○わあ綺麗なボタンの花
何通りもある人間牧場へ通じる道は狭い道が多いため、来客をご案内するには容易なことではありません。私「シーサイド公園をご存知ですか」、客「はい知っています」、私「ではシーサイド公園に着いたらお電話下さい」、客「分りました」。こんな携帯電話のやり取りがあった後、客「シーサイド公園に着きました」、私「ではそこから長浜へ向かって西進して下灘の二つある信号の始めの点滅信号を右折して駐車場で待っていてください」、客「はい分りました」。私は仕事を中断し車を走らせて近道を下りて行くのです。お客さんは約7キロを一直線、私は約2キロの狭い道、ヨーイドンでスタートするのですが、待ち合わせ場所の駐車場では殆どピッタリに出会います。あいさつもそこそこに「まあ乗って下さい」と軽四輪自動車に乗せ、「この信号を左折すると安全な広い道を行けるのですが、今日は近道の狭い道をスリルを味わいながら行きましょう」と説明しながら国道から狭い旧道へ、そしてまるでモグラの巣の中へでも入ってゆくような狭いトンネルを通って一気に登って行くのです。
まあいつもこんな具合ですが、そのトンネルを出た所で綺麗なボタンの花を見つけました。誰が植え誰が育てているのか分りませんが、狭い場所に似つかぬようなボタンの花は今が盛りと一生懸命咲いているのです。思わず車を止めて手動式の窓をいっぱい開け、車の中からデジカメで花の承諾も持ち主の承諾も受けぬままパチリと写しました。後ろから来た車を運転している顔見知りのおじさんが、「何をしよるの」というので、「綺麗でしょう。思わず写真を撮ってしまいました」と断りをいれ車を発車したのですが、その美しさをもう一度見ようと空き地に止めて引き返ししっかりとこの目に焼き付けました。通りかかったおばさんは、さも自分が褒めてもらったように「綺麗でしょう」とボタンの花の話に花が咲きました。
この道はいつか来た道ではなく今月は5日(いつか)来た道なのに、この花の存在にはまったく気付かずに通り過ぎていました。心の余裕がなかったのか、それとも昔はこの横の急峻な山道を背負子を背負って通った苦しい経験しか頭になかったのか分りませんが、気付かなかっただけなのです。
私は花が大好きです。ですからまちづくりでは菜の花、水仙、桜、アンズ、つつじ、酔芙蓉、アジサイなどを植えまくり、それぞれ町のシンボルに育てました。それは母親の影響だと思うのです。母は自分で花など作らぬ働き者で、どちらかというと「花より団子」の実益主義者でしたが、道端の花を見ると必ず私を座らさせて花をまじまじと見つめてその美しさを心に留めるよう話してくれました。そして「この花はここに咲くから美しい」とか「この花も一生懸命咲いているのだから見てあげないと可愛そう。この花を見るのは世界で私たちだけよ」と誇らしく言うのです。母親の一言は若松少年の育ちに大きく影響しました。私は今でも道端の野草でも綺麗に咲いているのを見ると思わず立ち止まり思わずしゃがみ込んで見てしまいます。
このボタンも次の雨でもう散ってしまうかも知れないと思うと勿体無いような気がして思わずパチリでした。
「このボタン 誰が植えたか 知らねども 思わず見つけ 写真にパチリ」
「一年を かけてこの花 咲きました 見てよ見てよと 言わんばかりに」
「無造作に 通り過ぎ行く 人たちは この花さえも 目には留まらず」
「写真見て 花の後ろに ゴミ写る 余りの綺麗さに 気付かずパチリ」