○隠岐の島から海の幸届く
日本海の遥か洋上に浮かぶ島根県隠岐の島から美味しい海の幸が届きました。サザエとアワビです。この海の幸を素潜りで獲って送ってくれたのは角市正人さんという私の友人です。隠岐の西ノ島町に住む彼の紹介で島へ講演に行って以来親密となり、島で開かれた牧畑農業のシンポジウムに講師として招かれてからは急接近して、お互いがいい刺激を与えつつ今日を迎えています。
私は仕事柄まちづくりをキーワードに日本全国の過疎地をまるで民俗学者の宮本常一のように歩き回り、まるでフーテンの寅さんのように木になるカバンを提げて出かけたまちやむらで、様々な出会いを繰り返しているのですが、その中でも隠岐の島や三宅島、石垣島、五島列島、奄美大島などの離島といわれる島へは何度もお邪魔し、その都度深いご縁をいただきながら日々を暮らしていますが、島ゆえの閉鎖性や封建制はあるものの、何処か懐かしい、それでいて人懐っこい島人の人情がとても気に入っているのです。その気風は海の側で生まれ育った私たち漁村人の気風と同じようで、ひょっとしたら私も彼らと同じDNAを持った遊漁海の民ではあるまいかと思ったりするのです。
西ノ島の牧畑農業については昨年10月7日に開かれた牧畑シンポを終えて帰宅後のブログで詳しく紹介していますので省略しますが、角市正人さんの夢は世界でも珍しい今も細々続けている牧畑農業を世界遺産にすることのようですが、その道は険しく現時点では可能性の光すら見えてこないようです。私も四国八十八ヵ所遍路道を世界遺産にする運動にほんの少しだけ関わっていますが、世界遺産への道は遠いのです。でも夢を持つことはいいことであり、そのプロセスこそがまちづくりなのだと励まし続け、熱いエールを送っています。
昭和30年代まで日本はどのまちや島も戦後復興という共通の目標に向かって歩んでいました。ところが所得倍増計画や工業化計画という名の施策が次々と打ち出され、主にまちやむらの若者たちが金の卵として地方から都会へ国策的に集められたのです。その時点でまちやむらは過疎の第一歩を踏み出し、過疎と過密という弊害を産み出したのです。社会の発展、都会の発展とは裏腹にまちやむら、それに離島では発展の時計が止り、止るどころか昔へ引き戻されるような錯覚さえ覚える後退現象今も、地方に住む人たちを悩ませているのです。
その心配に追い討ちをかけるように平成の大合併は始まり、ホットな議論と冷めた議論が交錯するなかで、有無をを言わさない強引なやり方で地方の後退現象は様々な分野に飛び火しているのです。役場が支所化し学校が統廃合されてなくなり、農協も漁協も合併し便利は不便となって暮しすら立ち行かなくなって、周りの商業施設はシャッターどころかスラム化しつつあるのです。
何処かが可笑しく、何処かが狂っていると思いつつも、今の日本の社会をまともな方向へ戻すことはもう不可能かも知れないと、田舎に住む私たちは一種の諦めを覚え始めました。それは住民の幸せを守るはずの行政と議会が地域住民から完全に離れているからに違いないからです。今度の参議院議員選挙で大勝した民主党の第一の主張は自分たちの政権争奪で国民のことなどまるで考えていません。自民党もこれだけ惨敗しながら相変わらずその原因がいかに国民不在の政治の結果であるか、未だに知ろうともしないで、相変わらず次の選挙の必勝を祈願しているのです。
そんな中、角市正人さんは数少ない地域を思う町会議員さんです。多分彼の「牧畑農業をオンリーワンとして守る主張は今をテーマにする行政や議会からは損得、好き嫌いで処理をされ相手にされないでしょう。でも西ノ島が生き残るには牧畑農業の持つアカデミックな価値こそ見直されるべきものなのです。そこで提案ですが世界遺産も大切ですが牧畑農業は是非日本遺産に登録してはどうでしょう。美しい国日本を掲げる総理に提案してみようかなと思っています。
世の中便利になったもので、発泡スチロールに入れられてはるばる隠岐の島から届いた宅配便を開けてびっくりしました。西ノ島の磯の香りとともに大きなアワビがもの言うが如くうごめいているのです。妻は早速アワビの刺身とサザエの壷焼きです。久しぶりにご馳走と思う夕食に舌鼓を打ちながら遥か遠い西ノ島や知り合った人々のことを思い出しました。
「宅配の 蓋を開ければ ニョキニョキと 磯の香りを アワビ運んで」
「島人の 人情厚く 今もなお 心届ける 嬉し人有り」
「牧畑を 日本遺産に するような 政治家いない 日本寂しや」
「早いもの あれから一年 経ったとは 進化したのか それとも後退」