shin-1さんの日記

○メールの山

 天草経済同友会の招きで本渡市や牛深市など2市8町村が合併した天草市へ行ってきました。腰の具合が思わしくなく、妻が運転手をかって出てくれたので車で行くことにしました。ところがそれまでは計画通りで良かったのですが、出発前日になって娘が入院してしまい、娘婿も仕事の都合がつかず結局は宙に浮いた孫の面倒を見るための最大公約数として孫を同伴するハプニングとなってしまいました。まるで家族旅行のような感じで、相手に失礼と思いながらもその道を洗濯してしまいました。その旅の結末は次回のブログで詳しく書きますが、昨日帰宅してメールを開いて驚いたのは100通を超えるメールの山です。たいがいの事には驚きませんがそのメールの殆どはとても重要で緊急なものが沢山あって、ブログを書くために座ったパソコンもブログを書くどころかメールの返信に一日を費やしました。

 私へのメールは講演先との対応、原稿依頼、えひめ地域づくり研究会議対応、人間牧場関係、交友関係など多岐に渡っていますが、特に講演先との太陽や原稿依頼などは期限付きですから相手も痺れを切らして催促のメールが届くのです。

 運の悪いことにファックスの用紙が切れ、ファックスのトナーも切れて受信待ちの赤ランプが点灯、家は私も妻も不在で電話連絡も取れないとあっては、佐賀関の渡辺さんのように「何か悪いことでもあったのか」と携帯電話を掛けて安否を気遣ってくれるほどなのです。それでも携帯は顕在だったため相変わらず車の移動中も講演中も携帯は鳴りっぱなしで、結局はマナーモードにしていなかったたため、講演中に私の携帯を鳴らしてしまうハプニングまでありました。若松ならぬお粗末です。

 娘婿のお陰で迷惑メールと普通の営業用メールを分割して受信できるようになって随分助かりましたが、それでもこのメールの多さに私のようなアナログ人間はついて行けないって感じです。

 それでも高知県馬路村の山猿こと木下君のようなほのぼの駄洒落メールはほっとして、ついぞや一番先に長々書いてしまうのです。それでも書き終わった瞬間の充実感は何ともいえませんが、早速メール返信の返信が届きまたまた返信です。

 私の暮しにとってメールと携帯は欠かせない存在になってきましたしその重要度は日増しに高まりつつあります。でも二年前の私のようにメールに無縁な人だって世の中には沢山いるのですから、アナログへの対応も忘れてはいけません。せいぜい努力してアナログとデジタルを使い分けてゆきたいものです。

  「パソコンを 開いてびっくり 玉手箱 百通越える お便り届き」

  「ブログ書く 暇もないほど バタバタと 日々を暮らせる 幸せかみしめ」

  「返事まだ 催促メール メールする メール再び メール返信」

  「今風の 風の便りは メールかも 話しているよな 錯覚とらわれ」

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shin-1さんの日記

○勘違いの間違い

 昨日はもう少しの所で勘違いの間違いをするところでした。一昨日伊予市大平保育所の園長さんから「明後日の講演会には宜しくお願いします」と電話がかかってきました。「えっ、明日じゃあなかったですか」「いえ、明後日ですよ」「いやあ電話をかけてもらって有難うございます。私はてっきり明日だとばかり思っていました。早とちりというよりは完全な勘違いの間違いでした。

 私の元にはメールや電話で講演のがあるのですが、出先で電話を受けると予定表を持っていないことが多く、「帰ってから確認します」といいながら、うろ覚えで講演を受けてしまうのです。忘れ情がよくなったのは歳のせいだと歳のせいにしていますが、前倒しの勘違いでよかったのですが、これが後倒しで気がつくと勘違いや間違いで済むものではなないのでよくよく気を付けたいと肝に銘じました。

 軽はずみな私なのでこのような間違いを一年に一回か二回は必ずやってしまいます。何年か前だったと思いますがとんでもないハプニングを引き起こしました。和歌山県から講演依頼があって予定表に入れておりましたが、すっかり忘れていたのです。確認のつもりで相手の担当者から電話があったのはその日の朝でした。「若松さんのお宅ですが」と言うなりその担当者は電話に出た私に「何で今頃お家にいるのですか?」です。「えっ私が家にいて悪いですか?」。「若松さん今日はあなたに和歌山県に来てもらうようになっているのですが?」。「えっ、そんな・・・・・」。その後は言葉にもなりませんでした。「これからだと間に合いません」。「いえ今日は500人も集めているので来てもらわないと困ります」。「ちょっと待ってください。飛行機の予約状況を調べて直ぐに折り返し・・・・」で電話を切りました。早速はやる気持ちを抑えて空港へ電話するとあいにく満席だとか、その時対応に出た女性が「アッ、只今キャンセルが一席出ました。直ぐに空港カウンターまで来てください。ところで空港まではどのくらい時間がかかりますか。もう1時間を切っていますよ」。「大丈夫です。直ぐに伺います」。

 妻を同乗させ、猛スピードで空港まで裏道を走り空港に着いたのは出発5分前でした。当時は携帯電話などなく妻に「伊丹空港まで迎えに来てもらうよう」担当者に電話連絡を入れさせ、その結果も分らぬまま飛行機に乗り込みました。僅か1時間弱の飛行機の旅は長く長く感じられました。伊丹に着いた飛行機を担当者は待ち構え高速道路をひた走り、湯浅町の会場へ着いたのか講演5分前、何事もなかったように90分の講演を終え、万雷の拍手を背に花束までいただいて湯浅町を後に再びキャンセル待ちの飛行機で松山まで日帰りで帰って来たのです。まさにラッキー、まさに綱渡りとかいいようのない、今思い出してもまるで映画のシーンでも見ているような悪い心地の思い出です。

 勘違いの間違いは日々の暮しの中でも沢山あります。歳を取ると頑固になるのか自分の勘違いな間違いに気付いても、それが自分の責任ではないような言い方をするものです。89歳になる親父などと衝突する意見も元はといえば勘違いな間違いが多いようなのですが、余りそのことを追求すると本人はプライドを傷つけられたような気分になるのか不機嫌になります。まあ人間には勘違いと間違いはあるものだと心がけておきましょう。

  「勘違い 間違い気付かす 電話入り 事なき得たり ホッと一息」

  「ああ俺も ボケたかこんな へまをする 昨日と今日は 一日違う」

  「勘違い するものなんです 人間は 気休め言葉 心にずしり」

  「勘違い だよと相手を たしなめる 相手の立場 自分だったら」

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○男は女によって出世する

 「えっ本当?」と耳を疑うような話がテレビで語られていました。その話によると男性の成功の半分以上は今も昔も女性の内助の功だというのです。昨年のNHK大河ドラマは司馬遼太郎の「功名が辻」で、山内一豊の妻千代の奮闘ぶりが描かれていましたが、あの話も豊臣秀吉も歴史上の人物の成功の裏には女性の大きな役割があったようです。かくいう私でも出世こそしてはいませんが、やはり私の人生も妻なしでは語れないのです。

 しかし年末から年始にかけて、男性の殺人死体バラバラ事件が起こり、「男は女によって出世する」という神話も崩れそうな雲行きなのです。その殺された男性と妻たる女性は結婚以来今で言うDVの被害に悩まされ、決していい仲の夫婦ではありませんでした。結局は憎悪が殺人と死体バラバラ事件に発展し、夫婦の結末は悲しいものとなったようです。「妻と言えども決して女を信じてはいけない」なんてコメントがテレビではバラエティ風に紹介されていましたが、家庭の基本である夫婦の妻を夫が信じられなくなったらこの世の中は誰を信じて生きてゆけばよいのでしょう。

 しかし、「男は女によって出世する」という話にはこれを上の句とするなら下の句があって「女は男によって幸せになれる」のだそうです。確かに男女同権の世の中にはなったけれど、男性次第で女性が幸せになるという言葉も当たっているのです。かくいうわが妻の幸せそうな姿を見ると、やはり夫たる私の功績だと思わずにはいられないのです。男が稼いで女が家を守るかつてのような古い時代はなくなり、女も男と同じように働く現代ですから男が大黒柱のような存在はすっかり影を潜めてしまいました。でも男女同権といいながらやはり男性には男性の、女性には女性しか出来ない役割があるのですから、お互いいたわり合い信じあい、愛し合いながら生きることが何よりも大切なことなのです。特に日本人は世界一の長寿国に生きています。長生きはいいに越したことはないのですが、お互い長生きをすると年齢から来る体力や気力の衰えが気になるのです。つまり夫婦介護という新たな問題に男女の差などはありませんから、お互いがお互いを介護しなければならないのです。

 世の中の人間は男と女という極めて単純な2種類に分類されます。最近は限りなく女に近いが女でもなく、限りなく男に近いが男でもない、あるいは男が女化し女が男化する人も見られ性差のない社会や同性愛が増えつつあるようです。同性どうしの結婚が話題になるなど、私などのような古い人間には考えられない社会になりつつありますが、それでも私たちのような普通の夫婦であれば、結婚というきっかけから始まる二人三脚ならぬ二人四脚で人生の大半を過ごすのですから、お互いがお互いを理解し合い助け合って生きて行かねばなりません。出世や幸せは目的ではなく結果なのですから、親や子どもを含めた家族という小さな集団をしっかりとしたものにして、結婚して良かったといえるよう努力したいものです。

  「出世など しなかったけど 満足だ 妻の功績 認めています」

  「幸せと 言わない妻に 幸せか 聞いてみたいが 言わぬが花か」

  「これからが 老いの坂道 下り未知(道) 支え必要 死ぬその日まで」

  「腰痛や のどの痛みの その度に 妻の手厚い 優しい看護」   

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shin-1さんの日記

○間違っていた名前

 私の所へは妻もびっくり、郵便局もびっくりするほど毎日沢山の郵便物が届きます。リタイアした私に何でこんなに郵便物が届くのか私本人もびっくりするのですから、家族や郵便局が不思議がるのもうなずけます。郵便物の中にはダイレクトメールで様々な商品の勧誘も来ます。個人じょうほと言われて久しい私の名前が勝手に独り歩きしているのです。このことによって不利益をこうむる訳でもないので、受け手たるこちらさえしっかりしていればいいと思い、別に気にも留めずやり過ごしています。

 ところがつい最近私の名前が少し違って来るようになった郵便物があります。私の名前は若松進一ですのに若松新一や真一などと書かれています。これくらいの間違いはよくある話ですからいいのですが、岩松新一とか若林新一とかになると存在しない名前なので郵便局に返すことも出来ず処分することにしています。こんな名前は一度入力すると一年間ぐらいは続けてくるようで、困ったものだと思いつつやり過ごしています。

 一昨年末ちょっとしたトラブルがありました。私宛に友人が送った宅配のお歳暮が届かないのです。普通はお歳暮を贈られても年末の慌しさゆえ送られたことの確認やお礼はやり過ごすことが多いのですが、その方は丁寧な方で電話で「○月○日○時頃、○○便で○○の品を送った。生ものなので早めにお召し上がりください」と連絡があったのです。でも待てど暮らせどその宅配物は届かず、○○便に電話をかけたら、確かに届けたというのです。留守中家族の誰かが受け取ったかも知れないと確認しても受け取っていないとのこと、もう一度宅配業者に何処へ送り誰が受け取ったか確認したところ、まったく別の家に届けられていたのです。実は双海町内に若松進一という私の名前と同姓同名だが漢字文字が一字違う若松新一という従兄弟が住んでいるのです。住所は私が正しい、名前はあちらが正しいので、大岡越前だとどんな捌きをするだろうと苦笑しました。従兄弟に問い合わせたところ、受け取った子どもが既に開封し、不思議な送り主だと思いつつもご相伴に預かったと重々詫びられました。従兄弟の家でもありお互い大いに笑って一件落着しましたが面白いエピソードです。

 先日松山のパレットという新しいタイプのリビングルームでの講演会に招かれて出かけたことは紹介しましたが、その模様をビデオで収録編集しDVDに入力して菅本達雄さんが送ってくれました。元NTTの方らしく技術は相当なものでDVDに直接私の写真を焼き付けるなど、保存バントしても価値が高いもののように思いました。再生して見たのですが、私の名前が新一になっていました。でも別に人に見せるわけでもないので気にも留めていませんでしたが、このDVDを見られた方から菅本さんに名前が違っているとご指摘があったそうで、ご丁重にも作り直して送ってくれたのです。早速お礼のメールを送りましたがこちらが恐縮するほどの丁寧さでした。

 62年間も使っていると名前の持つ重さを時々感じます。私のような田舎者で何の学歴もない名前でもインターネットで検索すると出るわ出るわです。自分が驚くほどの量です。62歳を機にそろそろ自分の名前の重さを感じて行動せねばと少しだけ思いました。名前の重さに気付かせてくれた菅本達雄さんありがとうございました。

  「名前など どうでもいいと 思いきや わざわざ訂正 送る人あり」 

  「同名の 宅配開ける ハプニング 大岡越前 裁きやいかに」

  「新一も 悪くはないな 思いつつ 同姓同名 いるから使えず」

  「ええ加減 親父進で 長男一字 加えただけと 馬鹿にしていた」

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○つぶやき

 この頃自分が何やら独り言を行っていることに気付きハッとしました。というのも昨日急に娘の体の調子が悪くなり、孫を幼稚園へ迎えに行かなければならなくなったのです。電話が入ったのが3時過ぎ、孫の顔を浮かべながら早速車を走らせて松山の繁華街にある幼稚園に迎えに行くと、孫は手を上げて車に乗り込んできました。「今日はどうしておじいちゃんが迎えに来たの?」と不思議がるのです。「お母さんが病院に入院することになって病院から帰れないから迎えに来たんよ」と言うと、「ふーん」です。

 やがて車に乗ると孫はお気に入りのCDをかけ手を振ってリズムを取り上機嫌です。片道40分の30分はお菓子を食べたり談笑しましたが、私の手枕で眠ってしまいました。やがてわが家について起したころ、娘から電話が入り電話に出た孫は母親と何やら話していましたが、納得したのか私を相手に恐竜のおもちゃや正月前に買ったカルタで楽しく遊びました。私の腰の悪さを気遣って、さすがに体を動かす遊びはしませんでしたが、そのうち私への電話やファックスが次々に入り、その対応のため「ありゃ、また電話か」とか、「今度は何処から電話じゃろうか」などと独り言をいったり、それらに対する反応をつぶやいていたようです。急に孫が「おじいちゃん誰と話しとるん?」というのです。孫の言葉に諭されてハッと我に帰った私は、自分が自分に対し、あるいは目に見えない誰かに対しつぶやいていたのです。

 こうしたつぶやきは誰にでもあることなのですが、特に歳をとった人には顕著で親父などは「一人だのに誰と話しよるのだろう」と思うことがしばしばあるのです。先日も自分のメガネを何処へ置いたか分らなくなって随分探していました。「待てよ、わしはここで確かにメガネを外したんじゃが」、「さっぱり分らん」と長い時間自問自答で行ったり来たりを1時間もしていました。「じいちゃん何を探しよるん」と聞くと、「メガネを何処へ置いたか忘れてしもた。わしも耄碌したものよ」と言うのです。見ると頭の上にメガネを置いているではありませんか。「じいちゃん頭の上にメガネはあるよ」と言って大笑いしました。

 心にある不満もつぶやきという形でどんどん出てきます。誰に聞かせるわけでもないけれど、結局は自分に対し話をしているのです。「ああ俺も歳を取ったなあ」と孫の一言で目が覚めたようでした。つぶやきシローなんて漫才家がいたように思いましたが、つぶやきの正体はは一体何なのでしょうか。

 「つぶやき」というタイトルでコラムを書いている友人を知っています。その友人に「つぶやく」って何と尋ねましたが、「自分自身しか知らないささやかな出来事」だとしか答えてくれませんでした。広辞苑によると「つぶやき」は「つぶやいて言うこと」、「つぶやいてくどくどと独り言をいうこと」だそうですが、分ったようで分りにくい解釈です。結局は独り言なのでしょうが、人間は口に出すか出さないかは別として、自分というもう一人の自分に話しかけながら暮らしているような気がするのです。

 今朝孫が幼稚園へ連れて行く最中、松前町の靴屋さんの前で「靴が窮屈になったなあ」と独り言を言うのです。その靴屋さんは私がムシキングという子どもに人気のシューズを買いに孫を連れて行った所です。自分の靴が大分古くなったので買ってもらいたいと天の声をなりすまし、私へ靴を買うよう仕向けているのです。すっかり知恵のついた孫のつぶやきに対し「古くなったら買ってあげる」と、我慢を強要しました。

  「おじいちゃん 誰と話を しよるのと つぶやき指摘 孫の一撃」

  「ああ靴が 欲しいとつぶやき 孫俺に 靴の欲しさを それとはなしに」

  「親父ボケ 頭の上に めがね置き 何処へ置いたか 探す滑稽」

  「俺は今 何をしようと してたのか 一瞬ハッと ボケが始まる」

 

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shin-1さんの日記

○老いを迎える不安

 数日前、親父と長年親交のあった友人善徳さんが亡くなりました。誰かが死ぬと普通は小さな田舎町のことゆえ、口から口へと噂話が伝わるのですが今回ばかりは伝わらず、結局善徳さんの死を知ったのは葬式が終わってからでした。妻が職場で聞いてきたようで、「どうも善徳さんが亡くなったらしい」というのです。善徳さんの家の近くに住んでいる人に確認したところ、葬式は既に済んでいるとのことでした。急いで香典を用意し遅まきながらのごあいさつとなってしまいました。

 善徳さんと親父は同じ漁師仲間で、親父の船と善徳さんの船でペアーを組んで2艘漕ぎという漁法で魚を取っていました。戦後の活気に満ち溢れた時代でしたから、漁獲はあったものの販路が限られていてそんなに飛び切り儲かったという話は聞きませんでしたが、それでも瀬戸内海から宇和海まで幅広い漁場へ出漁し、特に南宇和郡深浦などを基地として活躍したようです。

 親父は大正7年の生まれですから今年89歳になります。ある部分の強さを持っていますが日々老化が進み、最近は脛の具合も悪くなって少し弱気な発言が目立つようになりました。それでも昔人らしく律儀に生きて身の回りのことは殆ど自分でこなせる自律老人なのです。

 「善徳さんが亡くなったので葬式に行こうと思ったが、善徳さんが亡くなったのを知った時は葬式も終わっていて、香典を持って挨拶に行ったよ」と親父に話しかけると、急に落胆し善徳さんにまつわる様々な思い出を語り始めました。お互い子沢山の長男に生まれたこと、二艘漕ぎで切磋琢磨しながら沢山漁をしたこと、深浦で多くの人に世話になったこと、善徳さんの兄弟のこと、先日下灘の診療所で顔をあわせ声を掛け合ったことなど、涙を流しながら話してくれました。そして最後にポツリ、「いよいよわしの番になった」と死ぬ順番の来たことを寂しく話すのです。「大病(ガン)を患った時はわしが一番先に死ぬとみんなが噂しよったが、噂した親しい人はみんな先にあの世に行ってしまった。AさんもSさんもBさんも死んで、おらより年上はCさんだけだ」と嘆いていました。

 人間の死亡率は100パーセントですからはいつかは死にますが、歳をとると死への不安が毎日募るようです。年末には7年前に亡くなったお袋が「夢に出てきて色々話をした」とか、「墓参りするのに少し遠い場所になったのでお墓を近くに移転してはどうか」などと、認知症ともとれる発言をしたりするようになり、日々の暮しの中で少しずつ明らかに歳を感じるようになりました。

 でも元気です。年末には還暦の同窓会のために帰省した弟夫婦と隠居で水入らずの正月を過ごしたり、年末に愛用の冷蔵庫が傷んで使用不能となり、電気屋さんに出かけて大型の冷蔵庫を買ったりして、数年後の暮らしの備えをしているのです。言動のチグハグさは相変わらずですが、老いへの不安や死への不安を取り除き、生きる悦びを与えてやれるのは私たち家族だけなのだと思いつつ、今朝も隠居へ親父の様子を見に行きました。今日も元気なようです。27年後の私の姿が隠居の親父にダブって見えました。

  「友人が 死ぬ度親父 俺の番 来たと弱気な 発言飛び出し」

  「親父見て 二十七年 後の俺 見ているようで 少し寂しく」

  「冷蔵庫 でっかい方が いいという 何年生きるか 親父算段」

  「毎日が 楽しい日々と 父が言う 孫につくろう 虚笑寂し」  

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shin-1さんの日記

○久しぶりの煙会所

 この1年半余り、人間牧場の立ち上げにうつつを抜かしていて、自分の足元を見る余裕がなかったのか、家の横に設置している「煙会所」の利用は見学コースや座談程度でした。しかし一昨日人間牧場への来訪を希望しながら台風並みに発達した低気圧の影響で海山ともに大時化で、事故でもあっては大変と急遽煙会所へ場所を変更させてもらいました。雨は収まっていましたが強風の中来た人たちは、てっきり人間牧場へ行けるものと期待をして来たのですが、残念かな煙会所での語らいとなって少しガッカリした様子でしたが、それでも煙会所の魅力を満喫していただきました。

 煙会所には囲炉裏があります。人が来るというので私と親父は朝から大掃除です。4畳半の狭い部屋ながら畳を拭いたり囲炉裏に火をおこしたり、便所の掃除をしたり、また妻は囲炉裏に掛けて温かいものをとおでんを作ったりしました。私は数日前から腰の調子が思わしくないけれど、それでも妻の友人で中年の美しい女性が6人も来るとあって俄然張り切って腰の痛さに耐えながらお世話させてもらいました。

 女性らしくお約束の時間きっかり11時に2代の車に分乗してやって来ました。私と妻を含めると8人で4畳半の部屋には丁度半畳にひとり納まる勘定で、それから5時間余り食べたりしながら賑やかな話に花を咲かせました。


 この方たちは伊予市民生委員女性部の方たちで、妻も同じ会に所属しているので先日の忘年かで人間牧場のことが話題になって、忘年会会場から電話が入り今日のセッティングと相成ったわけです。女性3人寄れば何とやら、まさにかしましいお話でした。私もあちらこちらの民生委員会に話に行く機会もあるので、様々な話題を提供し、最後は私の自費出版の本にサインまでさせてもらう念の入れようで、人間牧場へ行けなかった分だけの楽しみを味わったのです。この6人の方は長年民生委員をしているだけあって考えが素直で話題も多く、人のためにしてあげる幸せを実践している人間的な奥行きの深さを感じました。

 それにしてもわが妻の凄いと思うのは、これまで百回を超えるであろうこの煙会所の利用について、何の文句も言わず手料理を作ってお客さんを賄ってくれたことです。酒飲みや遠来の友、講演に来た先生、近隣のおじさんおばさん、大学生、PTA役員、公民館人など、各界各層の人に合った料理でもてなしてくれたのです。私の人脈はこの煙会所から広がったものが多いので、妻の内助の功は口では言い表せないほどです。今でこそ有難いそぶりをする私ですが、若い頃は当然とばかりにこき使い、ねぎらいの言葉ひとつも掛けなかったように思い、多少ではなく存分に自責の念に駆られています。

 人の悦びが喜びと話す妻にお返しをしたいと思い、少しの手助けをしましたが、かえって腰の具合を悪くしてまた迷惑をかけてしまいました。

  「手料理で もてなす妻の 有難さ 来客嬉し 手を振って去る」

  「フーフーと おでん食する 人を見て あったか気持ち 妻の笑顔に」

  「喜びは 妻の笑顔が 一番と この頃気付く 少し遅いわ」

  「腰砕け そんな言葉と 同じ身に なっても笑顔 お客商売」

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shin-1さんの日記

○情報とは何か

 私が「情報化社会」という言葉を聞いたのはもう30年も前のことでした。ペーパーでしか情報が取れなかった時代に、電子情報の波がやって来ることを予知した未来学者がいたのです。しかしその当時はそんな情報が私たち庶民に及ぶことはないであろうと思っていましたが、そのスピードは速く日本もあっという間に情報化社会に飲み込まれ、私たち庶民ですら電子情報なしでは語れない時代になったのです。でも一口に情報といっていますが、「情報とは何か」と言われたら説明に困るのも今の世の中なのです。私たちは日々の暮しの中で何気なく使っている「情報」という言葉の意味を今一度考えてみる必要があるようです。

 私たちの受信している情報には聞き流し情報や必要情報に加え重要情報というのがあります。大河の如く流れている情報の中から必要情報や重要情報を取り出し、自分流に加工して生かしたり保存したりして活用するのですが、パソコンとは便利なものでそれらの情報をしっかりと記憶させしまっておくことが出来るのです。広い場所も取らず僅かな操作で必要な時に必要なだけ多少の時間と費用がかかっても情報が取り出せる現代はやはり便利な世の中なのです。しかし聞き流し情報であるはずの情報に目と手と感覚が行ったばっかりに思わぬ失敗をする事だってあるのです。私のパソコンにも迷惑メールと称するメールがどんどん入ってきます。エッチな動画を伴ったメールなどは男だったら誰でものぞいて見たくなる刺激的なものが多いのです。またインターネットで先物取引やバーチャルモールでの商売も出来ますから、うかつに手を出すと大変な事件に巻き込まれたり大失敗をするのです。要は何が大事で何を必要としているのかしっかりと判断する力がないと情報の誘惑に負けてしまうのです。今は自己責任の時代ですから失敗しても誰も助けてくれないのです。

 私たちが普通情報といっているものの殆どはデータです。データに人間の知恵を加えたものが情報なのです。つまり自分や集団にとって不利益なデータは情報ではなく、極論すれば利益をもたらすものが情報だと整理をしてみました。

 情報は人によってネットワークを広げてゆきます。人と情報のネットワークを持っている人こそ情報化時代に生きている人なのだと思います。私にとってこの一年余りの情報的進化は目覚しいものがあると自分では思っていますが、それもこれもやはり人のネットワークが成しえるのです。

 「情報」という文字を見ていつも思うのですが、(情)はなさけ、(報)はむくいです。インターネットや衛星放送ばかりが情報と思っていたけど、そこに人間の知恵たる情けが入らねばそれは単なるデータで情報とはいえないのです。ハンド&ハンド、ハート&ハート、フェイス&フェイス、これこそ最高にして最上の情報であると私は思います。

 顔の見える人から今年も年賀状が沢山舞い込みました。思いのある年賀状はアナログといえども顔が見える情報です。近況や私を思いやる言葉がショートコメントながら書き込まれほのぼのとした気持ちにさせてくれます。インターネットで届いた年賀も即効性があって嬉しい情報です。特にメールはその人の今が届きます。メールも出来なかった2年前とは比べ物にならないデータの中で利益あるものを取り出し情報に変えてゆく営みはこれからも死ぬまで続くことでしょう。

  「昨日来た 人からデータ 送られて 便利な世の中 実感しつつ」

  「情報は 情けの報と 書くんだよ 心無くんば 情報じゃあない」

  「情報で 俺と親父を 比較する ない方がゆるり 人生楽しむ」

  「遠情報 知っているのに 近情報 知らな過ぎるは 今の世の中」


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shin-1さんの日記

○今日は成人の日

 私たち古い人間には成人式といえば1月15日と決まっていたから、今のような祝日だと国民の祝日といわれても余りピンと来ず、その生でしょうか町内の家々に国旗が飾られているのを殆ど見なくなりました。それもそのはず正月でさえ国旗を立てたりする風習が廃れているようです。今年の正月に町内の漁港に係留している漁船を見ましたが、船玉様信仰を信じる漁民さえ大漁旗を立てない漁船が増えていて、何かしら寂しい感じがしました。

 私が成人式の頃は一体どんな時代だったのでしょう。残念ながら思い出しても断片的な思い出しか思い出せないのです。それでも近所の洋服屋さんが採寸に来て真新しい背広を作ってくれたり、似合おうが似合うまいが締めてるだけで事足りたネクタイを買って親父に締めてもらいました。その親父も漁師が故にネクタイなど漁協の役員として県庁へ行く時以外はネクタイを締めたことがないので、まるでわらじをつくる仕草で足の親指にネクタイをからませ、首輪を入れるようにしてネクタイを結んでくれました。漁師をしていた私にとって初めて結ぶネクタイはまるで首を絞まられるようで息苦しく、それでも成人式の間だけはと我慢していましたが、耐え切れず成人式が終わると外に出てネクタイを解いたものです。あれから43年が矢のように過ぎ去りましたが、初心だったあの頃が懐かしく思い出されます。でもそんな時代でしたから反社会的なことなどする時代でもなく、神妙にやたら長い来賓のあいさつをあくびもせずに聞き入ったのです。

 私の頃と違って今は女性は殆ど、男性もちらほら和服姿で成人式を迎える華やかな時代となりました。和服という民族衣装を戴せtにする時代回帰はいいことですが、その殆どが親の懐という情けなさも時代を反映しているようです。頭の先から足の先までといいますが頭や足ならまだしも耳の先、詰めの先までがお洒落の対象で全てをまかなうにはそれ相当の出費を覚悟しなければならず、まあそれも個人消費なのだから社会の経済サイクルだと思えば社会に後見していることになるのです。

 ある人が今の若者は「砂漠の真ん中に立たされているようだ」と表現しています。砂漠ですからなんの遮るものもない自由な世界です。何処へ行こうとどんな道を選ぼうと勝手なのですが、その分迷いが深く元に戻ることは出来ないというのです。上手い表現だと思いました。でもその道と未知に迷い込むのも若者にとっては必要な迷いかもしれません。無駄や徒労ほど血肉になるものはないからです。でもうろ覚えの知識だけで世の中を渡ろうとするのは余りにも危険が大き過ぎるのも今の世の中、心して船出して欲しいと願っています。

 私は幸いなことに成人式を迎えた頃地元の青年団に入団していました。殆ど先輩という青年団の集団で様々な知識を学び、ややもすると知識だけで暴走がちな私たちに生き様や知恵を授けてくれました。先輩や仲間がいるということは今になって考えると素晴らしいことだったように思うのです。僅か8年の青年団活動でしたが私に勇気や希望を与えてくれたのはやはり青年団だったと思うのです。今日成人式を迎えた皆さんにも願わくばいい仲間をつくるよう切望します。

  「あの頃と いっても四十二年 前のこと 初心な私が そこにいました」

  「青年団 私育った 恩がある 返せることは 若者育て」

  「いい時代 思う私は 古臭い それでもみんな 懐かし昔」

  「ダンスにて 手を取りビリリ 衝撃波 初心な時代も あったものです」 

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○若者が訪ねてくる

 正月を挟んだ年末年始、私の元へは10人もの若者が相次いでやって来ました。アポイントを取ってやって来る若者もいれば、通りすがりのように来る県外の若者もいて多少困惑しました。それでも「叩けよさらば開かれん」と門を開き心を開いて話をするのですが、私を訪ねてきた若者の話の内容は概ね5つに要約されるようです。①職業観や人生について、②事業化に向けたアドバイスについて、③私の人間牧場構想について、④田舎暮らしについて、⑤社会のために働くことについてなどなどですが、40歳も年齢差のある私にアドバイスを求めるきっかけは新聞や雑誌の記事を読んだり、私の知人友人からの紹介で、これまたまちまちです。私のような田舎者に高慢な理論を述べる能力はありませんが、それでも心の意の向くままに論理を分り易く話してやり、納得させて分かれました。

 私が最も敬愛する人の一人に山梨県清里に住む舩木上次さんがいます。彼は私と同じ観光カリスマ百選に選ばれている人ですが、ポール・ラッシュの生き方に強い影響を受けた面白い人物です。彼の紹介で愛媛県出身の若者が昨年やって来ました。彼の紹介なので無碍に断ることも出来ず、人間牧場へ案内しました。彼は大学を出て会社に就職していましたが、思うところがあって松下政経塾に入塾している塾生です。東大を出ている希に見る秀才ですが舩木さんが惚れこむだけあって態度も考えも立派で将来は地元愛媛県へ帰えりたいと願っているようです。松下政経塾といえば松下幸之助さんが「日本はますます混迷の度を深めていく」との危機感から、「新しい国家経営を推進していく指導者育成が何としても必要」との重いから979年に設立されました。これまで200人の人材が育ち政治経済、市民活動など幅広い分野で活動していることは承知していましたし、何人かの卒塾生にもお会いしていますが、立派な人が多いのです。

 彼は日本でも危機だといわれている地域コミュニティのことについて勉強をしているようで、コミュニティのことについて随分話しこみました。コミュニティには大きく分けてテーマコミュニティと地域コミュニティがありますが、一回目は総論的に話しました。人間牧場の水平線の家で彼が何を考え何を感じたかは定かではありませんが、数日前わが家へ再びやって来ました。腰の具合が悪くわが家のわが書斎での面談となりましたが、僅か2時間半ながら鋭い議論に終始しました。彼はインターンとしての修行を希望しているようで、そのつなぎを私がする約束をして去って行きました。

 こんな話も別の若者から持ち込まれました。温泉の宅配です。愛媛県内の温泉のお湯は夜になると札止めで使わなくなるのでその垂れ流しの温泉を宅配したら儲かるかもしれないというのです。「若松さんは県内の温泉自治体に顔が利くのでその辺の実態を教えて欲しいとか、どうすればそれが具体的に事業として成り立つのかといった話まで多岐にわたりました。温泉のお湯を宅配するとは面白いアイディアだとは思いましたが、事業化するには資金調達、施設設備、運営ノウハウなど超えなければならないハードルが幾つもあると、シーサイド公園を事業化したことを参考にしながら話してやりました。若者の突拍子もない話は中々夢があっていいものです。でもこの話は色々な大人に話したものの、「お前アホか」とか、「そんな暇があったらもっと今のことを考えろ」なんていわれ、取り合ってくれなかったそうです。若者の考えは大人には理解し難いものなのです。

 入れ替わり立ち代りやって来た若者たちの行き着く先は何処なのでしょうか。でもそんな悩める若者に手を差し伸べたり話しをっきてやる大人の少ないことに、今の日本の危機感を覚えています。

  「若者が 俺を頼りに やって来る 生きる勇気を 与えて帰す」

  「温泉を 宅配すれば 儲かると 目を輝かせ 儲かる話」

  「ふと見れば 世代の断絶 若者が 相談する人 なきに等しき」

  「足腰と いうがお腰の 悪きにて ジレンマかかえ もじもじしながら」

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