shin-1さんの日記

○わがまちPR一次予選通過

 一昨日ビデオクラブの菅本さんから、あるテレビ局が募集している「わがまちPR」にエントリーしている作品が第一次予選を通過したとメールが届きました。

 最近まで70もあった市町村も愛媛県では合併によって20市町になり、何かと寂しい感じもしますが、そんな市町村の再編を当て込んだテレビ局が、住民や行政を巻き込んで市や町のPRビデオを製作して応募する、しかも優秀作品はテレビのコマーシャルとして流すという企画は、愛媛県だけかと思いきや、全国各地で行われているようです。

 今年の夏、友人の玉井さんからビデオクラブの菅本さんたちがこの作品作りをするので、協力して欲しい旨の連絡が入りました。まだ企画の段階だったため、私の意見も述べさせてもらいましたが、まさか冒頭に私が出るとは思いもよりませんでした。しかし、いわれるままカメラの前に立ち、暑い中に撮影は終わりました。その後どんな作品に仕上がったのかも知らないまま時が過ぎ、その存在すらすっかり忘れていたのです。

 ところが一昨日メールの添付されてその作品が送られて来たのです。玉井さんによると菅本さんは元NTTに勤めていた方で、ビデオやパソコンの操作に造詣が深く、様々な分野で玄人肌の作品を作り続けているのだそうです。私も玉井さんに頼まれある老人ホームで話したのをCDにしていただいた経験があるので良く知っているのです。私のようなアナログ人間にとっては何とも羨ましい存在なのです。

 私のパソコンには毎日沢山の方々からメールが届きますが、写真の添付はかなりの頻度であるのですが、映像を送られて来たのは初めてなのでドキドキしながら、メールに書いている通りに開くと映像と音声が出て来ました。作品は双海町が舞台で双海町のPRです。中身はまだ本審査がされていないので企業秘密といったところでしょうから、公表するわけには行きません。私的には良くできた作品のようでした。県下各地から沢山の作品の応募があったらしく、一次予選を経ていますので、二次審査があるのかどうか分りませんが、本審査の行われるのが2月とか、結果が楽しみです。

 それにしても30秒という限られた決められた時間にどれだけの主張ができるか、また見る人に共感・共鳴をどれだけ与えられるか、そんな視点でみんなしのぎを削るのでしょうが、その道の人は色々と知恵が出るものだと感心しました。

 しかし、それにしても映像が送れるなんて考えもつきませんでした。早速正月休みで帰省している息子に暇を見つけてその方法を伝授して欲しいと頼んでいますが、パソコンの使用についてはまだ知らない部分が沢山あり過ぎて、独学ゆえ未だに右往左往しています。それでも毎回毎回パソコンで困ったら息子に電話していた回数も徐々に減って、今は何とか使いこなせるようになったことは、自分自身にとっては偉い進歩です。

 最近は知ったかぶりで、まだパソコンをやっていない人にパソコンの有用性を御託を並べて説明している自分に気付き、苦笑する一幕もあります。でも私にとってこの2年余りのパソコンとの出会いで、随分いい仕事が出来るようになった事を喜んでいるのです。

  「送られた メールに添付 開ければ 映像が出て 凄いぞ凄い」

  「あの人は 天才かもと 思ったり 自分のできぬ ことを簡単」

  「第一の 関門くぐる 作品を 喜び送る われも喜び」

  「リハーサル せずにカメラを 回したる 臨場感が 上手く出ている」

 

 

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shin-1さんの日記

○届いたレポート~今度はうどんの花を見てみたい~

 仕事柄というべきか、地域づくりのコメンテーターとして今年も請われるまま、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国各地の田舎を訪ねて歩きました。そこで見聞きしたものは過疎や高齢化に悩む田舎の厳しい現実と、それでもなお逆境を跳ねのけ、生き生きと輝いて生きる人たちの姿でした。たった一度の出会いであっても心の機微を便りに託し、その後の交流につなげている人も沢山いるのですが、往々にして平成の市町村合併以来、役所に勤める人に何となく元気がないことが気がかりで仕方がありません。役所の人は二言目には「金がない」「中央に聞かなければ分らない」などといっていますが、本当にそうなのか、ひょっとしたら「やないことをやれない」と言い訳しているだけに過ぎないかも知れないとつくづく思うのです。田舎には限界集落問題や学校の統廃合など、田舎自身の問題でありながら大きな行政課題があるのですが、そんなことは見て見ぬ振りをして、「やれ給料が上がらない」と自分たちの主張のみを繰り返して平然としている姿を見ると、かつて35年も役場の職員として地域活性化のために働いてきただけに、余計腹立たしく感じてならなにです。そんな私の話などブログに書いたり喋ったりしても馬耳東風とばかりに無視されてしまう昨今なのです。

 そんな中の昨日、島根県鹿足郡吉賀町六日市の吉中力さんから「吉賀の地域づくりと公民協働」という一冊のレポートが届きました。「島根の未来を考える」という報告書の、僅か11ページの抜粋本なのですが、年末のしかも昨日からぎっくり腰を患っているため、食い入るように読ませてもらいました。吉中さんは吉賀町教育委員会の次長さんをしています。何年か前島根県生涯学習センターの仕事で、六日市町を訪ねた折、名刺交換して夜の交流会で知り合い、多分それ以外一度くらいしか出会いはないと思われるのですが、「よくぞ覚えていてもらった」と感謝しつつ、「はてさて吉賀町とは一体何処だっけ」と封書の鹿足郡という送り主を見ながら、「ああ師井さんの柿木村と吉中さんの六日市町が合併して誕生した町か」と直感し、封を切って読ませていただきました。

 吉中さんのレポートは、都市と地方の共生、21世紀は心の時代、ふるさとって何、食を通じた教育の重要性、国民共有の財産、昭和の大合併から平成の大合併へ、地域づくり研究会、キーワードは人という項目が起されています。

 最初の書き始めが面白かったです

 農林水産省の若手官僚が初めて目にした白いソバの花の、その余りの美しさに感動して思わずつぶやいた。

「今度はうどんの花を見てみたい・・・・・」。(全国津々浦々に存在する農山漁村の実態とあまりにもかけ離れた国の農業施策を皮肉った、ある機関紙のコラム)

 レポートの殆どの部分に同感しながら、島根県の殆どの町や村を訪ね歩いてきた過去の記憶を思い出し、もう一度近いうちに吉中さんや師井さんに会いに行こうと思いました。吉中さんのような人がいる限り、過疎も高齢化も少子化も乗り越えていい町や村ができるのだと思います。結局地域づくりは人なのです。

  「一冊の レポート読んで 感激す 田舎どっこい 元気はつらつ」

  「一枚の 名刺便りに 送られし レポートほのか 田舎の匂い」

  「文字を持つ 人間ゆえに 感動す メールにはない アナログ文化」

  「合併で はてさてこの名? 首ひねる かすかに郡名 思い出しつつ」 

 


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○机の上に置かれた人型ミニパネル

 私の机の上に小さな人型ミニパネルが2枚立てかけられています。11月に行われた人間牧場での観光カリスマ塾でのデモンストレーションのために作った等身大の人型パネルは、えひめ地域政策研究センターの清水さん、松本さんと私の3人で企画しましたが、その秘策を実行に移したのは松本さんと清水さんです。その折、全国から集う人たちに、観光に対する思い入れと行動力を目に見える形で見せようと、人型パネルの製作と落伍にまつわる高座本「夕やけつれづれ草」の発刊を思いついたのです。その裏方としてお世話になったのが今治の村上君と新居浜の加藤君でした。二人はまちづくり人養成塾で知り合っていたので直ぐにこの話に乗って村上君は写真と高座本、加藤君は村上さんの撮影した写真を基に人型パネルの作製を担当し、それぞれの役割をきっちりこなして、大きな反響を呼んだのです。

 加藤君は人型パネルを作る折、サービスで2つの人型ミニパネルを2枚作ってくれました。一枚はメキシコ産角笛を持った私の立像、もう一枚は高知県馬路村産150年生の魚梁瀬杉の切り株に座って落伍をする私です。最近までこの2つのミニパネルは等身大人型パネルとともに人間牧場水平線の家へ置いていましたが、折角作ったのに意味がないと、思い切って下山させ、私と一緒に移動することにしたのです。

 これまで2回一緒に移動しました。一回は生協理事さんたちの忘年会でした。更にもう一回はえひめ地域政策研究センターの忘年会です。いずれも忘年会で大胆にも移動落伍をしたのです。しかもこともあろうに人の迷惑など省みず、1冊500円の高座本を木戸銭と称してワンコインいただいて押し売りしたのです。

 参加者の中には異論も会っただろうと深く反省していますが、その余韻が忘れられず次の機会を虎視眈々と狙っているのです。

 しかし、毎日朝な夕な仕事をする自分の書斎の机の上に、自分の人型ミニパネルを置いているのですから、何とも奇妙な感じです。男前ならいざ知らず3枚目以下の4枚目も5枚目の落ちる所がない自分の写真が、本物の自分をじっと見つめているのです。これを見た妻は最初は吹き出し笑いしましたが、「お父さんいい表情の写真だ」と褒めてくれました。子どもを連れて週末遊びに来る娘は、「お父さん恥かしくないの」とお手上げの悪評です。孫朋樹君は、「おじいちゃん格好いいね」とお世辞を言ってくれました。

 特に気に入っている魚梁瀬杉の上に座って三崎の裂き織半纏を着て落伍をする私の表情は、とてもいい雰囲気に仕上がっているのです。これから移動落伍をするといっても、魚梁瀬杉の切り株を持参することは出来ないので、人に説明するためにはいいミニパネルだと思うのです。

 今までは胴長短足という純日本人に生んだ母親を憎んでいましたが、役職や名刺のなくなるこの歳になると、顔の男前や足の長さなどどうでもいいことだと気付くのです。

 そう思えば手前味噌かも知れないし、自分を褒めるは一の馬鹿と言われながらも、味のある顔だと改めて見直すのです。「自分の顔に自信を持て」といわれながらも、物心ついてこの方顔に自信など持てなかったのですが、これからの余生はこの姿に満足しながら生きて行きたいと思うのです。

 もう一枚のメキシコ角笛は、日本に例えるとほら貝のようなものです。「私はホラも吹くしハーモニカも吹きます」と持参のハーモニカを取り出し、カーもニカとともにこの角笛をほら貝に見立てて吹けば、爆笑間違いなしで、「よっ、座布団一枚」と掛け声が返ってくるのです。

 この2枚の人型ミニパネルは私の人生にとって久々のヒット商品でした。

  「朝夕に 私を見つめる 人パネル 味ある顔と 自分で褒める」

  「これ見せりゃ 大抵の人 納得し 木戸銭くれて 話聞き入る」

  「恥かしく ないのと娘 あざ笑う 孫はじいいちゃん 格好いいと」

  「この歳に なれば顔など どっちでも 中身で勝負 俺に軍配」


 

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shin-1さんの日記

○ぎっくり腰

 今朝起きて、餅つきのためのモロブタ(餅を並べる木箱)を倉庫から出して洗いました。暗い倉庫の中から出すので、かなり窮屈な姿勢にならざるを得ませんでした。その折越に違和感を覚えましたが、それでもモロブタを洗った処までは何とか作業が進んだものの、持ち上げた瞬間ギクッと電気が走って、ぎっくり腰特有の腰に力が入らなくなってしまったのです。ふと昨年も年末年始にぎっくり腰になって難儀をした悪夢が蘇えりました。

 数日前も寝る前、妻が昨年のこの頃ぎっくり腰になった事を思い出して、「一度整体医院にでも行って体の手入れをした方がいいのでは」と忠告してくれましたが、「今年は大丈夫。腰痛体操もしているから」と鷹を食っていました。「ああ、あの時妻の忠告どおり整体で転ばぬ先の杖のように、揉んで貰っていたら」と悔やみましたが、これこそ後の祭りです。

 早速行きつけの松本整体院に妻が電話をかけてくれました。今日はあいにく日曜日で整体院もお休みなのですが、ぎっくり腰の窮状を知り尽くしている整体院は、私の難儀を察して10時半から診察施術をしてくれるという有り難いお話でした。もう少ししたら出かけようと思っています。

 ぎっくり腰になった原因は二つありました。その一つは一昨日のしめ縄作りです。ご存知のとおりしめ縄作りは胡坐をかいて足で藁の一方を押さえてする変則的な体系で2時間ほどやります。そのため作り終わった時にはこれまで使っていない腰の部分に張りを覚え、瞬間的に立ち上がれないような腰の固まりを感じたのです。


(お父さんの腹の上に乗せられてご満悦の長男の長男若松希心君です。久しぶりにわが家に帰ってきた可愛い孫を抱き過ぎて?腰がしこし可笑しくなりました)

 もう一つは孫が正月休みで息子夫婦と帰省したのです。内孫、しかも男の子とあって、跡継ぎ誕生の喜びで、昨日はなれない手つきで孫を抱きかかえ家の中を長時間右往左往しました。まだ四ヵ月の孫は、もう抱き癖や人見知りが出来て、私のような下手糞な抱き方には直ぐに飽きてぐずるのです。仕方がないので手を変え品を変え、まるでイナバウアーのゆな姿勢で孫をあやし続けました。「何よ、そのくらい」と言われそうなので、原因はその辺で留めたいと思いますが、馴れない事をするものではありません。

 ああ、折角の年末年始の休みが台無しだと思う反面、今日から息子とやる予定だった家のサッシ窓の掃除をしなくても済むかもしれないと、折から吹き始めた北西季節風が電線を揺らす音を聞きながら、机に向ってこのブログを書いています。もう整体医院に出かける時間になりましたので、この続きは帰ってからにします。

 10時30分の予約時間に間に合うように10時に家を出ました。昨日から吹き始めた北西の季節風は激しさを増し、海岸国道は高潮の越波で車はまるで塩水を被って走るようなものでした。すっかり顔なじみとなっている整体院の先生は、親切に対応して揉み解し、鍼を打って施術してくれました。背骨や腰のゆがみについて説明を受けながら過ごした30分余りの時間は患部に当る度に苦痛で顔を歪めながら過ごしました。明日も10時30分の予約を取って帰宅の途に着きました。鏡で自分の姿を見ると、腰が曲がって情けない格好です。妻は「一年の疲れが出たんだから、正月はゆっくり休んでください」と慰めの言葉を掛けてくれましたが、体力の衰えを感じながら今年も終わりそうです。

  「ビリビリと 電気が走り 腰痛む 整体通う 情けないやら」 

  「ああ俺も そんなお歳に なったのか 膝腰肩の 腰から痛む」

  「孫のせい いやいや孫の せいじゃない 日頃の精進 ツケが回りて」

  「腰痛い 親父笑って いたけれど 笑い返され どちらが歳だか」

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○忘年会で移動落伍

 暮れも押し迫り、昨日は官公庁では仕事納めでどこも昨日で一年の幕引きが行われたようです。しかし民間の巷ではこれから三日間がかき入れとばかりに働く職場もあって悲喜こもごもといったところです。

 数日前えひめ地域政策研究センターの人たちと忘年会をしようと相談がまとまり、いろいろ策を練ったのですが、日程の折り合いがつかず、結局仕事納めの後でやろうということになりました。しかもこともあろうにその前座として移動落伍をしようと画策したのです。

 先日試験的に生協産の理事会の忘年会余興でやらせていただいていて、まあまあの感触は掴んでいるものの、今回は前回のように飲み会の途中でなく、素面で聞くというのです。県庁の方々も参加するそうで仕事が終わって県庁の人が急いで駆けつけ総勢20人が揃ったのは午後5時45分でした。大番頭松本さんの司会ではじまり、例によって出囃子に乗り裂き織の上っ張りを着いて、拍手に迎えられ登場しました。

(松本さんの軽妙な語りもすっかり板につきました。今では私の落伍の専属司会といったところです)
(出囃子に乗っていざ出番です)

 殆ど顔見知りとあって威勢のいい掛け声も飛んで雰囲気はまずまずです。この日の出し物は「ハーモニカが吹けた」「四つの願望」「外から見ないと中は見えない」の三本立てです。

(夕日亭大根心の落伍が始まりました)

 正直言って私はこの日のために勉強したり、筋道を立てて事前に考えて高座に上がる訳ではありませんから、まさに口から出任せです。一本10分としてこの日に与えられた私の持ち時間は30分です。また私の落伍は程ほどの笑いなので腹を抱えるようなものではないので、聞いた人は拍子抜けのような感じがしないでもないのですが、それでもそこそこに思わず「プッ」と噴出すような笑いも聞こえてまずまずの反応です。

(ハーモニカを吹く私)

 さて最初の出し物は「ハーモニカが吹けた」です。私は「夕焼けこやけ」や「赤トンボ」を吹きました。また先日秋田県横手市で吹いた「ああ上野駅」も披露しました。そして極めつけの「美人さん。男前さん」を竹で作った赤トンボ3匹を取り出し、継ぎ竹竿の上に留まらせたり、参加した県庁の平井さんを呼び出して指先に留まらせる芸当をやりました。平井さんのご協力もあってかなり盛り上がりました。

(平井さんの指先に留まった手づくりの赤トンボ)

 この日は、ちょくちょく私が顔を出すため、すっかりお馴染みとなっているえひめ地域政策研究センターの3人娘も参加していて出囃子などのお世話もしてくれました。女性がいると俄然張り切る私としては最高の機会となりました。

(センターの3人娘です)

  落伍が終り、2時間飲み放題の酒盛りが賑やかに始まりました。例によって酒を飲まない私はウーロン茶で酔ったような顔をして頑張りました。この落伍の仕掛け人である清水さんが親の容態が思わしくなく欠席していたことが残念でしたが、県庁の人もいて合併後のまちづくりなど、私の落語を肴にしながら話し込み、今年の最後を飾るに相応しい交流が持てました。

 思えば昨晩集まった人たちにとっては私という人間が身近な存在であるがゆえに、私の講演を聞く機会は殆どありません。こうしてショートコメントの落伍風まちづくり話しを聞いてもらうことは、まちづくりの意識を掘り起こす意味からはとても大切なことだと思うのです。

 来年はこのような落伍ライブをゲリラ戦法で草の根的にしっかりこなして行きたいと思っています。

  「出任せで 落伍を喋る お人よし 短い話 奥が深いね」

  「来年も 人の迷惑 省みず 落伍三昧 続けてみたい」

  「面白い いわれるような 落伍家に 修行を積んで 更に上達」

  「師匠なく 独学演じ 早三回 少し上向く 兆しの話芸」

 

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shin-1さんの日記

○しめ縄作り

 年寄りがいると縁起を担ぐことが多く、「そんなもの迷信だ」と割り切って生きてる私にとっては、日々の暮らしの中で何かと衝突することが多いのです。最近は妻までも親父と同じようなことを言うものですから、家で孤立気味になってすっかり面白くないのです。

 先日も妻と親父が年末の縁起について議論していました。「しめ飾りは大安の28日が良いし、餅つきは先勝の30日にしよう」と、世帯主の私をまるで無視するように相談しているのです。そして「しめ飾りは大安の28日にするように」とお達しがありました。私はこの日どうしても締め切りの原稿があって、夜は最後の忘年会が松山であるから」と渋ったのですが、「それなら朝早く起きてしたら」とまるで他人事みたいな素気ない返事が返って来ました。家庭の平穏を重んじる長男?としてはその意見も最もと、普通はブログを書いたりハガキを書いたりする早朝の時間を割いてしめ縄作をやりました。

 昨日の朝は比較的温かく、隠居の前に今年の夏親父と二人で造った東屋にゴザを敷いて、親父がそぐって(藁の袴を取ること)用意してくれた稲藁を使ってしめ縄作りをやりました。昭和二桁の古い私の年代でも、家でしめ縄作りが出来る人は少なくなったようで、誰に聞いてもホームセンターなどで買ったものを使っているようです。しかし私は子どもの頃から親父に教わってしめ縄の作り方を伝授されているため、自分で言うのも自慢に聞こえるようですが、まあまあ腕の良い方だと思っています。温かいといっても初冬の戸外は座って仕事をすると少し冷たく感じられましたが、親父は自分の部屋の石油ストーブをわざわざ持ってきて暖を取ってくれました。

 わが家では4種類のしめ縄を作ります。まず最初におたまじゃくしという少し小さめのしめ縄を11個作ります。これは水神様や車、自転車、神様、仏様、煙会所などに飾るものです。次に親父の家の玄関に飾る少し大きめのおたまじゃくしを作ります。そして本家の入口に飾るのは縄暖簾のようなしめ飾りです。竹に沿わせるよう作るのです。最後は神様に供える海老です。昔は餡子と称する藁簿手を入れていましたが、今は面倒臭いのでそれらしい太目の縄をなって仕上げます。


 これが出来上がったしめ縄ですが、今年は餅米用の柔らかくてねばく、長い藁が手に入ったため予想以上の出来栄えで、自分でもびっくりするほどでした。早朝とはいいながら来客が多く、愛知県から帰省した従兄弟が来たり、姉が来たりとひっきりなしにやって来て、その都度私のしめ縄を作る様子を見て一応に驚いて帰りました。

 お陰様で親父と妻の言う「大安吉日」の昨日、縁起物のしめ縄は無事出来上がりました。あとは31日の午前中に裏白やお供え物を用意してお飾りとして仕上げたいと思っています。

 昨日息子嫁の実家へお歳暮を届けに行きました。しめ縄の話しをすると、嫁のお母さんが「まあ若いのにしめ縄作りが出来るなんて」と驚かれました。「いやいやまだ63歳ですから若くはありませんよ」と照れ笑いをしてしまいました。「ところでお父さん、お父さんのその技は息子の一心君に伝授していますか」と言われてドキッとしました。息子の忙しさにかまけて、すべて私がやってきましたが、もうそろそろ息子への伝授もしなければなりません。私たちは子どもの頃から縄をなえます。ところが今の若者の暮しの中には縄をなうという必然性がないのです。必然性がなければ廃れていくのは当然で、子どもの頃からしめ縄作りを手伝わせてはいましたが、自分で仕切ることは出来ないのかも知れません。それでもこの一言で少し考えを変えようと思っています。31日のお飾り作りは是非帰省する予定の息子とやりたいものです。

  「一・五・三 藁を足しつつ なって行く しめ縄作り 今年も出来た」

  「そういえば 息子に伝え 出来ずいた 来年こそは 手取り足取り」

  「天才と? 見紛うほどに おだてられ 自慢たらたら 姉に説明」

  「売っている しめ縄大安 だけでなし それでも親父 大安選ぶ」

 

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shin-1さんの日記

○風評被害と風評効果

 私は役場に勤めた晩年は公務員でありながら第三セクターの経営を任され商売をしました。商売にとって数字は結果なので、随分そのことには頭を悩まし経営努力もしました。「100を目標にすると90で終わる。110を目標にすると100に到達できる」と自分自身の勝手な思い込みで経営哲学?をつくりその実践をした結果、世の第三セクターの殆どが苦戦を強いられる中で、創業以来13年間一回も赤字になることなく黒字を続けたり、出資者に5%の配当を続けているのです。

 私は経済学を勉強したわけでもないのに経営に携わりました。お天気に左右されやすい、しかも冬と夏の落差がひどいなど幾つ物弱点を持つ「道の駅」をどう経営するか、10年間は寝ても起きてもその事を考えていました。冬になると来客が少なくなる弱点をカバーするために他の地域では咲かないスイセンや菜の花を冬の花として取り上げ見事に冬の観光客を倍増しました。でもお天気に左右される悩みは多少改善されてはいるものの今も抜本的な解消にはなっていないのです。

 私は道の駅に来るお客を4つに分類していました。お客さん100人をパーセントで表すと、まずいい消費者は5.5パーセントです。この人たちは価値が分っていていつも買ってくれる固定客です。次に健康志向型消費者は16.5パーセントです。この人たちは学習旺盛で裏面の表示を見たり消費期限を気にしたりしながら価値が分れば買ってくれる人です。次に最も多いのが分裂型消費者52.5パーセントです。この人たちは見た目と安さがで商品を買います。後の残りはどうしようもない無意識消費者25.5パーセントです。この人たちはいくらチラシを撒こうと看板を立てようと無関心で、道の駅などには来ないのです。

 最初私はいい消費者と健康志向型消費者を相手に商売をしていました。確かに22パーセントの手ごたえはあるのですが、売り上げの数字が伸びないのです。そこで思い切って22パーセントプラス52,5パーセントの品揃えにして見ました。それ以来売り上げも来客数もいい消費者や県句指向型消費者が多少減ったものの、うなぎ上りとなったのです。しかし問題点も出て来ました。分裂型消費者は少しでも問題点が見つかると風評被害を撒き散らすのです。これは恐ろしい消費者行動で、一夜のうちに口コミで広がるのです。それは商品だけではありません。例えばトイレが汚かったりするともう大変です。新聞にまで投書して風評はまたたく間に広がって客足がピタッと遠のき、売り上げは大幅にダウンするのです。

 私はその実態を見ながら、この風評被害を撒き散らす分裂型消費者を風評被害から風評効果に転換できないか考え始めました。そのために人工砂浜の掃除を毎日毎朝3時間ボランティア活動として自らにノルマを課して頑張りました。また声賭け運動を行い誰彼となく道の駅で話しかけました。結果的には砂浜が美しい、夕日の美しい、じゃこ天が美味い、夕焼けソフトクリームが美味しいという風評が口伝えとなって、またたく間にシーサイド公園は県内観光地のスターダムにのし上がってきたのです。風評効果を作る物語は枚挙に暇のないほど作り、その結果が年間55万人の観光客となったのです。

 風評被害をばら撒く人は、やり方一つで風評効果をばら撒く人になるのだということを考え、「真心と本物」の感動商法をこれからも続けていけば、シーサイド公園は不滅なのですが・・・・・。

  「風評は 被害と効果 裏表 どちらに回すか 知恵でどうでも」

  「五十二の 分裂型を 引きこんで 見方にできりゃ 占めたものです」

  「結局は 人の良し悪し 決まるもの いい人いれば 経営上手く」

  「本物と 真心だけで 勝負する 感動商法 今も昔も」

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shin-1さんの日記

○やっと書き終えた年賀状

 毎年恒例のことながら、年の瀬も押し迫ると何かと慌しく、予定しているはずなのに年賀状を書く作業が遅れに遅れて、昨日やっと700枚ほどの年賀状を書き終えました。年賀状の裏書は印刷屋にお願いし、表の宛名書きはパソコンでプリントするのですから「書き終えた」という表現が当っているかどうかは分りません。むしろ「年賀状をプリントアウトし終えた」という方が正しいのかも知れません。それでもパソコンに入力しているこれまでの宛名を呼び出して整理し、新たな宛名を入力する作業はかなりの作業で、今年一年に貰った名刺を繰りながら、どうしても出さなければならない恩義をいただいている人を選んでは打ち込むのですが、途中で来客や電話があったりするものですから、途中で投げ出したりして中々前へ進まないのです。私のように広域的に歩く人間にとっては、たった一度の出会いの人が圧倒的に多いため、その名前と顔さえ一致しないのです。それでもブログと予定表を付け合せながら、訪ねた町や出会った人の顔を必死にめくりながら作業をするのです。

 今年妻が買ってくれた年賀状は700枚、3万5千円もの出費です。でも私のダイレクトメールだと思えば元手なしで仕事が出来る私にとっては大切な顧客サービスなのです。その700枚にどう治めるかも苦労なのですが、公的仕事についていない自由人の私ですから、不義理はご容赦とばかりに700枚に納めました。

 プリントアウトはエプソンのPM-A980という最新鋭のプリンターに変えているのでかなり速度が速くなりました。お陰様で今までのようなためし刷りや失敗もなく、700枚が全て印刷され、小脇に抱えて地元郵便局の窓口まで持って行き手渡し投函をしました。個人では多いほうなのか郵便局の女性職員も笑顔で受け取ってくれました。さてこの中に迷い子となって帰って来るものが何通あるのでしょう。昨年は5枚程度ありましたので、今年もその程度は覚悟しなければなりません。迷い子郵便の主な原因は住所を正しく書かなかったこちらにも責任があるのですが、年賀状の配達人がアルバイトという事情もあって、大まかな住所など探すこともなく「訪ね人不詳」のレッテルを貼られて帰って来るのです。

 さて今年の年賀状に何を書いたかは貰った人しか分らないので貰った人のお楽しみなのですが、私は毎年その年に起こった自分の10大ニュースを「青春の履歴書」として書いています。今年も色々なことがありましたが、どうにか無事に終わりそうです。

 わが家にとって今年は、二人の孫が誕生したことが何よりの朗報でした。世の中は少子化だと言われていますが、5月18日に長女夫婦に次男尚樹が、8月31日に長男夫婦に長男希心がそれぞれ生まれ、孫の数は一気に3倍にふくれ上がりました。それぞれ順調な成長を続けており、正月には長男夫婦も帰ってきて賑やかな正月になりそうです。しかし一方では昨日の義兄のガン手術や卒寿を迎えた親父の加齢など、叔父や叔母に当る親父の兄弟の加齢も気になっています。親父のすぐ下の叔父は少々認知症が認められ、老いの身を心配していますが、息子夫婦と同居してるため少しは安心しています。一方で命の誕生や成長を喜び、一方では加齢による衰退を気遣うという、いつまでたっても人間には喜びや不安が付きまとうものだと思います。

 他人事ではなく自分達夫婦にも老いはこっそり忍び寄っています。今を楽しみ、今の連続を充実して生きることが人生だと、胸を張って生きていますが、さて来年はどんな一年になるのでしょう。

  「年賀状 七百枚を 書き終えて ホッと一息 今年も色々」

  「来年は 早く書こうと 心決め やってはみるが 終われば同じ」

  「書くことが あるだけ良しと 思う年 来年こそと 進化を誓う」

  「一枚も 書き損じなく 偉いぞと プリンター褒め 自分も褒める」


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shin-1さんの日記

○IQ人間とEQ人間

 わたしたち人間を3つに分類するとしたらIQグループとEQグループ、その二つに属さない無Qグループに分けられるような気がします。IQとは知能指数の優れた人です。私たちの同級生の中にも、日頃そんなに勉強しないように見えるのに勉強のよく出来る人が何人かいました。昔は家々の裕福の度合いが勉強の出来る出来ないを左右する部分もあったので、今考えてみるとIQグループだと思っていた人の中には、私たちと同じ平凡人間もいたのですが、多少の羨望の眼差しもあって、幼心ではそう思っていました。IQグループの人たちは、義務教育の途中であっても愛光や新田、東雲といった私立中学へ進学し、既に違った道を歩んでいました。貧乏故に私たちが高校へ行くか行かないかを議論している頃に、彼らは既に高校の向こうにある大学進学を目指していたのですから、追いつくはずもない遅れに遅れた社会に私たちはいたのです。

 でも彼らが学力や学歴を目指し、ふるさとや仲間を捨てた時代に、私たちは気付かないうちにとんでもないほど豊かなEQを身につけてたのです。EQとは【ものごとにどれほどの豊かな感受性を持っているかを示す指数】、つまりIQが「頭の知能指数」なら、EQは「心の知能指数」とでもいうべきものでしょう。

 一昔前まではIQ人間が重宝される時代でした。ところが産業革命を経て情報化時代が到来し、記憶や計算などならコンピューターに任せれば間違わず仕事をしてくれるようになったのです。一方で最近になると商品開発や営業という部門でどれだけ面白く営業成績を上げることが出来るか、感性に訴える要素が重要になってきたのです。ましてやIQ人間は心の病に弱いという欠点を持っているから、企業は余計EQ人間を求めるのです。

 私はどちらかというとEQ人間のグループに属していると思います。何事にも興味を示し、悪い事をいいほうに考え、人生を楽しむ術を知っているのです。今まで嫌というほど様々な失敗もしたでしょうし、反対に打ちのめされそうにもなりました。でもまるでダルマのように起き上がって生きてきたのです。そして平凡な日々をささやかな努力の積み重ねによって大きな徳を得てきたのです。

 まだまだ努力の足りなさから勝者や成功者にはなっていませんが、それでもいい人生を生きてると思いつつ生きています。多分これから先も心の病にはかかることはないでしょう。

 最近第3の無Qグループの人の存在が気になって仕方がありません。IQでもないのにIQぶっている人に会います。またEQでもないのに富や財産をEQと勘違いして見せびらかす人にも会います。いずれもやがては化けの皮がはがれ、目の前から消えてゆくのですが、人生は知能指数や富・財産で決まるものではないのです。

 今夕、京都の木下さんという友人から電話がかかってきました。彼は毎月1回学校などの公共施設へ行ってトイレの掃除をするボランティアをやっています。その数は150回を超えたそうです。また彼は始業前に役場の公用車を毎日掃除をしています。凄いEQです。彼こそ本物のEQ人間だと思います。私も12年間毎日毎朝三時間シーサイド公園の掃除をしましたが、見習いたいものです。

  「IQの 人間でない 俺達は せめてEQ 努力次第で」

  「人間の 魅力はEQ 磨こうよ 人の出会いが 高めてくれる」

  「この話 妻に話すと IQって? 知らぬ人には 無Qですから」

  「学歴の ない俺IQ 並み以下だ それでもEQ 極上霜降り」

  

 


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shin-1さんの日記

○長~い一日

 何日か前、日頃は太陽のように明るく振舞う妻の顔がまるで曇ったようで浮かない日がありました。聞けば四人兄弟の長男で後を継いでいる妻の兄がどうもガンらしいというのです。10月頃から風邪気味で体調を崩していたようで、近所のお医者さんで診てもらったものの風邪らしく、その処置をしていたのですが、精密検査の結果喉にガンが見つかり、それも5段階の4まで進行しているので、即手術ということで四国がんセンターに入院して手術の日を待ちました。

 月曜日には兄弟で病院に行き、かかりつけのお医者さんの説明を本人も交えて聞いたようです。私も義理の兄弟なので行くべきだろうと思っていましたが、所用のため妻が兄と弟を伴って病院で先生の詳しい病状と手術予定、その後の日常生活などを細かく聞いて帰ったのです。昨晩今日の手術が9時から始まるという連絡を受け、八幡浜の兄や東京からこの日のために帰省した本人の息子、長浜の妹が一台の車に乗り合わせて朝6時半にわが家へ着きました。私の家で私の車に乗り替え、私達夫婦を含めた5人で四国ガンセンターへ向いました。早朝といいながら既に車は混んでいて、砥部の拾町交差点ではラッシュ気味でしたが、わが家を出て1時間余りで病院に到着しました。

 久しぶりに義兄に会いましたが、声は絞り出すようなかすれた声で、病気が病気だけに昨晩は眠れない夜を過ごしたのでしょうか、横になって寝ていました。やがて看護師さんがやって来て、「9時から手術室に入り手術のための麻酔を打ちます。手術はだいたい3時間くらいかかります。手術後はICUへ入って明日まで様子を見ます。その後経過がよければ一般病棟へ入ります。手術後麻酔から覚めれば面会できます。その際手術の結果を執刀の先生から家族の方に説明します」と丁寧な説明があり、兄は担架に乗せられ手術室へ消えて行きました。

 約3時間、手持ち無沙汰な時間を待合室で待つのも大変だからと、私は今朝急いでいて忘れてきた携帯電話を取りにわが家まで帰りました。帰るのであればと妻から頼まれたお使いをして、約3時間後病院へ帰って来ました。その間運転しながら今頃兄は手術室で難儀をしているだろうと思うと、心も頭を少し暗くなりました。

 病院に帰って家族待機室へ帰ってみると、まだ手術が終わっていないようで、それぞれイライラしながら待っていました。4階から7階まで上がり、外の見える部屋で待機しました。7階からは駐車場がよく見えます。荷物を持って病院の玄関に向う人、荷物を持って家族とともに車へ向う人様々です。しかしもう直ぐ来る正月のせいでしょうか、病院から出てゆく患者さんの方が多いようでした。束の間の正月をわが家で過ごすに違いないと思いながら、まるで人間模様を見ているようだと思いました。

3時になってもまだ兄の手術が終わったという知らせはなく、イライラが募り、看護師詰め所へ聞きに行っても「まだ終わりませんのでお待ち下さい」だけでした。3時間の予定が6時間ですからこれは大変だと思ってもどうにもなりません。

 そのうち看護師が「二宮さん。手術が終わりましたので4階のICU室までお越し下さい」と呼びに来ました。私たちはぞろぞろとエレベーターで4階まで降りて、ICU室に入りました。やがて主治医がやって来て、今取り出したばかりの患部切り取り部位をガーゼから取り出して、図を見せながら説明してくれました。妹は顔を伏せて見ませんでしたが、妻は気丈にも質問をしたりしながら熱心に聞いていました。祖母、母、私などの病気や手術にこれまで幾度となく立ち会ってきたしたたかさが彼女をここまでしっかりさせるのでしょうか。感心しました。やがて面会が許され手を消毒してICU室に入りました。兄は既に麻酔から覚め、目はつぶっているものの私たちの問いかけに首を振ってしっかりと答えてくれました。

 病室を出た私たちは医者の話、自分達で確かめた兄の顔などを総合して、手術は成功したと思い、長い待ち時間や手術後の緊張した時間にもかかわらず、少しわれに帰ったような心境でした。気がつけば私たちは昼飯も忘れていました。まるで兄と一緒に手術を受けるような心境だったのです。帰り際、妻が食事でもして帰ろうと言い出し、少し遠回りをして寿司屋に立ち寄りました。5人がそれぞれの話しをしながら腹を満たしました。

 馴染みの寿司屋の大将が、「若松さん、この間テレビに出とったの見たよ」t優しく声を掛けてくれました。「手術で病院は大変だっただろう」と、飛び切り美味い寿司をいただきました。

 それにしても今は時代が変わって、本人にガンを告知して手術をするようです。私の親父がガンになった時は、親父など病気が回復するまでガンなどとまったく知らされずにいましたし、7年前に亡くなった母も最期までガンと知らずに天国へ行きました。私はこの病院へは来たくないと誰もが思うのでしょうが、いずれそんな宿命をあるのかも知れません。その時の来ない事を願いながら長い一日は夜を迎えようとしています。

  「がん告知 された兄さん 手術する 予想を越えて 六時間とは」

  「七階の 窓から見える 人の群れ 来る人重く いぬ人軽く」

  「正月も ない職場にて 励む人 息子も同じ 職場に生きる」

  「腹減った 気がつきゃ昼は 飯食わず 寿司屋に寄って ほっと一息」 

 

 

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