shin-1さんの日記

○知識化された社会と感じられる社会

 私たち人間は50年前、いや10年前と比較してみただけでも随分沢山の知識を習得するような知識環境になってきました。自然が危ないとか地球温暖化を食い止めるためにはCO2を削減すべきだとか、環境問題だけに特化しても様々な知識を持つようになりました。しかしそれほどの知識を得てもまだ「べきだ論」を吐き、まるで絵空事のようにやらないことをやれないと他人に転嫁しながら生きているのです。現代の文明は見た目には進化し知識化された社会を作ってきたように見えますが、一方で私たちから感じられる世界を失わせたように思うのです。

 日ごろの何気ない暮しの中では感じられる世界がどんどん狭められているように思うのです。今朝目覚めてパソコンの前に座る。スイッチを入れたパソコンの画面からは検索さえすれば沢山の知識がどんどん入ってきます。しかしそれは単なる知識であって、その知識を得ようとすればするほど感じる世界が遠のいてゆくことに気付くのです。朝起きて外に出て感じる外気の冷たさや風の音は私たち人間にとって一体何を意味するのでしょう。肌や目、耳など五感で感じられるものは、最早そのことを忘れた人間にとっては人間性を回復する大きな力になるはずなのですが、それらは現代人がものの価値と定めているお金などの損得勘定からすれば何の価値もないものかも知れないのです。でも陽射しの温かさや川の水の清らかな流れも、感じられる社会として価値があることを忘れてはならないのです。

 最近の人間社会は感じられる部分が少なくなりました。家族という一つ屋根の下に住んでいる最小の集団さえ別々に生き、別々なものを食べ、別々な部屋で暮らしています。故に尊属殺人のような家庭内犯罪や幼児虐待など日本の社会ではこれまで希だったことが日常茶飯事の如く発生しています。四季の恵みの中で行われてきた年中行事もコミュニティの崩壊によって季節を感じられなくなってきました。第一次産業といわれる生産活動からは自然、人間、村社会の力強さや矛盾さえも包含して感じられる社会でした。

 日本が大きな近代化を果たしたのは幕藩体制が崩れ欧米の物質文明を真似た明治維新と、第二次世界大戦に敗戦しアメリカのこれまた物質文明を真似た戦後でした。物質文明的には豊ではありませんでしたが、少なくとも明治維新前までの日本には感じられる社会があったと思われるのです。どうやら日本人は物質文明の豊かさを手に入れた反面、感じられない社会に船出してしまったようです。

 知識化された社会を否定して生きていくことはとても勇気のいることであり、多分知識化された社会の恩恵を受けた者にとっては至難だと思うのです。でも本当にその人が人間として感じられる社会に生きようとするならそれは決して難しいことではないことだと思うのです。私たちは、いや私はもう一度「感じられる社会」と「知識化された社会」の一体性を取り戻す努力をしたいと願っています。

 宵も悪いも含めた感じられる社会の実現こそがこれからのまちづくりかもしれません。

  「感じずに 知識化された 社会生き ただ漠然と 暮らす愚かさ」

  「少しだけ 自分の内面 覗き込む 矛盾頭を 持ち上げてくる」

  「年賀状 心をゆする メッセージ 幾つかありて しばしふけれり」

  「世の中が これ程知的に なりとても 禅教極めた 坊主にゃ勝てぬ」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○原因はバッテリー

 一年間お世話になったわが愛車プラッツの洗車をしようと車庫に入り、エンジンキーを差し込んで始動しようとしたのですが、グズグズという鈍い音だけでセルが回らず、エンジンがかからないのです。エンジンルームのカバーを開けては見たものの一向に原因がわからず、結局は近くの自動車屋さんに来てもらう羽目になりました。馴染みの自動車屋んは、電話口で「はい分りました。エンジンがかからないのですね」と言っただけで早速5分も経たないうちに新品のバッテリーを積んでやって来ました。「バッテリーが寿命のようです。取り替えますか」。「はいお願いします」と言うなりさっと取替え、エンジンを始動すると先程の鈍い音とは見違えるような軽やかな音でセルが回りエンジンの音まで軽やかになったような気がしました。年末で仕事を終えようとしていた好時期でのハプニングだっただけに6千円の想定外出費も、旅先や新年早々のトラブルでもなく「まあいいか」てな感じで受け止めました。

 それにしてもバッテリーにも寿命があることを始めて知りました。自動車屋さんの話によると最近のバッテリーはまず4年くらいが限度だろうと言われました。私の場合このバッテリーは新車から変えたことがなく6年も持っているのですから十分元は取った計算になります。バッテリーは使うほどいいようで、たまに車に乗る人のバッテリーは寿命が短いそうです。

 さて人間たる私のバッテリーはどうでしょう。バッテリー液を入れると同じ手入れと新しい電気を充電すると同じ学びが必要だと思いました。バッテリー液は手入れです。いくらいいバッテリーを持っていても手入れが悪いと年末のように声が出なくなったり腰痛に悩まされたりします。酒もタバコもコーヒーもやらない私の発散は余りありません。趣味は適当にあるのですがそれもストレスを解消する所まではいっていません。妻と約束した「定年後は旅行でも」も「定年退職記念カナダ旅行以来ご無沙汰ですし、人間牧場もバッテリー液のような役割を果たせないままです。今年はバッテリー本体の手入れをして、長持ちするような工夫をしたいものです。腰痛を直すため整体院に出かけましたが、その際も先生から体をいたわって使うように懇々といわれました。年が明けて今年の一月は既に日程が立て込んでいるようなので、この点に注意をして快食・快眠・快便に健康的なリフレッシュを加えたいと思っています。

 もう一つ、バッテリーに欠かせないのは充電です。昨年も様々な人と情報のネットワークで学びの充電をしてきました。しかし悲しいかな昨年一年間を振り返ると凄いと思うような電気ショックや異文化ギャップには出会いませんでした。それは私の行動範囲が広いようでも実は深みがなかったのだと思います。広さはこれ以上広がらないのですから深みを出す工夫が必要です。そのためには一つ一つの仕事に思いを込めて生きることしかないのです。今までの私は既に充電した電気で動いていた感じがします。新しい電気を起しそれを充電することは、容量を増やすことと古い電気を捨てなければなりません。古い電気はもう役に立たないのですから入れ替えが必要でしょう。

 新年を迎えるにあたり、自分のバッテリーについて考えてみました。

  「バッテリー 人も車も 同じです 古くなっては 動くはずなし」

  「捨てないと 知識も知恵も 出入らない 古くなったぞ 俺の頭は」

  「早起きし メル友宛に メール書く 新春正月 俺の決意を」

  「一年の 計は元旦 決意して 胸張り神に 二礼二拍手」

[ この記事をシェアする ]