shin-1さんの日記

○アウトサイドインかインサイドアウトか

 自分という人間を評価するには、自分が評価する場合と人が評価する場合がありますが、自分と人の評価は必ずしも一致せず、時には大幅なズレだって生じることがあります。自分では正しいと思って行動しても人はそうは思っていなかった、なんて経験は誰にでもあるはずです。人の声に耳を傾け絶えず自分の存在を意識しながら正しい方向に導くことは、自分の人生を充実したものにするためにやらねばならない作業なのです。中には人の意見などまったく無視し、それを自分の信念だと思い込み自我を通そうとする人もかなりおり、人の世の難しさをしみじみ感じるのです。

 自分が自分の欠点に気付きその欠点を変えようとする場合に最初にやることはアウトサイドインという手法です。私の場合人の前で話をすることがまったく苦手で赤面症かと思われるくらい人の前に出ると上がってしまい思っていることの半分も言えない時代がありました。今の自分を知っている人は「えーっ、うそー」と思うくらい本当の話なのです。一度大失敗をしました。私が23歳の時双海町青年団長候補に推薦され、他の3人と演説で争うことになりました。私は原稿用紙を3枚も書いてウンコ部屋で丸暗記したのです。これなら大丈夫と臨んだ演説会でその原稿の全てを忘れてしまい、頭が真っ白になって何もいえなかったのです。でも結果は応援弁士の巧みな話術によって85パーセントの得票を得て私は青年団長に選ばれました。その時はまだアウトサイドインにその救いの手を求めて、話の上手い人の話を聞いたり、上手く話せる本を読んだりしました。でも自分の欠点に気付いて焦れば焦るほどアウトサイドインでは上手く喋れなかったのです。

 その年、青年学級で「ラブレターの書き方」なる講習を受けました。先生が「どんな美辞麗句を並べても相手のハートは動かない。普段着の気持ちを書こう」というのです。その学びが4回ありましたが、青年学級生は先生の勧められるままに第14回「NHK青年の主張」に80人全員が応募をしました。ところが何故か私の原稿だけが審査に通り、私はNHK松山放送局のオーディションに望んだのです。多分駄目だろうからと五本の指にマジックで自分の主張の粗方を書いて望み、原稿は団長選挙の時と同じようにどうせ忘れるだろうからと持参しませんでした。じつはこれが私のアウトサイドインからインサイドアウトになった瞬間だったのです。

 結果はNHK青年の主張の愛媛県代表に選ばれ、それ以来人の前に立っても余り上がらなくなって話が出来るようになったのです。原稿を書いて覚えこむと、その原稿を忘れまいという考えばかしが先走り、肝心な話がどうしても疎かになります。ですから私は今でもそのことがきっかけで、どんな2時間の講演であろうと原稿など一切持たずに話ができるようになりました。

 アウトサイドインは外側から変えようとする方法ですが、外側から個人を強制的に変革させようとしても帰って反発を招きます。人や組織を指導する場合この手法では決していい成果は生まれません。むしろ内からの変革というインサイドアウトは不可能に近いのです。私はこれまで社会教育やまちづくり、それにボランティア活動でこの手法を使って組織を活性化してきました。勿論家庭の子育てだってこの手法しか方法はないのです。インサイドアウトは個人からの変革、心の変革なのです。

  「外よりも 自分の内に 力あり やれば出来るは 魔法の言葉」

  「話せない 私は欠点 克服し 今はどうにか 内気口下手」

  「あれ程に いつもムダ口 何故か人前 急に上がって」

  「俺にでも 出来るか聞いて 話し出す 少し自信が そうだその意気」 

 

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shin-1さんの日記

○人間牧場を訪ねたい

 私に対して最近とみに多くなったのは「人間牧場を訪ねたいのですが」という言葉です。口頭で言う人もいますが圧倒的に多いのはメールや手紙です。それもそのはず私がブログに「人間牧場」というテーマで記事を書き、雑誌や新聞に「人間牧場」の記事が頻繁に載るからでしょう。その都度私は「まだ完成していないので」と答えるのですが、待ち遠しくて仕方がない方々は私の都合は二の次でどんどんどんどんやって来るのです。一番足繁く通っている人はもう10回以上の頻度ですから驚きます。その都度あの狭い山道やなれない山道への不安に対応するため国道まで迎えに行くのです。でもそんな不安というトンネルを、いや一番先に狭い本当のトンネル抜けるものですから、人間牧場へ上がった時の落差にみんな驚きの声を上げるのです。でも歓迎しようすまいがやって来る仲間の存在は私自身本当に嬉しいのです。そのために造った施設ですのでこれからも日本中のお邪魔虫が沢山やって来ることでしょう。その人たちの心に少しでも温かい希望の灯を点せたらこれ以上の幸せはないのです。

 そんなお邪魔虫の一人に門田眞一さんがいます。これまでは伊予市と双海町という街の違いから疎遠になっていましたが、合併することが決まり同じ伊予市民になることが分ってからは何かと気が合い、今では何でも話し合える気心の知れた、ひょっとして現在の自分の最もいい友人の一人ではないかと思ったりしています。彼は若いが優秀です。私より随分若いのに様々な修羅場を越えていますし、活動も幅が広い人間です。喋れるし書けるし、実践が出来るまちづくり人に必要な条件を全て満たしています。私たちまちづくり人がこの世の中に生きていく上で必要な冒険心と謙虚さを併せ持った今時珍しい男なのです。

 余り褒めると私のブログの愛読者なので「ブログを意識したな」と逆に感ぐられそうなのでこの辺で止めますが、合併して一番の収穫は同じ市民にこういう人がいて、こういう人と活動ができる喜びです。相手は堂思っているか分りませんが多分生涯の友人となることでしょう。

 門田さんは先日道に迷いながら奥さんを連れて人間牧場へ足を運んだそうです。あいにく私が留守でお相手できませんでしたし、カギがかかっていたので窓越しで中を見せることは出来ませんでしたが、いい日和に是非お越しいただきたいものです。

 「春に二日の日和なし」と言われるように、このところ良く雨が降ります。私の忙しさと合わさって、ペンキを塗ってからまだ一度も人間牧場へは足が向きません。息子は五右衛門風呂の電球をせっせとインターネットで買い集め、明日は電気屋さんがやって来て電気工事をするそうです。いよいよ春本番、「人間牧場」にも忙しい季節が訪れつつある今日この頃です。

  「お邪魔虫 春の足音 増えてくる 飲めぬ酒だが 用意しなくちゃ」

  「去年まで 雑草草刈 ヨモギの葉 今年は大事な 食料品に」

  「何時の間に 油屋社長 俺の友 お互い油を 売りつつ生きる」

  「合併は 悪いことだけ 思ったが 人と交わり いい人儲け」 


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shin-1さんの日記

○解纜の季節

 「解纜」と書いたこの文字は何と読むかご存知ですか。はいこれは「かいらん」と読みます。ではその「意味は」と尋ねられると答える人は読める人よりもぐっと減って殆ど分らないのです。国語は大好きな私でもこの言葉の意味は水産高校へ行っていなかったら分らなかったかも知れません。ちなみにこの文字をブログに書きこもうと試みましたが、解は出ても纜は「らん」という読み方では出てこないのです。

 この文字を習ったのは高校3年生の時の秋田忠俊という先生からでした。間もなく愛媛丸という実習船で遠洋航海に出発するという頃、この言葉を習いこの言葉の意味を知りました。もう45年も前の話です。先生は自分の恋人にこの言葉を書いた手紙を送るよう勧めました。今の高校生のように携帯やEメールのなかった時代ですから高校3年生の私たちにとって手紙はとりわけ大切な告白手段でしたが、恋人のいない私は数人の中学時代の女子同級生にこの文字を書いてハガキを出しました。どういう訳か数打った鉄砲の弾が一人の女性に受け止められ、返信の便りが下宿に届いたのです。その時の便りは今でも覚えていますが、「間もなく私は練習船愛媛丸で珊瑚海へと解纜します。正月は赤道直下で迎えるでしょう。帰ったらマグロやサメと格闘した楽しい話や南十字星の話をたっぷり話します」なんてかっこいい話を書きました。

 解纜は出航、船出、つまり纜は「ともづな」という意味なのです。

 私たちの船は基地となっていた神奈川県三浦三崎漁港を出航して珊瑚海へただひたすら南下を続けました。ニューヘブリデスエスピリッツサント島というイギリス領の島に寄港したり、過酷な延縄漁にも耐えて3ヶ月半ぶりに解纜の港へ寄港、纜を再び結んだのでした。

 解纜という言葉を書いた手紙で心を開いたその女性とは何回かの文通を繰り返しましたが、時の流れの中で忘れ去り先日同級会で思いもかけずその女性と会い、その話が彼女の口から話されました。彼女の話によると、解纜という文字は何と読んでよいか辞書を引いてもさっぱり分らなかったそうですが、恩師に尋ねてその意味を知ったそうです。その時は「格好いい言葉だ」と思いあなたに憧れました」と言うのです。「今だから告白するけど」という注釈をいただいはその女性も、数年前ご主人をガンでなくされ苦労をしましたと話されました。

 61年間生きてきて、高校生の時のあの一瞬に教師から習った解纜という言葉をこれまた一瞬思い出しました。その言葉の手紙を書いた青春時代の思い出は、私にとっても私に便りをくれたその人にとっても、もう遠い彼方の思い出です。ブログに紹介するほどのことではありませんが、ひょっとしたらあの手紙のやり取りはラブレターだったのかもしれないとひとりニンマリして書いていたら、横で妻が「お父さん、一人で何ニヤニヤしているの」と声を掛けられ、ハッとわれに帰りました。「うーん、いい夢見てたのになあ」

 春は解纜の季節、人生の船出をした人も多いのではないかと思います。

  「解纜の 訳も分からず 文を出す 届いた返事 昔懐かし」

  「俺だって レターくらいは 来たもんだ もてない男 今頃強気」

  「ニヤニヤと しながら昔 思い出す 妻の一言 夢を砕いて」

  「久しぶり 会ったその人 今だから 言われて顔を 赤くしながら」

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shin-1さんの日記

○北海道へ出かけていました

 寒い二月に東シナ海を越えて2度も沖縄へ春を探しに行った私ですが、昨日と今日の二日間、今度は何と桜散る春を惜しんで津軽海峡を越えて北海道へ旅をしました。松山から羽田経由で十勝帯広空港に降り立ちましたが、そこは春まだ遠からじといった一面白銀の世界にびっくりしたり首をすぼめました。あらためて小さい国ながら日本も広いなあと思ったものです。

 今回は釧勝地区の漁協女性部の一大イベントである研修会が音更町の十勝川温泉で開催され、記念講演を頼まれての出張でした。音更はかつて私が公民館に勤めていた頃長浜町の青年と双海町の青年がチームを組んで国内研修に行った折訪ねた町なので懐かしい土地でしたが、20数年の時の流れは私たちの思い出などどこにも見当たらず白い雪の中に埋もれているようでした。

 大平原という大きなホテルの大広間を会場にした漁協女性部の研修は近隣の漁村から300人もの女性が集まりそれは熱心な研修でしたし、特に昨夜の単位漁協の出し物は歌あり踊りあり、手品ありでそれはそれは楽しいものでまるで田舎芝居を見ているような錯覚にとらわれ、久しぶりに力強いパワーを頂きました。

 私も漁村・漁家の生まれなので、しかも私の死んだ母親は6年間も漁協婦人部の部長をしていたので自分の家に来たような錯覚にとらわれ懐かしさが甦ってきました。

 集まった女性の殆どは、わが双海町の漁家のおばちゃんと一緒で、見るからに働き者といった風貌で、聞くところによると殆どの人が昆布漁や底引き網漁にご主人と毎日海に出て働いている人たちでした。いつかテレビや映画で北海道の番屋で働く人たちの姿をみたことがありますが、ニシンや鮭を相手に奮闘する浜の女を髣髴するような力強さでした。

 北海道の農家では今牛乳が売れず毎日何トンもの牛乳を廃棄処分にせざるを得なかったり、第一次産業を取り巻く環境は決して楽なものではないと聞きました。でも漁家の女性たちは宮城県唐桑で産声を上げた「山は海の恋人運動」に呼応してあちらこちらの原野に木を植える運動を行っているそうです。折角植えた幼木もエゾシカの食害にあって全滅したことあったと述懐してくれました。海で獲れる昆布や牡蠣は山から川を通って流れ出た豊富な栄養分のお陰という考えは、素晴らしい話だと思うし、わが双海町の漁家女性たちも同じようなことを実践し、環境の浄化に貢献している姿は頼もしいと思いました。

 でも「どうして木を植えたら昆布や牡蠣が育つの」の、私の意地悪い質問に「山の鉄分が川から海に流れて」なんて専門的な話は聞けず、「漁連がやれというから」なんて話で動いている答えにはちょっぴり失望はしましたが、まあ「船頭多くして船山登る」ということわざもありますので、そのくらいにしておきましょう。

 浜の女性は律儀だと思ったのは、昨年の連休ごろにわが町へ北海道の派遣で視察研修にやって来ていた数名の女性がわざわざ美味しいとろろ昆布を土産に駆けつけてくれ再会したことでした、。縁もゆかりもないのにこの律儀さには涙が出るほどの嬉しさでした。

 浜の女性は農家の女性に比べ、潮来一枚下地獄といわれる厳しい職場で働くだけに連帯感は大したものです。でもそのことは手つなぎの連帯という封建社会を生み、農家女性のような手放しの連帯が出来ない恨みがあることも事実なので、息も切らさず2時間半も喋り捲った記念講演で「女性が輝く」秘訣と苦言を呈しておきました。それにしても色々な団体が組織率が低下し退潮ムードだと聞くのに、この団体の活力の源は一体何だろうと考えました。その秘密は日掛貯金を源にした経済にありました。

 今回の旅も深いご縁と学びの多いものとなりました。

  「空巡り まるで鳥のよう ひとっ飛び 僅か半日 北の果てまで」

  「今は亡き 母に会うよな 錯覚を 漁協女性部 思い出させて」

  「とろろ昆布 土産に持って 会いにくる たった一度の 縁を忘れず」

  「山に木を 植えて恵みに 感謝する 中々やるじゃん 頭が下がる」

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shin-1さんの日記

○お父さん滅多なこと書かれん

 昨日外出から帰った妻が開口一番言った言葉は「お父さんめったなことは書かれん」という言葉でした。それというのも今日出席した会合で、役所の人で私のブログの愛読者がいて「若松さん、あなたのご主人のブログにはご家族やお孫さん、それにあなたのことが書かれていて、とても楽しく拝見しています」と言ったそうです。寝耳に水の妻は自分が私のブログを読んだことがないので、トンチンカンナ話に終始したそうです。特に体重の話は相当気にしているらしく、顔を赤らめ恥をかいたような錯覚をしていました。だから「私のことは絶対に書かないように」と念を押されてしまいました。

 私はどちらかというとこちらの方言かも知れませんが「あまのじゃく」、つまり「やるな」と言われたらやりたい方ですので、口も渇かないのに妻の事について、妻には内緒で少し補足しておきます。

 私の妻は南予八幡浜の出身です。私の理想の人は南予出身だったのでいわば出身地だけは理想の人です。南予人らしくおっとりしていて、4人の子どもを育てたり、祖母・母の2人を介護をして天国へ送ったり、父の面倒を見たり、更には私のわがままな性格に付き合って多くの人が訪ねてくるのを一手に引き受けてお世話をしてくれています。最も凄かったのはフロンティア塾を開いた時、40回の塾の半分以上は毎回50人もの食事の準備を一手に引き受けてやったことです。

 最初結婚したごろは料理が下手で、私たち家族はたくさんの黒コゲを食べさされました。もし私がガンになったらその黒コゲが原因ではないかと思われるほどです。でも必要は成長を促すのか、我が家へやって来るお客さんのもてなしや、大家族の世話をするうちに今では飛び切り腕の立つ料理人に成長しました。特にお魚ママさんで特訓した魚のさばき方は半端ではなく、トロ箱でいただく親類からの贈りものも冷凍庫という優れものを味方にしてわが家の火の車だった(今もかも)台所を見事にこなしてくれました。

 妻は私の苦手な数字や経済に強く、大学ノートを使った家計簿は中々大したものですし、私にかかってきた電話番号でもメモせず覚えているくらいいです。しかし時間がないのか時間の概念が余りないように思われます。ですから二人で家を出る時はいつも喧嘩になります。遅いと怒る私を見て、まりで一休さんのように「慌てない慌てない」ですから困ったものです。

 まあ、今日は「お父さん滅多のことを書かれん」と釘を刺されましたので少し褒め、少しけなしましたが、これからも妻のことはどしどし書くつもりです。奥さん悪しからず。

  「汗もかく 恥もかきます かきついで ブログに妻の あることないこと」

  「ブログとは 怖いもんだね 筒抜けで 妻の悪口 人が知ってる」

  「大丈夫 一向上達 しない妻 パソコンブログ まだ読めません」

  「妻のこと 書けばすっきり ストレスが なくなる錯覚 私の健康法」

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shin-1さんの日記

○石の上にも3年

 地元の大学に非常勤講師として教えに行くようになって3年が経ちました。私が教育長になったばかりの頃、まちづくりの理論と実践を学生たちに教えて欲しいと大学から依頼があったのですが、私の上と下の人たちは反対をしました。その大きな理由は「本業に集中するように」とのことでした。私は「本業とは何か」を真剣に考えましたが、最後は「あなたの意思だから」ということで仕事に穴を開けない確約で講師をお引き受けしたのです。私にとって毎週水曜日の仕事が終わってからの夕方6時から8時までの講義はかなりきついものでしたが、それでも教育長をしながら2年間、教育長を辞めた後も1年間、通算3年間も講師を勤めました。教育長であるのにあえて講師をしなければならない理由はありませんでしたが、これは私の進化論としての挑戦でした。お陰さまで教育長だけをした人よりはるかに多くの教育理論を学び、教育行政に生かすことが出来たと今でも確信をしています。人は何もしなければ水面に波風は立ちません。また失敗もないでしょう。でもやるのです。

 私はえひめ地域地域政策研究センターの機関紙舞たうんの紙面をお借りして「まちづくりと若者」という文章を都合8回書きましたが、そこここで若者の地域離れが問題になっているだけに関心が高く、色々な意見が寄せられました。

 昨日私のゼミ生からメールが入り人間牧場で仲間とともにまちづくりの勉強がしたいと言ってきました。彼は私のゼミ生でない仲間を誘いたいというのです。嬉しい限りです。今の時代若者が集まらなくて四苦八苦している所は沢山あります。人が集まらないのか人を集めれないのか分りませんが、多分行政なら若者が集まらないと集まらない原因を若者の医師こと行動のせいにします。でも本当は若者は集まりたい気持ちを持っていることをこの3年間で学びました。

 私が教えた学生はこの3年間で僅かに70人足らずです。そんな少数にいくらまちづくり議論を大上段に振りかざしてみたところで、まちづくりの現場は何も変わりませんが、一点突破の風穴は開けたと思ってます。こうした地道な取り組みがかつての青年団のような大きな力となって、社会を動かす日が来ることを祈っています。

 今日は4年目の始まりである先生方との会議が行われました。私にとっても4年目とあって、今年の授業は少し知恵を出そうと秘策を練っています。どうなるかは分りませんが、大学の授業が私の思っていたよりアバウトなとらえ方が出来るようなので一応のメドをつけたいと思っています。

 その意味で人間牧場の構想はビッグチャンスのような気がしています。すでにブログ配信の写真を見て来週にも下見に来るというのです。

  「大学も 出ない私が 教壇に 立って教える 不思議な社会」

  「学生に 教えてもらう ことばかり これでは逆だ 授業料どっち」

  「芽が出たぞ 今度は花だ 実を付けろ そんな期待の 三年でした」

  「大学で ばったり出会い 学生と 立ち話する いいもんだねえ」 

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shin-1さんの日記

○わが家の愛玩動物

 最近はどの家庭でも愛玩動物の一つや二つは飼っているようです。隣のおじさんの家では犬と金魚、その隣では犬と猫に小鳥と様々です。その背景には豊かさと満ち足りない心の充足とでもいうべき何かを感じます。しかも犬や猫は外で飼うという概念が崩れ、犬・猫・鳥はおろかは虫類まで人間と同じ世界で暮らしているのですから異常としか言いようがありません。

 わが家でも子どもが小さい頃子どもの要求に押されて犬を飼い小鳥を飼っていました。しかし子どもたちのその熱も大きくなるにしたがって冷め、また動物の死という悲しい別れに直面して、それ以来飼うのを止めています。時々犬や猫と同居している家へお邪魔することがありますが、多分暮らしている人には当たり前と思っているのでしょうが、何かわが家とは違う動物の匂いのようなものを感じたりすることがあります。

 先日一人暮らしのおばあちゃんに会いましたが、そのおばあちゃんの目が真赤に腫れているのです。よくよく聞いてみると同居していた猫が戸口を開けた途端外に飛び出し、車に引かれ死んでしまったというのです。身寄りのないおばあちゃんにとってこの猫は生きがいであり、唯一の話し相手だっただけに、その悲しみは察するに余りあるものでした。死んだ猫をどのようにして手厚く葬るか考え、市役所に電話をかけたのだそうです。犬猫担当とおばあちゃんが言う人は、多分野犬などの係りの人だと思われますが、人間と同じく猫の死骸をダビにふしお墓を造ってやりたい旨の相談だったようですが、担当者は「猫の死骸は人間と同じには出来ません。ゴミ袋に入れてゴミに出してください」で終わりだったそうです。そのことを聞いておばあちゃんの悲しみは倍化し、目を真赤に腫らしたという次第です。

 人間の世界で身寄りのない人にとって愛玩動物は人間以上の共生の意味を持っています。それをゴミと一緒にされたのでは悲しむのが本当です。だからといっておばあちゃんの願いを聞き届けてダビにふしたりのお手伝いは出来ないでしょうが、せめて心を癒す言葉くらいは持ち合わせた行政マンであったらと、おばあちゃんの話を聞いて思いました。

 わが家にも長男が結婚する前から飼っている土佐金という金魚が数匹飼われています。次男にその世話をするよう伝えて家を出ましたから、ブツブツいいながら次男は金魚の世話をしています。でも飼っているとなつくので今は余りブツブツいう声は聞かれなくなりました。

 人間もそうですが、動物や植物には必ず死なるものがやって来ます。可愛ければ可愛いほど死など考えにくいものなのです。しかし死を覚悟して飼うぐらいの覚悟がなければこのおばあちゃんのように気狂いに似たことになりかねません。ペットの飼い方にはくれぐれもご用心。

  「猫死んで 嘆き悲しむ おばあちゃん 死骸ゴミだと 言われ再び」

  「昔かな 将軍綱吉 お犬様 笑ったけれど それに似たよな」

  「犬猫の 病院人より 大流行 保険利くかと 窓口尋ね」

  「犬の糞 片付けせずに 通り過ぎ ウンが付くのか ウンの尽きだか」

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shin-1さんの日記

○山が萌える春

 上灘川を挟んだわが家の対岸の山は、安山岩の岩肌があちこちに見える急峻な地形の山です。中世の城郭本尊城の跡で、今でも山頂には一級といわれる石類群が残っており、松山城とほぼ同じの高さゆえに海に突き出たような山頂からの眺望はすこぶるよく、城を築いた武将たちの先見性が偲ばれます。まちづくりの草創期私たちはこの山頂に中世の城郭を再現してはと提案し、足しげく山頂に上って矢竹を刈り綿密な調査を行ったものでしたが、その夢もはかなく消えて今はひっそりとした佇まいを見せています。

 この山はわが家から見ると余り綺麗ではありませんが、長浜寄り、つまり唐崎やふたみシーサイド公園から見ると独特の風格で一山をなし、町のシンボルとしての呼び名も高い名山です。この山へ登るには天一稲荷神社からの赤道しかなく車では行けないことから松やクヌギといった自然雑林に覆われ、人工の樹木はまったく植えられていません。ですから季節の変化が著しいのです。

 最近の山は戦後の植林が進んでどの山も年中緑で余り変化のない山が多く、それを人間は美林だと勘違いをしていました。しかし最近になってCO2などの環境問題が取りざたされるようになったり、昨年や一昨年のような相次ぐ台風で杉や桧の脆さが露呈して改めて自然林の自然治癒能力が見直されてくると、手を付けられなかった本尊山のような価値が改めて見直されるようのなったのです。

 今まで金にならない価値のない山とされていた山が人間に優しい山となるなんて、まさに一周遅れのトップランナーのような気がします。この山を見続けている私としては大変喜ばしいことで、年に一度は草深いこの山に感謝の念を持ちながら登って自然の恵みをに感謝しています。しかし残念かな地元の人はこんな時代遅れな山へは登ろうとしません。ふと数年前自著「昇る夕日でまちづくり」という本に書いたブラジルリオデジャネイロのことを思い出しました。

 双海町の春分の日頃の夕日は、地球の裏側ブラジルリオデジャネイロの朝日なのですが、そのリオの入り口にはシンボル的な山があってその山頂にはイエスキリストの大きな像が建っています。夕日と朝日こそ違え何か良く似た光景を思い浮かべ、本尊山の山頂にも何かあったら面白いと考えるのは、夢を食べて生きてる私の真骨頂なのですが、この夢は実現出来そうにもありませんのでこのくらいで止めておきます。

 夏の緑、秋のハゼ紅葉やクヌギ紅葉の美しさ、冬の落葉寂しい木枯らしの季節、そしてこの頃になると山桜が咲いて山は一気に芽吹きの頃を向かえ、「山萌える」という表現がピッタリの季節となりました。昨夜来の雨と南の風の恵みでしょうが、こんな季節感を味わえる原風景はわが家の借景だけでは勿体無い気持ちです。今朝も散歩しながら山に向かって大きく深呼吸しました。

  「山萌える 色とりどりの 芽吹き受け 大きく胸を 広げて呼吸」

  「価値のない 山だとみんな 言うけれど 見方変えれば 俺の財産」

  「つわものが 山に築いた 城の跡 草苔深く 今は眠りて」

  「この町の 夕日はリオの 朝日にて いつか訪ねて この目で見たい」

 

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shin-1さんの日記

○イカもタコも足は八本

 孫と昨日お絵書きをしました。私たちは普通イカは10本タコは8本と子どもの頃から教わってきました。ところが先日漁師をしている親類から届いたタコは茹でるまでは気がつかなかったのですが、茹で上がっていざ刺身にしようとして切り分けてみると何と足が7本なのです。何だか気持ちが悪いと妻が言いましたが、タコの足は最大が8本で中には外敵に襲われたり共食いで自分の足を食ったりで7本や6本だってあるのです。時には無くなった場所から赤ちゃんタコの足みたいな不揃いな足が生えていることだってあるのです。でも孫に教えるときは必ずタコの足は8本と教えながら書きました。

 さて本日の問題はここからです。イカの足は果たして何本でしょう。そう入学試験の問題が出たら正解は10本なのですが、これは正しくも間違っています。「えっ、どっちだ」と言われそうですが、イカの足は確かに10本あります。しかしその内の2本は他の足より長く触腕と呼ばれています。触腕は餌を捕獲するときに活躍する」利き腕のような存在なのです。他の足と異なり吸盤が先の方に集中しているのも自在に動かしながらハンティングするのに有利なように出来ています。

 イカはどうして泳ぐかというと体内に水を取り込み小さな穴から噴射させることで推進力を得るのですが、あの小さな体で時速10キロから0キロまでの速さで移動出来るというから驚きです。イカは無脊椎動物ですが水を利用したジェット噴射ができる優れものなのです。

 私の町は猟師町なのでイカやタコを見る機会が多いのですが、イカの目はこれならよく見えるなあと思われるほど立派な目をしています。イカはこの目をレーダーのように使って遠くからでも獲物の存在をキャッチできるのだそうです。

 巨大なイカが人間を襲う映画が話題となりましたが、あれは大きいものは体長20メートルにもなるダイオウイカだったのかも知れません。

  「タコ八で イカは十本 足の数 孫に説明 画用紙いっぱい」

  「本当は タコ八イカ八 二本腕 みんな知らない 俺は博士だ」

  「イカ刺しで ちょいといっぱい 飲み屋さん 生きたまま出て しばらく観察」

  「イーカんじ イカれた俺に イカす妻 イカに褒めても イカり直らず」 

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shin-1さんの日記

○これが150年の年輪を刻んだ高知県魚梁瀬杉の切り株

 双海町出身で高知大学に通っている堀川奈津さんがインターンシップでまちづくりのお手伝いに行っていた高知県安芸郡奈半利町へ講演に行った折、ふとしたことからまちづくりの中心メンバーである坂本利男さんと出会いました。彼は百姓はするは養鶏はするは、また高知新聞の直売所はするはと手広く事業を行っており、その生き方に感服していますが、彼から貰った魚梁瀬杉の切り株が我が家へ届いてから、親父と切り株の格闘が冬の寒さの中で行われ、その成果物が水平線の家へ運ばれたことはブログでも紹介しましたが、どんなになったかはお知らせしておりませんでした写真でお見せします。

 切り株の年輪は数えてみましたがとにかく目が込んでいて数えづらいのですが有に150くらいはありました。したがってこの杉は150年生と呼んではばかりません。こんな大きな杉の木が果たして何処に生えていたのか坂本利男さんに一度お聞きし、その現地を訪ねたいと思っています。想像もつきませんが多分150年生の杉の木は天をも覆う大きな木であることは間違いありませんし、この切り株の年輪に比べたら私の年齢なんて僅か3分の1程度でまだまだ青年の木なのです。

 それにしてもこの切り株を貰った私より、この切り株に再び命を吹き込んでテーブル台にする作業は相当な労力だったのだろうと思うと、88歳の親父の技は素人ながら大変な仕事だったようです。当てにならない息子より当てになる友人にお願いしていびつな切り口を木の個性を出来るだけ活かして使い、テーブル台に仕上げました。下の脚はまさに職人芸でいびつなままで横木を巧みに配置しテーブル台の上は水平を保つように出来ているのです。これぞ水平線の家の最も素晴らしい調度品です。杉の年齢150年に親父の年輪88年を合わせて240年の労作なのです。

 馬路村の上流に位置する魚梁瀬地区は魚梁瀬杉に詳しい馬路村役場の木下さんの話によると、魚梁瀬杉も戦後の伐採で古木はかなり減っているそうです。九州の世界遺産に登録されている縄文杉で有名な屋久島でも屋久杉は減っており、その価値が高くなればなるほど人間は手に入れたいエゴのような気持ちが生まれてくるのです。

 この切り株は魚梁瀬杉の物語と親父の物語の合作です。山が海の恋人なら杉が育った魚梁瀬の地は川と海で結ばれ、果てしない山野を越えて瀬戸内海を見下ろす山の一角人間牧場にたどり着きました。150年生の杉の木はこれから終焉の地水平線の家で一体どんな夢を見るのでしょうか。

  「この杉は 江戸の終わりに 芽を出して 竜馬の脱藩 見つめて育つ」

  「切り株と 厳冬格闘 した末に 見事なテーブル 山に登りぬ」

  「一二三 数えて驚く 木の太さ 一つ一年 何と百五十も」

  「坂本さん 龍馬の末裔 かも知れぬ 俺に託すは どんな生き方」 

  

 

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