shin-1さんの日記

○人間牧場のもう一つの魅力

 昨日の夕方から深夜にかけてのどしゃ降りが止んだ今日もそうですが、先日時ならぬ台風4号の襲来の明くる日もそうでした。海と空の色が普通の時と全然違うのです。まず今日の海は午後になると20キロ西の肱川の水潮が満ち潮に乗ってどんどん東に向かって勢力を伸ばす様子が人間牧場から手に取るように見えるのです。海が青と黄青の二つに色分けされ混ざることなく潮目を作ったままで移動するのです。塩分の濃度が醸すこの自然現象は大雨の後でないと見えないのです。あいにくカメラを持っていなかったのでその全貌は残念ながら紹介することはできませんが、必見に値する人間牧像から観察できるもう一つの魅力です。

 続いて7月6日にやって来た台風4号の去った明くる日、高知県春野町での研修会が中止になったため、人間牧場へ見回りに行って吹き返しの北西の強風が吹く中で、これまた面白い海と空の色を発見したのです。風は例え強風が吹いていてもその様子を写真に収めるのは中々難しいものです。雲の流れが速くても、風の吹き方が強くても、また風が木々を揺らす音がなっても、それらは止った状態や無音でしか写らないのです。それでも私はあえて台風一過の吹き返しの様子を写真に収めるべく挑戦してみました。残念ながらその結果は散々でした。唯一の写真が下の一枚です。

 これは人間牧場の開拓を始めた時無数にあった茅の株立ちなのですが、これ以外は全て鍬で抜根して焼却処分してしまいましたが、季節の演出のために残しておいたのです。冬は枯れ草風に、夏は茂る姿が涼しげに、そして秋はススキとして季節感を味あわせてくれるのです。この日は突風が茅の葉っぱをゆらしていました。周りの草を刈った後だけに余計茅の風に揺れる様が風の強さを感じさせてくれました。

 一方空に目をやると風邪の強さに翻弄されながら雲がちぎれて飛び交い、山にはその雲が集まって白い集団を形成するのです。時折雲がちぎれて青い夏空が顔を出すのも味のあるコントラストでした。

 港の船だまりには台風以来漁を休んでいる漁船がお行儀よく係留されていました。杉の梢を渡る風はピューピューと音を立てていました。一方沖合いは雲が低く立ちこめ空を映す鏡とでもいえるように鉛色の空が鉛色の海となって、水平線が二つあるようで海と空の区別がつかないほどになっていました。

 一番凄い光景はちぎれて流れる雲が海面に黒く写って海面を西から東へ走り去る様子でした。その雲が海面に写った様子を同行した孫の朋樹は「おじいちゃん海の中を黒い怪獣が走りよる」と表現してくれました。そう、まさに怪獣です。雨水で濁った黄青の海面ゆえに余計ドラマチックな雰囲気にさせてくれるのです。

 人間牧場の魅力は180度開ける瀬戸内海を一望できることですが、それにも増して私がコスモス(宇宙)牧場と名前を付けた裏付けがこの海と空の変化であることも付け加えなければなりません。

 海も空も夕日も島も、水平線も魅力なのですが、もう一つ闇夜に光る北極星や北斗七星、それに夏の天の川などまだ味わっていない魅力が沢山あって、思い出すだけでもワクワク・ドキドキするのです。私は人間牧場を持っていて幸せです。

  「水潮と 塩水お互い せめぎ合い 上げ潮乗って 次第に東」

  「海走る 黒い塊 怪獣と 孫が命名 その気で見れば」

  「茅揺する 風を写真に はいパチリ 俺の腕では これが限界」

  「いつまでも 見ていて飽きぬ 海と空 台風残す 土産楽しむ」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○久々の広島

 梅雨明け間近を感じさせるここ2~3日の天気ながら、午後から雨という天気予報を信じて雨が降らなければ邪魔になりそうな雨傘を持って広島への講演に出かけました。長年使っている傘を先日訪ねた高知県馬路村の木下さんの車に忘れて帰り、「今時消耗品の傘ぐらいで」と木下さんに言われそうなので「送り返してください」とも言えず、「あんたも歳だ」と言う妻のことばを甘んじて受け、別の傘を用意してもらいました。雨傘に木になるカバンを提げた姿は山高帽子でも被るとまるでフーテンの寅さんのようですが、講演なのでそこまで砕けることもできず、私にすれば正装に近い背広にネクタイという出で立ちでの外出です。

 海の町に生まれ、海の学校を卒業し、海の町のまちづくりをしてきた私にとって海は安らぎのある場所で、特に港の風景を見ていると何処となく安らぐのです。朝の松山観光港は平日のため早旅のお客さんの数もまばらでしたが、広島へ向かう高速船、大分へ向かう大型フェリー、広島へ向かうのんびり小型フェリーなどが慌しく発着し、見ていると沖に浮かぶ島々とともにまさに絵になる光景なのです。

(7時・8時・9時と一時間おきに出発する広島行きの高速船、広島発は7時30分・8時30分・9時30分と分り易すく覚え易い時刻表です)
(大分へ向かう朝便ダイヤモンドフェリーの白い船体、黒い煙をはいてわが町の沖合いの瀬戸内海を走ります)
(久しぶりに瀬戸内海のクルージングを楽しもうと私は行きの便はこのフェリーを選びました。乗客の中には知人友人もいて話に花が咲きましたが、お陰で本を読んだりハガキを書いたりののんびり旅を片道だけでも楽しむことが出来ました。

 天気予報はよく当たるもので、音戸の瀬戸を通過する頃には早くも雨が降り始め、広島宇品港に着いた頃にはかなり激しい雨足になっていましたが、船着場からは先方さんの指示通りタクシーに乗りこみ、雨で混雑する広島の街中を運転手さんと雑談しながら会場入りしました。

 今日の研修会は広島県自治総合研修センターの主催事業で地域づくり支援研修と銘打っての研修会です。このセンターへは毎年お邪魔していますが、この研修会で知り合った方々との交流も生まれ中々味のあるプログラムなのです。私がノンストップで2時間話し、その後1時間20分余り質問形式で話すのですが、日ごろ話せにないようなことまで話してしまいました。でも午後の時間にもかかわらず3時間半の長丁場ながら寝る人もなく緊張感を持って対峙することが出来ました。

 


 ブログに載せるからと了解を得て研修会の最後のリラックスした雰囲気の写真を撮らせていただきました。25人の顔はそれぞれ輝いて見えました。

 帰りは高速船に乗って帰りましたが、船中や船を下りてからもどしゃ降りの雨に加え雷と稲光がすごく、お陰で船着場から駐車場まで、持参した傘も用をなさないほどの荒れようで、ズボンも靴下も水浸しとなってしまいました。せめて研修の成果を水に流さないようにだけはしたいものだと思いました。

 追伸

 広島県の職員である知人の荒谷さんがこの四月からセンターに赴任していて、久しぶりに懐かしくお話しました。今日の研修会は所長さん以下センターの職員さんも同席して熱心にお話を聞いていただきました。

  「傘持てど 用もなさない 程の雨 折角用意 したのに無念」

  「妻用意 別の傘持ち 出かけたが 無くした傘が 忘れられずに」

  「失敗を 聞きたい質疑 多くあり そこに隠れた ヒント幾つも」

  「熱帯びて 早口喋る 二時間に 聞き手応える 雨の研修」 
?

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○あなたは何語で夢を見ますか

 私たちは自分の思いを言葉や文字に表現して生きています。それ以外にも心と頭の相関関係で色々なことを考えたり思ったりするのですが、それらは全て日本語という言語で表現するのです。

 昨日他愛のない夢を見ました。私が見た夢の内容はかつてアメリカへ行った折、外国の友人となったアメリカ人との対話でした。ジョンという日系三世とともに青年の船に同乗したのはもう30年も前の出来事なのですが、以外や以外私もサンフランシスコの友人ジョンも、まるで若く当時のままの姿なのです。夢の中では私が日本語で喋ると彼もたどたどしい日本語で返してくれました。英語の話せない私が見た夢は勿論日本語なのですが、アメリカ人は何語で夢を見るのだろうかと、ふと思いました。

 実はこの夢には伏線があって、青年の船に乗船したアメリカ人やメキシコ人、それに私たち日本人が、アメリカへ向かって走る日本丸の船内で「あなたは何語で夢を見ますか」というシンポジウムを開いていたのです。これももう30数年前の出来事なので全てを覚えてはいませんが、議論は白熱し殆どの人が自国語で夢を見ると答えました。しかし渉外という語学サービスのために乗船した日本人の仲間の中には時々英語の夢を見るという人もいました。話はとんでもない方向に進んで、「じゃあジョン万次郎は何語で夢を見たのか」という話に花が咲きました。ジョン万次郎は土佐清水出身の漁師でした。漁に出て難破し南鳥島まで流され、アメリカの捕鯨船に助けられ船長の手厚い知遇によって晩年は明治政府の役人となった歴史上の人物です。ジョン万次郎のことを知っている人は「望郷の念にかられ日本語で夢を見た」という人もいれば、「アメリカの暮しが長かったので英語の夢を見た」という人もいました。また「日本語と英語を夢の中でも使い分けたに違いない」とも意見が出ました。本人に効いたことがないので定かではありませんが、全て正しいのではないかと思うのです。

 先日ある外出身のタレントが「私は日本に憧れ日本が大好きで、今も日本に住んでいる。日本の国籍も取得して一生涯日本に住みたいと思う。私は法律上は日本人になりきっているのですが、残念ながらいくら日本人になろうと努力しても、未だに夢は英語で見るのです。私は永久に真の日本人になれないかも知れない。」と少し寂しく語っていました。そんなものなのかなあと思いつつ、その外国人の話を興味深く聞かせてもらいました。何気ないことなのですが、夢の出所を聞いただけでも国を愛する気持ちに微妙な影を落としていることに気がつくのです。

 ふとわが町からオーストリア・ウイーンの日本人学校に、この春赴任していった中尾治司先生の事を思い出しました。先生は多分確実にウイーンで見る夢は日本語だろうなあと思いつつ、ひょっとしたら帰る頃にはドイツ語の夢を見れるまで進化するのではないかと思ったりしました。早速インターネットでこの議論もしてみたいと思っていますが、一緒に旅立った息子さんや娘さんはどのような夢を見るのか今から楽しみです。

  「俺はなあ 見る夢全て 日本語だ 字幕スーパー なくても分る」

  「三十年 前の出来事 夢に出る 夢の中では 俺は若者」

  「ジョン君に 会ってみたいな 今頃は 何処におわすか 便りも途絶え」

  「日本語は 六十二年も 使ってる だから当然 見る夢全て」



 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○大学フィールドワークで西予市へ

(卯之町駅前の看板・愛媛県内で久万高原町に次ぐ広さの西予市の様子が一目で分る)
(卯之町駅の涼しげな風鈴)

 今治市、伊予市と訪問した大学のフィールドワークの授業も、今日は前期最後の訪問地である西予市へ行きました。学生は松山発8時の特急に乗って卯之町を目指しましたが、私は準備の都合もあるので車で一足早く西予市役所へ到着しました。梅雨の中休みとでもいうべき蒸し暑い天気でしたが、顔なじみの井上さんや三好さん、それに三田地さんや上口さん、松本さんが献身的な対応をしてくれて、学生も至れる尽くせりのいい研修をさせてもらいました。午前中の1時間余りの井上さんの説明は私には出来ない、かなり密度の濃い資料を用意してもらっていて、学生にはどう聞こえたか分りませんが、さすが気配りの井上さんです。質問や議論はどちらかというと周囲の小さな市町村を吸収したような合併をした街で、いずれ集中管理に移行するだろうという雰囲気が読み取れましたが、西予市はまだ合併した5つの町の地域個性を大事にした並列型のまちづくりが行われており、調査サンプルとしてはいい比較が出来そうです。

(学生の研修風景)
(説明をしていただいた井上さん・上口さん・三好さん)

 午後は古い町並みの残る中町に繰り出し、中町休憩所で昼食を食べました。その後古い開明学校で昔の授業を体験しました。先生役の女性が昔の机や椅子に座って掛け図を使って勉強するのです。その授業の実に上手いこと上手いこと、昔にタイムスリップしたようで驚きました。私は旧宇和町の開明学校やそれぞれの施設は何度もお邪魔しているのですが、学生と学習や調査という目的で訪れるのは初めてですからまた違った発見がありました。

(日本でい一番古いとされる開明学校)
(学生たちも昔の机と椅子に興味深々でした)
(開明学校の教壇立つ現代の女子先生)

 特に開明学校の入口にある民具館の充実ぶりは目を見張るものがありました。残念ながら限られた時間での駆け足見学だったので詳しく見ることは出来ませんでしたが、もう一度ゆっくり訪ねたいと思いました。

最後に訪れた先哲館には馴染みの松本作幸さんが勤めていて、ここも明治維新の時代を生きた人々などを中心にかなり詳しい展示があり興味をそそりました。学生にとっては中町の町並みや特別に入れてもらった商家など、日ごろ目にすることのない地方の文化に触れて感激の面持ちでした。

(二宮敬作がかくまったとされる高野長英の隠れ家)

 私の友人に岡崎さんという街歩きの専門家がいます。彼と時々街中を肩を並べて歩くのですが、彼の歩き方を見ていると実に楽しい歩き方をします。足元のマンホールの蓋を踏みつけて歩く私と違い、彼はマンホールの蓋にも興味を示し、持ってるカメラに収めたり薀蓄を語るのです。また屋根の瓦や窓の形など、街角ホームズという異名どおりちょっとした珍しいものをどんどん見つけるのです。学生も岡崎さんに似ていて、24人も学生がいると「先生これ面白い」と盛んに指を刺します。今日も醸造醤油屋の前で面白いものを見つけました。いらなくなったウンスケや醤油樽を使って稲を植えて道端の足元を飾っているのです。日本最初の女医であるシーボルトの娘「おイネ」さんにちなんでイネを植えたのだろうか?などと話はどんどん盛り上がり、ちょっとのスキに酒蔵に入って「面白いものを見つけた」興奮して話したりしていました。今回は谷口学芸員の案内で街歩きしましたが、いい学びとなりました。ちなみに谷口さんは新採研修で私の話を聞いたことがあるらしく、今回は逆にお話を聞かせてもらうことになりました。

  「梅雨晴れ間 そぞろ歩きの 街中で 足元目上 色々見つけ」

  「どの町へ 行っても顔の 効く俺に 学生不思議 どうしてですか」

  「七十が 二十になった 県内の 町を訪ねる 昔の顔で」

  「特急で 往復高い 研修に 学割利かす 知恵でチャッカリ」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ニュージーランドからのお客様

 「ハローシンチャンゲンキデスカ」、流暢な日本語で握手を求めてきたのはニュージーランドに住むクレイグ・ロームさんです。一昨日の夕方役場の武田さんから電話がかかってきました。「クレイグが日本に来るようなのでお会いしませんか」というのです。私の町の海外派遣事業の目的地がニュージーランドとオーストラリアだった最初から、ツアーの引率をしてもらっていた中田広志さんの友人のクレイグに、現地案内と通訳をしてもらっているのです。特に私は11回目の団長として引率していた時以来の知り合いなので、懐かしさも一入なのです。

 夕方外出先から帰宅し着替えようとしていた矢先に武田さんに連れられたクレイグがわが家にやって来ました。聞くところによるとクレイグは日本中を旅しているそうで、昨夜大分から八幡浜にフェリーで渡りヒッチハイクで来たのだそうです。普通日本人だとヒッチハイクは金のない若者がやる旅の手段だと思われがちですが、彼はいたって平気でフェリーの中で知り合った運転手さんに乗せてきて来てもらったと、むしろ得意げにそのことを話すのです。玄関先で着替えもすまない私はとりあえずパジャマのズボンをはいただけで対応しましたが、昔と変わりない底抜けな明るさがとても印象的で、話はどんどん弾んでインターネットでメールをやり取りしようという話にまで発展したのです。

 今晩から二日間は武田さんのお家でご厄介になるそうですが、妻は日本酒とハウスみかんを手土産に持たせてひとまず帰って行きました。彼は私の人間牧場にも興味があるようだったのですが、残念ながら明くる日は一日中出かけることが決まっていて、武田さんにご案内するよう頼んでおきました。武田さんは息子さんも武田さん自身もクレイグの家に泊めてもらって個人的なお付き合いが深いだけに、わが町の窓口的存在のようです。

 彼から手渡されたパンフレットによると、彼はツアーコンダクターとでもいうべきオリジナルツアーの仕事をしています。日本語が話せるニュージーランド人として日本人には馴染みの人なのです。彼の企画するツアーはアットホームな雰囲気で、特にマウントクックツアーや世界一の花の町クライストチャーチ見学は私たちの旅の思い出でも忘れられないものとなっています。多分ニュージーランドの思い出は彼がいなかったらこれほどいいものにはならなかったと感謝するのです。

 彼は1954年生まれですから現在52歳のはずです。上の写真を見てください。どう見ても私より年上と思うのですがそれは私の欲目なのでしょうか。ちなみに私は彼より10歳も年上なのです。でも肉体の若さはさすがで安上がりな旅を心がけている私など問題にはならないほどの差なのです。彼に会う度に私の心の有りようを考え、より若くより強く、よりはつらつとしたいと意欲を沸かすのです。

 中田さんの紹介でニュージーランドで初めてクレイグに会ってからもう10数年が経ちました。その間彼は度々日本にやって来て風の如く去って行きましたが、何故か妙に気になる外国人なのです。

 私には私に影響を与えるような外国人の友人はそんなにいません。クレイグはそういう意味で私に影響を与える数少ない友人の一人です。今度会うときまでにもう少し進化していたいと今回も思いました。

 外国との交流が盛んになって外国人とで会う回数も増えてきましたが、日本人は残念ながら外国人に比べ心の開きようがまだ十分でないような気がします。彼のようにスコットランドに生まれ、ニュージーランドに永住の地を求めたフロンティア精神を思うと、島国日本の閉鎖性をしみじみ感じるのです。日本人が日本人としての誇りを捨てつつあることも気がかりです。今や日本人は日本を知らない日本人になりつつあることも事実です。もう少し日本を知ってる日本人になりたいものです。

  「クレイグに 久しく会って またショック 進化誓って 握手の別れ」

  「この町へ ヒッチハイクで 来たという 偉いもんだね 見習いたいね」

  「会う度に 地球がだんだん 狭くなる 彼とネットで 交流するか」

  「十年も 前の出来事 思えぬが マウントクックや クライストチャーチ」

 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○夏風邪

 風邪は寒い冬にひいたり冬の病気かと思いきや、何と夏だってひくのです。この2~3日妻の体調が優れません。どうも夏風邪をひいたようで扁桃腺が腫れて物を飲み込むのもしんどいし体がだるいといいます。妻は近所の歯医者さんにパートで勤めており、その歯医者さんが居り屋と別棟の医院を新築しましたが、新築ゆえに冷暖房が完備され、特に夏の冷房がよく効いて寒いくらいだというのです。その体験は私にもあって木造の役場が近代的な鉄筋コンクリートに建て変わった時、冷房が入って、馴れない私は夏風邪をひいてしまったのです。冷房が身体に合わないと思っても集中管理の冷房なので自分だけのわがままをいうことも出来ず、ましてやまちづくりを担当して外の仕事で外出することが多いため、その温度差たるや20度もあって、夜寝れない不眠症にまでなったのです。そんな苦い経験を持っていましたから、教育長時代の2年間は教育長室という個室を与えられたので、余程のことがない限り教育長室北側の大きな窓を一日中いっぱい開けて外気とともに勤めたものでした。お陰で冷房病に悩まされることもなく役所生活を終わりました。

 現代はこのように人間が快適に過ごすために作り出した冷房という空間が思わぬ病気を誘発しているのです。現代は学校さえ大量の化石燃料を使った冷房が入って、子どもたちは生まれた時から冷房のご厄介になっていますが、暑いといっても四国、寒いといっても四国、夏の暑さや冬の寒さもしのげないというほどでもないのですから、もっと体本位や環境本位の事を考えて暮らした方がいいような気もするのですが、今やどの家庭にも冷房が普及して、古風にも冷房なしの暮らしをしているのはわが家くらいなものなのです。

 しかし気をつけなければならないのは、こうした冷房による体への影響は歳をとってから身体に現れるということです。特に女性は冷え性という婦人病を持っているだけに油断はできないのです。わが妻の夏風邪もその現われかも知れにと思うので、もうそろそろ仕事を辞めた方がいいと勧めるのですが、私の退職後の暮しの足しにと頑張っている次第です。

 食べるものとて事欠き栄養失調になった私たちが子どもの頃とは違い、随分物が豊かになりました。世の中が進むに連れて健康になるはずの現代なのに、今はかえって糖尿病などになるのも皮肉な話です。私たちが笑っていたアメリカの糖尿病も今は発展途上国から笑われる日本になっています。わたしたちはもうそろそろ「体本位」「環境本位」に考えをシフトし変えなければ、それこそ取り返しのつかないことになりそうです。親の糖尿病は子どもに遺伝するというショッキングな話や、携帯電話の電磁波が子宮や卵子に悪戯するといった話にも耳を傾けたいものです。

 妻の病気は気をつけろという黄色信号だと思えば、赤でなく青い信号に戻せるかも知れません。

  「風邪病 冬の病気と 思いきや 冷房効き過ぎ 何とも贅沢」

  「美味いもの 食い過ぎ病気 誘発す 貧乏暮らし 意外や元気」

  「俺の家 未だに冷房 せずにいる 遅れているか 進んでいるか」

  「冷房に 慣れた親から クレームが 冷房なしで 成績上がらぬ」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○記念撮影

 長女夫婦の次男で私たち夫婦にとっては二番目の孫が生まれたのは5月17日でした。長男が朋樹で次男はよく似た尚樹と命名され、母乳でスクスクと元気に育っています。二番目の馴れ合いか名付けなどの公式行事もなく少々不満ですが、私たちの口出すことではないので妻に対してブツブツ小言を言う程度で片付けていましたが、今日は娘夫婦から近所の写真館で記念撮影をしないかと提案がありました。妻も私も喜んで今朝から出かけました。世の中不思議なご縁で、娘夫婦が選んだ写真館のご主人が、私が松山工業高校のPTA会長をしていた折その学校の事務長をしていた方で、久しぶりの出会いに懐かしさ一入でした。奥さんと息子さんがカメラマンとして腕を振るわれていましたが、立派なスタジオのある写真館で主役である孫たちはそれぞれよそ行きの服を着せられて興奮気味で撮影に望みました。私たち家族はこんな晴れ姿で記念撮影をした経験はなく、私も妻も何となく落ち着かない雰囲気でしたが、当の孫たちは気後れすることもなく撮影は順調に進みました。カメラマンも手馴れたもので、僅か生後二ヶ月のまだ視界も効かない孫でさえ泣くこともなくカメラマンの求めに応じてそれなりに写すのですからやはりプロなのでしょう。朋樹薫はもう4歳ですから時折肩をすぼめたりポーズをとったり表情が豊かで、さすがにカメラマンも手を焼いているようでした。その分いい写真が出来るのではないかと期待しています。

 ベビー服の尚樹君とクロのタキシード姿も凛々しい朋樹君はそれぞれ個人写真を撮り、親子家族、私たち両親を含めた集合写真と撮影が進みましたが、はて私たちの存在はどう説明すればいいのか、正直頭の隅を娘の夫の母親の顔が頭をよぎりました。娘婿は大阪羽曳野の出身です。お父さんは娘との結婚前に既に他界していますが、お母さんは高齢ながら羽曳野で一人暮らしをしています。親一人子一人なので、私たちが孫をいとおしいと思うように孫への思いもいとおしいに違いありませんが、遠隔地や高齢、加えて娘婿の仕事が愛媛大学なので、親子別々の暮しを余儀なくされ、孫には会いたくても盆と正月の年二回なのです。本当は私たち夫婦夫婦だけではなく娘婿のお母さんが一緒の写真に写るべきだと思いました。間もなく来月はお盆月で帰省して孫の顔を見せるのでしょうが、今頃は指折り数えて孫と息子夫婦の帰省を心待ちにしていることでしょう

 孫の成長は早いものです。まだ誕生して二ヶ月そこそこなのに早くも目が見えて時折笑顔を見せるようになりました。自分の指も吸ったりゆりかごを自分でゆする仕草もします。ジジバカと言われそうですがまるで猿のような赤ちゃんが人間らしい姿になり、可愛さは日々に増すばかりです。

 今日は私たち夫婦が二人の孫の面倒を見ながら留守番をする事になりました。娘夫婦は久しぶりにそろって外出し、孫の内祝いを処理するするそうです。あらかじめ母乳を哺乳瓶に搾って入れ出かけましたが、多少のぐずりはあっても、性がよく何とか3時間余りを子守しました。私はもっぱら朋樹君のお世話で、近所の松山神社の境内に散歩に行って孫のはまっている虫取りをしました。途中団子虫とカブトムシを捕まえて意気揚々と引き上げ、二人で道後温泉椿湯へ風呂に出かけました。昼間のことゆえ湯船は比較的空いていて、少し深めの湯船や洗い場で遊び、近くのコンビニでかき氷を食べて汗を引かせました。孫の湯上りの匂いはまさに子どもの匂いで、いい心持となりました。孫が「じいちゃん」といってくれるのも後何年くらいでしょうか。湯船である老人が「お孫さんとご一緒で羨ましいですなあ」と言ってくれました。幸せでした

  「写真屋で 孫と一緒に 写真撮る 緊張面持ち はいリラックス」

  「この場所に 一緒にいたら どんなにか 喜ぶだろうと 婿母思う」

  「湯船にて 孫と一緒の 姿見て 幸せそうだと 寂しい声で」

  「早俺の 顔見て笑う 孫嬉し ジジバカ目尻 八時二十分」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○断水騒ぎ

 「若松さん所水が出てますか」。電話口に出た隣の奥さんがこんな言葉を言うのです。私は大相撲をテレビで見ている最中で、朝青龍と白鵬の相撲が間もなく始まる6時前だったので、正直早く電話を切ろうと思いましたが、いかんせんそれから次から次と電話が架かり始めたのです。中身は要約すると「水が出ない」という苦情が殆どでした。水が出ないからといって私に言われても困るのですが、電話の対応をしながら私に電話をかけるのにはそれ相当の訳があると思ったのです。まず私は最近までこの集落の自治会長である区長をしていました。2年間で辞めたものの未だに私が区長をしている若しくは水道のトラブルの解決方法を知っていると思っている人が多いのです。ついで私が35年間も役場に勤めていて三連休で市役所へ連絡しても対応が出来ず、そんな場合の対応を知っていると思っているのです。仕方がないので相撲観戦を諦めて対応をし始めました。役所は三連休の真っ只中で、宿直は民間人が委託を受けてやっていてらちが明きません。私はとっさにかつて役場で一緒に仕事をしていた人に電話をしました。その方はあいにく留守で奥さんが役所に勤めるご主人に携帯電話をしてくれました。ご主人は直接私に電話せず奥さんから間接的に、「水道の管理は合併後市役所に一元化されて双海町の支所では扱っていないので、私がいうより区長のあなたが抗議すれば早く対応するかもしれない」との事でした。

 私が区長をしていると思っての発言でしょうが、何たる不手際な態度でしょう。私は奥さんに「私は区長を辞めています。私が市役所水道課へ電話するのもいいですが、あなたのご主人がするのが順番ではないですか」と少々声を荒げて電話を切りました。今日は三連休の中日です。「直接水道に関係のないのに市役所職員だからといって電話してくるのは迷惑だ」と言わんばかりの対応は少し間違っているようにも思われました。でも市役所支所へ言ってもらちがあないからの相談なのです。

 問題を整理すると、私が市役所の水道行政を深く飲み込んでなく、知人に電話したことにも問題があります。市役所イコール役場と勘違いせず直ぐに伊予市の市役所水道課へ電話すればよかったと後で後悔しましたが、私の危機管理能力がまず駄目でした。次に役所の対応はたとえ民間委託でも取り次ぎ方法はマニュアル通りできるはずですから、日頃から訓練しておかないと危機管理は出来ません。さらに私が電話した職員も自分の仕事でなくっても、あるいは休みの日でも相談を受けたら対応するくらいの気概が必要でしょう。対応に出た奥さんが一番被害者だったかもしれませんが、職員の奥さんも危機管理能力が必要かも知れません。ましてや台風が少し前に去ったといっても緊急時なのですから・・・・・。

 その後対応が始まり、有線放送で水の出ない原因が台風の大雨による水源パイプつまりだと周知され、風呂に入ることも出来ず、トイレを使用することも制限されて一夜を過ごしました。朝6時前再び有線放送で修理完了の周知がされました。担当者は寝ずの復旧作業をしたのでしょうが、ご苦労様といいたいけれど後味の悪い復旧となりました。もっと後味が悪かったのはわが家の洗面所の水道栓を水が出ないため誰かが開けていて、復旧後の早朝水が出っぱなしになっていたのです。水を無駄使いしてしまいましたし、今月の水道料が高くなりそうです。

  「水が出る 蛇口ひねれば 当たり前 便利な世の中 忘れてました」

  「台風が 残す小さな 爪痕に 学ばなければ 今に大事」

  「役所辞め 区長を辞めたる 俺なのに 周りの人は 事ある毎に」

  「防災と いくら言っても 市役所の 職員これじゃあ らちが明かぬは」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○新車購入

 先日三秋峠で突然エンストして大騒動となった妻の愛車が、車屋さんの見立てによるとどうも寿命だそうで、私の愛車一台では、家の仕事もままならぬことから、思い切って新車を購入する事になりました。寿命となった車は車屋さんをしていて二年前に廃業した姉の家からタダで貰ったものなので諦めもつきやすいのですが、年金暮らしの妻の財布からは少々出費がかさむようで、夫婦でどうしようかと思い悩んでの決断でした。

 今回買ったのはトラックです。元々わが家には農作業用に軽四トラックがありましたが、母の死後農業が出来なくなり、軽四乗用車にした経緯がありましたが私のわがままで始めた人間牧場用としてトラックが必要なためのモデルチェンジです。トラックは人間牧場に通じる急な坂道にも耐えられるようにお金は少々高いのですがワンランクアップの4WDです。妻は昔軽四トラックを運転した経験があるしミッションギアーでも大丈夫ということで、カーラジオつき冷房なしのシンプルで極力安いモデルを選びました。

 妻は何故か車を買う時は大安か先勝を選んで買います。そこまで気にする必要はないというのですが、子どもの車も全て御幣を担いで大安吉日を選んで買いました。そのためでしょうか子どもたちも私も妻も大した交通事故に会うこともなかったのですから、大蔵大臣の言うことは聞かなければならないのです。

 7月9日の大安に新車が到着しました。あいにく私は留守でしたので妻が受け取りましたが、嬉しいのか妻は早速乗り回しているようです。

 今日は日曜日で予定された仕事が台風で中止になったため、トラックで人間牧場へ見回りも兼ねて行きました。台風が通過して吹き戻しの北西の風がかなり強く吹いていましたが、人間牧場は災害もなかったようで一安心です。台風や梅雨の降雨で草丈も勢いよく伸びていたので草刈機を回して水平線の家の周辺やツリーハウス周辺の草を刈りました。帽子が吹き飛ばされるほどの強い風でしたが、その分暑くもなく蚊も出ず快適な草刈日和となり作業はお陰ではかどりました。自宅敷地内に設置している貯水槽の清掃をしていたため遅い出発となったため、弁当を持参する事を忘れ、腹が減ったので時計を見たら何と午後3時でした。昼ごはんも食べず熱中して草刈をしていたので、妻からまた小言のご注意を言われそうでしたが、妻は所用で外出しておりトラックをしまって何食わぬ顔です。

 それにしても近頃の軽四トラックは4WDへの切り替えが、ボタン一つで操作が出来るゆ改良されており驚きました。これだと私も妻も十分使いこなせるメカ装備なのです。新車なので汚したら悪いと思い何にも積まずに走りましたがエンジンの音も軽やかで、「妻と畳と車は新しい方がいい」といったら、妻が「妻は余分」と渋い顔をされました。人間の寿命はたかだか80年です。この車を10年乗るとしたら次の軽四トラックの購入はありえずもうこれが私の寿命では最後の買い物になるかもしれないと思うと、首相寂しい気もしますが、まあ大事に使いたいものです。

  「エンストの 代償新車に 変身し 妻さっそうと 風きり走る」

  「坂道も 四輪駆動で らーく楽 十万高い 値打ちはあるね」

  「年金の 身には少々 高いかも それでも十年 安い買い物」

  「台風が 去った牧場 爽やかな 風が吹きぬけ 仕事はかどる」  

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○忘れかけていた当選番号

 昨日は高知県春野町での研修会が台風の影響で中止となり、久しぶりに一日中わが家の書斎で窓越しに絶え間なく降る雨を見ながら過ごしました。本を読んだり、ハガキを書いたり、締め切りの迫った舞たうんの原稿を書いたり、段ボール箱に溜った書類を整理したり、身の回りの整理整頓が少し出来て次へのステップアップが出来たようです。

 先日所用で近くの郵便局へ行ったら、郵便局のカウンターに年賀状の当選番号を書いたチラシが無造作に置かれていました。手にとって読んで見ると当選の引き換えは7月17日となっているのです。「えっ」と思いながらそのチラシをいただいて慌てて帰りましたが、残念ながらこの週間は日程が積んでいて調べる暇がなく、忘れないようにと書棚のガラス戸にその当選番号チラシをセロテープで貼り付けておきました。昨日何気なくそのチラシが目に付いたものですから、書棚にうず高く積まれた今年の年賀状を取り出して当選番号を調べてみました。最初は一枚一枚裏表を読んだりして相手の顔を思い出していましたが、そのうち番号だけに目が行くようになって約800枚の年賀状を片っ端から調べて見ました。結果的には残念ながら一等や二等などの当選はありませんでしたが、三等の切手シートが20枚ほど当たっていました。何年か前まで切手収集を趣味にしていた私にとって、一等や二等の当選番号より三等の切手シートの方がはるかに価値が高く嬉しい当選でした。

 昨日は郵便局の窓口もお休みでシャッターを下ろしていましたが、役場との間の通用門から顔を確認のうえ入れてもらい、顔見知りの局員さんに当選した郵便葉書を手渡しました。局員さんは時ならぬ時期の年賀状の話に最初は戸惑っておりましたが、三連休のこともあって締め切りが7月17日火曜日なのでしっかりと受け付けてくれました。役場も合併して支所となり郵便局も民営化すると、「こんな田舎らしいやり取りはなくなるのかなあ」と思いつつ、いつもながらの丁寧な対応に頭を下げながら郵便局を後にしました。

 私が郵便局へ行った留守に入れ替わりで、別の郵便局員さんが郵便物を届けてくれていましたが、驚いたことにその中に今年の年賀状を使った郵便物が入っておりました。読んでみると先日講演でお邪魔した熊本県あさぎり町の方からのお便りでした。何でも私の講演を聞かれた妹さんが「一日三枚ハガキを書いたら人生が楽しくなると言っていた」という話をこの方に話したそうです。この方は早速郵便番号簿で私の町の存在を調べて一枚のハガキ執筆となったのだそうです。当事者ならいざ知らず話を聞いた方から話を又聞きしてハガキをいただいた律儀者の存在に感動し、私は早速ハガキを書いたのです。ハガキを書きポストに投函して帰ってから、何気なく郵便局で貰った当選番号チラシを見ていたら、何とこれが切手シートの当選番号ではありませんか。驚いた驚いた、ハズレ腰で得た当選番号は、まるでサマージャンボ宝くじにでも当たったような嬉しさなのです。(サマージャンボ宝くじに当たったようなと表現しましたが、実は私はこれまで一度も宝くじなどを買ったことがないのです)

 私も妻もいたって平凡な人生でしょうか。妻がせっせと毎年買い求める宝くじも最高一万円、私に来る毎年800枚程度の年賀状も最高はレターセット、氏神様の福まきも亀の子たわしやティシュペーパー程度です。濡れ手に粟の大金が転がり込むことのなかった人生を振り返ると、だから幸せだったのかなあとも思います。でも二日後に締め切りの迫ったこの時期に切手シートが転がり込んだのですから、最高にハッピーな一日だったと思っています。

 人生色々なことがあります。泣いたり笑ったり喜んだりと、ささやかながらの日々に一喜一憂しながら老いという坂道を歩いている今日この頃です。

  「ささやかな 切手シートの 当たりくじ 期限間近に 気がつきセーフ」

  「台風が 来たから貰う 当たりくじ 台風来なけりゃ 当たるも気付かず」

  「雨降りて のんびり過ごす 一日も 俺には至福 いい日旅立ち」

  「年賀状 使って便り 出す人に 私も年賀の 残りハガキで」

  

 

[ この記事をシェアする ]