〇論語読みの論語知らず
若い頃2500年も昔の思想家である孔子の言葉を集めた「論語」を手に入れ読みました。しかし学歴もない私には漢字ばかりで読みにくく、ましてや解説も小難しく、いつの間にかその本は本棚のどこへ置いたかさえも忘れていました。
先日調べものをしていて書斎本棚の片隅に「論語」86の言葉というポケットサイズの本を見つけました。私の書斎の本棚は息子と一緒に使っているので、恐らく息子の蔵書だと思うのですが、興味が湧いて暇を見つけて読んでいます。
2500年も経っているというのに、「義を見て為ざるは勇なきなり」(人として行うべきことを分かっていながらそれをしないのは臆病者である)、「巧言令色鮮なし仁」(口先のうまい人や見かけばかりのものにロクな者はいない)、「知者は惑わず仁者は憂えず勇者は懼れず」(知の人は惑わない、仁の人は憂えない、勇の人は恐れない)、「学びて時にこれを習う亦説ばしからずや、朋あり遠方より来る、亦た楽しからずや、人知らずしてうらみず、亦た君子ならずや」(学んだことを折を見て復讐することは楽しいこと、懐かしい友だちがふいに遠くから訪ねてくれる、これもまた嬉しいこと、世間が自分を理解してくれなくても、人を恨まずクヨクヨしない、こういう人こそ立派な人物である)(「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲するところに従って矩を踰えず」(私は十五歳で学問に志し、三十で独り立ちし、四十になると迷わなくなった、五十になって天命をわきまえ、六十になって人の言葉が素直に聞かれるようになった、七十になった今思うままにふるまっても道を外すことは亡くなった)、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」(やり過ぎも足りないも同じようなもの)などなどという言葉を、子どもの頃から論語とは縁遠い無知文盲と思えるはずの親父から小言のように聞かされて育っているのです。
私は親父より多少賢く生きてきたつもりなのに、こうした言葉を果たして息子に伝えたり教えたりしたであろうかと猛省するも、七十から八十の坂を越えようというのに残念ながら矩を越えていません。悲しいかな、あ~あ~私の人生です。