○ああ上野駅
昨日車に乗って松山へ行く途中、車のカーラジオから懐かしい歌が聞こえてきました。井沢八郎さんの「ああ上野駅」です。「♭どこかに故郷の便りを乗せて 入る列車の懐かしさ 上野はおいらの 心の駅だ くじけちゃならない人生は あの日ここから始まった♯」。懐かしいメロディに乗せて歌う井沢八郎さんの若々しい声に思わず口ずさんでしまいました。
私たちの年代にとってこの歌には特別な思い出があるのです。昭和30年代は地方で生まれ育った若者が都会へ移動するある意味で夢と希望に溢れた、しかしある意味で悲しくも厳しい時代だったように思います。子宝に恵まれた戦後のベビーブームに乗って生まれた若者は長男は家業を継ぐが次男、三男・次女・三女はまるで口減らしのように地元の中学校を出ると、金の卵と持て囃されて、集団就職列車に乗せられ都会へ送られたのです。
中学校には就職斡旋係の先生がいて、希望要望を取り入れながら斡旋先を選んでいました。その殆どは名もない零細企業でした。昭和35年春3月、中学校の卒業式が終わると、終着駅でもあり始発駅でもある宇和島駅を出発した集団就職列車はそれぞれの駅で義務教育を卒業したばかりの子どもたちを乗せ、一路京阪神や名古屋を目指しました。私は長男だったし高校進学の道を選んだためその列車に乗る宿命から幸いにも見放されましたが、夜行列車が到着する駅は熱気に包まれ、まるで戦場へ赴く兵士を見送るような雰囲気でした。母親手づくりの弁当と少しばかりの着替えを持った同級生たちは詰襟とセーラー服に身をまとい、両親や家族、そして友人の盛んな見送りを受けました。「頑張れよ」「先方の言う事をよく聞いて我慢してしっかりね」「体をいとえよ」などと口々に言葉を交わすのですが、当の本人たちにとってそれがどういう意味があるのかさえもまだ知る由もなかったのです。やがて蒸気機関車の「ポー」という出発の汽笛とともに列車は下灘駅を離れましたが、泣きの涙での別離の光景は今でも忘れることができないのです。
後日同級会で列車に乗った張本人から聞いた話ですが、「あの時は辛かった。でも不安な中にもまるで修学旅行に行くような期待もあった。直ぐにでも帰れるような甘い思いもあったが、明くる日神戸の駅に降りた時、迎えに来た人の姿を見て事の重大さに気付いた。最初はホームシックにかかり、夜になると辛くて何度帰ろうと思って涙を流したことか。それでも親父やお袋の事を思うと引き返すことは出来ず頑張りぬいた。今思い出しても悲しい思い出だ」と述懐してくれました。
彼が神戸の駅に降りた時、聞こえてきたのが井沢八郎の「ああ上野駅」だったそうです。そしてあの歌を思い出す度にあの火野事を思い出す」というのです。
還暦の同級会に帰ってきた同級生の彼は私に「お前が羨ましい。生まれた所で育ち、生まれた所で暮らし、生まれた所で死ねるのだから」と意味深長な話をしました。そんな過ぎし日を述懐しながら私にハーモニカで「ああ上野駅」を吹いてくれるようリクエストがありました。彼は私がラジオ深夜便「心の時代」と列島1万2千キロの旅に出演していた事を知っていたのです。
唐突な彼のりクエストに応え吹きましたが、彼は目にいっぱい涙をためて聞いてくれたのです。何気ないラジオから流れる「ああ上野駅」のメロディーや歌を聞いても知らない人にとっては興味もないはずですが、私にとっては大切な思い出の歌なのです。
「ラジオから 流れる歌の 懐かしく 口ずさみつつ 思いめぐらす」
「青春は 遠い昔の 思い出に なりつつあるも 昨日のように」
「吹いてくれ それでは吹くぞ 上野駅 涙流して 友の聞き入る」
「知らないの ああ上野駅 知ってるのかい 時代古いね」