○私の名前と顔を覚えていた認知症のおばあちゃん
昨日親戚の叔父が入所しているわが家の近くの特別養護老人ホームへ見舞いに出かけました。老人ホームといえば薄暗いなんて想像しますが、今のホームは明るい色調で窓から明かりが入り明るさそのものです。入所している人も過去を忘れている以外はみんな元気で日々の暮らしを営んでいます。
「若松の進ちゃんじゃあないの」。いきなり見覚えのある顔が声を掛けてくれました。「はいそうですが」と答えて手をとりあって昔のことをお話しました。過去を忘れているなんて失礼なことを申しましたが、何人かの認知症の方でも何故か私の顔と名前を覚えていたのです。近所にいたヘルパーさんも驚いた様子で「へえー、おばあちゃん、進ちゃんを知っているの」「そりゃ知ってるがな、昔お世話になったもの」。「ところで進ちゃん、あーちゃんは元気かな」。名前が出て一瞬戸惑いました。あーちゃんとは私の母アキ子の愛称なのです。「おばあちゃん。あーちゃんは5年前に亡くなりました」「ほうそれは知らなんだ。香典を送らずに」。まあこんな具合に普通の会話が出来るのです。
見舞いが終わって帰ろうとすると、私の服をつかんでもう少し話をしてくれとせがむのです。おばあちゃんの話を要約すると「私はボケていないのに嫁は『ばあちゃんはボケたボケた』言うてここここに入れられた。ここに入ってもう3年になるというのに見舞いにも面会にも中々来てくれない。寂しい」そうです。
所用があるので「また来るきんな」と言っておいとまをしました。ふと私は高齢化社会への不安を感じました。確かに昔と違って長男夫婦が家で高齢者を介護する時代は終わり、こうした立派な施設で老いを迎えれることだけが幸せな人生だとは思えないのです。いつの時代も、幾ら時代が進展しても子供の親に対する敬愛の念は変わることはない、極論すれば変えてはならない倫理のようなものだと思うのです。施設に入ることは仕方がないことです。でも施設へ入れることが即立派な親孝行だとは思えないのです。施設に入れても親の顔を見にくることぐらいは出来ると思うのです。
私はこのおばあちゃんと口約束をしました。覚えているか忘れるかそれも分りません。でも認知症と言われながらも私の顔を覚え、私の母親の名前「あーちゃん」まで覚えているのですから、約束どおり近々おばあちゃんの顔を見に特別養護老人ホームへ面会に行きたいと思ってます。おばあちゃんお元気でね。
「認知症 言われながらも わが名前 覚えて声かけ 嬉しい出会い」
「また来るね 言葉約束 交わしたり 近々覗くと 心に決めて」
「親孝行 何をすること 分らない 今の世の中 大分狂って」
「俺だって 間もなく来るよ このホーム 小さな幸せ 見つかるかもね」