○会議での意見
私は現役を引退しているので現役の時代に比べたら月とスッポンの差とも思えるほどに会議は大幅に減りました。今でも不思議に思うのは何で役所はああまで無駄な会議をしなければならないのでしょう。現役晩年はうんざりしつつも、「何故・どうして」と会議をまとめたり廃止したりしましたが、それでも無駄な会議はなくなりませんでした。多分その殆どが対処法だったからです。例えば子どもの事件が起きます。すると上に立つ人は自分の身に降りかかる前に通達を出します。この通達を受けた組織は点検と問題点を洗い出し責任の所在を明確にしながら確認作業を末端組織に指示すべくまた小さな集会を限りなく開くのです。たった一人の責任を回避するため末端では相当の時間と労力をとられ、結果的にその集会だけが来年も引き継がれて行くのです。
会議とはお互いがお互いの意見を述べ合いながら一致点を見出してゆくのが正しい姿なのですが、中には強烈に自分の意見を述べる人と終始無口を決め込む人の両極端がいて、右往左往します。最後は数の理論が民主主義ですから、大きな声に傾いて一件落着なのです。
昨日は私が代表を務める会議に出席をしました。最近はFAXやメールの普及によって事前の会議開催通知も全てメールかFAXです。そして議案に対し意見を言い合いますから、議論が広く深まります。しかし欠点もあります。メールやFAXに参加していない人との落差が大きく、その人たちは蚊帳の外に置かれてしまうし、理念やコンセプトに主眼が置かれ過ぎるきらいもあります。
昨日の集会は20周年を迎えた組織の20周年記念事業の進め方について議論しました。端的に言えば「20年の総括とあるべき姿」の模索なのでしょうが、議論をすればするほど深みに入ってゆくようでした。でもこの議論が実は大切な根っこの部分なので、口角泡を飛ばして議論しました。多分いい結果が出ることでしょう。会議での意見は要約され直ぐにメールで配信されます。事務局の役割もしっかりしているので安心です。
さて、昨日の会議で意見を言う人は大きく分けて二つのタイプがあるように見受けられました。反応的に話すタイプと主体的に話すタイプです。反応的に話すタイプは状況によって起きた感情に基づき反応して話します。主体的に話すタイプはどういう状況においても自分の価値観に基づき話します。反応的な話には「行わなければならない」「どうそようもない」「○○さえしてくれたら」「彼らは頭にくる」などと否定的な言葉がやたらと出てきます。一方主体的な話には「行くことにした」「代替案を考えよう」「私は○○できる」「自分の感情はコントロールできる」などと肯定的、進歩的な言葉が出てきます。結局は反応的な人は意見が関心の輪に集中し影響の輪が小さくなりますが、主体的な人は意識が影響の輪に集中し、影響の輪が大きくなるのです。
要は人間は関心の輪(自分で関心があるもの全て・自分でコントロールできないもの)と影響の輪(自分が影響を及ぼすことができるもの・自分でコントロールできるもの)という二つの輪を持っていますが、ストレートに反応するのではなく、自覚(自分を見つめる自分)、想像力(新しい姿を思い描く力)、良心(善と悪の区別のわきまえ)、自由意志(自分の考えで行動できる)という四つの特性を持って反応に反映させる人間を目指さなければならないのです。
少し難しい持論を展開してしまいましたが、悪しからず。
「色々な 意見を聞いて 思うこと 主体的なる 意見で生きよう」
「変えちゃ駄目 だのに変わって 元もなく そんなことって 以外と多い」
「横文字を 使えば何か 利口そう 俺など日本語 さえも使えぬ」
「結局は 何が言いたい 言った人 自分さえにも 分らず終い」