shin-1さんの日記

○妻の若返り

 このところ頭に白髪が目立ち始めた妻は私に、「お父さん頭を染めようか」と口にするようになりました。日本人の女性が茶髪に染めていることに批判的な私は、「そのままがいい」と余り乗り気でない返事を繰り返していましたが、昨日外出から帰ってみると、妻の髪の異変に気がつきました。茶髪ではないものの目立っていた白髪が消え黒髪に変身しているではありませんか。「お父さんどう」とポーズまでとって変身ぶりをアピールする妻に「頭だけが若返ってどうするの」と冷やかし半分な言葉を返して夫婦で大笑いしましたが、女性は幾つになっても若くありたい、美しくありたいと思うものだとしみじみ妻の頭を見て思いました。先に仕事から帰っていた次男にも「一生君どう」とさりげなくポーズをとったそうですが、次男は母親の頭の変化にまったく気付かず、妻が「頭を染めてみた」と説明しても「ふーん」くらいの素気ない返事だったそうで、妻は落胆の様子でした。「頭だけが若返ってどうする」とけなした私の方が次男の反応よりよかったため、「やっぱりお父さんじゃわい。私の頭が綺麗になったのを直ぐに感じてくれた」と逆に私の株を持ち上げました。

 最近気になって仕方がないのですが、やはり「その考えは古い」と妻がいうように私の考えは古いのでしょうか。日本人の髪は「髪はカラスの濡れ栄えで」なんて言葉そのままに、黒髪が一番だと思うのですが日本全国の巷では総茶髪といわれるほどに茶髪の人が多いのです。ある外国人の友人が「日本人は何故茶髪に憧れるのかしら?」と私に漏らすほど日本人の黒髪に対する意識は大きく変化してきました。それでも世の中の流行とは恐ろしいもので、役所へ初めて茶髪の女の子が入ってきた時はみんなが目をパチクリさせながらその子の事をやれ「役所に相応しくない」とか、「役所を何と心得ている」なんて陰口をあれやこれや言ったものです。それがどうでしょう今では茶髪常識、むしろ黒髪の方が肩身の狭い思いをするような社会になったのですから分らないものです。今では男性も髪を茶髪に染めて平気で役所にやって来る時代になりました。

 私は茶髪が悪いというのでは決していうのではありません。私の家内のように白髪が多くて気にする女性だっているし、髪はファッションの一部ですから美しくありたいと思う女性の願いはよく分るのです。しかし人がするから自分もするという横並び現象はいただけないのです。親が横並びだと子どもも横並び、当然学校には校則があって先生と生徒のいたちごっこに頭を痛めている学校は枚挙に暇がないようです。

 妻の染めた黒髪を見て、私は自分の顔を歯を磨きながらまじまじと見てみました。顔の構造は相変わらずですが、いつの間にか私の頭にも白髪が目立つようになってきました。それでも出会った人は「若松さんの頭は白髪が殆どありませんが染めているの?」といわれるほど白髪は少ないようです。散髪屋さんも「若松さんは年齢から見ると白髪が少ない方だ」と褒めてくれます。妻に「お父さんも染めてみたら」なんて冷やかし言葉を言われましたが、髪に対する偏見を変えなければなるまいと思った次第です。

 でも私は黒髪が好きだし、少しロマンスゲレーになった妻の髪も素敵だと思います。今更髪だけ若返っても仕方がないと、「お前の髪は私に合わせた方がいい」と今朝もいってやりました。

  「髪だけが 若くなりたる 妻姿 出腹どっしり そこを何とか」

  「世の中は 変ったものだ 茶髪増え まるで外国 黒髪少数」

  「一番に 妻の変化を 見抜きたる 俺はやっぱり あんたの夫」

  「本当は 綺麗と言って 褒めたいが 直ぐに図に乗る 後が怖くて」

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○中止や延期相次ぐ

 このところの雨や台風襲来で関係する研修会や講座の中止や延期が相次いでいます。主催をする人たちは台風発生や梅雨の天気予報を毎日朝昼晩に一喜一憂しながら気を揉んで見てきたに違いないと思うと、中止や延期の決定もやむを得ない措置だと思うのです。私も役場に努めて35年間、社会教育やまちづくりの第一線で各種イベントなど天気に左右されやすい現場で仕事をしていたので、その心情が痛いほどよく分るのです。

 延期や中止の決定は早過ぎるとその後の天候回復などで「何で?」と開催切望組から批判をされます。逆にいやいや参加組からは歓待されるのですが、準備に費用が伴うものはそのリスクが大きく、やってもやらなくても費用が発生し大変な迷惑をこうむります。私が発想実行して今に続いている夕焼けコンサートなどはその典型で、出演を予定しているアーティストには全部若しくは一部のキャンセル料金が課せられるのです。それでも私たちのコンサートは無料なのでまだましですが、これがチケットを事前に販売しているとその事後処理は更に煩雑で、チケットの払い戻しやその連絡に相当の事務処理量がついて回るのです。故に少々の小雨でもブーイングや入場者が少なくても強硬突破となるのです。夕焼けコンサートもそんな憂き目に随分会って胃の傷むような思いを何度もしたものです。

 先日私が実行委員長を務める地元の小学生を対象にした少年少女おもしろ教室の漁船で底引き漁を体験する講座も雨で延期をする決定通知が担当者から電話でありました。一応私が責任者ですから最終決定や責任は私が追わなければなりません。担当者は天気の状態の推移予測、危険度、受け入れ側の意思などを細かく説明し、私に判断を委ねましたが、私の判断は事務局の判断と一致していたため延期となり、参加予定の子どもたちへ延期通知がされたようです。ところが先日受け入れ側の漁協組合長に会って話を聞くと、延期後の予定の日時では臨時定員申請の期限が切れて再申請の必要があり、多額の申請費用が発生するから今月中に実行できないか相談がありました。結局二転三転した挙句今月末に再変更となったようです。

 昨日はくらしの講座で講演中に私のポケットの中でマナーモードの携帯電話のバイブレーションが動き続けました。気になりながらも講演優先で時間の間無視し続けました。集会が終わると昼食中にその電話が殺到し、食事も途中休んでの対応となりました。その殆どがこの3日間の講演予定の中止若しくは延期相談でした。特に今日出かける予定だった高知県春野町での研修会は、事務局からの電話によると台風進路内に位置しているためや、遠方を出かける私を気遣って中止となりました。

 四国山脈の山を背にしている私たちの所は今のところ風もなく無風状態で雨のみがうらめしく降り続いています。同じ四国でもこうも違うのかと思うほどの静寂ぶりです。かつて台風を侮り「天に向かってブツブツ言うな雨の日には雨の日の仕事がある」と豪語し無謀にも無人島でキャンプを続けたり、研修先へ出かけて散々な目にあった若い頃のいまわしい過去の思い出を思い出す度に、「安全が一番」をモットーにしています。

 今日は高知県の研修会の中止を受けて久しぶりに「忙中閑有り」です。「ここのところ忙しかったからたまにはゆっくり休養したら」とは妻のねぎらいの言葉です。久しぶりにゆっくり本でも読みながら至福の時を過ごしましょうか。

  「台風の 行方気になる 今朝の雨 中止連絡 お陰で休み」

  「いまわしい 過去の記憶が 甦り 気を引き締めて 備えおさおさ」

  「風速が 五十メートル 吹いたいう 沖縄テレビ 臨場伝え」

  「あの人は 今頃無事か 思い出す 心配電話 かけて確認」 

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○くらしの講座

 今日は朝から雨が降っていました。台風がもたらす雨なので時には激しく降って沖縄や鹿児島では降り始めからの雨量がかなりの雨量に達して、各地で被害が出ているようです。また今年始めの台風は930ヘクトパスカルもある超大型台風で沖縄や鹿児島では最大瞬間風速が60メートルを越えたと報じられていました。

 台風接近や大雨が降る度に、わが家ではいまわしい災害に何度か見舞われた経験があるだけに、ただ事ではないと妻は雨合羽や長靴、懐中電灯などを用意して万全な備えをしているようです。裏山の大掛かりな災害復旧治山事業は終わりましたが、まだまだ油断が出来ないといつも心配をしています。

 私も今日のような台風接近や雨の日に出かける時はいつも後ろ髪を引かれるような気持ちになります。それでも約束の仕事があると携帯電話を持っていつでも連絡が取れるようにして出かけるのです。

 今日は生協さんの招きで新居浜へ出かけました。朝から雨が降っていたため多分そんなに集まらないのではと心配していましたが、どうしてどうして私のような者の話でも会場は殆ど満席で10時から12時までの長い時間にもかかわらず終始熱心に耳を傾けてくれました。

 今日の私のテーマは「人生の生活設計」で~これか人生の在り方を考える~というサブタイトルがついていました。私の悪い癖で今日の話の組み立てもまるで考えてなく、話の成り行きに身を任せ思いつくままに2時間の話をしてしまいました。そんな訳ですから、講演が終わって司会者が「何か質問は」といわれ、「5つの貯蓄という説明でしたが、金銭の貯蓄・人間関係の貯蓄・知識の貯蓄・健康の貯蓄の4つは説明されましたが、後の一つは何でしょう」といわれて、「しまった」と思い、「それは感動の貯蓄です」と補足する有様です。また今日はまちづくりの講演会でもないので生活設計の話をしたため、じゃこ天や夕焼けソフトクリームの話、それに花作りの話などはしませんでしたが、質問でそこら辺を聞かれ補足もしました。まあこんな状態です。でも私自身の生活設計を引き合いに出しながら幸せとは、お金持とは、健康で長生きとは、成功するとはなどを楽しく話させてもらいました。

 新居浜も高速道路の開通で随分近くなりました。わが家を8時ころに出ましたが会場となっているユアーズへは9時半に到着、僅か1時間余りの道中です。お昼はすっかり顔見知りとなっている東予地方の生協理事さんたちと楽しいお喋りをしながら昼食をご馳走になりました。毎月一回の理事会での出会いだけでそんなに言葉を交わすこともないのに、まるで親戚みたいな会話を交わすのですから世の中は何と不思議なことでしょう。

 今日は夕方6時から私が会長を務める松山工業高校PTAのOB会「まさご会」がホテルサンルートで開かれるので、夕方まであちらこちらに立ち寄って所用を済ませましたが、たまたま立ち寄った息子嫁の実家が経営する喫茶店で、偶然にもわが妻と出会いました。妻も買い物の途中での立ち寄りで、そこへ息子嫁も帰ってきて間近に迫った息子嫁のお産の話に花を咲かせました。

 「ああ今日も充実した一日でした」と思える程楽しい一日でした。帰ってみると暮しの講座に参加した数人の方々から嬉しいメールも入っていて、早速返事を書いてパソコンの蓋と一日の扉をを閉じたのです。

  「カメラ持ち 講座の様子 撮りたいと 思ったものの 撮るの忘れて」

  「待ち合わせ しないはずだに 鉢合わせ 妻と俺との 相性ばっちり」

  「メモも見ず 二時間話す 糞度胸 眠る人なし 少し安心」

  「台風が 近づく気配 沖合いに 停泊している 船が教える」

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○婦人教育指導者地区別研修会

 今日は今治市で開かれた婦人教育指導者地区別研修会に招かれました。はっきりしない梅雨空を気にしながら山の中を縫うように走る国道317号線を走りました。松山市の郊外にある温泉地奥道後を過ぎると石手川ダムがあります。10日程前までは貯水率が前年を下回りダムの湖底まで見えていたのに自然の力は偉いもので、ここ数日間の雨によって満水に近いほど水量が戻っていて、まるで別のダムではと思うような変貌ぶりでした。しかし川から流れ込む水のせいか湖面はかなりのゴミも浮遊していて、これが松山市民の飲料水になるのかと思うと少々不安になって、簡易水道といいながら私たちの町の水の方がよっぽど綺麗だと思いました。多分この水は塩素消毒されて各家庭に配水されるのでしょうが、塩素は体内に入っても大丈夫だと分っていても、やはり気になるところです。

 国道の入り口が石手川ダムなら出口は玉川ダムです。このダムは今治地方の水源になっていますが、南予や中予の降雨量に比べ東予地方の今年の雨量は少なかったようですが、それでもここに来て雨量が増えて、このダムも湖面が随分広がって、今年の夏はどうやら持つのかなあと思ったりもしました。

 女性の研修会に行くのにはやはり台所問題や環境問題は意識の隅に置かねばならず、そんな気持ちもあってダムの水をを気にしながらの会場入りとなりました。会場には沢山の女性が集まって分科会の最中でした。賑やかなそれでいて熱心な女性の喋り声が今治市中央公民館の会場にこだまして、まるで蜂の巣をつついたような賑やかさでした。早速心のこもったお茶や昼食弁当をいただきました。午後は地元女性たちの踊りがアトラクションとして披露され、うっとりと見とれてしまいました。さすが女性パワーは違いますねえー。

 私の話は「女性が輝くまちが輝く」というタイトルでしたが、会場には先日お邪魔した四国中央市連合婦人会の面々の顔もちらほら、しかもその講演内容が地元新聞に大きく取り上げられていたことを講演直前になって思い出し、急遽内容を変えるハプニングとなりました。それでも1時間10分余りの持ち時間を余すことなく使いきり役目を果たすことができました。

 私が話す相手はゆりかごから墓場までと言われるように子どもから高齢者まで様々ですが、やはり今日の聴衆のような年代が一番話しやすく、打てば響く反応は会場を揺るがすほどの大迫力でしたし、確かな反応を感じました。

 近頃婦人会が危ないと色々な場所で聞きますが、どうしてどうして先日の四国中央市といい、今日の東予地区といい捨てたものではないようです。東温市から出ている県連の山本会長さんとお話をしたのですが、中予や南予は少し湿りがちだといったら、先日の中予研修会も300人も集まったそうで失礼な話をしてしまいました。どうやら婦人会の斜陽化は双海町の問題だったようです。失礼致しました。

  「このような 汚れたダムの 水を飲む 消毒するから 余計心配」

  「一人だと しとやか女性 大人数 笑い転げて 入れ歯ガクガク」

  「まちづくり 女性主役の 時代です 男は家で 留守番程度」

  「共感を 受ける話を する私 賞味期限の 過ぎた年代」 

 

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shin-1さんの日記

○違う世界に生きる従兄弟

 私の父親は12人兄弟、母親は6人兄弟です。したがって私の従兄弟は両手の指どころか足の指を加えても数え切れないほど従兄弟がいます。父親方の叔父叔母は4人が亡くなっていますが8人はまだ健在です。母親方は残念ながら6人とも冥土へ旅立ちました。しかし私が既に62歳、父親が90歳ですから、押して計るべく叔父も叔母もそれぞれ高齢化しつつあるようで、会う度に体力と気力の減退を感じるのです。

 昨日5歳年上の母方従兄弟に会いました。彼は小さな製材業を営んでいましたが、65歳を機に廃業し今は息子や娘も結婚独立したため悠々自適の生活をしているようです。特に何年か前に母親を亡くしてからはささやかながらセカンドハウスを買い求め、暇さえあれば自宅とセカンドハウスを往復してスローライフを満喫しているのです。日ごろは音信も途絶えていてお目出度お悔やみや法事くらいしか出会わない彼ら夫婦の暮らしぶりを聞くと、私とはまったく別の世界に生きているようなので驚きました。

 若い頃からどちらかというと人との付き合いが苦手な彼にとって一番の相手は奥さんであり、二番も三番も余りなさそうなのです。私のように不特定多数の人に囲まれて暮らしている人間とは月とスッポンくらい違うのです。ですから会って話しても新聞とテレビからの話題には事欠かない広い視野を持っているように見えますが、対人、対地の話題となると近所付き合いの向こう三軒両隣くらいでまったく疎いのです。朝起きてから寝るまで夫婦の人間関係と近所に住む長男家族との接触しかないようにも思え少し哀れに感じました。前回会った時、「金も暇も体力も車あるのだからもっと動け」と年下なのに偉そうな言葉を浴びせましたら、その言葉が堪えたのか今は旅行はするし研修会などにも参加し見違えるようにはなりましたが、それでもまるでジュウシマツやおしどりのようにつがいの人生を過ごしているようです。

 従兄弟夫婦はパソコンもやらず携帯電話も持っていません。こんな情報化社会でシンプルといえばシンプルなのでお金もかからないのでしょうが、パソコン大嫌いな私でさえパソコンをいじる時代に、「せめて携帯電話を持ちパソコンくらいしたらどう」と誘うも、その誘いには「加齢を言い訳に乗ってこないようです。

 もし私から人間とパソコンを取ったら果たして何が残るのだろうと、従兄弟の暮しと私の暮しを比較して見るのです。私の生きがいは人に会うこと、私の暮しはパソコンで情報のやり取りをしブログを書いて日々の暮しを組み立てることです。人とパソコンを道具と考えるならば私は従兄弟にはない生きがいを持っていることになります。

 でもよくよく考えると私の身の回りに暮らしている私年代の人たちだって、従兄弟と同じような暮らしをしているのですから、私が違う世界にいるだけなのかも知れません。今に生きる人、過去を引きずって生きる人、未来志向で生きる人など生き方は人それぞれですが、私はもう少しの間未来志向で生きてゆきたいと生きる世界が違う従兄弟の暮らしぶりをみて思いました。

  「従兄弟でも 違う世界を 生きる人 どちらがいいか 比較も出来ず」

  「パソコンに 毎日向かう わが時間 従兄弟は何を しているのやら」

  「妻といる 時間少ない ふと思う 従兄弟見習い も少し会話を」

  「パソコンも 携帯持たず 一生を 生きる暮しが 本当なのかも」 

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shin-1さんの日記

○知らない伊予市を知る

 生まれたのは下灘村ですが、双海町という町に暮らして50年余りが経ちました。その間双海町の役場に35年間も勤めていて、双海町のことならたいがいなことは知っていると自負していました。ところが平成17年4月1日、1市2町の合併で双海町という名前こそ残ったものの双海町という自治体がなくなって、新しい伊予市となりました。その伊予市のことはまるでチンプンカンであることが、今日初めて分りました。

 今日は私が非常勤講師として教壇に立っている愛媛大学法文学部総合政策学科の学生24名を連れてフィールドワークに出かけました。出かけたといっても私の街へ来たのですから、ホームグラウンド訪問なのです。今日の研修を計画するに当たって、双海町役場時代に何かと一緒に仕事をしてきた伊予市産業経済課の米湊主幹にお願いして受け入れ窓口になってもらいました。米湊さんには研修計画の打ち合わせや会場、弁当の手配、門田文化協会長さんにお願いした街中研修のプログラムなどなど、門田さんとともに大変なお世話をかけてしまいました。

 私は米湊さんとの事前打ち合わせや準備の都合で松山駅からの引率はしなくて、班長さんにお願いしてJRに乗って伊予駅まで来てもらいました。列車到着時間の9時10分に駅まで迎えに行き、会場となる中央公民館までぶらり街を歩きました。

 早く着いたため研修時間を30分繰り上げ、企画財政課の鶴岡主幹の話を1時間、米湊主幹の話を30分聞きました。鶴岡主幹は市の総合計画に沿って話されましたが、合併の成果と問題点を分り易く整理され、また今後10年間の目指す方向を説明されました。米湊主幹は担当している観光を主体に私見を交えながら話されました。その後約1時間一人1問の質問に答える座談会をして午前中の研修を終わりました。

 まちづくりの基本理念が①地域の自立と活性化、②多様な地域の共生、③地域住民と行政の協働、④行財政計画であったり、地域の課題が①少子化対策、②産業振興、③中心市街地活性化、④高齢化対策、⑤住民自治の推進、⑥自然環境保全、⑦人口減少対策、⑧都市基盤整備などの問題点を抱えていたりすることは、前回お邪魔した今治市と大差がなくあらためてこれらの問題が日本的課題であることを思いました。

 しかし問題はここからどう一歩を踏み出し、どんな理想の町を作り上げようとしているのかが問われているような気がしました。学生の中にはそこら辺の特徴あるまちづくりへの取組についての質問が多かったようにも思います。私は伊予市の一市民ですが、総合計画樹立までの道程やその後の行政、裏づけとなる財政や人口など殆ど知らないでいることを恥じらいを持って聞き入りました。住民の参画と協働は謳い文句としての響きは良いのですが、さてこのままではスローガン倒れになりそうな雲行きも感じました。要は行政と住民の歩み寄りなしにはいい町は出来ないという事を肝に銘じていいまちづくりをしたいものです。

(岡部仁左衛門の銅像)
(栄養寺の山門)
(貴重な町家区割り図面)
(宮内邸)
(愛媛新聞エリアサービス・宮内邸)

 午後は、門田さんの案内で市内見学に出ました。町家を出発し、岡部仁左衛門さんの銅像、山崎屋さんの古い商家、栄養寺の本堂での町家の区割り図、、旅館つたやの見学、商家宮内邸の見学、愛媛新聞エリアサービス宮内邸の街角博物館などを、説明を受けながら歩きました。同じ市内といっても知らないし見たこともない場所が幾つかあって、私もいい勉強をさせてもらいました。学生にとっては古風な町家めぐりは今まで体験したこともないプログラムだけに目をパチクリさせながらの見学でしたが、時代をタイムスリップしたような歴史の一つ一つがかけがえのないものであることを感じ取ったに違いありません。殆どの学生が伊予市という街は始めての訪問だそうで、再訪を期待したいと思います。

  「伊予市とは 自分の住んでる 街なのに 知らないことが 余りに多くて」

  「昨日まで あの人と同じ 立場にて 声高話す 自分しみじみ」

  「もう一度 基礎から学ぶ 気概持ち 前向き生きる 一人の市民」

  「知恵者にて 町を案内 する友は 頭の中に 街の全てを」

 

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shin-1さんの日記

○新聞スクラップ

 私の書斎の書棚の上には無造作に段ボール箱に入れられた新聞スクラップが沢山あります。昔はその都度フォルダーに入れて整理をしていたのですが、その整理も追いつかずこの醜態です。私がまちづくりに関わるまでは「双海町」という文字を新聞やテレビで見ることは殆どありませんでした。多分年に二、三度出ればいい方だったように思います。まちづくりが活発になったのは昭和も終りに近づいた昭和61年頃からですから約20年間、時には小さく、時には大きく「双海町」という文字が新聞紙上を賑やかにしました。自分でいうのも何ですが、その記事の殆どの出所は私の所だったのです。

 ところが伊予市と合併した2年前から「双海町」という名前はだんだんと消えて今は狸が石を投げる程度しかお目にかかれないし、その伊予市でさえ他の19市町村に比べればはるかに少ないマスコミ掲載量なのです。最近は合併した伊予市でも少なからずほころびが目立ち、マイナス的記事が新聞紙上を賑わせているのも気になるところです。

 新聞記事は人の動きや社会の動きから生まれるもので、何にもしなければ新聞記事にはなりにくいものです。かつての双海町のようなどこにでもありふれた特長のない町は、新聞もテレビも相手にしませんでした。多分ニュース性がないからでした。私はまちづくりにとってこれは致命傷だと考え、むしろ意識的にマスコミを使ってまちづくりを仕掛けようと考えました。次々に打ち出す政策や活動の様子をアイデアでカバーしました。よく言われる「犬が人間に噛み付いたらニュースにならないが、人間が犬に噛み付いたらニュースになる」の如く、一工夫も二工夫も知恵を出しました。マスコミが注目するニュースをどんどん出したのです。結果的には県内では注目を集める町になりました。

 今ではすっかり有名になっている夕日だって、マスコミの力がなかったらこんなに成長はしなかっただろうと思うのです。宣伝費のないわが町が巧みな情報戦略で公共情報媒体を使ってやったまちづくりの数々はこれからもまちづくりのヒントとして見習って欲しいと思うのですが、残念ながらその素養を持った役所の職員にはお目にかかれないのが実態です。マスコミに媚を売るようなことはしなくてもいいのですが、せめて地域の人が頑張る姿を小まめに新聞に載せてその気にさせることぐらいはやって欲しいものです。

 先日マスコミ関係者と最近のまちづくりや役所の実態についてお話をしました。役所は昔から臭いものには蓋をする習慣があります。マスコミはその臭いものを蓋を取って確認したがるのです。蓋を取って匂いが出れば市民の知る権利や正義として記事にします。役所はその蓋に鍵を掛けて匂いの出ないよう統制をする、マスコミはその鍵を更に開けようとして攻防が始まり、結局は後手に回った役所は事の重大さに気がつきお詫びや説明責任を果たさなければならない醜態となるのです。マスコミを敵にするか見方にするかは、こちらのやり方だと思います。

 先日佐賀県へ講演に出かけました。その模様が佐賀の新聞2社で記事となり、関係者から送られてきました。見落とすような小さな記事ですが、この情報発信こそ大切な仕事なのだということを、役所の人間はもっと認識すべきではないかと思うのです。私が毎日書くブログも、新聞に出た記事も読まない人には何の情報にもなりません。毎月発行し広報委員さんを通じて送られてくる広報も読まない人には紙ごみです。どうしたら読んでくれるか考えなければその次には進めないものです。読者を登場させるという関心の引き方もたまには必要だと思うのです。

  「近頃は 新聞テレビ 出なくなる 双海という名 陰に隠れて」

  「スクラップ 箱に入れられ 書棚上 一度整理を 思いつつウーン」

  「三面に 出る記事役所 嫌がって 蓋をしたがる あいも変わらず」

  「佐賀の地で 話した話 新聞に 友の送りし ファックスを読む」

 

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shin-1さんの日記

○歌は世につれ世は歌につれ

 私が最初に歌を聞いたのは多分母親の背中で聞いた子守唄ではないかと思われます。哀愁を帯びた子守唄を聞く度に亡き母を思い出したり心がうずくのはそのせいだと思いつつ、先日妻が泣き止まぬ孫をあやしながら歌う子守唄もまた同じような節回しだとしみじみ思いました。私にとっても妻にとっても子守唄はまさに体感音楽ではないかと思うのです。

 何年か前、私はNHKラジオ深夜便「心の時代」というラジオ番組に二夜連続で出ました。夕日を地域資源にしてまちづくりをした顛末を大いに語りました。その時ディレクターの求めに応じて得意でもない下手糞なハーモニカで「夕焼けこやけ」と「赤トンボ」という曲を二曲吹きました。放送されるやいなや全国各地から400通を超えるハガキや電話をいただき、その反響の大きさに驚きましたし、熱望する人が多く再放送されましたが、その時も同じように多くのお便りや電話をいただきました。その中に東京に住む目の不自由な人からの電話があったのです。  

 要約すると「私は生まれた時から目が不自由で、あなたの話の予告を聞いた時、『ああ夕日の話か、目の見えない私には余り関係ない話だ』と思っていました。ところが話を聞いてみると面白く、心が開けた感じがしました。特にラジオを通して流れてくる『赤トンボや夕焼けこやけ』の歌は私の心に突き刺さるようでした。多分これは母親の背中で聞いた遠い幼子の頃の歌に違いないと母親を思い出し、目の不自由な私が散々迷惑をかけた母親への追憶で涙が止らず、眠れない朝を迎えました。これは多分私の身体に組み込まれた体感音楽ではないかと思われるのです」と結ばれ、早速目の不自由な仲間に聞かせたいので、二日分のテープをダビングして送ってくれるよう依頼されました。私はNHKにお願いしてテープを二本送ってもらい、そのテープを馴れぬデッキでダビングして送ったのです。数日後その女性からお礼の電話がかかってきました。「私の友人も目が見えないのですが、『友人4人と双海町の夕日を見に行こう』ということになりました。『目が不自由、しかも不案内なので松山空港まで迎えに来て欲しい』と言うのです。当日私は空港まで迎えに行きました。行く道すがら私は「この人たちは目が不自由なのに何で夕日を見に来るのだろう」と不思議に思ったものです。でもその人たちをシーサイド公園の童謡の小路を案内しながら請われるままハーモニカを吹いてあげたのですが、彼女たちは目にいっぱい涙を溜めて泣きました。この光景は今でも忘れられない思い出なのです。

 通知表音楽2のような私がハーモニカを吹けるなんて今でも不思議です。でも今は妻の買ってくれた2本のハーモニカで160曲以上吹けるのですから驚き桃の木山椒の木です。私は残念ながら楽譜が殆ど読めません。でも私の体感音楽は口にしたハーモニカが音を奏でてくれるのですからこれまた不思議なのです。同級会で吹いてくれとせがまれ吹いた井沢八郎の「ああ上野駅」も、高知の人から吹いてくれとせがまれて吹いたペギー葉山の「南国土佐を後にして」も、もう古い歌として人々の記憶から忘れ去られた歌なのに、何故か参加者たちは心の琴線に触れてしんみり聞いてくれました。

 「青い山脈」や「高校三年生」「幼馴染」「ぎんぎんぎらぎら」「紅葉」「みかんの花咲く丘」など、童謡から流行歌まで幅広いジャンルで思いつくままにハーモニカを吹いていますが、その歌を吹く度に遠い日の思い出が鮮やかに蘇って来るのです。

  「思いつく ままに吹きたる ハーモニカ 心の扉 開き思い出」

  「同級会 請われるままに 上野駅 思わずみんな 大きな声で」

  「孫あやす 妻の歌った 子守唄 亡き母思い しんみり聞きて」

  「カーラジオ 流れる歌の 懐かしく 思わず声を 出して歌いつ」 

 

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shin-1さんの日記

○もやもやの一日

 昨日は午前中の西条公民館への対応と午後1時からマスコミ関係の取材が入り、忙しい一日でした。でも西条公民館もマスコミの取材も時間通りにに進み、少し時間が取れたと思っていたら妻からの依頼で伊予市の銀行に行く事になりました。双海町にも銀行はあるのですが、役場に勤務していた折支店長さんとふとしたことからじっ魂になったこともあって、ボーナス時にささやかながら貯金をしていたのです。その支店長さんも既に何処かへ転勤になって音信も途絶え、加えて満期になった通知を受けていたので、妻の車が壊れたので思い切って引き出し、そのお金を車代に一部にすることにしました。

 銀行へ着いて所定の用紙に記入し預金中朝の解約を申し出ました。ところがこの預金通帳に登録している印鑑の印影が違う印だと判明しました。私は早速自分を証明する免許証を提示し本人と確認してもらいましたが、銀行窓口の女性が言うのには免許証と保険証の二重チェックがないと改印届けは受理できないというのです。私はここへ来るのに30分もかかる遠隔地で、本人であることは免許証と面談で分るのではと食い下がりましたが、結局は「規則ですので」と断られました。家に電話すると次男が今日は非番の日とかで在宅、妻に電話して保険証の在り処を聞いて外出途中に寄ってもらうよう頼みました。次男は快く引き受けてくれましたが、その時間が午後二時半近くで、午後三時の銀行閉店までに間に合うかどうかやきもきしながら待ちました。

 車の中で待つのも暑いし、そこら辺を散歩でもとブラブラ歩きをしていたら、何人かの顔見知りの方に出会い、挙句の果ては商店街の空き店舗を利用した休憩所の中から「お茶でもぞうぞ」と誘われました。休憩所に中には色々な手づくり作品が展示していてちょっとしたギャラリー風になっており、顔見知りの方が三人いて、お茶とお菓子で歓待してくれました。四方山話に花を咲かせた後銀行の入り口で次男と会った時刻は閉店間際の5分前でした。早速手続きを取りましたが、ゼロ金利の続く現代ですがなかなかどうして、小額の定期預金ながら金利

がついて少し得したような気分になりました。

 それにしても銀行のチェックは厳しいものです。本人だからと面談と免許証の二重テックを受けながら、保険証で三重チェックしなければ容易には改印は出来なかったのです。次男のお陰で事なきを得ましたが、厳し過ぎるし煩わしいと思いつつも、銀行の威厳を感じた一日でした。

 私にとって金融機関は余り縁のない場所です。金融広報委員会にアドバイザーをしているにもかかわらず、カードでお金の出し入れをしたことがないという世にも珍しい時代遅れな人間なのです。便利さと危険が同居しているカード時代にあってこんな反骨な人間も一人ぐらいいてもいいのではと思ったりしながら自分を納得させているのです。

 パソコンで買い物も出来ないしやったことはありません。ましてやカードで買い物もしたことはないのです。「ご不便では」といわれそうですが、「現金」を旨として生きてきましたので、別に不便も感じていません。流行遅れな人間である事を自覚しながら、これからも生きてゆきたいと思っています。

  「本人だ 幾ら言っても 通じない 銀行偉い 俺は馬鹿です」

  「融通を つけろと言うのは 無理話 分っていても 家は遠いし」

  「ゼロ金利 言われながらも 利息つく 預けぬ金は 増えぬものです」

  「モヤモヤの 一日さすが 疲れきり 眠気もよおす 相撲観戦」

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shin-1さんの日記

○西条からのお客様

 今日は雨が降ったりやんだりと梅雨特有の天気で、視察研修の受入日なのに濃霧まで出て、やきもき、もやもやの一日となりました。最近はシーサイド公園見学と私の話をセットにした視察依頼に加え、人間牧場の見学までも加わって大忙しの日々です。視察を希望する皆さんはこちらの都合や人間牧場がどんな場所にあるか余り考えず簡単に視察メニューに加えられますが、人間牧場への案内はそれ相当の覚悟がないとこれないのです。

安直な人は私のそんな電話やメールの説明に、「若松さんが都合が悪いのであれば勝手に自分たちだけで伺いますので場所を説明してください」と開き直ります。私が「口では説明できません」というと、「じゃあ地図を送って下さい」と食い下がられます。「詳細な地図がないので地図でも説明が出来ません。たとえ地図があっても山道が縦横無尽にあって迷われますので止めた方が賢明です」などと付け加え、やっと諦めるという有様なのです。

 今日も西条からお客様がやって来ました。事前に電話とメールのやり取りでそのことを伝えましたが、どうしてもということでマイクロバスに乗ってやってこられました。マイクロバスの20人乗りだと、私が日ごろ通る近道はまず駄目で、県道を迂回しなければなりません。さらに市道を走って人間牧場の近くまで来れるものの、そこからは農道と私道を歩かなければならないのです。特に今日のような雨の日だと坂道を歩くのはこちらも心配で、「何で私たちが歩かなければ・・・」とか、「もっと道を広げたら良いのに・・・・」とかいう言葉が返ってきそうで、こちらのモヤモヤが募るのです。こちらが頼んで来てもらうのではないのですが中にはそんな人もいるようです。

 でも今日の方々は青少年の指導者らしく、そんな考えや行動は微塵もなく整然と、それでいて終始熱心に付き合っていただきました。それでも雨模様や下草が濡れているためツリーハウスへは案内できませんでした。私が魚梁瀬杉の切り株高座に上がって少しお話をした後質問形式でやり取りをしました。みんな熱心でさすがにいい指導者だと感じました。残念ながら濃霧のため視界が利かず人間牧場自慢の眺望は見えず終いで水平線の家を後にしました。

 7月5日には旧友寺戸一朗さん率いる島根県益田市真砂公民館の面々が視察研修に来られましたが、私は残念ながら佐賀県へ出張中で、漁協女性部の方々との交流をして人間牧場見学のリクエストに応えることが出来ませんでした。寺戸さんからはお礼の電話が入りましたが、済まない気持ちでいっぱいです。

 人間牧場も相変わらず草の成長は旺盛で、一昨日やって来た明浜の原田さんからは仲間を集めて草刈り十字軍の手助けをしたいと申し出がありました。その日はあいにく予定が入っているようなので有り難くも断らざるを得ないようです。

 まあ人間牧場もこうして人々の注目を集め、私の目標である「心の解き放ち」を求めてやって来る人たちにいささかなりともお役に立てれば幸いです。

 昨日人間牧場のある地元の人に会いました。「ご苦労様です。ほんの少しですが食べてください」と出始めで高価なハウスみかんを袋にいっぱいいただきました。また自分で絞ったというハウスみかんジュースまで・・・・。

ありがたいことです。

  「牧場に 来る人あるも 五里霧中 見えぬ視界は 心に似たり」

  「雨の中 坂道歩く 人たちに 雑談しつつ 私マジック」

  「初鳴きに 気がつき辺り 見渡しぬ いつの間にやら 夏風そよぐ」

  「人もなし ただ黙々と 時刻む 山家の時計 止りもせずに」


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