shin-1さんの日記

○365分の1か365分の365=1か

 私は長い間公私共にまちづくりの仕事に携わってきました。そしてある部分で成功し、ある部分で失敗してはしたたかにさりげなく生き延びてきました。潜在能力を持っていたことによって顕在化した一瞬のひらめきと行動が夕やけプラットホームコンサートという非日常、つまり一年に一回のイベントを生んだのです。その後も数年試行錯誤のイベントとして続けましたが、それは殆ど365分の1のままでした。ところが夕日を何かに出来ないか、特に経済に結びつけるためには物語づくりが必要であると痛感し、365分の2を生み、それが3、4と次第に数を増し、シーサイド公園などは非日常が日常化し365分の365になったのです。

 私たちはまちづくりを最初は一日から始めます。しかしその一日のままで10年続けるとどうなるでしょう。最初の目的は何処かへ忘れてしまって、ゴミと糞小便、それに疲れしか残らないことが多いのです。これをマンネリというのでしょうが、そのマンネリを越えるにはやはりそれ相当の覚悟と努力が必要なことは言うまでもありません。私たちは分母の365日は絶対変わらない不変なものとして受け止めなければなりません。しかし分子は最大365まで引き上げることが可能なのです。=1に限りなく近づければ持続可能なまちづくりとなりますが、中々出来にくいものなのです。

 私個人も365分の365=1を目指して日々精進しています。例えば私のブログです。書き始めてもう2年半になりましたが、最初は重荷になって中々進みませんでしたが、心に強い信念を持って続けるうちに日常化し、今は暮しの一部となって、旅に出て書けない日があると、何かモヤモヤして不完全燃焼に陥るのです。またハガキ一日三枚ももう22年目に入りました。これも日常化しようとした努力の賜物なのです。

 非日常で始めた人間牧場も次第に暮らしの一部になりつつあります。多分これは365分の365=1には絶対ならないと思いますが、それでも農業という手法を通して梅やサツマイモ、野菜などを作って暮らしに関わらせているお陰で随分満足と理解が得られもう少し、もう少しと思い行動すればそれで充分なのです。

 私の使命はまちづくりで洗脳された自分と同じように人々を洗脳させるまではいかなくても、感化させることです。自分の住んでいる町を愛し、住んでいるまちを少しでもいいまちにしたいという心と行動を育てなければならないのです。

 今まで自分のまちは寝たり食べたり、働いたりするだけの存在でしかなかった人たちに、面白さを味あわせて気付かせれば、私にとってもその人にとっても、また周りにとってもいいこと尽くめなのです。私は365分の365を幾つか持っています。それはささやかですが自分の生きがいでもあるのです

 主催者ばかりが難儀をする365分の1のイベントやシンポジウムはもう限界に来ています。時には感動の涙を流せるような共感・共鳴・共有の社会をまちづくりという手法で作って行きたいものです。

  「一年は 三百六十 五日だが 毎日少し するが最上」

  「一年は 分母変わらぬ ものなのに 分子が違う だからそれぞれ」

  「限りなく 一に近づく 努力して 日々の暮しを 楽しいものに」

  「年輪も 一年一つ 刻みゆく わが年齢も 一年一つ」 


 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今年最初の虫刺され

 先週の日曜日、九州でマラソン大会を開催中、何人かのランナーがミツバチに襲われたという記事が新聞に載りました。多分この記事を読んだ人は「大変だったなあ」とか、「お気の毒に」とか、「他岸の火事」くらいにしか思わなかったのではないでしょうか。私もその程度の感じしかありませんでした。新聞ではそこまで言及していませんでしたが、参加者全員に傷害保険をかけて望む大会なら、大会終了後「これは誰の責任か」と責任論が浮上するのは当然の成り行きでしょう。人間に事故を負わせた「蜂」が加害者で、「人間」が被害者というのは誰が考えても当たり前なのですが、じゃあ加害者の「蜂」に賠償責任能力があり、その損害保証を求められるかというと、相手は不特定多数の小動物で、加害動物の特定が出来ず、ましてやその責任能力もないことから、ランナーは「泣きっ面に蜂」なのです。

 しかし冷静に考えれば、色々なことが浮かんできます。まず主催者が設定したコース周辺にはミツバチから蜜を取って生計を立てる養蜂家が沢山いて、巣箱を無数に設置しているという事実です。主催者が事前の下見でこれらを見過ごしていたのは明らかに落ち度です。「てがわない蜂は刺さない」といわれるように、蜂は人間が大勢で巣箱の近くを次々と走るものですから、てっきり攻撃されると勘違いしたに違いありません。一人でなく30数人が被害に遭っているのはその証拠だと思うのです。

 問題は被害が出た後の対応です。何日もかけて準備をしたのでしょうから、被害者が30数人になってもそれ以外の人は刺されていないのですから、大会を続行したくなるのはこれも当然の成り行きです。しかし事は重大です。もし対応が遅れれば刺された人は死ぬかも知れないというこの事実をもっと重く受け止めて、中止すべきという意見も当然なのです。主催者はコースを変えて続行したそうでしが、幸い刺された人は軽症でホッとしていることでしょう。

 もう一つ問題があると思います。私も知りませんでしたが蜂を飼うのには許可が必要なのだそうです。テレビに映っていたあれ程の巣箱を設置して、無許可では済まされません。許可を取っている取ってないと事実が交錯しているようですが、これも責任の取り方としては重要なのです。

 同じ日に私は蜂ではありませんでしたが、人間牧場の草刈り最中、目の横を狙われ刺されてしまいました。男前の顔が台無しで、目尻が大きく腫れ上がりとても人様の前に顔向け出来ないような顔姿になったのです。刺された時、違和感を覚えて直ぐに虫刺されの薬をつけたのですが、これが目に毒とでもいうのでしょうか、目の中に入ってとんでもない激痛に悩まされました。私の場合加害者たる虫が特定できませんでした。多分ブトだと思うのですが、春まだ浅いから夏の虫などと鷹を食っていたのが悪かったのです。後遺症が残るほどの被害でなく、原状回復間近なのでとりあえず一安心です。

 人は誰でも事故や怪我に会うものです。その時の現状判断や対応は、常日頃の心の準備が必要で、これを危機管理能力というのかも知れません。一寸の虫にも五分の魂です、虫にだって生きる権利がることを無視しないよう考えたいものです。

  「アッ痛い 虫に刺されて 薬塗る 今度は薬 目に染み痛い」

  「この時期に? そんな考え 甘かった 地球温暖 虫も早生化」

  「人間の 走る姿を 勘違い 蜂にも生きる 権利があると」

  「人間は 人のことなど 考えず 自分中心 だから危ない」

 

[ この記事をシェアする ]