shin-1さんの日記

○5、ノミとシラミと蚊とハエ

 昭和19年生まれの私は戦後間もない頃に小学校へ入学しました。木造の校舎は障子があるような古いもので、村には大久保分校があって4年生になるとその分校から子どもたちが編入し、もう一つの冨貴小学校の子どもは中学校になると一緒になるなど、子どもの数が最大の時代でした。学校は活気に溢れ運動会や学芸会ともなると村中総出で、地域を巻き込んだまさにコミュニティの拠点としての役割を存分に発揮していました。校庭の大きなイチョウの木や二宮金次郎は学校のシンボルともいえるもので、私の幼い記憶の中にしっかりと染み付いています。余談ですが私はある日二宮金次郎の銅像が目に留まり、「あの二宮金次郎は何の本を読んでいるのだろう」と不思議に思い、銅像の台座によじ登りました。運悪くそこを通りかかった校長先生に見つかり、厳しく咎められ校長室へ連れて行かれて正座のお仕置きをされました。校長先生「若松君、お前は何であんな偉い人の銅像に上がったのか」。私「二宮金次郎が何の本を読んでいるか調べたかった」。校長先生「馬鹿たれ。あそこにはいろはにほへとと書いてあるだけじゃあ」。私「・・・・・・・・・・」でした。結局そのお仕置きは1時間にも及びましたが、その疑問は私の心に長い間引っかかっていましたが大人になって、翠小学校の銅像が教えてくれたのです。「一家仁 一國興仁 一家譲 一國興譲 一人貧戻 一國作乱 其機如此」でした。読むことさえも意味も聞いても誰も知らず、結局は県教育委員会の指導主事に教えを請う事になりました。「一家のうちが仁の道を行えば、その国じゅうの人々が仁の道を進んで行うようになり、(これに反して、尊貴の位にある)君主が(家を治める諸徳も行わずに)自分の利益だけをむさぼるならば、その国じゅうの人々は争いを起こす事になる。(国が治まると乱れるとの)しかけは、このとおりである」。つまり二宮金次郎の読んでいる本は中国の古書「大学」の一節だったのです。

 その頃の学校は制服もなくさすがに着物の子どもはいなくなっていましたが、ゴム草履や黒いシューズなど戦後日本に入ってきたと思われるアメリカのものでした。上履きは藁草履で、靴下などはまったくなく正月を挟んだ寒い日に足袋を履く程度でした。教室には暖を取るものなどなく、そのため子どもの青鼻は常識で、黒い学生服の袖は青鼻の横ずりで光っていました。藁草履を履いて来る子供もいて、雨上がりなどは尻バネが背中から頭までかかっていました。番傘は上等な家庭で、私などのような貧乏人は敗れた番傘か灰谷健次郎の「雨が降ったら傘さして、傘がなければ濡れてゆく」という言葉ピッタリの長閑な少年時代でした。

 それにしても思い出すのはノミとシラミと蚊とハエの話です。戦後間もない頃は食べる事に一生懸命でした。したがって今考えてもゾッとするような話がいっぱいあります。例えばシラミです。毎日風呂に入ったりしなかったし頭も洗濯石鹸のようなもので洗っていました。当然オカッパ頭の女の子の髪にはしらみもいて、授業中温かくなってくるとシラミが髪の中から這い出してくるのです。「先生、A子ちゃんの頭からシラミが出よる」と授業中にもかかわらず大声を出すと授業は中断され、先生はその子を廊下に連れて行きDDTの入った缶を取り出して勢いよくDDTの粉を直接頭に振りかけていました。DDTは劇薬です。今こんなことをしたらそれこそ大きな社会問題です。それが平気で行われていたのですから無知も環境問題もあったものではありません。

 またノミも家には沢山いました。年に2度日和の良い日を選んで家の畳を剥がして外に立てかけて干し、家族総出で大掃除をしました。ここでも畳を剥がした後にパクパクと沢山のDDTを撒き散らしました。そんな臭いにおいの中で寝ていたのです。寝る前になると布団の上をノミがピョンピョン飛び跳ねるのを見つけ、捕まえては爪で殺しました。それでもノミに食われてかゆく、薬とてないじだいですからそのうち治っていたようです。

 ハエも沢山いました。ハエが食べ物にたからないようにとハエ取りビンやハエ取り紙、それにシュウロの葉っぱを編んで自家製のハエ叩きも作りました。またちゃぶ台の上にはハエを避けるための工夫が随分凝らされていましたが、少々の物を食べてもO157などの病気にかからなかったのは免疫力や自然治癒力が不衛生ながら自然に備わっていたのでしょう。

 蚊も沢山いました。夏は蚊帳を吊って寝ました。これが子どもにとっては嬉しくて、蚊取り線香を焚いて蚊帳を吊る夏の夜は寝苦しいけれど何となくノスタルジックな気分になり、怖い話を皆でし合って眠れない一夜を過ごしました。

 こうした不衛生な環境は漁村のみならず日本の戦後の社会ではことさらに珍しいことではなかったように思います。ゴミなどは全て家庭で処理していました。今のように買ってきたものの何割かが燃えない包装材とは違い、自然からの恵みの残り物ですし、作った食べ物を食べずに残して捨てるなんてことは余程のことがない限りありえませんでしたから全て畑に入れて肥しにしました。水も私が物心ついた頃には既に水道になっていましたが、水道の受け口には大きな大谷焼の水瓶があって水を貯めていました。それでも簡易な下水から流れ出る水は綺麗で、直ぐ前の海を汚すことはなかったようです。

 家の全てが障子や襖で仕切られ、事ある時はこれらの障子や襖が全て取り外され大きな部屋が現れました。その部屋で一族郎党が集まって仏事や祭事を手づくりでこなしました。本家と分家の関係もまるでピラミッドのように硬く団結していました。本家100人分、分家50人分の櫻井漆器の食器があり、おおいときには300人もの大宴会を行う用意をしていたのです。これぞ日本の文化でありこれぞ日本のコミュニティの原点だったように思います。

  「頭から 這い出るシラミに DDT 教師手馴れて 直接かける」

  「ノミがピョン 追いかけ潰す 布団上 DDTを 畳のヘリに」

  「蚊帳の中 怪談話しに 寝付かれず 少し物音 ドキリとしつつ」

  「シュロの葉で 手づくりしたる ハエ叩き 勢い余って 障子を破る」

 

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