shin-1さんの日記

○インクが早くなくなる
 プリンターを新しいのに変えて1ヶ月が経ちました。パソコンの情報をプリントアウトするには早くて美しくなりましたが、プリンターのインクが意外と早くなくなり、少し不安になっています。というのも家にいれば朝晩一本ずつブログを書き、そのブログを1ヶ月に一度プリントアウトしなければならないため、かなりのプリントアウト量でまたたく間にインクがなくなるのです。最近まで使っていたプリンターは黒とカラーの2種類に分けられたカートリッジになっていましたが、今回のプリンターはカートリッジといいながら一色一色別々のため、黒が普通の色より格段に多く使われて、減るのが早いのです。
 パソコン用具は娘婿のようにインターネットで申し込むことが出来ないため、月に一度余りのペースで上京する度に、その折新宿のヨドバシカメラで買い求めて帰ります。わが町にも伊予市にもパソコン用具に対応できる店がなく、地方の街である松山でも、価格的にかなり高く相当な出費を伴うため、自然と品揃えが豊富で金額の安い都会で買い求めてくるのです。 
 先月中旬上京した折、転ばぬ先の杖でインクを二箱買い求めて帰りました。6色入り一箱が5千円余りですから、二箱で有に1万円を越えてしまい、あらためてパソコンを使った仕事にも便利とはいいながらそれなりにお金がかかる事を実感しました。
 パソコンは職場で仕事の時しか使わない妻は、最近減り方が早い私の財布の残金を見てかなり警戒しているようですが、息子や娘婿のように職場でパソコンを使う仕事をしていない私にとって、パソコン関係に小遣いを使うのは、毎月一回通う散髪のようなもので仕方のないことかも知れません。ヨドバシカメラやエプソンのようなパソコン関連の情報産業企業が急成長する意味も、何となく分るような気がするのです。それでも私のようにソフトは息子や娘婿が対応してくれる人間がいる者はまだ救われます。
 私の友人の奥さんが先日私に、「最近主人が退職したのですが、パソコンにお金をよく使うので、これほどお金が要るの?と、夫と喧嘩になりました。まだ年金も先のことなのに、必要でもないし腹も太らないパソコンなど止めたらと言ってやったのです。夫は激怒して、情報は時代の流れだ、俺からパソコンを取ったら死ねというのと同じだと反論するのです。私は情報より生きることが先でしょうがと言い返しました。今は夫にすまなく思っていますけど」と吐露され、「若松さんどう思われますか」と意見を求められました。私も「名刺もタダではないのだから何処へでもばら撒く今までの癖を止めてもっと大事に使ったら」と、いわれた妻の意見を引き合いに出しながら、やんわり夫への理解を求めてあげたのです。
 「若松さんくらい働いてくれるのならパソコンと名刺は欠かすことのできない商売道具でしょうが、何もしない夫に本当にパソコンは必要なのでしょうか」と返され、私の働きをこの人はそのように見ているのかと、あらためて驚いた次第です。
 パソコンをやらない人にとって、パソコンの世界はなんとも理解し難い世界です。私自身パソコンをやらない時代は、「訳もなくパソコンに向って、あんな非人間的な機械の何処が面白いのだろうか?」と思ったものです。でもやり始めてみると奥が深く、私などのような情報化時代に乗り遅れたような人間でも、「もしパソコンが使えなかったら」と思うと、ゾッとするのです。
 インク代をケチることも出来ません。回線使用料も払わなければなりません。確かに物入りなのですが、友人が言うように私からパソコンを取り上げたら、「市ねというようなもの」ほど大袈裟なものではありませんが、仕事にはならないのです。
  「パソコンに お金を使う 愚か者 使わぬ人は もっと愚かだ」
  「小遣いが 直ぐになくなる 近頃は 無駄もしないに 何故になくなる」
  「取り替えた インクなくなり 予定表 東京下に インク買う書く」
  「友の妻 パソコンよりは 飯先と 言うが夫は 死ぬより先と」
 
 

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○道の駅の勉強
 前もってメールで約束していた双海町にご縁の深い大学生から昨日電話が入り、「道の駅の話しに行く予定の時間を、お約束の10時から8時に変更して欲しい」というのです。午後の会議の予定が積んでいたこともあって、願ってもない申し出と快諾しました。今朝7時50分にシ-サイド公園へ行くと既に学生たちは駐車場に着いていました。今日は朝から雨模様の天気なのでさて何処で話しをするべきか考えましたが、結局は加工場以外開いてないので加工場の隅をお借りしての話となりました。今日と明日の両日、シーサイド公園は水仙祭りで準備の人がひっきりなしに出入りする中、大学生4人に対し、雑音を気にしながら質問形式でお話をさせてもらいましたが、「愛媛大学教育学部の学生なのに何で道の駅の勉強に?」と不思議な気持ちになりつつ、約1時間の時を過ごしました。
 彼女たちの質問に答えながら、あらためて道の駅の存在を考えて見ました。道の駅には交流機能、情報機能、休憩機能という三つの機能がありますが、交流機能は随分進化して年間55万人もの人がこの道の駅に訪れるようになりました。観光客ゼロに近いようなスタートでしたから驚くほどの成果です。しかもこの道の駅は第三セクターで運営したいますが、過去13年間一度も赤字にならず五%の配当を続けているのですから、投資効果は目論見以上の善戦と言えるでしょう。でも近隣に真新しい道の駅や類似施設が随分出来て、客層が変わりかなり苦戦していることも事実のようです。運営に携わる人たちに聞くと「それは消費者のせい、社会のせいだ」と一種の諦めを持っているようですが、私の目から見ると、そこに関わる人の「想いの欠如」以外の何ものでもないのです。
 例えば年末年始に大風が吹いて、シーサイド公園の人工砂浜はたくさんの漂流ゴミの洗礼を受けました。12年間毎日掃除を欠かさなかった私の目から見るとその掃除の大変さは身に染みるほどよく分ります。しかし、突風が吹き荒れた後の3日間くらい砂浜の掃除はほったらかしになっていました。見かねた私は人知れず少しの掃除の真似事をして支援しましたが、「シーサイド公園の砂浜はいつ来ても綺麗に掃除が出来ている」という神話が崩れているのです。これはもうオンリーワンの箒ならぬ放棄なのです。
 また最近は第三セクターといえども指定管理者制度の導入で競争の原理と個性を持った運営原理が働かないと区別化や差別化が出来ないのに、職員の対応などはまだまだ未熟なままなのです。何年か前私の退職時に指定管理者制度が導入された折、ある企業からこの道の駅の運営の指定管理者制度に名乗りを上げたいので、私に責任者になって運営して欲しい」旨の依頼がありました。行きがかり上それはできないと丁重にお断りをしましたが、もし私がこの道の駅運営の企画書を作らせて貰うのであれば、13年の時の流れの中で変わった部分、変えなければならない部分をしっかりと点検改革しなければ、10年後は危ないと思うのです。これらは全て「想い」という人間が創り上げてゆく形のないものなのです。
 学生たちに失敗や反対の連続だった「想い」の過去を話しましたが、学生たちは目を白黒させながら熱心にメモを取っていました。加工場で働く漁協女性部の富岡さんが学生さんにコーヒーを、コーヒーの飲めない私に紅茶を振舞ってくれました。また学生さんには今人気の熱々ラブラブじゃこ天をプレゼントしてくれました。このおばちゃんから学ぶのは「本物と真心」なのです。縁もゆかりもない学生たちに心のこもったもてなしをする真心も、味を落さない本物追求の技も全て商品なのです。さらにここで働くおばちゃんたちはジャコ天一座を組んで特老などに慰問などに行ったり海の恵みに感謝して山に木を植える運動に取り組んだり、この地域循環こそが村おこしやまちづくりなのです。
 学生たちは感心し、次の目的地である内子の道の駅に向いました。学生たちは良く勉強しますねえ。感心しました。
  「近頃は 若者沢山 やって来て 地域づくりに 興味津々」
  「目に見えぬ それが一番 大事だと 伝えたかった 見て欲しかった」
  「道の駅 巡る社会は 変化する 変えてはならぬ ものも沢山」
  「縁もなし ゆかりもないに お茶を出す こんな温もり 金では買えぬ」

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○今年最初の講演会
 「今年はゆっくり充電」を決め込んで約10日間、成人式などへの講演依頼も断って、体調回復に努めるはずでした。しかし腰の具合が悪くなり、加えてパソコン不具合による神経回路が故障して、ダブルパンチに見舞われてしました。そんなことおもあって最近は悶々の日々でしたが、昨日は今年初めての講演会に招かれ、遠い高知県馬路村へ出かけて行きました。
 夕方6時からの集会だったので、木下課長山や馬路村温泉の支配人さんにお願いし、馬路温泉の湯に浸りしっかり磨きをかけるつもりで下。しかしラジオ向きのこの顔はいかんともし難く、化粧もせずに?スッピンで高座に上がる羽目となりました。
 木下課長さんを窓口にして話の進んだ「健康づくり講習会」と銘打ったこの会は、主催が馬路村老人クラブ連合会という、夜の会としてはこれまた奇妙な取り合わせとなりました。誰が作ったのか知りませんが、私の元へ事前に送られてきた手作りのパンフレットには「健康は笑いから」、「新春寄席第一弾」「落伍家夕日亭大根心師匠による『笑う門には健康きたる』」などと参加者を挑発するような文句が書かれていました。そして国土交通省の観光カリスマホームページから読み込んだ私の写真には、漫画チックに「実はこの顔でお酒が飲めません」と書いていました。
 会場に来られた方は老人クラブの人もいましたが、木下課長さんの声かけで集まった人も何人かいて、遠くは東京、近くは隣町安田町からも駆けつける中々賑やかな集まりとなりました。
 会場となった福祉センターには私の似顔絵まで作って張っていただく念の入れようでした。
 まだまだ落伍の出囃子や入囃子のタイミングがつかめず、何を話そうか思いながらアドリブで1時間半もの高座を、四方山話をしながらあっという間に終わってしまいました。
 その後は会場を移し高知県馬路村では御馴染みの交流会が近所の料理屋さんで賑やかに持たれました。いつもながら感心するのは村長さん、東谷組合長さん(組合長さんは前の晩の深酒が堪えてこの夜は講演会のみ)、診療所のお医者さんなどがこぞって参加しほのぼのとした交流会が行われるのです。料理も美味いし酒もどんどん進み、10時近くまで楽しいひと時を過ごしました。この日の交流会は日本総研の上席主任研究員であり、今回の達人指南塾の塾長である金子和夫さんや中小企業基盤整備機構の戸田直隆課長さんはじめ塾生の美女たちが参加したため、とてもいい交流会となりました。洗練された人たちと出会うと、こちらまで洗練されるようで、地域づくりに関する突っ込んだ話もさせてもらいました。
 町や村を変えるには、リーダーたる人の研修も必要ですが、このように洗練された人を呼び込み、一般の住民と交流させることも大切です。多分馬路村のユズをテーマにした成功事例がそんな部外の人を村に呼び寄せているのだと思いますが、知らず知らずのうちに住民のレベルがワンランクアップするのです。
 この日東京から来られた女性たちは、講演会で聞いた私の話しを餌にむしろ成功事例より失敗事例を聞かせて欲しいと迫りました。酒を飲んだ女性と酒を飲まない私では波長が合わないのは当然ですが、それで私としてはいい交流が出来て感謝しています。
 私はこの夜、木下課長さんの計らいで皆さんに買ってもらった「夕やけ徒然草」という自著本を、宿舎である馬路温泉の一室で12時近くまで読み返してみました。その日皆さんに話したアドリブな話しを反芻しながらいつしか夢心地になりました。
 気がつけば午前4時です。家にいれば起床の時間だし今日は午後の予定もあるので思い切って飛び起き、身支度を整え暗い夜道を車を走らせわが家へと急ぎました。安田川沿いの道で狸に3匹出会い、9時前わが家へ到着しました。安田町役場中山支所の竹内律さんがわざわざ老人クラブに持ってきた自然薯を大野忠康会長さんから貰い受け、妻は大喜びで迎えてくれました。
  「自然薯を 担いでわが家 ただいまと 目覚めの妻に あいさつ交わし」
  「東京の 女性の顔の 何処となく 品ある感じ ワクワクしつつ」
  「おばちゃんや おじちゃんたちと 酌み交わす 楽し会話に 夜更け忘れて」
  「四人いる 子ども自慢の 若い医者 村に元気を 与えているな」 
  
 
 

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○高知県馬路村の特別村民になりました
 高速道路が整備され、瀬戸内に面したわが町から日本海を見に行こうと思えば、高速道路や瀬戸大橋を使えば5時間ほどで行くようなスピード時代になっても、四国は一つといいながら室戸岬や足摺岬へのアクセスはまだまだで、昨日行った高知県馬路村へは南国まで高速道路を走っても4時間近くかかるのです。
 昨日は冬とは思えぬ長閑で穏やかな天気に誘われ、ゆっくり行こうと心に決めて、このところ殆ど走っていない国道33号線を走ることにしました。というのも久万の友人に会う約束をし、高知大学に所用があって立ち寄らなければならなくなったからです。最近の高知入りは遠回りのように思える伊予~川之江~南国という高速道路を使うため、33号線は殆ど使わなくなりました。それでも33号線沿線には砥部町、久万高原町、旧美川村、旧柳谷村、仁淀川町にそれぞれ馴染みの友人がいて、その人たちにも会いたい一心でこの道を走りたいからなのです。
 年度末を象徴するように、国道33号線のあちこちでは改修工事が行われていて、その都度ガードマンに行く手を止められましたが、交通量が少ないため高速道路のような危険性もなくスムースに走れ、はりまや橋まで2時間30分余りで走りました。
 室戸岬の道路看板が出た頃、勝手知ったる道とはいいながらカーナビに入力し、その指示に従って走りました。大山岬の道の駅で一服休憩し、陳列された商品を見せてもらいましたが、どこの道の駅も最近は余り元気が活気が感じられないような気がしました。近くの人の話によると最近はあちこちに販売所ができて競争が激しくなったからではないかと言っていました。道の駅は公設民営が多いのですが、民の知恵や行動が働かず官のぬるま湯運営が尾を引いていて、これでは活気がないのも本当だと思いました。
 安田町に入り海岸国道から大きく左折して安田川沿いに馬路村を目指しました。この道も都会の人に言わせれば「今時こんな道があるの?」と言われそうな細い道ですが、この道の向こうにある馬路村の魅力でしょうか、沢山の人が訪れるようです。
 この日も私の所にメールが入り、東京から数人の若い女性が達人指南塾の研修に馬路村へやって来ていました。そのメンバーとして参加する予定で私にメールを入れてくれた女性は、去年11月に開かれた観光カリスマ塾で人間牧場へやって来た中小企業基盤整備機構地域資源活用推進室の佐本さんでした。あいにく所用で欠席をしていたようで会うことが出来ませんでしたが、何と何と、達人指南塾の皆さんは木下課長の配慮で私の講演会に参加するというのです。
 予定の4時前に馬路村役場に到着し、上治村長さんと面談しました。昨年以来上治村長さんとは心を許してお話が出来る間柄になって、この日も何の予告もなしに訪ねたのに快く面談していただき嬉しい限りです。木下課長さんの計らいで私は馬路村の特別村民になりました。所定の用紙に記入し「特別住民票」の交付を受けました。特別村民になると村長室で村長さんと記念写真が撮れごっくん馬路村が飲めるのです。



 さて昨日から馬路村の特別村民になったのですから、これからは村民に恥じない行動をしなければなりません。と同時に馬路村応援団員として全国に私の口を使って情報発信しなければなりません。これまでにも随分馬路村のことは話してきたつもりですが、「私は高知県馬路村特別村民の若松と申します」という口上のくだりも考えておかなければなりません。このブログを書いている途中に馬路村魚梁瀬の湯浅建設の社長さんから携帯電話が入りました。昨晩は仕事の打ち合わせで会いたかったのに会えなかった旨の電話でした。嬉しいことです。こうして馬路村へ行く度に一人また一人と縁が深くなって、馬路村は私にとって四万十市西土佐村と同じように忘れられない土地となりました。
  「住民票 交付を受けて 村民に なった限りは 村のお役に」
  「村長と 村長室で 雑談を 縁もゆかりも ないのに嬉し」
  「合併を せずに頑張る 少な村 一人一人の 顔が生き生き」
  「絶滅の 危惧種のような 村だけど 何故か気になる 次も行きたい」

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shin-1さんの日記

○心に届いた言葉
 1月7日付けの読売新聞23面に私の記事が載っていました。その直ぐ下に「心に届いた言葉」として、山本有三の代表作「路傍の石」の一節が紹介されていました。そういえば私も若い頃、病気で漁師から役場へ転職する際、友人が贈ってくれたこの本の一節を何度も何度も読み返した経験があるのです。
 「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」。
 「路傍の石」で山本有三は、鉄橋の枕木にぶら下がって汽車を止めてしまう騒動を起した主人公の吾一少年を、担任の次郎先生が諭した一節は、今でも私の心の中から離れないのです。
 私は25歳で転職した経験を持っています。漁師の長男に生まれ、漁師になるために宇和島水産高等学校を卒業し、予定通り漁師になりました。青年団に入り青年団長にもなり、NHK青年の主張の県代表にもなって順風なスタートが切れたと思っていた矢先、夜の遅い青年活動と朝の早い漁師の仕事は水と油のようで、病気になってしまいました。重労働は無理という医者の診断や役場への転職を熱心に誘ってくれた当時の町長さんの大恩もあって、教育長を最後に退職するまでの35年間、紆余曲折しながらも今日まで生きてこられたのは、やはりこの言葉の励ましだったように思うのです。
 私にも二度三度吾一少年のように枕木にぶら下がって列車を止めるような大きな出来事がありました。その一つは双海町の「町名変更問題」でした。町を二分し町長のリコールにまで発展したお家騒動の渦中にあって、役場を辞めることを真剣に考えたこともありました。また夕日をテーマにしたまちづくりも、過ぎてしまえば何のことはありませんが、課長以外まったく部下のいない日本一小さな「地域振興課」の課長として孤軍奮闘してシーサイド公園などを作り上げた行動は口ではいえぬ激しい抵抗にあったものです。
 でもその都度「たった一人しかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」と自分に言い聞かせ今日まで生きてきたように思うのです。
 私にとって今もこれからもこの言葉ははっきりと心の中に生きています。2年半前退職して自由人になってからも、人間牧場を作って楽しく生きているのも、こうして暇さえあればブログを毎日2本書き、ハガキを毎日3枚書きながら前向きに生きて行けるのもこの言葉の教えのような気がするのです。
  「小説の 一節俺に 悟らせる 路傍の石の 次郎先生」
  「鉄橋の 枕木ぶらり 列車止め 私も列車 止めて目玉を」
  「これからも 人間生まれし 甲斐求め 力の限り 生きてゆきたい」
  「新聞が あらため俺に 気付かせる 小さな記事の 大きな教え」

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○新聞に出ているよ
 一昨日近所の歯科医院にパートで勤務する妻が、仕事から帰ってきて、「お父さん、患者さんが『あんたのご主人が新聞に出ている』と言われたよ」というのです。「何の新聞?」と問うと「読売新聞」でした。妻にしてみれば新聞やテレビに私が出てるという話はこれまで通常のことだったのですが、退職してそんな機会が少なくなった今日でも、新聞やテレビに再三再四出ることが不思議だと相変わらず首をひねっていました。先日は松山圏域をエリアとするCATVに砥部の楽学大学で講演した内容が殆どノーカットで1時間に渡って放送されたばかりで、知人友人から「テレビ見たよ」の話しを沢山聞いていたせいもあって、「またか」の心境だったのでしょう。
 今回の記事は昨年11月7日、私の日程に合わないため、読売新聞松山支局の記者である山村さんは、わざわざ講義で出かけていた愛媛大学まで押しかけてきました。授業が終わる午後8時に待ち合わせをして寒い屋外のベンチで約1時間取材を受けていたのです。その後何の音沙汰もなく私もその記事のことは忘れていましたが、先月12月17日になって山村さんから、写真を撮るので人を2~3人集めて欲しいと再び電話がありました。私はこの日秋田県横手市へ出張する予定だからと断るも強引に迫られ、日程の都合を少し変更して役場の大谷さんに連絡、皆さんに集まってもらいました。今回のテーマが「夕日」がテーマなので、4時という約束で集まりましたが、残念ながらまだ陽も高く、どんな写真が出来るのか不安でした。
 私の家は読売新聞をとっていませんので、その日の新聞を見ることは出来ませんでしたが、昨日今年になって初めて訪れた市役所総合支所で大谷さんが新聞のカラーコピーを渡してくれました。更に訪ねたえひめ地域政策研究センターの松本さんからも新聞紙面を見せてもらいました。私は昨日近所の読売新聞直販所へ立ち寄り当日の掲載新聞を譲り受けて帰りました。
 1月7日(月曜日)の読売新聞紙面にデカデカと載っていましたが、面白い書き出しでした。
 「こんな素晴らしい景色があったなんて」「夕暮れ演奏会 駅ホームで 潮風心地よく」「JR予讃線存続に奮闘 愛媛の若松さん」という三つもの見出しがしっくりと収まっていました。
 あかね色の夕日が差し込む駅舎。その向こうに広がる海―。7、8年前、大阪の駅で見たポスターの風景が忘れられなかった。「こんなすてきな駅のある土地で働きたい」。調べてみると、愛媛県伊予市双海町のJR予讃線下灘駅とわかった。同県への赴任を希望し、松山で勤務が実現。駅舎を訪ね、この風景を守ろうと奮闘した一人の男性のことを知った。
 合併前の旧双海町教育長の若松進一さん(63)である。昨年12月中旬、その若松さんら地元の人たちと駅舎に立った。真赤な太陽が溶けるように沈み、辺りの海一帯が黄金色染まっていく夕日を眺め、声をかけられた。「きれいでしょう」
 若松さんは地元で生まれ育ち、夕日は見慣れたものだった。だが農漁村の取材をしていたテレビ局スタッフがその美しさに気づき、改めて眺めてみた。「こんな素晴らしい景色があったなんて」と思った。約20年前のことだった。
 当時、内陸部にトンネルを掘った「短絡線
の新設計画が持ち上がり、下灘駅のある「海岸回り線」の廃止が危惧された。「こんな素晴らしい景色をPRすれば、町の活性化につながるはず」。若松さんは、地域住民に存続運動を仕掛け、夕日を生かした駅でのコンサートを提案した。
 住民は「こんな何もない町でやっても・・・・・・」と消極的。若松さんは一軒一軒を訪ね歩き、寄付集めに回った。その姿を見た若者たちが「自分たちも夢に乗ろう」とついてきた。1986年6月、初めてのコンサートを開いた。
 駅のホームを舞台に、夕日をバックにしたクラッシックの演奏が始まった。演奏が進むにつれ薄い桃色からオレンジ、赤へと変化する空の色。まるで「夕日のショー」を見ているようだと、集まった住民ら1000人から大きな拍手が起こった。(後略)
 さすが新聞記者です。見てきたような記事を上手く書くものです。でも記事を読むと20年前の出来事なのに、つい昨日のような気持ちになって思い出すのですから不思議です。私の人生にとってこれほどの意味のある出来事はなかったなあと、しみじみ新聞を読んで思いました。
  「新聞の 二十三面 記事を読む ありしあの頃 今も瞼に」
  「そういえば 何もない町 夕日など 何処にでもある それを売るとは」
  「止めとけと 誰もが言った コンサート 今に続いて いるから不思議」
  「写真には 夕日差し込む 駅風景 若者交じり 私指差し」

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○ブルーベリーを植える
 「この苗は酸性を好むので酸性の土地に植えてください」とホームセンターの店先で店員さんに言われました。「酸性の土地ってどんな土地ですか」と聞き返すと、「言葉で説明するのは難しいですね」と追い討ち発言です。さて困りました。浅はかな私の知識ではそこから先へ進めないものですから、「酸性の土を好むこの木に合うような土はどれですか」と尋ねると、「ピートモスがいいです」と連れて行かれた場所は、鹿沼土や赤玉土などをうず高く積んでいる資材置き場でした。「少し高いのですがこの土なら最適です」と言われて買ったのが「ピートモス」というどちらかというと土でなくコケに近くて軽いフワフワ状のものを一袋買って帰りました。
 昨年の春先メールサイトで私が「ブルーベリーを植えてみたい」と書いたら、多くの方々からご意見や資料が寄せられました。しかしその時は既に遅かったため断念していましたが、昨日たまたたま立ち寄ったホームセンターでブルーベリーの苗が売られているのを見て植える気になったのです。苗木としては小さいながら一本千円以上するかなり高いものなので、5本買い求めました。ついでに昨年植えたスモモの一本が夏の暑さにやられて枯れたため少し別の品種をと思い2本、そして昨年植え足りなかった梅を一本追加して、8本もの苗を買ったのです。
 田舎のオープンカーこと軽四トラックで行っていたので、その足で夕やみ迫る山道を走って人間牧場へ向いました。そして毎年草ばかり刈って用をなさない水平線の家ウッドデッキ下の斜面に植えることを思い立ち、平鍬でそこら辺の草を削って除け、中耕して5本のブルーベリーが植わる程度の畑を確保したのです。ここなら半日陰でブルーベリーの植栽場所には申し分ないと思い、穴を5つ掘りました。そしてブルーベリーの苗木を穴の中に差込みまわりにピートモスを丁寧に入れて上へ土を被せました。本当は大きな植木鉢にピートモスで植え付けたかったのですが、夏の水遣りなどを考えると枯らしてしまう恐れがあるので、露地栽培にしたのです。植え終わると午後5時のミュージックサイレンが鳴って、夕日が西の端に傾きあと3本の苗木も植えなければならず、急いで作業を終わらせました。何はともあれ「植えない木は育たない」ので、とりあえずブルーベリーの収穫を夢見ることができてホッとしています。
 家に帰ると、「今日は早く帰る」と言って家を出たものですから、帰宅が遅いため心配していた妻が夕食の準備をして待っていました。ブルーベリーを植栽したことを話すと妻は、「お父さんブルーベリーは実がなりだすと毎日収穫しなければ鳥に食べられてしまうのに、毎日行けない所に植えてどうするの」とシビアな反論が返ってきました。「うるさい」と発言を一蹴しましたが、よくよく考えると妻の言う通りなのです。近所に住む西岡さんがブルーベリーの観光園を開いていますが、収穫期になると大変だと話していたのを思い出しました。
 まあこの5本が枯れず順調に育てばの話ですから、そんなに目くじら立てて夫婦喧嘩をすることもあるまいと、軽く受け流しましたが、私の計画ではブルーベリーは最終的に20本植える予定ですから、妻の意見も意見として尊重したいと思っています。
 人間牧場は様々な果樹が実る事を考えていますが、自分の動けるこれからの年齢を考えると、この2~3年間で植栽は終わらせないと成果が見えないのです。でも私の後を引き継ぐ長男の事を思えば、そんなに焦ることもないので、気長に考えましょうか。
  「酸性の 土地を好むと 言われても 何処が酸性? 賛成しかね」
  「実のなるを 夢見て畑 苗木植え 妻に文句の 一つも言われ」
  「何処となく 苗木売り場が 気にかかる 買うか買わぬか 試案しどころ」
  「目にいいと 妻は今から 楽しんで なる頃いつか 分らぬものを」
 

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shin-1さんの日記

○送られてくる「ちろりんだより」
 私の古い友人に丹原町で有機農業を営む西川則孝さんがいます。いつ何処で知り合ったかは随分昔のことなので忘れましたが、多分まちづくりの研修会で丹原町の若者塾の指導で度々お邪魔していた頃だろうと思うのです。当時はどの町や村でも青年が活発に活動を展開していて、行けばごろ寝のような泊り込みで酒を飲みながら深夜まで夢を語ったものでした。その頃知り合った柿農家の佐伯武広さんからは毎年年末になると渋抜きの柿が送られてくるし、時々元気確認の電話が入る間柄です。
 親分肌の佐伯武広さんは私の煙会所などに感化されたのか、家の横にホワイトハウスなる家を建て、広く交流を行っていましたが、最近ホワイトハウスへも行っていないのでどうなっているのだろうとふと思い出しました。
 西川さんと私の縁は意外と深く、あるタウン情報に二人が紹介された時、「尊敬する人物は」の質問に「最近の若松進一さん」と書かれたのを記憶しています。以来私の事を漢字の「師匠」ではなく、「ししよう」と呼んでもらい、深い仲は一層深くなりました。そして彼も佐伯武広さんと同じように、いやむしろ順番から行くと佐伯武広さんは西川さんや私に感化されたのだと思いますが、西川さんは自宅の横にゲストハウス「縁会所」を建てているのです。家の横に「煙会所の分家であるゲストハウスを造りたい」という話が持ち上がった時、私は快く賛成し建前のその日は妻と二人で手伝いに出かけました。そして書家である私の叔父に頼んで桑の木の板に煙会所ならぬ「第二縁会所」と大書してもらい、看板を掲げてもらったのです。西川則孝さんの第二縁会所へももう随分行っていないような気がしています。蛇足ですが西川さんの第二縁会所を皮切りに私の煙会所で身も心も感化された人たちが全国に第三、第四とゲストハウスを造って、今ではその数18にも及んでいるのです。
 西川さんは10年間で40回の開催を目指した私の主宰する「フロンティア塾」の塾生として年に4回、10年間も双海町へ熱心に通った男です。その都度自分で作ったスモモ酒とウクレレギターを持ち込んで賑やかに過ごしたことを懐かしく思うのです。
 更に彼の出版した「晴れときどきちろりん」に序文を、私の「昇る夕日でまちづくり」に彼が特別寄稿文を寄せ、私の仲間のうちでもこれほどつかず離れず交友している人はないくらい、お互いが感化を受けて来ました。
 数日前西川さんから「ちろりんだより」という、手書きの新聞が2枚送られてきました。初冬の号(148号)、新春の号(149号)と、送られてくるのは送料を勘弁してかいつも2枚送られてくるのが彼らしいのです。多分奥さんの文抄子さんが書くのだと思いますが、まるで学級新聞のような丁寧で綺麗な文字でびっしり書いています。社説のような巻頭の文章は西川さんの目から見た社会の動きがかなり鋭く書かれていて、参考になることが多いのです。149号のどの辺りから読んでいるのか忘れましたが、今ではすっかり陰を潜めているものの、二人の子どもの成長記録は読み応えがありました。
 西川さんが入植した周桑郡丹原町、今は合併して西条市丹原町の来見という地名が「くるみ」と読め、NHKの人気番組だった「ちろりん村とくるみの木」にあやかってちろりん農園とつけたらしい話を、昔聞いたような気がしています。
 彼は柿を主産物にしている佐伯武広さんとは違い儲からない農業をやっています。有機野菜を宅配する安心で安全な手間のかかる農業だからです。今でこそ産地偽装が問題になって食の安全性が問われていますが、彼はもう何十年も前からその事を実践している先駆者なのです。故に彼の生き方は変わり者と見なされましたが、彼はそんな批判も何処吹く風であっけらかんと生きています。そこが彼の魅力であり、私とどこか通じる部分なのです。「人間は何のために生きるのか」?、それを教えてくれたのは西川さんだったような気がします。
  「小さくも 生き方貫く 人ありて 自分戒め しみじみ思う」
  「今月も ちろりんだより 風便り 届いて読んで 納得しきり」
  「添え書きに ししょうと四文字 走り書き 弟子よりもっと 上を目指さにゃ」
  「顔思い 返信ハガキ したためる ちろりんだより 感想などを」  


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○頭を空っぽにする 
 「一年中使った頭を空っぽにしたい」。そんな気持ちで昨日は人間牧場へ出かけました。暖かい四国といいながら初春の冷え切った風が頬に当ると体がしゃんとして背筋が伸びるような感じがしました。水平線の家、ロケ風呂、ツリーハウスのカギを相次いで開け、窓を一杯開けて今年最初の新しい風を入れました。薪小屋から薪を取り出し、患っている腰を気遣い少し軽めの薪をキャリーに入れてストーブの前に運びました。急な坂道は年末年始の時化でそこら辺に積もっていた枯葉も何処かへ吹っ飛んで、まるで掃除をしたように綺麗くなっていました。 炊きつけにする杉葉を拾い集めストーブの焚き口を開けて入れ、ナタで子割をして積み上げ、チャッカマンで火をつけると、火の勢いが次第に増して、ストーブの耐火ガラスから真赤な炎が見えるようになりました。年末に吹き込んだ風で入った土間のゴミを長い柄箒で掃除し、ひとまずストーブの前に背もたれ椅子を置き、開けていた外窓を全て閉じ、棚から何冊かの読みたい本を取り出して背もたれの横に置きました。
 昨日は何をしようというのでもなく、「頭を空っぽにするため」だけにやって来たので、背もたれを深く倒して体を沈めました。やがてストーブの温もりが部屋の空気を柔らかくし始め、体にほのかな温もりが伝わってきました。窓越しに見える空も海も穏やかで、冬とは思えぬ静けさです。遠くでは野鳥の鳴き声が聞こえ、どこかでみかん摘みをしている人の声やチエンソーの音も小耳に聞こえてきます。
 さてこのくらいのことで人間の頭は空っぽになるのだろうかと自問するのですが、むしろこんな暇を作ると人間はろくでもない事を考えるものです。昨年も正月休みに同じような事を考えるため同じような事をしていました。その結果生まれたのが杉の木の切り株の上での落伍でした。友人の清水さんや松本さん、それに国土交通省の小野さんとの画策でそのアイディアは昨年思わぬ方向に発展したのです。 できっこないとは思いませんでしたが、昨年のこの段階では完全に夢でしかなかったのです。でも出来たのです。これが私のいう「進化論」だと気付きました。
 今年も頭を空っぽにしようとしたお陰か、少しひらめいた夢を見ました。横に置いたメモにその夢を書いて見ました。まだ夢の段階ですが、少し整理をして取り組んでみようと思っています。頭を空っぽにしたお陰で夢の席が確保できたような気もしました。心に浮かんだ発想を「そんなの出来るわけがない」と否定して封印してしまうと、そこから先へは進めないものです。昨日人間牧場で背もたれにもたれれて考えた全ての空想が実現し大きな成果に結びつく訳でもないのですが、空想をすることだって実に楽しいと思いました。
 毎年たった1年365日の1日だけの頭を空っぽにする行動が、夕日をテーマにまちづくりを生む結果となったり、昨年の夢が落伍にもなり「夕やけ徒然草」の出版となりました。夢は見るものです。
  「何事も 夢から始まる つれづれと 頭空っぽ 席を譲りて」
  「杉葉燃ゆ 次は小枝に 燃え移り 次第に火の手 大きくなりて」
  「山里に 来る人ありて 煙突に 煙たなびく 何する人ぞ」
  「無無無無無 無無無無無無無の 無無無無無 無無無無無無無 無無無無無無無」 

 

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shin-1さんの日記

○七草粥を食べる 
「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、これぞ七草」と子どもの頃に母親から教わったそれぞれの七草が、どれがどれなのか分らぬまま歳を重ねてきましたが、昨日の夜妻が仕事の帰りに友人からいただいたという七草で七草粥を作ってくれました。土鍋にお湯を張ってといだ米を入れ、七草を入れるだけのシンプルなお粥ではつまらないと、そこにだし汁を加えたりして七草粥ならぬ七草雑炊を作ったのです。正月の喧騒もわが家から消え、二人だけの静かな七草行事でしたが、おせち料理に飽きた頃の雑炊だったためお代わりをするほど食が進み、満足でした。
 仕上げはナズナ湯です。お湯を張った浴槽の中に洗ったナズナを入れて、妻と二人で入りました。季節外れの鏡餅のような?妻の肢体に、風流なナズナ湯はマッチしませんでしたが、それでもナズナを体に擦って無病息災を祈れる幸せをかみ締めました。
 わが家には小さなサウナ風呂があります。設計の仕事をしている息子が、お得意様との打ち合わせの折、新品ながら処分に困っていたのを貰い受け、風呂場の前の廊下に置いているのです。昨年まで学生生活を送っていた次男が在宅中は度々使っていましたが、その次男も独立して松山でマンション住まいをするようになってからは殆ど使っていませんでした。久しぶりにサウナを使ってみようと思い、ヒーターをかけました。冬のことゆえ、また小さい故にお風呂屋さんのような高温サウナとはゆかず、かなり時間がかかりましたが、それでも中に入って10分もすると汗が噴出し効果抜群です。「入らないか」と誘った妻はテレビに夢中で、「後で後で」の連発のお陰で2回も入りました。冬のことゆえ汗をかくことが少なくなったこの頃なので、たっぷりかいた汗に気分爽快で、ナズナ湯と合わせた効果なのか、昨晩は二人ともぐっすりと寝ることが出来て、今朝は気分爽快です。温めたせいか腰の具合もすっかりよくなり、旧大西町の大河内結子さんから腰の具合を心配して送ってくれたメールにも、また岩手県一関の金森勝利さんはじめ多くのメル友へも素早く反応させてもらいました。
 若いと思い、「若いですね」という声をかけられる度に「歳をとっても若松ですから」と、愛想を振りまき生きてきましたが、そろそろ気力と体力のギャップを気なして生きていかなければならない歳になりました。日頃は「元気」を自称して過ごしていますが、時折急激に蓄積疲労を感じる時があるのです。ましてや年末年始のパソコン不具合が重なりイライラが募ると、これまた大変な疲労感です。「もう若くはない」と妻に「自制のブレーキをかける」よう再三再四注意されながらつとめて若く振舞ってきました。今年は歳相応に妻のご注意通り心にブレーキをかけた暮らしをしてみようと思っています。
  「セリがどれ ナズナがどれと いわれても 答えられずに 七草食べる」
  「家庭用 サウナに入り 汗をかく 俺はセレブだ 少し爽快」
  「若松も やがて老松 なりにけり せめて松喰い やられぬように」
  「同浴の 妻の姿は 鏡餅 餅は餅でも 餅肌美人?」 
  
  

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