shin-1さんの日記

○節分・立春

 昨日は節分、親父の作ってくれた鬼ぐいにヒイラギを挟んだものを玄関や神仏供えて夜豆をまきました。「鬼は外福は内」と少し控え目な声で播いたのです。はてさて歳老いた親父と私たち夫婦の三人しかいないわが家は、一番鬼に近い人間はやはり私のようで、「鬼は外」と妻に豆を投げつけてもらい、一旦外に出て「福は内」と家の中に入りました。子どもじみたことですがこんなことでもしないと平凡な日々の暮らしにメリハリがつかないのです。妻は毎度のことながら呆れ返って豆を播き、二人で豆を食べました。昔は歳の数だけ豆を食べていましたが、私64歳、妻63歳ですから、とてもそんなに多い数の豆は食べきれないのです。したがって私は10歳単位で一個食べることにして二人とも四捨五入して7個ずつ食べました。そして妻の兄が持参してくれた恵方巻き寿司を今年の方角東北東に向かって食べました。何の意味もないと思うバカバカしい習慣ですが、それでも吉を呼びたいと思い妻と二人で美味しく頂きました。それでも不思議なものでこのような習慣でもやればどことなく安心するのですから人間の心もいい加減なもののようです。

若松進一ブログ(ほころび始めた白梅の花)
若松進一ブログ(西洋椿の花)

 昨日一日降った雨も上がって、今日は立春らしく温かくて穏やかな日です。窓越しに見える家の周りの雑野草もどことなく生気が出たような気もします。思い切って外に出てみました。庭の梅の木は膨らみ始めた白梅の花が早春の香りを漂わせつつあります。親父が育てている盆栽も知らない間にもう梅の花は満開で、そっと鼻を近づけ花の香りを楽しみました。また大きな西洋椿も誇らしく咲き、花を咲かせているのに見てくれるご主人に不満を言っているようにも見えました。

 運よく下灘に住む親父の妹が陽気に誘われて自転車でやって来ました。いつも美味しい魚を届けてくれるので、家庭菜園に入りカリフラワーとチンゲンサイ、カブと丸々太ったキャベツを収穫し段ボール箱に入れてやりました。この叔母は叔母と呼んではいますが、私より一歳年上だけなのです。12人兄弟の長男である親父と末っ子に生まれた叔母とは兄弟といいながら30歳近くも歳が離れているのです。親父の隠居でお茶を飲みながら少しの間話して叔母は帰って行きました。同じ町内に住んでいるのに、毎日忙しく暮らしているものですから、ついついご無沙汰ばかりです。

 「春が来た」という歌を歌いたくなるような立春です。寒波もこれから何度かやってきそうですが、春遠からじといったところです。しかし春が来たからといって浮かれた話だけではありません。世界同時不況の影響を受けて私の姉の長男も派遣切りに遭い帰郷しています。大学院まで出て昔の私たちの時代からすると考えられないような高学歴なのにです。どこかいい職場はないか私もあれこれつてを頼りに探していますが、高学歴がかえって邪魔になって中々いい職は見つかっていないのです。こんな時こそ顔の広さが物を言うと私の出番を誰もが言うのですが、世の中そんなに甘いものではないようです。当分失業保険がもらえるようですが、年齢的に高くなっていて親の焦る言葉が身に染みて分かるだけに、心が重い立春です。

 それでも、自分の故郷を見向きもしなかった長男が帰って来て急に賑やかになった嬉しさは隠しきれないようで、これで地元で働く場所さえ確保できれば、派遣切りも不幸中の幸いと受け止めれるのでしょうが、姉の家に春が来るのはもう少し先のようです

  「派遣切り 人のことかと 思いしに 身近な甥に 悩みの春が」

  「立春の 声聞き春は そこまでと 小鳥さえずり 花が教える」

  「菜園の 野菜収穫 おすそ分け 叔母は喜び 自転車帰る」

  「歳の数 食べろと言われ よく食べた 今は適当 年齢相応」

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shin-1さんの日記

○雨の一日は雨読と雨書と雨校正

 昨日は朝から夜まで一日中雨でした。雨が足繁く降るようになると春近しの感じがするのですが、水分とと気温を必要とする人間牧場の落ち葉による腐葉土づくりのことが気になっていながらその暇もなく、また折角時間が取れたのに昨日のような雨では農作業をすることができず、晴耕雨読に甘んじ中ればならない空を見上げて少し憂鬱な一日を過ごしました。それでも宿題となっていた「耕す心の時代」を一冊速読ながら読み上げ、予約の入っていた印刷インクのの匂いがする「夕やけ徒然草・水の書」を仕分けて送ったり、また文化振興財団から届いた原稿の校正をしたり、まだ手の付いていない原稿書きをしたり、何かと足を引っ張っていた細かい作業が一気に片付き、外の雨とは裏腹に心の霧が少し晴れた気持になりました。

 1月を総括すれば風邪を引いたことが足を引っ張り、中旬から下旬にかけては日程が詰まりかなり忙しい日々を過ごしました。それでも県外に近県ながら講演で3回も出張しました。また念願の「夕やけ徒然草・水の書」の原稿書きや印刷までの工程が入って、忙しい日々だったように思います。そんな忙しさも過去となってしまいましたが、出会った人や書いた原稿、出来上がった自著本、書いたブログ64本は生きた証とでもいうべき形になって残っているのです。

 午前中清水研究員と私の書斎で打ち合わせを行い、お茶を飲みながら色々な事を話しました。その途中に偶然にも大河内結子さんから電話が入り、年輪塾公開セミナーの折にハーモニカを吹いて欲しいとリクエストがありました。私は楽譜を見て演奏することはできず、むしろ体感音楽の部類なので、リクエストされても歌えない歌は吹けないのです。そのあとメールで届いたリクエスト曲を見て少し安心しましたが、吹けるかどうか心配で、清水さんが帰ってから木になるカバンからハーモニカを取り出し吹いてみました。私がハーモニカを吹いていると、書斎の外窓からやって来た親父が不思議そうに見ていました。多分息子がハーモニカを吹く姿を始めて見て驚いたのでしょう。親父を座らせ聞き覚えのある軍歌を3曲吹いて聞かせたら、「中々上手いが何処で習ったのか」と外聞もなく褒めてくれました。「独学だ」と言葉を返しましたが、91歳の親父には理解できたかどうかは分かりません。でも初めて親父に軍歌ながらハーモニカを聞かせて良かったと思っています。大正・昭和・平成と揺れ動く社会に翻弄されながら生きてきた親父には、もう口ずさむ歌などありませんが、戦争という暗くて悲しいタイムトンネルを抜けた経験だけは今も脳裏に深く刻まれているのです。昨日は伊予路に春を呼ぶ椿神社の春祭りです。戦後間もない子どものころ、親父に連れられて椿祭りに行った折、露天商の並ぶ参道の片隅で、傷痍軍人の人たちが口にハーモニカを加えて軍歌を吹き、物乞いともとれる姿を見ました。なけなしの小銭をポケットの中から一枚取り出し、お皿の中に入れてあげたことが懐かしく思い出されました。

若松進一ブログ(矢野鎮男さん)
若松進一ブログ(中嶋都貞さん)

 夕方から町民会館で開かれた史談会2月例会に出席しました。最近は会員が二人づつ持ち回りで「戦争を語る」というテーマで卓話をするのです。昨日は本村の矢野さんと会長の中嶋さんの話を聞きました。矢野さんは昭和15年生まれですから戦争の記憶は殆どなくむしろ戦場に出征したお父さんの話や銃後の守りに苦労したお母さんの話が胸を打ちました。中嶋会長さんの話は、終戦間近なころに志願兵として海軍航空隊に入隊しパイロットを目指した思い出を語られました。中嶋さんは当時の資料を数多く持っていて、この日も沢山の資料を見せていただきましたが、海軍ゆえにこれらの資料は帰らぬ遺骨の代わりになったかも知れないと述懐されました。戦争を直接体験した人の数も次第に減って、中嶋さんの話は今まで聞いたことのない貴重なお話でした。

 雨の一日でしたが、遠い記憶に遡る一日でもありました。人はそれぞれの思い出とともに生きています。中嶋さんの生き方から学ぶとすれば、やはり記憶と記録の違いだと思います。半世紀も過ぎると記憶は完全に途切れます。ところが記録は記憶を思い出させてくれるのです。特に日時などは覚えることは至難の業ですが、記録にはちゃんと残るのです。記憶と記録の違いを教えていただいた雨の日の一日でした。


  「記憶ほど 当てにならない ものはない 記録残すは 今人務め」

  「椿さん 参道で見た 軍人の ハーモニカ吹く 悲しき音色」

  「雨の日は 身辺整理 こまごまと 出来てすっきり 慈雨と思いつ」

  「一月は 忙しい日々が 続いたな 二月ゆっくり したくもできず」


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