shin-1さんの日記

○夕日は色即是空か空即是食か

 夕日の話をすると夜が明けるまで煙会所で話しこんだ昔が懐かしく思い出されます。夕日と朝日は同じ太陽なのに見る場所が同じでも、見る時間が違えば東の空に朝日となって見えたり、西の空に夕日となって見える不思議な物体です。同じ太陽といつも朝日と夕日という対立軸で考えるところに太陽の見方、考え方があるようです。

 私たちが考えた最初の頃の夕日はまさに般若心経の中に出てくる色即是空でした。形あるものは必ず滅びるという概念です。ですから地域再生を願うまちづくりの世界ではそのマイナスイメージから随分忌み嫌われてきました。しかし夕日の持つ包容力を考えると双海町の夕日は沈むときは色即是空かもしれないけど、沈んでも空即是食の朝日となって生まれ変わってくるのだとこじつけのような話を随分したものです。

 先日本屋の立ち読みで作家新井満の「自由訳般若心経」という本を目にして、そんなくだりを見つけ深い洞察で私たちとは比べ物にはならないけれど同じような考えだと喜びました。新井満は空即是色の世界から世界を見直してみると根本的な考え方や行き方が変わるような気がするというのです。色即是空だけの考えで生きているといつかは俺も死ぬんだ、滅びるんだという考え方になって、生きていても仕方がないとなる。生きていることの実感が薄くなったこの国で人は何かを求めているが、「人間の命のつながりの中で自分の役割を果たすべきという考えや、万物は変化して生まれるという空即是色の考えは今の世の中の再生に必要な価値観かもしれないと思えるのです。

 自分を基点にして考えると自分たちの両親は十代前には100人を超えますし、二十代前前だと100万人もの両親がいるのです。これは凄いことでこの間誰か一人欠けても自分がこの世の中に生まれてこなかったことになるのです。この運命のつながりを考えれば自分で自分の命を断つことの愚かさを考えるはずなのでしょうが、今の日本はまさに生きていることを実感出来ない国なのか一年間の自殺者が3万人を超えているというのです。

 私が考えた双海の夕日論は人間というちっぽけな存在にこだわるのではなく、地球上に存在する全ての動植物は太陽を中心とした天体メカニズムによって生かされているということなのです。365日朝日が昇り、365日同じように夕日が沈む何でもないように見える一年の四季の巡りが連続して動植物を成長させるのです。生まれたものは滅び、滅びの中からまた新たな命が生まれるのです。色即是空と同じように空即是色の世界を今一度考えてみたいものです。

  「その意さえ 知らず唱える 心経も 心開けば 道しるべとなる」 

  「わが命 親親親の 連なりぬ 十代前は 千人もいて」

  「生きたいと 思えど死する 人ありて 何でこの生 捨てきれようか」

  「夕日とは 色即是空と 思いきや 空即是色 生まれる源」 


 

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shin-1さんの日記

○古い看板も役に立つ

 車で遠出する時は車のメーターをゼロにして出発するのですが、今回の九州熊本県天草への旅は近年にない1000キロの長い長い旅となりました。更に追い討ちをかけるように昨日は岡山県津山というこれまた中国山地の山深い所へ瀬戸大橋を渡って走ったものですから往復600キロ、合計すると2回の旅で1600キロも走る驚異的な旅となりました。この2回は場所も遠く最初は公共交通機関を使う計画でしたが、天草は腰の具合、津山はJR津山線が落石で長期の不通とあって、結局は車の旅を選んでしまいました。

 昨日は雨後の天気に恵まれ温かく、暖冬の影響でしょうかもうあの山や峠を越したら鳥取という山深い中国山地の山々は例年なら白い雪を被っているのに、落葉樹の木々が何処までも広がる冬景色でした。

 高速道路のサービスエリアで一服し中国・四国エリアの地図を手に入れ、カーナビを相手に走るのですが、私のカーナビ情報が古いこともあって、日々更新している地図上の市町村名とは合致しない分注意をしながら走りました。知らない道を走ると合併によって「えっこんな名前の市町村あったっけ」などと首をかしげるような場面にも時々出くわし、結構楽しいものです。

 私のカーナビは前述のように情報が古いのですが、かえってその方が私にとっては古いものと新しいものを比較できて便利ですし、地域の人々に道を聞いても意外と旧市町村名で答える人が多いので助かります。

 それにしてもあちこちの合併した市町村では、その対応が追いつかないのか、それとも気付いていないのか、気付いていても予算がないのか、町内にある看板の大部分がまだそのままで、アンバランスな感じがしました。中には国道の市町村名を示す看板などは旧市町村名の名前の看板をそのまま使い、いい訳程度に「旧」という小さな文字を看板の市町村名につけて代用しているものも随分見られるようです。折角作って長年利用してきた愛着ある看板ですから勿体ないので、私的にはこの看板をこれからも長く使ってほしいと願っています。古い看板も見方によっては結構役に立つものなのです。

 しかし、これらの看板類の中には再利用のためペンキを塗って無理やりリニュアールした不自然なものや、美観を損ねるようなものまであって、何となく看板王国日本の醜い部分が見え隠れし始めました。合併を機にこの際看板を地図上に落とし、景観行政という観点から無駄な看板を一掃するような大胆見直しが必要なのかも知れません。

 いつの頃からか日本全国のあちこちでは看板に混じって安上がりなのぼり類がいっぱい立って、これも町の美観を損なう大きな原因となっています。道の駅ののぼりもパチンコ屋の「新台入れ替え」などののぼりも、これほどあっては風雨に晒され汚いのです。

 誰かが提案し、行政と住民が話し合って、このような身近な所から警官を考えて行動に移すことも地域づくりなのです。

  「そういえば 昔の名前で 出ています 町の名前を 示す看板」

  「旧と新 混合したまま 同居する 日本の十八番 曖昧模糊だ」

  「そこここに 雨に打たれて 幟立つ 客引くつもりが 客は遠のく」

  「旧看板 今ではその名 懐かしく 見上げつつつも 道を急ぎぬ」  

  


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