shin-1さんの日記

○集落が消える

 私の住んでいる集落は300戸余り、旧役場の中心地だけに「集落が消える」なんて話は他人事でしかありません。逆に小さな集落の強固なまとまりのあるコミュニティが羨ましくさえ思うほど、以外と他人事として片付けられることが多いのです。僅か15戸で組織している私の組内ですら葬式以外は殆ど会合もなく、それでも毎年が過ぎてゆくのですから今の時代は、村社会のような封建的な生き方は通用しないのかも知れません。しかし双海町の遠隔地では一戸また一戸と次第に戸数が減って、10戸以下の集落が目立ってきました。多分10年後には、いやひょっとしたら5年後にはその集落は消えていくだろうと思われます。

 合併によって私たちの住む街も新しい伊予市として誕生しましたが、新しいまちでは地域の自立をテーマに掲げているし、合併構想の中でも地域支援センターなるものを明記しています。しかし今回の組織改革ではその名称すら見ることもなく、むしろ総合支所は縮小され後退と言わざるを得ないようです。そしてもう一つ集落の再編という私たちの暮しにとって大変重要な出来事が、住民に周知徹底されないまま行われようとしているのです。自治の再編は大きな自治会と小さな自治会があることを考えれば当然のことであり、何処かに右へなれは仕方がないことかもしれません。旧伊予市の500戸単位と旧双海町や旧中山町の10戸単位では民意の集約もままならないことは分っていても、右へなれの対象が伊予市という都市型に全てを合わせられる農山漁村とでは、余りにも意識や行動が違い過ぎるのです。であれば、「自治会組織は旧市町単位で温存してもいいのではないか」、「何故中央に集めて自治会長会をしなければならないのか」という疑問を持つ現在の自治会長の疑問も説明責任として答えなければならないでしょう。

 田舎の集落には、「村八分」という悪しき習慣が残っています。いかにも集団でいじめをするというイメージに聞こえますが、もともとは村の決まりごとを破った人に対して行う厳格な処罰規定でした。江戸時代の集落の規則では冠・婚・病気・建築・葬・火事・水害・旅・出産・年回忌の10の行事については集落の人々が協力しあって行う風習がありました。しかし集落の規則を破った人には相談してこうした付き合いを拒否したのが村八分です。でも気をつけたいのは村10分でなく村八分なのです。つまり村八分とは火事と葬式は別物として考えられたのです。村八分の語源は村はぶく、村はじくとされていますが、村八分はいかにも義理堅い日本人の心といえましょう。

 今の世の中では葬式も式場でするので、村八分にされたとしても別に困らないし、火事も消防車がいち早く駆けつけてくれます。集落が集落としての機能を果たさなくなった時代に、広報区長などと名前をつけて広報を配ってもらったり、住民の意見は全て広報区区長を通じてなんて持ち上げることより、自治会にどんな自治を担わせるのが本来の目的なのか、もう少し前向きな議論が欲しいものです。

 先日市役所の職員とコミュニティ議論をやりました。私の考えるコミュニティには従来の集落が持っている地域コミュニティと集落を超えて持たねばならないテーマコミュニティがあると、持論を展開しましたところ、そんな難しいことは初めて聞いたと目をぱちくりしていました。

 「集落が消える」この重いテーマをあなたはどう考えますか。

  「この歳に なっても未だ 若い方 嘆く集落 五戸だという」

  「村八分 されても別に 困らない それより役など しない方まし」

  「役所から 身を引き途端 見えてくる 口には出さずに 利口な生き方」

  「指折りを 数えて任期 来るを待つ 自治会の世話 結構きついね」

 

[ この記事をシェアする ]

“shin-1さんの日記” への1件の返信

  1. SECRET: 0
    PASS:
     若松さんがおっしゃるとおりです。自治会にどんな役割を持たせて、住民自治を自分たちの手でやってもらうか、という発想は、住民にいちばん身近な地方分権だと思います。役所は、市や県や国に対して「地方にもっと裁量権を」と言っているのに、自分たちができる具体的な地方自治をやろうとしていないことが分かっていないようです。役所を離れてこの一年、どうも、役所の人たちは合併というまたとないチャンスを「銭がない」の一言で逃しているような気がしてなりません。各集落にはその集落を愛し、守り、育てようとしている人たちがたくさんいるはずです。どんどん出向いて、その人たちの声を吸い上げ、自分の意見を加えながら、上に対して「住民はこんな意識をもち、こんな気構えでいます」と上申できるくらいの気概を持てば、10年後も20年後も住みやすい町であり続けるはずです。
     残念ながら、合併1年後の地域事務所は、人が減ったせいもあるかもしれませんが、活気がありません。話を聞いても、職員がマイナス思考に陥ってしまっています。完全に骨抜きにしたのか、自らが骨を抜いてしまったかは分かりませんが、「新市建設計画」という餅は、単なる絵に描いたものだったのでしょうか。

コメントは受け付けていません。