shin-1さんの日記

○-とⅠとT

 この3つの文字は何を意味するか考えてみてください。これは十人十色といわれる人間の特徴が基本的には三つのパターンに分かれているという話です。まず-ですが、これは商業であればデパートです。何でもあるし間口も広いが奥行きが広くないという人間です。人間だと何でも一応知っているし何でもそれなりにこなせるというタイプです。しかし知っているようで意外と底が浅いという人間です。最近は知識人のこのタイプが増えているようです。

 次にⅠというのは専門店です。服だけ、帽子だけ、靴だけしか売っていませんが、こと服や帽子や靴のことなら何でも知っているし何でも揃う、間口は狭いが奥行きが深いという店です。職業でいうと専門家タイプで職人さんはこの部類に入ります。

 さて-とⅠを合わせたTというのはどういう店でどういう人間なのでしょう。今まで訪ねた店では老舗といわれるデパートかも知れませんし、マルチ人間といわれる人かも知れません。しかし私たちの身の回りを見渡してみて-やⅠのような人間にはよく逢うことが出来るのですがTといわれる人は少ないように思います。-でもなくⅠでもTでもない中途半端な人間である私にとって、こんな人間論を語る資格はないのですが、人づくりやまちづくりを考える上でこのタイプの組み合わせは非常に大事なことだと思うのです。

 Ⅰだけあるいは-だけのの人間で組織を作っても組織は上手く動きません。Ⅰと-が適当な数だけ混じりあい、時には希なTがリードすると思わぬ効果を上げるものです。時にはⅠが-を批判したり-とⅠがしょうとつしたりすることもありますが、結果的にはTのとりなしで上手く行くものなのです。

 最近は離婚が常識の世界になりました。子はかすがいと隠忍な人生を送るより、母子や父子で再出発をすることの方がはるかにいい人生だと私も思います。でも最近の離婚の傾向は「フィーリングが合わない」「性格の不一致」「考え方が違う」「こんなはずではなかった」なんて、まるで理解に苦しむような原因で離婚することが多いようにも思えてなりません。結婚を決意する場合相手のことが嫌だったら結婚はしません。ところが結婚相手を100点だと思って結婚するから、結婚後の生活でこんなはずではなかったと減点が続き結果的に相手の悪口を言い合って破局へと至るのです。私の持論なので誰にでも当てはまるとは思いませんが、結婚をお互い0点から勧めては如何でしょう。結婚後の生活でお互いが点数を加点し合い一生をかけて限りなく100点に近づけようとすることが夫婦の人生だと思うのです。

 -とⅠというまったく違った人間が結婚するのですから性格なんて元々不一致ですし、考え方も行動も違うものなのです。二人で努力すれば-とⅠが組み合わさってTのような人間になるのです。-とⅠが離婚するのは自由です。でも-とⅠから生まれた子どもは親のわがままのお陰で人生の出発でつまずく結果になるのですから余程の決意をいなければなりません。

 -とⅠという人間を単純に色分けすれば2種類のはて、私はどっち、妻はどっち、わが家は妻がⅠで私が-かもしれないと思いながら結婚以来37年を振り返ってみました。まったく見ず知らずの妻と出会い、何で私の心を理解してくれないのだろうと思ったことも何度かありました。多分女性が故に私の数百倍も何で理解してくれないのだろうと思ったに違いありませんが、-たる私をⅠたる妻は理解し二人でTになる努力をしてきました。後に残された二人の人生の日数や時間を思うと、今まで以上にTになる努力が必要だと思います。二人が健康で一生を終える保障は何処にもありませんから、お互いが介護しながら生きていく覚悟も必要なのです。「-たる私から、Ⅰたる妻へ、お互い助け合ってTを目指して頑張りましょう」

  「どうだろう 俺が-なら 妻はⅠ 二人仲良く Tを目指そう」

  「百点の 相手などない 世の中は ゼロ点思えば 少し増えたか」

  「どちらかが 弱る介護の 覚悟決め 夫婦仲良く 持ちつ持たれつ」

  「宝くじ 今度もハズれ 吐息つく 当たらないのが 幸せかもね」



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shin-1さんの日記

○ランチェスター第二の法則

 昭和19年に生まれた私は、戦後の混乱期に育ったため「日本が第二次世界大戦(太平洋戦争)でなぜ負けたか」という、そんな話を子どもの頃随分聞かされました。「日本の竹槍に対しアメリカの戦闘機では勝ちっこない」「神風を信じた精神論日本と物と情報という科学的アメリカでは勝ち目がなかった」など、復員した人たちから武勇伝も含めて沢山の戦争逸話混じりに日本とアメリカの違いを聞きました。戦後62年経った今は、終戦記念日や原爆投下日などに僅かに聞いたり思い出したりする程度で、私たち庶民の記憶の中から戦争が消えていくことを少し残念に思うし、平和が故の出来事だとも思ったりしています。

 中学生った頃だったと思いますが、ある大人からランチェスター第二の法則という難しい戦争の話を聞いたことを今でも覚えています。「アメリカの戦闘機は50機、日本の戦闘機は48機、どちらが勝つか?」という話です。若い私は日本びいきもあってか「日本の48機の方が勝つ」といったのです。「それは何故?」、私はその質問に「日本の戦闘機とパイロットは優秀だから」と答えました。「じゃあパイロットも戦闘機も々優秀だったら?」、私は「五分五分」と答えたように思います。

 その人は図解しながら第1回目の空中戦は50機対48機でアメリカは9機撃墜されるが日本は10機撃墜されるというのです。「そんなことはやってみないと分からない」という私の発言を抑えて第2回の空中戦でアメリカは6機撃墜され日本は8機撃墜され35機対30機になるというのです。こうして第3回6機撃墜・7機撃墜=29機対23機、第4回4機撃墜・9機撃墜=25機対18機、

第5回3機撃墜・5機撃墜=22機対13機、第6回3機撃墜・8機撃墜=19機対5機、第7回1機撃墜・3機撃墜=18機対2機、第8回撃墜0・2機撃墜=18機対0、つまりランテスター第二の法則によると8回の空中戦で最初2機しか違わなかったのにアメリカは18機も残り、日本の戦闘機はゼロになったという話でした。納得がいかなくて何故何故と質問したその回答は忘れましたが、今でもその記憶は生々しく残っていて、イギリスの航空工学専門家であるランチェスターという人のこの理論を採用したアメリカはが戦争に勝った理論を教えてくれました。その人は先日亡くなりましたが偉い人だと子供心に思ったものです。ランチャスターの理論が正しかったからサイパンは日本3千対アメリカ6万8千=日本ゼロ、グアムは日本1万8千5百対6万=日本ゼロでした。

 ランチェスター第二の法則が正しければ、アメリカのような大都市と日本のような田舎の戦争は日を見るより明らかでやる前から勝敗は決まっています。つまるところ小さなまちは余程のことがないと勝てないということです。そういう意味では平成の大合併は70を20にして少しでも有利に空中戦を戦おうとしているのですから、いいことに違いはありません。しかし戦闘機たる自治体は金もなく弾薬もなくボロボロですし、戦闘機に乗るべきパイロットなど素人ばかしです。戦闘機は古いけれど今こそ優秀なパイロットを育てなければまちの未来はないのです。人づくりの意味はこんな理論でも明白です。

  「日本が 何故に負けたか ランチェスター 今も分らぬ 第ニの理論」

  「俺の街 金もなければ 知恵もない これでは戦 する前玉砕」

  「ライバルは 人ではなくて 自分なり 己が力を 鍛えなおして」

  「何もない 言いつつあった」 人がいた いつの時代も 人が財産」 


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shin-1さんの日記

○過疎か適疎か

 市町村合併が進み、3千を超えていた市町村の数も1800台以下になっているようです。愛媛県の市町村も20市町となり、合併せず最後まで残っている松野町では相変わらず町内がゴタゴタして、議会と町長と町民による確執はリコール運動や住民直接請求へと発展しているようです。合併しない所は合併はしたくないと主張し、合併した市町の殆どが合併してもメリットなんてなかったと口々にお互いを罵り合っているようで、今回の合併は何となくすっきりしないまま推移をしているようです。

 一昨日愛媛県知事選挙が告示されましたが、かつて他選を批判していた人が多選に立候補するのですからどうなっているのか庶民は中々理解に苦しむところです。それでも自治会長という職責がら選挙遊説のギャラリーとして出なければならず、地元議員さんの顔を立てる格好で昨日の午前中参加をしました。市役所地域事務所の前には多くの方々が見えられ熱心に聞き入っていました。失政もなくそれなりの評価を上げている人だし、他の候補者と比較しても存分の働きをしてくれそうな人だけに、私個人としては応援したいと思っています。それにしても奥さん同伴とは凄いことでレディーファーストのどこかの国のようです。私などはとても真似の出来ないことです。

 候補者は現職だけあって国会議員、市長、県会議員、市議会議員というそうそうたる顔々を引き連れての遊説です。その人たちの話を聞くと何か間近に迫った自分の選挙のことを考えての応援のようにも見えました。(公職選挙法のこともあるのでこのあたりで止めておきます。)

 市町村合併で地域づくりの指導者、特に役場職員の顔が見えにくくなりました。どの町に行っても一人や二人は熱心な指導者がいたものですが、その人たちは組織の中に埋没しこれまでのような働きができないままなのです。このままでは地域づくり運動や活動が逆戻りするのではと心配しています。

 私たちの町では昭和30年代後半から始まった過疎からの脱却がまちづくりの大きなテーマでした。しかし過疎対策と称して色々な事業をやればやるほど皮肉なことに人の数が減っていったのです。今回の市町村合併で一時的に5千人余りの町が41千人の市になったので、何か人口が増えたような錯覚になって、誰も過疎のことを話さなくなりました。勿論県知事選も市長や市議選でもその話など微塵も出ませんでした。集落の殆どが限界集落になっているこんな重大なことを気付かず、気付いても気付かないふりをして何も行動を起さないでいる人たちが多いのです。

 田舎の悲劇は自分で飯が食える能力のある人がどんどん都会へ出て行き、先祖から貰った財産にしがみついてしか飯の食えない人と高齢者が残るという、言葉は適切ではありませんが「カス化現象」が問題なのです。一定量を確保しその人たちの質を高めて行かないと町は駄目になるのです。

 私はこれまで「過疎」という言葉より「適疎」という言葉を使ってきました。双海町という町の人口が最大値を示していたのは昭和30年の合併当時でした。この人口を100とするなら今の人口は50です。100が50になる、これは完全な過疎です。では双海町の人口は何人が最もいい人口規模かと問われたら、100の昭和30年か現在の50か誰も答えられないのです。つまり数値的に見た双海町の過疎も、住んでる人にとっては適当かも知れないのです。人が減ることは決していいことではありませんが今の人口を適疎と思いそのような自立したまちづくりを進めてゆけばまだまだ双海町の人口は適疎の範囲内であると思うのです。でも過疎と思っても何もしないことより、適疎と思って何かを始める意味を考えたまちづくりをこれからはしたいものです。

  「この町の 人口減って 過疎という 俺は適疎と 思っているが」

  「この地域 限界集落 人はいう 寂しい風が 墓標を撫でる」

  「参議院 勝つため選挙 するという 議員のために 選挙かなわん」

  「国二分 するほど議論 しながらに ちゃっかり握手 選挙分らぬ」 



 


 

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shin-1さんの日記

○豊かさとは何か

私たちは日々の暮しの中で何か分らないけれど満足しきれない部分を感じながら生きています。お金ももっと欲しいし、もっと幸せになりたいし、自分の持ってる願望を成就させたいとも思っているでしょう。さらに不透明な時代なのでしょうか、将来への不安を隠しきれないでいるようです。「豊かになりたい」、誰もが思っている「豊かさ」とは一体何なんでしょう。

 豊かさには大きく分けると①取得のゆとり、②時間のゆとり、③空間のゆとり、④余暇・学びのゆとり、⑤安心・安全のゆとりという5つの判断材料があるように思います。

 ①所得のゆとり

 私たち庶民的な人間はお金持でない限り、お金持ちになりたいという願望を多かれ少なかれ持っています。毎日あくせく働くけれど、一向にお金が貯まったという実感はありませんし、新聞やテレビでセレブな暮しが紹介される度にあんなお金持に一度はなってみたいと思うのは無理からぬところなのです。しかし物のない時代を経験した私のような世代から比べると今の世の中はまるで天国のようなものの豊かな社会に暮らしているのです。要はその豊かな暮しを維持するために働いているに過ぎないと思った時、豊かさはどこか遠い存在になってしまうのです。所得は働きの代償です。贅沢な暮しにはお金の裏づけが必要です。もっとシンプルに生きて、所得と生活のバランスをしっかり考えれば貯蓄は自ずから増えてくるのです。「入るを知りて出るを考える」ことこそ経済的ゆとりを生む最大の法則かもしれません。北海道夕張市の経済破綻は街レベルの取得のゆとりがなくなった結果だと思うのです。私は田舎に住んでいますが所得が少ない分家庭菜園での野菜作りや魚の頂き物などによって所得の少なさをカバーできています。

 ②時間のゆとり

 人には平等に一日24時間、一年365日×時間が与えられています。その三分の一は食うための働く時間です。三分の一は寝る時間です。残りの8時間が自分お自由になる時間なのですが、その中には食事の時間や家族のために費やす時間などの準束縛時間が含まれていますから、残された自由時間はそんなに多くはありません。でもその残された時間をどのように有意義に使うかによって人生の生き方が決まるのですから、あだや疎かにこの時間を使ってはならないと思います。田舎に暮らしていると通勤時間は都会に比べ少なくて済み、その分だけでも随分時間のゆとりが出来るはずです。

 ③空間的ゆとり

 これはズバリどんな家に住みどんな自然が周りにあるかだと思います。私は貧乏ながら660坪の敷地内に建っている77坪の家に住んでいます。さらに家の横に煙会所という私設公民館や海の資料館まであるし、セカンドハウスと呼ぶことは出来ませんが、海の見える丘の上に人間牧場まで作っています。こんな贅沢な空間的ゆとりは都会では考えてもできることではありません。

 ④余暇・学びのゆとり

 さて時間的なゆとりをどのように意義あるものに出来るか、それは考え方と行動力が生む結果なのです。時間的なゆとりがあってもパチンコやゴルフ三昧だけでは決して充実した余暇時間の過ごし方にはならないのです。その余暇が学びによって新しい何かが再生産されるような、まさに生き方なのです。週末には近くの温泉に出かけてリフレッシュしながら健康維持を図ったりすることもその一つかも知れません。我が家へは沢山の人がやってきます。人と出会い人によって人となる、また自分の住んでいる地域のためにボランティア活動をすることも価値ある生き方なのです。

 ⑤安心・安全のゆとり

 水の美味しさ、空気の美味しさ、交通事故の危険性がないか、災害時の備えは出来ているか、年金での暮しや生命保険の加入はどうかなど、安心と安全は人間が生きていく上でとても貴重なテーマとなってきました。

 結局「あなたにとって豊かさとは何か」と問われたら、これら全てのゆとりがバランスよく満足度が高いことだと思います。一度この5つのテーマごとにチェックリストを作ってバランスシートを作ってみては如何でしょうか。

  「豊だね 俺の人生 五項目 バランス良くて 得点高い」

  「金はない けれども心 豊かです ゆとり感じる 今の生き方」

  「豆のつく 頭と豊 あやかって 丹波黒豆 おせちいただく」

  「空間も 時間も間がつく 人間も 間にこそ心 あるのだろうか」

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shin-1さんの日記

○初詣にお寺

 普通初詣は神社が多いのですが、私の今年の初詣は今治市玉川町の仙遊寺となりました。昨日玉川町の成人式に招かれたのを機に、私の腰痛の具合を心配した妻が孫同伴で運転手をかって出てくれたので少し早めの7時に家を出て仙遊寺にお参りし、暫くの間住職さん夫妻やお寺で働く方々と談笑しました。このお寺の住職は小山田憲正さんといって、お寺の住職でありながら地域づくりに熱心な方です。彼は元々お寺出身ではありませんが厳しい修行を積んでこの寺に入り、火事で焼けたお寺を再建したり、地域の子どもに少林寺拳法を教えたり、源流という地域づくりグループの代表として活動したりと、まあ八面六臂の活躍をしている人です。お坊さんらしく穏やかな人ざわりは誰からも愛され、このお寺には四国八十八ヵ所という名刹としてだけでなく多くの人が集まってくるのです。もう20年前に彼と出会った時はあどけないような感じがしましたが、その後の活躍は目覚しく、事業家といった方がいいほど様々な事業を手掛けているのです。宿坊や道場、炭窯、温泉と止まるところを知らないほど夢を形にしています。

 私も小山田さんを通じて玉川町の多くの町民を知り、玉川町の初期の頃のまちづくりのお手伝いを随分させてもらいましたが、その一つ一つが形になって大きな成果を収めているのですから、天晴れとしか言いようがありません。

 もう一つ、彼の大きな仕事は四国八十八ヶ所を世界遺産にするという大きな夢があります。最初私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議でこの事業に取り組んだ時は多くの人が反対したり冷ややかな目で見ていました。久万高原町の渡辺浩二さんと一緒になり出口の見えない世界遺産化の会の会長としてこれまで地道に活動をしてきました。多分世界遺産なんてとだれもが思っていた昨年末、思わぬ方向に急展開し始めました。世界遺産候補地のリストアップをする期限が設定され、四国からは八十八ヵ所が候補地として4県の県庁が動き出したのです。これまで何度も県庁へのアタックを試みましたが、殆ど門前払いの格好で相手にさえしてもらえませんでした。錦の御旗というのはこのことでしょうか。驚くような進歩に、私たちも目を丸くしました。勿論世界遺産化には沢山の高くて難しいハードルが待ち構えていることでしょうが、それでも第一ラウンドのゴングが鳴っただけでもうれしいことです。これも小山田さんや渡辺さんのの飽くなき執念が実ったものと思っています。

 住職さんの奥さんも活動家で町の教育委員をしたり何かとさわやかな風をふかしてくれます。娘さんも後を継ぎ昨日は納経所で納経帳を書いておられました。

 妻は束の間の時間ながら奥さんから精進料理に欠かせないゴマ豆腐の作り方を教わったり、息子夫婦のために安産のお守りを買ったりしていましたが、私たちと一緒に仏様に手を合わせる孫の姿もいいものでした。健やかに育って欲しいものです。

 成人式の講演も無事終り、帰りのコース沿いにある奥道後のホテルでバイキング昼食を3人で食べ、食事券とセットになっているジャングル風呂でひと風呂浴びて帰って来ました。

  「お願いは 自分の心に するものと 無理な願いは ほどほどにして」

  「世の中は 何処でもそうだ 風見鶏 冷ややか人が 手のひら返して」

  「この坊主 何処かの社長じゃ あるまいか 家は建てるし 温泉までも」

  「ゴマ豆腐 レシピをメモに したためる 妻に一声 料理は愛よ」 

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shin-1さんの日記

○三つのリンゴ

 私は毎朝リンゴとキャベツをもう二十年も朝食に食べているリンキャベ派です。リンゴとキャベツにどのような栄養素があるのか深く研究しているわけではありませんが、妻も私に見習って毎朝食べていて、それがよいのか殆ど病気もすることなく元気に働いていますから、これからも続けようと思っています。

 ところで今朝はまちづくりにつながる三つのリンゴの話です。まず一つは「ニュートンのリンゴ」です。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見しました。私たちは日々の暮しの中で当たり前と思っていることがいっぱいあります。でも自分が一歩外に出た時、その当たり前が実は当たり前でないことに気付くのです。私の町のサイレンも一つの事例です。まちづくりが始まるまではあのけたたましい災害用のサイレンでした。子どもの頃からなっているサイレンですから何の疑いも持たずに暮らしてきました。ところが色々な町に行くようになってミュージックサイレンを聞くようになると、その音がまるで雑音にしか聞こえなくなったのです。「慣れると怖いなあ」と思ったし、この「雑音サイレンをミュージックサイレンにしたらさぞや快適だろうなあ」とも思いました。しかし気がついてもそれを変えるだけの勇気と行動がありませんでした。幸い私はまちづくりへの参加参画を促すセクションに異動したのを機にみんなにその話を持ちかけ、ついには無線放送で夕日の町に相応しい現在の「夕焼け小焼け」の音楽に変えたのです。町のイメージは音という世界で一変しました。これはニュートンの「発見」というよりは「再発見」かもしれません。でも身の回りにあるものでも「再発見」すれば価値があるものは随分あるのです。

 二つ目は「アダムとイヴのリンゴ」です。このリンゴは禁断の実ですから毒があるということをみんな知っています。だから百人が百人手を出さないのです。私が出会った夕日はまさに禁断の実であったように思うのです。「双海の夕日が美しいから地域資源にしてまちづくりをしたらどうか」という私の提案に、「夕日なんて日本中、世界中何処にでもある」とみんなが口をそろえて反対しました。私はみんなが反対するから成功すると思い「夕やけプラットホームコンサート」を思いつき実行しました。かなり激しい足引張りにも耐えながら20年間、様々な夕日夕焼け物語を作る努力をした結果現在の夕日の日本で一番美しいオンリーワンの町になったのです。皆が賛成するようなもの全てがいいものとは限りません。賛成しないリスクを乗り越え初めて甘い果実に行き当たるのだと思うのです。私の町はかつて「町名変更」という町を二分するような大騒動を経験した町です。町外の人から見れば町の騒動は恥ずかしいことに見えますが、実はこの「町名変更」騒動で培った町を二分する大議論が「反対意見も賛成意見もお互いが言い合う土壌が育っていたのです。リンゴに毒があっても抵抗があっても挑戦していく、アダムとイヴのリンゴは「挑戦」し続ける教えです。

 三つ目は「ウイリアム・テルのリンゴ」です。人間の頭の上に乗せたリンゴを弓矢で射抜くことなんか普通の人では出来っこありません。ですからそんな場面に出くわしたらみんな目をそむけ誰もやろうとはしないのです。人間は何気なく生きているようでもそれなりに目的を持って生きているものです。昨日まで正月でした。殆どの人が神社やお寺に初詣に出かけ、あるいは自分の家の神棚にお光をあげて今年一年の願い事を神に祈ったはずです。これはある意味個々人の目的であります。今年こそは日記をつけよう、タバコを止めようなんてささやかな目標を立てるのですが、一週間、一ヶ月するとその目標は計画倒れに終わってしまうものです。人間の心の弱さは万事こんなものです。

 私は夢を食べる人間のようで、シーサイド公園に「童謡の小路」を作る計画を考えました。しかしお金がありません。シーサイドのあちこちに童謡の歌碑を数箇所設置する構想には250万円ものお金が必要でした。でもその夢に投資をしてくれる郷土出身の篤志家がいて実現したのです。童謡の小路はささやかで小さな目的でした。でも頭の上に乗せたリンゴという「目的」を射抜くためにはしっかりとそれを見据えなければなりません。そうすれば無理だと思ったリンゴを貫通することができるのです。

 「ニュートンのリンゴ」も「アダムとイヴのリンゴ」も「ウイリアム・テルのリンゴ」も一つだけでは上手く行きません。まちづくりには三つのリンゴが必要なのだと思ういます。

  「ニュートンは リンゴ落ちるで 引力を 私は何を 発見するのか」

  「アダム・イヴ リンゴ食うなと いう教え 敢えて食うのも 挑戦ですよ」

  「ウイリアム テルはリンゴを 矢で射抜く 目的持てば 実現するもの」

  「なるほどと 三つのリンゴ 理解する 見る食う射抜く 力量必要」 

 

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shin-1さんの日記

○今治市玉川町の成人式

 今日1月3日は私にとって今年の初仕事で、今治市玉川町の成人式に招かれ出かけました。玉川町へは越智郡玉川町の時代からもう二十年も通っていますが、その当時から顔なじみの井出サツミさんは役場を退職された後も請われて公民館長をやっていますし、越智憲行さんも教育課長として活躍しています。さらに当時公民館のマスコットガールだった渡部妙子さんいて、まるで親戚へ里帰りするような懐かしい雰囲気で出迎えてくれました。昨年11月井出館長さんから、相次いで越智課長さんからお声を掛けてもらったので、むげに断ることも出来ず喜んではせ参じました。

 しかし今時の若者、特にこのところ何かと話題に上る成人式については、毎年何処かのまちの成人式の記念講演を頼まれて行くのでですが、何処となく不安で、どんな話をしようかと迷いながら行くのです。今日もそんな少しばかりの不安を胸に壇上に上がりました。今日の会場はグリーンピア玉川という立派な文化施設で会場には約80名ほどの成人者と恩師のような先生、それに地元出身の市議会議員さん程度の来賓、でかつてのような沢山の来賓に囲まれた華やいだ雰囲気ではなくごくシンプルな成人式でした。

 固定席には和服姿の着飾った女性に混じって紋付袴とスーツ姿の男性がお行儀よく並んでいました。最前列には私の話に敏感過ぎるほど反応するド迫力の若者が陣取っていました。普通の講師だともうこれだけで圧倒されるのでしょうが、そこは昔から今日まで若者の現状を体験しているので、むしろその若者たちに焦点を当てながら面白おかしく飽きないような、それでいて少しためになる話をしました。「あっという間の一時間だった」「ええ話だった」など記念撮影の合間に新成人と交わした会話からは概ね良好な反応が帰って来ました。そしてあの最前列の若者たちが別れ際数人ハイタッチをしてくれたのです。嬉しいですね。

 最近は成人式に記念講演などのような催しはどんどん姿を消しています。若者を交えた実行委員会でも記念講演は嫌だという若者の発言が主流を占めて、若者の要求テーマが通る形が良しとされるような風潮になってきました。しかし成人式は大人への仲間入りの大切な儀式です。若者にとって必要なテーマをきっちりと叩き込むことも大事なのかも知れない思います。

 「朝4時に起きて美容院で着付けと化粧をしたので少し眠い」とあくびをするあどけない着飾った娘さんや、紋付袴の意味さえも分らず高いお金を出して貸衣装を借りて出席した男性を、ここまで育てた両親の苦労は大変だったんだろうなと、一人一人に壇上から目をやりながら約一時間話した私の話が、若者たちの心に染みたかどうかは分りませんが、それでも胸のポケットから紙切れを出し時折メモをしている3人ばかりの若者の姿を見ました。今までの成人式にはなかった光景でした。

 記念講演と記念写真撮影が終わり妻の迎えの車に乗るとき「おいちゃんありがとう」と声を掛けてくれた何人かの言葉に胸を熱くして会場を去りました。

  「若者は 話を聞かない 言うけれど 俺の話は ちゃんと聞いたよ」

  「前列に 座った茶髪の お兄ちゃん 俺と掛け合い 面白可笑しく」

  「三万円 出して着飾り 式に出る 親の懐 脛も小さく」

  「もしあげる 言われりゃ俺は 若さだな 若い頃には 気付かず今は」

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shin-1さんの日記

○脳の活性化

 「私は元々頭が悪い」と思っています。だって高校3年、中学3年の合計6年も英語を習っているはずなのに、世界の共通語といわれる英語ですら話せないのですから余程頭が悪いのでしょう。それに加え年齢が高くなるにしたがって物覚えも悪く、物忘れも多くなってきました。他の事は別として私は人の名前を覚えるのが得意でした。ですからかなり前に知り合ったり出会った人は妻が驚くくらい今でも良く覚えているのです。ところがつい最近、愛媛大学法文学部の非常勤講師をするようになって僅か20名余りの大学生の名前を覚えられないことに気付いたのです。一週間に一回の授業では毎回講義前に出席簿に沿って名前を読みあげ返事を求めてチェックするのですが、学生は全国から集まっていて読みにくい名前が多く、そのことに集中するため出席簿に目が行って本人の顔と名前が未だに一致しないのです。何とか一年間で覚えたいと思っていましたが、結局は一講義間隔が週間というスッパンの長さもあって覚えずに今年の講義を終わってしまいました。ああ嘆かわしきかなわが脳は・・・・・・。

 物覚えの悪さは年齢のせいだと誰もがいいます。私もその言葉を信じていました。しかしある人が言っているように、社会の雑念や関係者の少ない子ども時代や若い時とは比べようもないほど歳を取れば取るほど知り合いの数も増え、会う人も多いのだから、名前を忘れたり覚えきれないのは当たり前だで何の不思議でもないという話は、私の頭の悪さのせいではないことに気付かせてくれたのです。私たちは絶えず忘れるというストレスを抱えています。ですから忘れまいと努力をするのですが、努力すればするほどストレスの度合いは高くなって、ストレスが物忘れを誘発するのです。

 しかし物覚えが悪くなったり物忘れがひどくなったことを歳のせいにして何もしないのでは、かえって脳は退化するそうです。脳には前頭葉というのがあって、判断力、想像力、抑制力、忍耐力、意志力、好奇心など人間らしい能力をつかさどっていますが、これらを活性化して活き活き人間らしく生きていくためには脳の活性化を心がけねばならないのです。もの覚えの裏側に脳の活性化が必要なのです。本を読んだり人と話をしたりしながら絶えず脳が活性化するよう訓練すれば百歳はおろかそれ以上に生きてゆけるのです。勿論能力を保つ体力も鍛えねばなりません。人間にとって能力と体力は車の両輪なのです。

 私の能力の鍛え方は読むこと、聞くこと、見ることという知識習得と同時に書くこと、喋ること、実践することという知恵放出に重きを置いています。特に書くことはものすごく脳を鍛錬してくれるような気がします。この一年殆ど毎日書いているブログは大きな成果をお染めているように思えるのです。しかしパソコンに向かって文字を打つ書くという作業にも悲しいかな欠点が見えてきました。それはキーボードは叩いて文字の変換はするけれど、文字を手で書かないため文字を忘れるのです。現代人は電子文字に頼っているため、文字を忘れているのです。そのためこれまで二十年にわたって続けてきた一日三枚のハガキを書くことという日課が随分役に立っています。文字は手で直接書かないと忘れやすいということも肝に銘じています。

 昨日の朝、親父がメガネを探していました。「歳を取ると忘れることが多くなって困る」と自分に言い聞かせるようにボソボソと言っていました。90歳になる親父に「脳の活性化」について幾ら言っても馬の耳に念仏ですので言いませんでしたが、歳のせいではないということを、やがて行く道として私自身の脳に叩き込んでおきたいと思います。脳は鍛えようで幾らでも活性化するのです。

  「物忘れ ひどくなったと 嘆くより 本のひとつも 読んで訓練」

  「ああ俺も 歳になったか 探し物 多くなったと 今から諦め」

  「忘れずば 爆発するぞ 俺の脳 全部覚える ことは出来ぬわ」

  「脳はノー パソコン打てば 変換す これを直すも 脳の訓練」

 

 

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shin-1さんの日記

○坂本龍馬もう一つの魅力

 四国といえば明治維新の折に活躍した薩長土肥といわれる各藩出身者の中でも、世代を超えてずば抜けた知名度を持つ坂本龍馬の出身地です。四国山脈で分けられた高知や徳島は太平洋を見て育つ風土でしょうか、吉田茂や三木武夫など気骨な政治家を生んでいますが、坂本龍馬に比べたら比ではないほど話題に富んだ人物なのです。坂本龍馬については前にも触れましたが、彼の生い立ちを語る時必ず登場してくるのが三歳年上の乙女姉さんです。しかし彼が存分に発揮した商売の才覚と武士の剛健さを思う時、どんな人が彼の生き方に影響を及ぼしたのか調べてみたい気持ちになるのです。

 坂本龍馬の母「幸」は龍馬が12歳の時39歳の若さで亡くなりました。一年後龍馬の父八平は「伊与」という後添えを娶るのですが、実はこの義母が坂本龍馬の生き方に大きな影響を与えているのです。伊与は大変出来た人で薙刀のが達者でしたからその影響で龍馬も薙刀から剣術の修行を始めています。

 伊与は今でいうバツニですが下級武士北代家の娘です。その北代家の三つの教えが残っています。一つは「先に手を出すな」、二つは「やられたらやり返せ」三つは「男は強く、優しくあれ」というものです。この家訓を伊与は少年の龍馬に強く諭して育てたようです。竜馬は三十三歳という若さでこの世を去っていますが、彼の人生を振り返ってみるとまさにこの三つの教えを実行していると思うのです。

 彼の生きた時代は明治維新という日本にとっては革命ともいうべき時代でした。脱藩、暗殺など今でいうテロの横行した時代です。危険人物として彼も再三再四刺客に狙われますし、自分も刺客まがいのことをやっています。しかし彼がテロリストにならなかったのは、「先に手を出すな」という家訓が体に染み付いていたからかも知れません。結局は自分の身を守るためピストルという飛道具を手に入れ寺田屋で発砲していますが、あれほどの使い手ながら手を出さない相手には決して手を出さなかったのです。

 決して先に手を出さなかったけれど「やられたらやり返せ」というのも面白い教えです。「いろは丸事件」というのがあります。広島県鞆の浦で紀州の帆船「明光丸」と衝突して、海援隊が借り受けたいりは丸は沈没しました。幕末というけれど紀州といえば徳川御三家、その紀州を相手に万国公法を武器として八万三千五百両という当時としては破格の賠償金を勝ち取っているのです。これも「やられたらやり返す」教え通りだと思うのです。

 「男は強く、優しくあれ」という言葉は、男の私にとっても永遠のテーマなのですが、平和な時代になって優しい男は随分と増え巷に溢れていますが、強さと優しさを併せ持った人はそんなにいないのではないかと思うのです。竜馬の生き方は様々な人が微妙に絡み明治維新という時代の潮流の中で大きな足跡を残しましたが、伊与という義母の存在を思う時家庭教育というものがいかに一人の人間に大きな影響を与えるのかが分るのです。

 殺すつもりで行った勝海舟に地球儀を見せられて世界を知ったという通説も、伊与の嫁ぎ先下田屋に今でも残っている天保年間に発行された世界地図から推し量れば、勝海舟に会う前に世界を知っていたようにも思えるのです。ジョン万次郎が土佐藩に返ってきたとき事情調査をして「漂撰記略」というレポートをまとめ藩主山内容堂に提出した」河田小龍との付き合いで世界観を身に付けていたようです。

 数えればきりのない竜馬の魅力を巡る様々な事例を思う時、人間は人によって人となるということです。人間が人間たる由縁は

パソコンでもなく人の間「人間」なのです。

  「ああ俺は 龍馬の倍も 生きている だのに成さない 成さぬからだと」

  「伊予は伊与 龍馬脱藩 伊予~長州 伊与の教えは 今もご立派」

  「龍馬より 勝れるものは 何だろう 車パソコン それは道具だ」

  「男とは 強く優しく いうけれど 両方備えた 人は少なし」

   



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shin-1さんの日記

○知識化された社会と感じられる社会

 私たち人間は50年前、いや10年前と比較してみただけでも随分沢山の知識を習得するような知識環境になってきました。自然が危ないとか地球温暖化を食い止めるためにはCO2を削減すべきだとか、環境問題だけに特化しても様々な知識を持つようになりました。しかしそれほどの知識を得てもまだ「べきだ論」を吐き、まるで絵空事のようにやらないことをやれないと他人に転嫁しながら生きているのです。現代の文明は見た目には進化し知識化された社会を作ってきたように見えますが、一方で私たちから感じられる世界を失わせたように思うのです。

 日ごろの何気ない暮しの中では感じられる世界がどんどん狭められているように思うのです。今朝目覚めてパソコンの前に座る。スイッチを入れたパソコンの画面からは検索さえすれば沢山の知識がどんどん入ってきます。しかしそれは単なる知識であって、その知識を得ようとすればするほど感じる世界が遠のいてゆくことに気付くのです。朝起きて外に出て感じる外気の冷たさや風の音は私たち人間にとって一体何を意味するのでしょう。肌や目、耳など五感で感じられるものは、最早そのことを忘れた人間にとっては人間性を回復する大きな力になるはずなのですが、それらは現代人がものの価値と定めているお金などの損得勘定からすれば何の価値もないものかも知れないのです。でも陽射しの温かさや川の水の清らかな流れも、感じられる社会として価値があることを忘れてはならないのです。

 最近の人間社会は感じられる部分が少なくなりました。家族という一つ屋根の下に住んでいる最小の集団さえ別々に生き、別々なものを食べ、別々な部屋で暮らしています。故に尊属殺人のような家庭内犯罪や幼児虐待など日本の社会ではこれまで希だったことが日常茶飯事の如く発生しています。四季の恵みの中で行われてきた年中行事もコミュニティの崩壊によって季節を感じられなくなってきました。第一次産業といわれる生産活動からは自然、人間、村社会の力強さや矛盾さえも包含して感じられる社会でした。

 日本が大きな近代化を果たしたのは幕藩体制が崩れ欧米の物質文明を真似た明治維新と、第二次世界大戦に敗戦しアメリカのこれまた物質文明を真似た戦後でした。物質文明的には豊ではありませんでしたが、少なくとも明治維新前までの日本には感じられる社会があったと思われるのです。どうやら日本人は物質文明の豊かさを手に入れた反面、感じられない社会に船出してしまったようです。

 知識化された社会を否定して生きていくことはとても勇気のいることであり、多分知識化された社会の恩恵を受けた者にとっては至難だと思うのです。でも本当にその人が人間として感じられる社会に生きようとするならそれは決して難しいことではないことだと思うのです。私たちは、いや私はもう一度「感じられる社会」と「知識化された社会」の一体性を取り戻す努力をしたいと願っています。

 宵も悪いも含めた感じられる社会の実現こそがこれからのまちづくりかもしれません。

  「感じずに 知識化された 社会生き ただ漠然と 暮らす愚かさ」

  「少しだけ 自分の内面 覗き込む 矛盾頭を 持ち上げてくる」

  「年賀状 心をゆする メッセージ 幾つかありて しばしふけれり」

  「世の中が これ程知的に なりとても 禅教極めた 坊主にゃ勝てぬ」


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