○9、映画館
私が子どもの頃の漁村の娯楽はとりたててそんなにありませんでしたが、下灘村という小さな村に東映館と双葉館という映画館が2つもありました。東映館は東映系、双葉館は松竹系の映画を配給していましたから、どちらも見たいのですが、映画館の代表者がわが家の知人だったため、わが家の家族は松竹系の双葉館をごひいきにしていました。今の若い人にいっても「それ誰」といわれそうな高田浩吉、大川橋蔵、嵐勘十郎、市川歌右衛門などが出演する主に時代劇が多かったようですが、その後小林旭や石原裕次郎、浅丘ルリ子などの青春スターなども出て、それは楽しい夢の世界でした。映画館はそれぞれウグイス嬢を構えて映画館の屋根に取り付けられたラッパ型のスピーカーで、音楽を流しながら朝から映画の宣伝をするのです。私の親父たちは定期券のようなものを買ってしょっちゅう行っていました。学校を挟んで二つの映画館が競うように放送する音は教室まで聞こえ、先生の教える声よりそちらの方が興味をそそりました。私たちは映画を通してまだ見ぬ都会とわが住む田舎の落差を知り、都会に憧れを持ったものでした。
映画館の入口や村内の要所には映画の封切りが迫るとポスターが張り出され、映画の始まる前も終わった後も映画の話がしばらくの間は村中の話題になる長閑な時代だったのです。最初は自由に映画に行っていましたが、ある日突然学校で担任の先生が、「いつも映画を見るのは教育上好ましくない。今日の職員会で映画は許可したもの以外は見てはいけない」と一方的にお達しがあって、子どもたちをガッカリさせたものでした。それでも子どもたちの中には内緒で映画に入る者もいて、親が呼び出されて注意を受ける一幕もありました。その頃は電気休みというのがあって、その日は映画が休みでした。月に一回は電気が全てストップするのです。家に冷蔵庫があるわけでもないので別に電気休みを咎める人もいませんでしたし、これまた長閑な時代でした。
正月やお盆になると映画館は連日満員札止めで、3本の封切りが見れるとあって、午後の部、夜の部と2回も同じ映画を見た経験もあるくらい映画は一時代の娯楽でした。
映画といえば2つを思い出します。一つは壺井栄原作の「二十四に瞳」です。小豆島が舞台にしたこの映画は高峰秀子主演で小学校の講堂にやって来た巡回映画で見ました。みんな涙をいっぱいためて見ました。二本目は「ビルマの竪琴」という映画です。小学校5年の時担任の先生が道徳という初めて出来た授業時間に「ビルマの竪琴」という本をシリーズで毎週朗読してくれていました。みんな何気なく先生の朗読を聴いていましたが、その年この映画が双葉館で上映されるというのです。普通は許可されない映画なのに、5年生だけが特別の許可を校長先生から貰って、みんなでゾロゾロ見に行きました。水島上等兵が戦後戦死した戦友の霊を弔うためお坊さんになってビルマに残るラストシーンは、これも感涙に咽んだものです。
昔の映画は上映中よく途中で切れました。当時の子どもたちには刺激の強かったラブシーンや主役が格好よく活躍する場面になると必ずといっていいくらいフィルムが切れるのです。つなぎ合わせて始めてもまた切れ、場内の電気が点いたり消えたりして、すっかり興ざめしたことも何度かありました。
映画はテレビの出現によってあっという間に私たちの村から姿を消して行きました。最後は客足もまばらで、映画館はかなりの借金を背負って倒れたという話も大人たちの噂話として子どもの耳に入りました。
テレビの出現によって映画は終りと誰もが思いましたが、世の中不思議なもので今は映画が復活し、若者の間では週末を映画館で過ごす人もかなりいるようです。「ハリーポッター」など相変わらずの人気で、私の妻も時々友人と鑑賞しているようです。
「映画しか 娯楽のなかった 田舎町 こぞって鑑賞 回数券まで」
「そういえば 電気休みと いわれた日 夜は点いたか 点かぬか忘れ」
「都会には 夢の世界が あるのかと 暮しと比較 憧れました」
「そういえば ここいら辺に 映画館 夢の泡沫 見る影もなし」