shin-1さんの日記

○6、子どもたちの遊び

 漁村の子どもたちにとって身の回りにある豊かな自然は遊び道具の宝庫でした。とりわけ目の前に広がる海は季節ごとの表情を見せながら子供たちをやさしく包んでくれました。砂浜の砂は砂山に、海岸の石ころは石投げに、また夏の海は泳いだり潜ったり釣ったりして、空腹を満たすのに十分だったように思います。子どもは遊びの中で育つといいますが、遊びの向こうに動植物がいて、子どもながら大人の暮しを見よう見まねし、いくらかの知恵に変えて遊んでいました。サザエやアワビは何処に潜れば取れるか、カニを取るにはどんな道具が必要か、またそれらで取ったり捕まえた物はどうしたら食べられるか、全て体が覚えていました。また海に溺れそうになったり、オコゼに刺されたりする経験から自然の中に潜む危険もしっかり体得していました。

 子どもの遊びにとって漁村の異年齢子ども集団は大きな意味を持っていました。ガキ大将のトップは小学校6年生でした。中学生になると学業も異性も何故か別世界に生きているような錯覚にとらわれ、子ども社会から離れて行きました。6年生の子どもは先輩が抜けた遊びの社会を取り仕切り、村祭りや亥の子などの年中行事、お盆の盆飯、節句の雛あらしも、また子ども会の勉強にまで深く関わっていました。

 子どもの遊びは急峻な漁村の裏山にも及び、陣地づくりは子どもの好奇心をそそりました。10人ほどの仲間で主に冬の季節山に上り、雑木の生い茂る山を親の目を盗んで持ち出した鋸や鎌を使って少しばかり伐採し、陣地を作るのです。戦争が終わったとはいえ、敗戦後間もないことなので、戦争に行った人の武勇伝を囲炉裏端で聞いていた子どもたちはチャンバラや戦争ごっこをして遊んだものです。山には野イチゴ、桑の実、ヤマモモ、山葡萄、アケビ、サルナシなどの食べ物があちらこちらにあり、それも収穫物として取り合い食べました。

 子どもの遊び道具の一つに「肥後の守」という小刀がありました。今は死語のようになったこの小刀は私たちに夢を与えてくれました。竹を切って竹鉄砲や竹ヒゴを削って凧を作ったり、竹とんぼなどの細工も全てこの小刀による成果物でした。また山にキビチと称するワナを仕掛けたりメジロを鳥もちで取るのも小刀がなければ上手くはかどらなかったのです。子どもはこの肥後の守欲しさになけなしの小遣いを貯め、他の子どもよりも少しでも大きな肥後の守を手に入れ、友だちに自慢したものです。そしてこの小刀は子どもの手によって日々砥石で研ぎ澄まされていました。

 家の仕事を手伝うのは当然の時代でしたが、子どもたちは工夫をして時間を作り、巣篭もりなどせず仲間と群れて遊んでいました。

 駒回しや凧揚げなどの他にパッチン(メンコ)、マーブル、ネンガリ(木を削った杭のようなものを地中に投げ刺し相手を転がせる)、ドングリ、陣取り、かくれんぼ、木登り、石投げ、水鉄砲、竹鉄砲、竹馬、木馬、そり、馬乗りなどを子どもどうしでルールを決めて遊びました。

 女の子の遊びは男の子の遊びと少し違って、おしとやかなままごと、ゴム飛び、石蹴り、おはじき、お絵かきなどが主流だったようですが、特に印象深いのはお雛様でした。漁村では月遅れのひな祭りで4月4日を中心に飾られ、菱餅や雛豆などの菓子類が並べられて、盗んでは食べていました。あの時ばかりは女に生まれたいと思ったものです。

?私は小さい頃小学校へ上がる前に10の数が数えられなかったそうです。心配した父親は浜から10個の小石を拾ってきて網繕いの夜なべ仕事の側で何度も何度も小石を数える勉強をさせたそうです。それでも算数は人並みになるのですから幼年時代の遅れなど人生には何の問題もないと思っています。このことがきっかけで、浜の石は私の遊び道具でした。掛け算も分数もこの小石で習いました。安上がりの教材になったようです。

 遊びは時代とともに変ります。最近は私たちが経験したような自然を友としたり、自分で工夫して創作した漁村の遊びはすっかり姿を消してしまいました。漁村の遊びを出来れば復活してみたいと思っています。

  「肥後の守 殿様名前じゃ ありませぬ 子どもにとって お宝でした」

  「海面を スルスルスルと 石跳ねる そんな遊びも 随分したっけ」

  「何処ででも お構いなしに 遊んでた 子どもの頃は 遊びが仕事」

  「素もぐりで アワビやサザエ 獲ってきて 無造作食べた 何と贅沢」


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shin-1さんの日記

○5、ノミとシラミと蚊とハエ

 昭和19年生まれの私は戦後間もない頃に小学校へ入学しました。木造の校舎は障子があるような古いもので、村には大久保分校があって4年生になるとその分校から子どもたちが編入し、もう一つの冨貴小学校の子どもは中学校になると一緒になるなど、子どもの数が最大の時代でした。学校は活気に溢れ運動会や学芸会ともなると村中総出で、地域を巻き込んだまさにコミュニティの拠点としての役割を存分に発揮していました。校庭の大きなイチョウの木や二宮金次郎は学校のシンボルともいえるもので、私の幼い記憶の中にしっかりと染み付いています。余談ですが私はある日二宮金次郎の銅像が目に留まり、「あの二宮金次郎は何の本を読んでいるのだろう」と不思議に思い、銅像の台座によじ登りました。運悪くそこを通りかかった校長先生に見つかり、厳しく咎められ校長室へ連れて行かれて正座のお仕置きをされました。校長先生「若松君、お前は何であんな偉い人の銅像に上がったのか」。私「二宮金次郎が何の本を読んでいるか調べたかった」。校長先生「馬鹿たれ。あそこにはいろはにほへとと書いてあるだけじゃあ」。私「・・・・・・・・・・」でした。結局そのお仕置きは1時間にも及びましたが、その疑問は私の心に長い間引っかかっていましたが大人になって、翠小学校の銅像が教えてくれたのです。「一家仁 一國興仁 一家譲 一國興譲 一人貧戻 一國作乱 其機如此」でした。読むことさえも意味も聞いても誰も知らず、結局は県教育委員会の指導主事に教えを請う事になりました。「一家のうちが仁の道を行えば、その国じゅうの人々が仁の道を進んで行うようになり、(これに反して、尊貴の位にある)君主が(家を治める諸徳も行わずに)自分の利益だけをむさぼるならば、その国じゅうの人々は争いを起こす事になる。(国が治まると乱れるとの)しかけは、このとおりである」。つまり二宮金次郎の読んでいる本は中国の古書「大学」の一節だったのです。

 その頃の学校は制服もなくさすがに着物の子どもはいなくなっていましたが、ゴム草履や黒いシューズなど戦後日本に入ってきたと思われるアメリカのものでした。上履きは藁草履で、靴下などはまったくなく正月を挟んだ寒い日に足袋を履く程度でした。教室には暖を取るものなどなく、そのため子どもの青鼻は常識で、黒い学生服の袖は青鼻の横ずりで光っていました。藁草履を履いて来る子供もいて、雨上がりなどは尻バネが背中から頭までかかっていました。番傘は上等な家庭で、私などのような貧乏人は敗れた番傘か灰谷健次郎の「雨が降ったら傘さして、傘がなければ濡れてゆく」という言葉ピッタリの長閑な少年時代でした。

 それにしても思い出すのはノミとシラミと蚊とハエの話です。戦後間もない頃は食べる事に一生懸命でした。したがって今考えてもゾッとするような話がいっぱいあります。例えばシラミです。毎日風呂に入ったりしなかったし頭も洗濯石鹸のようなもので洗っていました。当然オカッパ頭の女の子の髪にはしらみもいて、授業中温かくなってくるとシラミが髪の中から這い出してくるのです。「先生、A子ちゃんの頭からシラミが出よる」と授業中にもかかわらず大声を出すと授業は中断され、先生はその子を廊下に連れて行きDDTの入った缶を取り出して勢いよくDDTの粉を直接頭に振りかけていました。DDTは劇薬です。今こんなことをしたらそれこそ大きな社会問題です。それが平気で行われていたのですから無知も環境問題もあったものではありません。

 またノミも家には沢山いました。年に2度日和の良い日を選んで家の畳を剥がして外に立てかけて干し、家族総出で大掃除をしました。ここでも畳を剥がした後にパクパクと沢山のDDTを撒き散らしました。そんな臭いにおいの中で寝ていたのです。寝る前になると布団の上をノミがピョンピョン飛び跳ねるのを見つけ、捕まえては爪で殺しました。それでもノミに食われてかゆく、薬とてないじだいですからそのうち治っていたようです。

 ハエも沢山いました。ハエが食べ物にたからないようにとハエ取りビンやハエ取り紙、それにシュウロの葉っぱを編んで自家製のハエ叩きも作りました。またちゃぶ台の上にはハエを避けるための工夫が随分凝らされていましたが、少々の物を食べてもO157などの病気にかからなかったのは免疫力や自然治癒力が不衛生ながら自然に備わっていたのでしょう。

 蚊も沢山いました。夏は蚊帳を吊って寝ました。これが子どもにとっては嬉しくて、蚊取り線香を焚いて蚊帳を吊る夏の夜は寝苦しいけれど何となくノスタルジックな気分になり、怖い話を皆でし合って眠れない一夜を過ごしました。

 こうした不衛生な環境は漁村のみならず日本の戦後の社会ではことさらに珍しいことではなかったように思います。ゴミなどは全て家庭で処理していました。今のように買ってきたものの何割かが燃えない包装材とは違い、自然からの恵みの残り物ですし、作った食べ物を食べずに残して捨てるなんてことは余程のことがない限りありえませんでしたから全て畑に入れて肥しにしました。水も私が物心ついた頃には既に水道になっていましたが、水道の受け口には大きな大谷焼の水瓶があって水を貯めていました。それでも簡易な下水から流れ出る水は綺麗で、直ぐ前の海を汚すことはなかったようです。

 家の全てが障子や襖で仕切られ、事ある時はこれらの障子や襖が全て取り外され大きな部屋が現れました。その部屋で一族郎党が集まって仏事や祭事を手づくりでこなしました。本家と分家の関係もまるでピラミッドのように硬く団結していました。本家100人分、分家50人分の櫻井漆器の食器があり、おおいときには300人もの大宴会を行う用意をしていたのです。これぞ日本の文化でありこれぞ日本のコミュニティの原点だったように思います。

  「頭から 這い出るシラミに DDT 教師手馴れて 直接かける」

  「ノミがピョン 追いかけ潰す 布団上 DDTを 畳のヘリに」

  「蚊帳の中 怪談話しに 寝付かれず 少し物音 ドキリとしつつ」

  「シュロの葉で 手づくりしたる ハエ叩き 勢い余って 障子を破る」

 

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shin-1さんの日記

○コミュニティビジネスセミナーに参加

 私がよく出入りするえひめ地域政策研究センターへ久しぶりに立ち寄りました。別に用事があった訳ではありませんが、私は所用で出かける時は必ずプラス1かプラス2の立ち寄りをしています。「ついで寄り」ともいわれるこの立ち寄り癖は若い頃からやっており、何処かへ講演に行った折でも殆ど欠かさずやっているのです。「お茶のただ飲み」とも思えるこの行動は不思議なもので、これまでにも沢山の人間関係構築や情報収集に役立ってきました。この日もセンターに行くと、研究員の皆さんが留守かと思いきやドヤドヤと外から帰って来ました。聞けば明日のセミナーの準備だとか、そういえば研究員の渡辺さんからセミナーのお誘いメールが入っていたと思いながら、持ち合わせていない予定表を記憶の中で捲っていました。「多分明日は東京からお客様が来るもののそれは午後から」と脳の指令が私を動かせました。忘れていた訳ではないものの午後の予定が立たずセミナーの出席をためらって申し込みをしていなかったのです。先着100人の申し込み期日はとうに過ぎているため無理かと思いましたが、頼み込んで口頭予約をしました。これもプラスワンの効果でしょうか。

 明くる日セミナーに出かけました。会場が県庁なので車は置けず、ましてや車検代車が軽四トラックなのでさてどうしようかと思いつつ、これも長年の癖でセンターの車庫へ入ったら運良く空いており、シメタとばかり駐車して何食わぬ顔で県庁へ小走りです。しかし悪いことは出来ないもので、県庁のエレベーター内で坂本研究員にバッタリ、「車は何処へ置かれましたか」。「すみません。センターに置かせてもらいました」で落着、汗顔でした。

 10分前の会場入りでしたが、そでに半分ぐらい席が埋まっていました。中程の席を確保し、時間が勿体ないので失礼かと思いましたが、昨夜の研修会でお世話になったワシントンホテルの支配人さんお二人にお礼の葉書を2枚書きました。顔見知りも沢山いて軽く言葉を交わしつつ葉書を書き終わるとピッタリセミナーの始まりです。

 この日の講師はコミュニティビジネス総合研究所の細内信孝さんです。「地域資源からビジネスへ」、~コミュニティビジネスの可能性~というお話です。細内さんのコミュニティビジネスの話は雑誌で読んだことがあり、興味をそそりました。コミュニティビジネスとは、コミュニティビジネスの特長、期待されるコミュニティビジネスの効果、コミュニティビジネスを支える人々や仕組み、コミュニティビジネス成功への道などを全国の事例を織り交ぜながら軽妙に話されました。

 今年の春私の元へやって来た兼頭さんも確かコミュニティビジネスの勉強をしているはずだと思いつつ、会場を見渡すと彼の顔も参加者の中に発見しました。コミュニティビジネスは福祉・環境・情報・観光・交流・食品加工・まちづくり・商店街の活性化・伝統工芸・安心安全にとどまらず、様々な分野が想定されますが、私の町のような過疎と高齢化と少子化、それに第一次産業が不振な地域にこそ必要なものですが、必要以上にそれを起業する人材がなかなかいないのです。私のやったこれまでのまちづくりはコミュニティビジネスそのものであり、特に漁協女性部のおばちゃんたちと仕組んだじゃこ天や第三セクターシーサイドふたみはその成功事例と言えるものかも知れません。

 この日会場を埋めた参加者の殆どは行政の人でしたが、涼しいから何気なく参加したのか、コミュニティビジネスを行政の力で誘導しようとしているのか、いずれにせよ不退転の決意がなければいい成果は現れないのです。今日の話をヒントにしながらいいコミュニティビジネスが生まれることを期待したいものです。勿論私も狙っています。ひょっとしたら上勝の横石さんや馬路の東谷さん、それに私の講演活動もコミュニティビジネスかも知れません。

  「横文字で 言うと何だか 格好いい そんなに甘い ビズネスはない」

  「結局は するのはあなたで 話しチョン 聞けば聞くほど 悩みは深く」

  「立ち寄りで 掴んだチャンス セミナーで 知識習得 知恵に変えねば」

  「俺などは コミュニティビジネス 最前線 成功事例と 言えるかどうか」

 

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