立の道が約600メートル続きましが、まあその杉の立派なこと、源頼朝が寄進植栽したという樹齢800年の大木がこれでもかといわんばかりに100本を越えて立っていました。私もこれまで色々な杉並木をみてきましたが、これ程のスケールは前例がありません)

(杉の一本一本には個性特長があって、色々な名前の立て札が立っていました。ご覧下さい。夫婦杉の一本でも北原、河上両氏が手を伸ばしてもこのような大きさなのです。)このような杉がゴロゴロあるのですから参りました)

(大門坂を抜けると那智大社への坂参道に出ます。坂の途中にはかつて著名な方が休憩した立派なお庭があって、少し汗ばんだ体を一服するためラムネを飲みました)

(那智大社の入口が見えてきました。朱塗りの社が周りの景色にマッチして何ともいえない景観でした)

(那智大社本殿前で若返りの水を飲み、ヤタガラスの曰くをききました)

(那智大社の直ぐ横に西国一番札所の青岸渡寺があり、神仏混合のような錯覚でしたが、みんなでお参りしました。このお寺は本堂へ土足で入れるのです。中央に鰐口という大きな鐘が吊り下げられていて、入り金とばかりに紐を引っ張って思い切り叩きました)

(境内からは宿坊の立派な庭の向こうに、目指す那智大滝が見えてきました。双眼鏡を持参していた北原さんが那智大滝の最上部滝口に人の姿を発見し、みんなで双眼鏡を回して大騒ぎです。森さんの話だと滝口に通じる道がるそうで、毎年滝口にしめ縄を張る恒例行事がテレビのニュースで取り上げられるそうです。

  「樹齢聞き 納得しつつ 杉仰ぐ 八百年もの 年輪刻み」

  「今回の 熊野古道を 歩く旅 大門坂で 充分納得」

  「熊楠も 知らぬ人には ただの熊 薀蓄語る 人もいるのに」

  「神仏が 混合している 聖域を 遠く近くに 滝を眺めつ」 

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○熊野古道寄り道③

 那智勝浦での夜は美味い物を食べようと小粋な郷土料理の居酒屋に繰り出しました。那智勝浦といえばマグロといわれるようにマグロの水揚げの多い港町です。その夜の料理は刺身を始め満足のいく海鮮皿鉢料理に舌鼓を打ちました。特に大きなアワビの刺身やカツオの刺身は絶品で、旅先の寄り道にしては何とも嬉しい誤算でした。


 14人の一行のうち女性を含めると6人までがウーロン茶組とあって多少盛り上がりに欠けるかと思いきや、お店の人まで巻き込んで楽しい宴会となりました。28年もグループを続けていると思い出話も尽きることはなく、和歌山の友人森さんが加わっていたこともあって話が弾みました。





 早朝5時半、私たちは思い思いにそっとホテルを抜け出し、目と鼻の先にある勝浦漁港の魚市場へ散歩のつもりで出かけました。東の空が明るくなる頃には殆どのメンバーが姿を見せ、魚市場に次々と水揚げされるマグロに圧倒されながら市場内を歩きました。ここへ上がるマグロは近海物が多く少し小ぶりなビンナガマグロが多いようでしたが中には100キロを越えるキハダマグロやカジキも水揚げされていて、既に品定めする仲買人がいいマグロを求めていました。



 次々と水揚げされるマグロを見ながらふと私は、愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸で遠洋航海に出た若き日のことを思い出しました。私は18歳の時愛媛丸に乗ってオーストラリアの近くにある珊瑚海までマグロ延縄実習に出かけているのです。その時の漁獲物は全て基地である神奈川県三浦三崎漁港に水揚げしました。この日と同じような時間にマグロを水揚げしたのです。勝浦漁港には数隻のマグロ延縄漁船が入港していましたが、若い船員の殆どは東南アジア系の人で、たどたどしい日本語で会話しながらマグロを水揚げしていました。


 早朝の足湯をしたり、市場内に出しているお店で買い物したりしながらゆったりと時を過ごし、ホテルで簡単なサービス朝食を取りました。昨夜の料理が美味過ぎて多少食べ過ぎていたためこのくらいで十分な量でした。

 普通だと、対岸に見えるホテル浦島のような大きなホテルに泊まるのでしょうが、温泉地に来ながら安いビジネスホテルを選ぶのも旅の面白さです。市場で5枚千円のスルメイカの一夜干しを買い求め、店のおばちゃんの七輪で焼いてもらって食べている風景はまさに旅行ではなく旅のようでした。少し時間があれば8時まで待ってマグロを買い求め宅配便で送ることも考えましたが、魚所の双海町ですからそんな必要もなく、市場近くのホテルを後にしました。

  「国訛り 聞きつつ箸を 運ぶのも 旅の思い出 居酒屋暖簾」

  「水揚げの マグロ居並ぶ 漁港にて 若き思い出 昨日のように」

  「安上がり 旅ゆえホテル 遠望で 行った気にさせ 早立ち先へ」

  「どちらから 四国愛媛と 名乗りあい 見知らぬ相手 まるで友だと」

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○熊野古道を歩く②

 熊野古道が世界遺産になったこと以外何も知らない人間ばかりが、熊野古道を歩こうとすること自体おかしな話です。それは私自身四国八十八ヵ所の聖地に住みながら、全てのお寺を巡る1400キロの道を歩き遍路していないことが物語っているのです。でもそんな神仏を冒涜するような無神経な私が憧れるほど熊野古道に魅力を感じ、一度は歩いてみたいと思うのは世界遺産という看板かも知れないのです。

 平安時代から鎌倉時代にかけ、上皇・法皇たちは浄土の地である熊野を詣でました。この熊野御幸により聖地熊野は日本中の人々に知られ、上下貴賎男女を問わず大勢が列をなして熊野本宮大社、熊野那智大社を目指したのです。熊野詣でには幾つかのルートがあって、大阪と熊野を結ぶ紀伊路、異説熊野を結ぶ伊勢路、高野山から南下して伯母子岳や果無山脈を越える小経路、吉野から大峰山脈を縦走する行者道の大峰奥駈道などがありますが、中でも現在中辺路と呼ばれる紀伊路は上皇・法皇たちが歩いた唯一の道として知られています。私たちはその中辺路辺りをほんのお触り程度歩くだけなのです。

(バス停口の熊野古道入口)

 和歌山県庁前でナビゲーターを依頼した顔馴染みの森さんを乗せ、和歌山ICから高速道路を走って南紀田辺に着きました。その後川に沿って山道を縫うように走り、大坂本王子~近露王子間にある、道の駅熊野古道中辺路にバスを止め歩き始めました。牛馬童子口バス停からの古道はかなり整備されていて道幅も広く、杉木立の中は春の木漏れ陽がさわやかで、僅か1キロ弱で最初の目的地牛馬童子像に到着です。

(一町毎に建っている一里塚)
(古道をゆっくり歩くメンバー)
(供養塔と牛馬童子石仏の位置を示す看板)
(牛と馬の上に童子が乗った姿の珍しい石仏)
(牛馬童子の説明版板)
(宝経院塔)
(メンバーの記念写真)

 普通であればここから先を目指して歩くのですが、観光バスでないため再び同じ道を歩いてバスを駐車させている元の場所まで引き返しました。道の駅には沢山の観光バスが駐車して、トイレは列が出来るほどの大賑わいでした。

 近露王子・比曽原王子・継桜王子・中川王子・小広王子・熊瀬川王子・岩神王子・湯川王子・発心門王子・猪鼻王子・水呑王子・伏拝王子・祓所王子など、幾つもの関門の看板を横目で見ながら次の目的地である熊野本宮大社に着きました。

(熊野本宮大社の大鳥居)
(熊野本宮大社の参道)
(熊野本宮大社の山門)
(熊野本宮大社の境内)


 この熊野本宮大社は元々大鳥居だけが今も残る別の場所にあったようですが、度重なる水害に見舞われ今の場所に遷宮されたらしく、杉木立も神社もどこか初々しい感じがしました。

 私たち一行はその日の古道めぐりをここで打ち切り、宿泊先である紀伊勝浦まで走りました。新宮からは高規格道路も出来ていて午後6時に勝浦のホテルシャルモントに入りました。

 「勝浦のホテルに泊まる」とだけしか伝えていなかった弟忠行夫婦が既に訪ねてきていて、嬉しい再会でした。弟は既に昨秋定年退職し温暖な串本古座の地を永住の地と定めて、好きな釣り三昧な暮らしをしているようです。

  「長年の 願望だった 熊野路を ほんの少しだけ この足歩く」

  「道すがら 王子王子と 古道古道 こんがらがって どこを走るか」

  「どことなく 南予に似たり 海岸線 風の匂いに ふるさと思う」

  「それぞれに 生き場所求め たどり着く 紀州路遥か 弟暮す」 

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shin-1さんの日記

○熊野古道の旅①

 昭和55年に有志数人とセスナ機をチャーターして「ふるさとを空から見る運動」を実施した明くる56年に12名の若者でグループを結成して以来、様々な活動を企画実施してきたわが「21世紀えひめニューフロンティアグループ」ですが、結成してから28年も経つと会員はみんな等しく28歳も加齢し、活動の内容も随分様変わりをしてきました。28年間の中で教育長に就任していた頃を挟んで3年間、嫌がる大野さんに代表の仕事をなすりつけていましたが、私がリタイアしてある程度自由な時間が持てるようになって、再び代表の座に復帰して3年目となりました。その間韓国旅行をやったり、人間牧場にツリーハウスを造ったりと相変わらず元気な活動をしているようには見えても士気の衰えは否めず、むしろ軸足を自分たちの楽しみに移し始めています。もちろんそれで満足しているわけではないので、代表たる私の仕事は仲間のグレードをアップし、グループ結成の時に約束した「今やれる青春」「一年一事業」「社会への揺さぶり」の三つのテーマに基づき、人間牧場を中心に塾をやったりしながらフロンティア精神を呼び起こそうとしています。

 今年春の総会で「世界遺産に学ぶ」という大きなテーマを掲げました。何のことはありません。「世界遺産を旅したい」という単なる旅行気分なのです。でもせっかく行くのだからせめて日本の身近な世界遺産から何かを学び取ろうと、第一回目を「世界遺産・熊野古道を歩く」から始めたのです。

 4月12日土曜日朝6時30分、松山市駅前を出発ですから、愛南町の北原さんなどは前の日から東温高校に通う息子さんの下宿に前泊し、私も朝5時30分につまの運転する車で自宅を出て、伊予鉄郡中港駅5時59分発の伊予鉄始発電車に乗り込みました。最近は夜明けも随分早くなって、新川辺りでは既に朝日が昇り、幸先良いスタートです。電車の中には私たちと同じような旅をするであろう出で立ちの人が沢山乗って始発とは思えない賑やかさです。電車は予定通り使役に到着、高島屋の前では田宮さんとともに今回のプログラム担当である佐賀山さんが出迎えてくれました。市駅前で日豚殿人を乗せ、久米窪田で豊田さん、東温で北原さん、高速サービスエリア石鎚で河上、日浅さんをそれぞれ乗せ、直前になって尿管結石で行けなくなった大野さんを除いて13人が勢揃いました。河野さんの肝いりで借りたマイクロレンターカーを河野さんが運転して、松山~徳島~和歌山コースを走りました。

 徳島までは意外とスムースに走れたため約1時間も早くフェリー乗り場に着きました。朝が早かったため朝食を食べていない人もいて、それぞれ思い思いの食べ物を注文して時を過ごしました。やがて和歌山からのフェリーが到着し、私たちとまるで反対に四国路を走るであろう和歌山ナンバーの車をまるで口から吐き出すように降ろし、いよいよ乗船です。船の中は意外と込み合っていました。外目にはどんな団体か分らぬ、田舎のおっちゃん、おばちゃんのようなグループです。
(藤本さんと河野さんの奥さん)
(田宮、河上、北原、日浅、児島さん)
(豊田、佐々木さん)
(私、あれっ佐賀山さんと末光さんはどこへ隠れたのでしょう)


 僅か2時間の船旅ですが、船内は久しぶりの出会いに話も弾み、早い人はアルコールを入れて上機嫌です。甲板に上がってみました。4月中旬ですが外の風はまだ冷たく徳島港が段々遠くなって行きます。左手には鳴門と淡路島に架かった大鳴門橋が見えました。

(航跡の向こうに遠くなる徳島港)

(遥か遠くの水線上に大鳴門橋が見えました)
(和歌山港に架かった真赤な橋)

 やがて場内アナウンスが和歌山港に入港する旨を伝え、バスに乗って和歌山の地に第一歩を記しました。さあいよいよ熊野古道の旅が始まります。私たちの車は携帯電話で連絡を取り合って和歌山県庁前へ着きました。ここで今回のナビゲーターである森さんを乗せました。

(威風堂々の和歌山県庁)

(一泊二日熊野古道の旅をナビしてくれた森駿さん)

 森さんは、和歌山県庁に勤めている人です。縁あって無人島キャンプにも何度も訪れ、県外組のフロンティアグループメンバーなのです。森さんの娘さんは二人も愛媛県に住んで働いています。今回の熊野古道の旅には嬉しいことに3名のツアーコンダクターが名乗りを上げてくれました。一人は2月7日に和歌山県庁職員を対象にしたライフプランセミナーの講師として来県した際お世話になった橋口さんです。かゆい所まで手の届く気配りの人なので私のブログで熊野古道を歩く旅の話題を目敏く見つけて「是非ご案内を」と申し出がありました。もう一人は私の弟です。昨秋に定年退職し今は妻に実家がある和歌山古座に住んでいますが、兄貴が来るのなら是非ともと言われました。どちらも余り内容も言わず大変失礼したのですが、事務局の配慮に甘んじて森さんにお願いする事にしたのです。

  「それぞれの 早立ち旅の 支度にて 懐かし顔々 バスに乗り込む」

  「近況を 笑顔で話す 自由人 ちょっと緊張 現役面々」

  「昔だけ 話していては つまらない 明日を語れば 年金加齢か?」

  「うち揃い 熊野古道の 旅に出る 世界遺産の 名前つられて」 




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shin-1さんの日記

○いよ食談会での卓話

「お父さん、新聞に出てるよ」、数日前愛媛新聞の広告欄に出ていた愛媛新聞カルチャースクール特別講座「いよ食談会」の記事を目敏く見つけた娘が、わが家へ電話をかけてきました。新聞を見ると2008年前期(4月~8月)の参加者を募集しているのです。「県内有数の名店で、さまざまな分野からお招きするゲストの卓話と、特別料理をお楽しみいただきます」「今年も『地産池消』をテーマに、愛媛の新鮮食材を盛り込んだ駿の料理をぜひご堪能下さい」という見出し記事が並んで、受講料は税込み22,000円、定員35名、時間は11:30~13:30となっていました。そして月一水曜日のそれぞれのお店では腕自慢の料理長さんの顔写真とともに、献立のテーマとゲストの名前が書かれています。

 そのBコース第一回目が昨日でした。会場は松山ワシントンホテルプラザ・チャイナテーブルで料理人はチャイナテーブル料理長村山正光さん、献立テーマは「美食楽膳」、そしてゲストスピーカーは何と私なのでした。ワシントンホテルは娘の結婚披露宴、諸会議や講演会に招かれ度々利用している会場だし、愛媛新聞も気心の知れた会社なので、今回の申し出を断る理由もなく快く引き受けました。

(メインテーブルを囲んだ楽しい食談)
(私のご指名座席)

 会場には5つのテーブルが並べられ定員満席だそうで、素敵な雰囲気のお客様が居並んで座っていました。やがて愛媛新聞社事業局三瀬さんの開会あいさつに続いて私の卓話です。与えられた時間は12時までの僅か30分です。それを過ぎると「料理を出すタイミングが狂うのでくれぐれも時間厳守」でと釘を刺されての登場です。私のテーマは「新しい発想で生きる」でしたが、何を話しても良いからとにかく楽しく話して欲しいというのが主催者からの注文です。突き詰めれば間を持たせるつなぎと料理を引き立たせる「つまもの役」なのです。そういいつつも食談の話題提供ですから変な話もできませんし、適当な話でお茶を濁しました。

 やがて料理長の「今日の献立」が紹介され、いよいよ昼食開始です。この日は中華料理でしたが、そのお味は抜群で、さすが名店と呼ぶに相応しい味でした。その幾つかを食べながら担当者の了解を得てデジカメで盗み撮りしましたので紹介します。

(鯛の中華サラダ杖の淵の」ていれぎとともに)
(四万十のあおさとフカヒレのスープロワイヤル)
(奥伊予地鶏の唐揚げ油淋ソース)
(海老のチリソース煮空豆のさや蒸し焼き添え)
(牛肉のロースト豆鼓ソース愛媛の春野菜添え)
(宇和町のあまおとめと中華デザート)

 残念ながら(南予のはるかと文旦のジュレ)と(蓮の葉包み蒸しおこわ)は箸が進み過ぎて食べて後で気付き写真を撮るのを忘れてしまいました。

 それにしても美味しいの一言では片付けられないほどの美食でした。写真を見ながらこれが全て私の胃袋に収まったのかと思うほど絵になる料理の数々でした。

 会場のあちこちでは私の話が食事の友となり嬉しい意反応が幾つもありました。また竹で作った赤トンボを2匹紹介しましたが、一応に驚き話題をさらい効果抜群でした。

(思わず話が弾みました)
(三瀬さんも酒も飲まないのに熱弁です)

 「食事を楽しみながら会話する」、この何でもないことがテーマになるほど私たちの日々の暮らしはあくせくしています。せめて月に一度くらいはこんな贅沢なひと時を過ごしてみたいものです。愛媛新聞の瀧宮さん、そして久しぶりにお会いした三瀬さん有難うございました。

  「短めの 卓話を終えて さあ食事 次から次へ まるで竜宮」

  「あらためて これが胃袋 入ったとは 腹をさすりて 愛しい気分」

  「料理人 偉いもんだね しみじみと その見事さは まるで芸術」

  「美しき 女性居並ぶ 食談会 スープもおちょぼ 口してすすり」  


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○教えられたこと「掃除とお化粧」

 今朝早く、宇和島の友人藤田さんがわが家に見えられました。国の重要歴史的景観に剪定された遊子水荷浦の段々畑で栽培収穫された早堀りジャガイモを毎年届けてくれるのです。彼と知り合ったのはもう20年以上も前のことです。当時彼は遊子で漁業を営み、愛媛県の漁業後継者協議会の会長をしていて、その研修会に招かれて講演したのが出会いの始まりでした。その後彼の暮しは漁業の低迷によって大きく変化をしたのです。それでも彼はふるさと宇和島をこよなく愛しふるさとを離れようとしないところに彼の魅力があるのです。彼は勉強熱心で知識が豊富です。また娘さんが東京の大学に進学する時も、卒業して地元の新聞記者になる時も何かと相談にきて律儀な姿は今も昔のままなのです。その彼も私と同じように年齢を加え、50前後となって将来の事を考えてのことでしょうが、転職をしたようです。先日娘さんに出会って話を聞き薄々は感じていたのですが、どうも清掃の仕事を起すようなのです。既にその研修を都会に出て終えたようで、決断した将来が上手く行くように祈っています。

 「まあお茶でも」と玄関に座り、束の間の話しをしました。どの世界でも生きて行くための仕事はきついようで、第一次産業が厳しいというが都会の雑踏で生きてる人の殆どはもっと厳しいと、肌で触れた研修期間の事を話してくれました。その話の中で特に印象に残ったのは、掃除とお化粧の話です。

 掃除・炊事・洗濯・裁縫・子育ては昔から女性の仕事と位置づけられてきました。結婚が決まると母親は嫁ぐ娘に花嫁修行としてそれらを教え、時には花嫁学校に通わせてそれなりの娘にして嫁がせたものです。ところが最近はそんな修行をさせたくても、親が全ての修行が出来ていないものですから、結局は何の修行も出来ぬまま出来ちゃった結婚で嫁いでしまうのです。

 それでも女性の「美しくありたいという」願望だけは独り歩きして、お化粧だけはし過ぎるほどにするのです。しかし自分のお化粧はするが暮しの中心である自分の家の掃除は殆どせず、ベットになったこともあって万年床で、毎日の掃除さえもままならず、埃の中で暮らしているようなものなのです。掃除の仕方も昔のように新聞紙を濡らしてちぎり、ばら撒くようなことは殆どなくなりましたが、都会では掃除やさんなる仕事がお目見えして、家庭の掃除すら害虫に出す家が多くなったというのです。私たちのような田舎に住んでいる人間には考えられないようなことですが、都会ではもうそれが常識になっているようです。でも私が古い人間なのかも知れませんが、お顔のお化粧も大事かもしれませんが、家の掃除くらいはできる女性を、子どもの嫁には迎えたいと思うのです。

 母から子へ、子から孫へ家庭は女性の力によって伝承されて行くことが殆どですが、そういえば掃除の仕方など妻が娘に教えたかどうか気がかりになりました。妻にその事を聞けば、「娘には教えるというよりは、している姿を見せる教育」とズバリ言われました。その通りだと思います。掃除も、炊事も、洗濯も、裁縫も、子育ても出来ぬ母親からは出来る子どもは育たないのだとしみじみです。

 藤田さんの話しによると、掃除を通して家庭が見えてくるそうです。人の家の事を言える柄ではありませんが、やはりもう一度「家とは何か」、「掃除とは何か」、単純そうで難しいことを考え直してみたいと思いました。

 今晩は藤田さんからいただいた早堀りのジャガイモを食べたいと、頭にジャガイモ料理をイメージしながら、松山へ出かけます。今晩は夕食が楽しみです。

  「掃除さえ できぬ娘が 化粧する 教えるはずの 母さえできぬ」

  「教育は やっているとこ 見せるだけ ただそれだけで 充分ですよ」

  「早掘りの ジャガイモ届き 夕食が 楽しみですね 早く帰ろう」

  「何気ない 会話の中で 考える 今の日本は これで良いのか」

 

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shin-1さんの日記

○知名度アップ

 田舎の町の元役場職員なんて日本全国どこにでもありふれた人間なのでしょうが、私はどういう訳か役場を辞めてから以前にも増して忙しくなったようだと妻がいいます。当の本人はそんなに感じないものの、商工会から毎年いただいて使っているWritingCalendarをめくると、予定がかなり込んで書かれていて、昨日などは午前・午後・夜と予定があって一枡で書けないため、矢印で別欄に書き加えれれているのです。「お父さん、若くはないのだから余り無理をせず程ほどに」と唯一気遣ってくれる妻の言葉を聞きながら、私のカレンダーは埋まって行くのです。

 最近様々なイベントや会合の実行委員会のメンバーになることが多く、旧友や世話になっている人から頼まれると嫌ともいえず、ついついメンバーの末席に名を連ねてしまうのです。そして運がいいのか悪いのか、それらの会議に出れば実行委員長などという思い責任の荷物を、有無を言わさず背中に背負わされ難儀をするのです。

 私はリタイアして4年目を迎えています。年金暮らしも板について、「暇」あり「金」ありと周りから見れば思われるのでしょうが、残念な事に「暇」も「金」も「最後の「知恵」もなく、「気力」「体力」くらいしか役に立てないのです。



 数日前、愛媛大学を体感して放送大学の仕事をしている讃岐先生から電話が入り、今年の秋に「地域教育実践交流集会」をやるので、その世話人になってくれないかと依頼がありました。先生には随分昔から社会教育、とりわけ公民館活動でお世話になっているので、電話一本で中身も分らぬまま引き受けてしまいました。やがて発起人会をするからと言われるその日は私の予定が入っていて欠席すると言ったのですが、恐縮ながら予定が変更されて出席の運びとなりました。

 第一回の発起人会は松山市内の飲み屋さんで夕方6時半から手弁当の会らしく会費制です。行って驚いたのですが、数多くの著名人がいるのにいつの間にか私は5人の世話人の一人に名前が載って、その席に座らされてしまいました。ここで文句を言うと混乱するので飲み込みましたが、一事が万事こんなかかわりが多くなってきました。どこかで身を引かねばと三年前に殆どの公職から身を引いていたのに、いつの間にか十二単の衣を纏ったような心境なのです。

 この歳になると知名度など何の役にもたたず、むしろ煩わしいだけなのですが、私の知名度は勝手に乱高下しながらもまるで株価や為替相場のように確実にアップしているようです。

 マスコミに登場することももう無いだろうと思っていたのに、人間牧場というネーミングが良かったのか悪かったのか、再び地獄の底から這い上がって新聞や雑誌、テレビやラジオに度々登場するようになりました。一日三枚のハガキと年間7200枚の名刺以外情報発信の道具を持たなかった私にインターネットという強い武器が与えられ、俄然情報発信をし始めたのも一因かも知れないと、とりあえず始めたブログの在り方を思案している所です。知名度アップはとんでもない方向に向い、講演依頼も全国に及んでいます。「そろそろ年具の納め時」だとおもうのですが、さてさて何か悪いことでもしない限り、私の円高傾向はもうしばらく続きそうな雲行きです。

  「この顔で? 鏡に映る 顔を見て 知名度アップ 世の中分らん」

  「辞めてから 本領発揮 君らしい 褒められ山椒 木にも登りて」

  「また受けた 妻の皮肉が 聞こえそう 仕方がないと 言い訳探す」

  「知名度は 人が勝手に 決めるもの アップアップの 人生楽し」

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