shin-1さんの日記

○今日は都へ結婚披露宴出席ののため旅立ちます。

 「今日は友人の息子さんの結婚式に出席するためこれから東京へ旅立ちます。東京は日帰りで夜遅く帰ってきます。ご機嫌よう」。そう告げて東京へ行きました。東京での結婚式などそうそう滅多にないものですから、神妙な面持ちで列席しました。会場となったホテルのロビーには埼玉県北本市からボランティア仲間の峯尾さんたちも顔をのぞかせ、愛媛県から参加していた児島さんとも合流し、いよいよ12時30分から開宴です。

 促されて会場に行くと、神妙な面持ちの大野ご夫妻が金屏風の前で新郎新婦とともに出迎えてくれました。来春定年を迎える大野さんも歳を重ねるごとに親父さんの風貌と同じになって緊張の面持ちでした。

(神妙な面持ちの大野ご夫妻)

私たちの席は新郎のお父さんの友人でまとめられていて、話も弾みましたが酒の飲める人が殆どいなくて何処となく盛り上がりに欠け、隣の晃君の友人の席とは対照的な雰囲気でした。やがて高砂の席に新郎新婦が着くとスピーチです。主賓の挨拶と乾杯が終わった頃司会者が私に歩み寄ってきていきなり「若松様、このあと祝辞を予定していますのでよろしく」と、出し抜けにいうのです。驚いた私は「いや、聞いていません」といいつつ、大野さんの所へ出かけ、「おい祝辞なんて聞いてないぞ」と小声で話しました。「案内状にスピーチをというメモを入れとったでしょうが」「そんなメモは見てないので・・・」と言いつつ時間切れです。

 「それでは新郎のお父さんの友人を代表して若松さんにお祝辞をお願いします」。ああ嘆かわしやと思いつつ、恥をかく覚悟でマイクの前に立ちました。わずか5分足らずのスピーチですからそれなりにアドリブでやってしまいました。友人の児島さんや横に座った峯尾さんから、「さすがですね」と美辞麗句を言われましたが、まさに旅の恥はかき捨てでした。

 

 結婚披露宴は友人や知人との旧交を温める場所でもあります。同席した仲間と食事を楽しみながら過ぎ越し人生について多いに話しました。私たちの席に座っている人たちはもう殆どがリタイアしたり寸前の人たちばかりなので、話の関心はいあままでの人生と、今どんなことをして過ごしているかが殆どで、残念ながら未来についての話は少なかったようです。

(愛媛から出席した児島さん。無人島では看護ボランティアとしてすっかりお世話になった人です)

 やがて結婚披露宴のプログラムも滞りなく進行し、花束贈呈で目出度くお開きとなりました。若いカップルの心境やご両親の心境は2度もその場面を経験したことのある私には容易に想像でき、思わず目頭が熱くなりました。お幸せにと祈るばかりです。結婚披露宴の司会を537組もやった私には、若い司会者の進行ぶりは少々物足りない気持ちもありましたが、それ以上に心のこもった披露宴の余韻が心をほのぼのと温かくしてくれました。

8花束贈呈は感動でした)

  「何時の間に 親父の背を抜き このような 立派な人に なったのだろう」

  「鼻垂れし 子どもの頃を 覚えてる 腕白盛り 脳裏かすめる」

  「あと二人 俺の息子も 縁欲しい 何処でどうして いるのだろうか」  

  「異境地で 暮らす息子は 帰らずに 親はひっそり 生きる寂しさ」

 

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shin-1さんの日記

○行ったり来たり

 島根県益田市道川公民館にお邪魔したのは11月16日でした。その折「2週間後にはそちらへ視察研修に行きますからよろしくお願いします」と、三好館長さんと別れてから2週間しか経っていないのに、今度は益田市真砂公民館の音頭で43人もの人が一台のバスに乗って双海町へやって来ました。191交流協議会輝という団体名での視察研修なのです。私は国道191号沿線の人たちが地域おこしをしているこの会の顧問を頼まれていて、既にその協議会に招かれて講演もしているのです。

 島根県益田市といえば島根県の西に位置する地域で、こちらへ来るにはかなりの遠隔地で、早い人は朝6時にバスに乗って出発したというから驚きです。そんなに朝早く出発しても、瀬戸大橋を経由してこちらに到着したのは午後2時でした。今回の旅の目的はシーサイド公園で漁協女性部のおばちゃんたちと交流することと、人間牧場で私の話を聞くことです。

 あらかじめ漁協女性部、通称じゃこ天おばちゃんたちに視察研修受け入れのお話をして快く受諾の返事を受けていたので、おばちゃんたちは心得ていて、名物ラヴじゃこ天やお茶を準備して待っていてくれました。松本部長さんはあいにく結婚式出席のため留守でしたが、イベントホールの会場も全て整え待っていてくれました。

 この日のことを男時というのでしょうか、バスは2時10分前に到着し、地域政策研究センターの松本研究員にお世話になったシーサイド公園から人間牧場までマイクロバスのピストン輸送も絵にかいたようにピタリとおさまりました。

 シーサイド公園での説明は富岡喜久子さんが担当し、軽快なおしゃべりに益田市から来た面々は感心して聞きました。私が少しフォローして、その後戸外の施設を案内しました。この日は小雨のしぐれるあいにくの天気でしたが、これも男時のお陰で雨に遭うこともなく順調に視察プログラムは進みました。

 さて人間牧場には大型バスの乗り入れができないため、参加者を2班に分け先発、後発をリムジン風に分けての対応となりました。昨日寸暇を惜しんで人間牧場へ行き掃除をしていたので安心してお迎えしましたが、残念ながら自慢のロケ風呂での足湯のサービスは間に合わず、見学だけとなってしまいました。

 それでも山間地に暮らす人たちにとっては、瀬戸内海の眺望はいい刺激になったようで、私の短いお話にも感心して耳を傾けていただきました。私は先発のバスに乗って一便を迎え入れた後歩いてバスの中y差している場所まで見送り、後発の人を再び迎え、一緒に帰るという非常に忙しくも慌ただしいスケジュールとなりましたが、それでも、2時間のプログラムを消化し、日没寸前の5時にシーサイド公園へ帰ってきました。残念ながら夕日は見えなかったため、サービスとして暮れなずむ中をわが家の私設公民館煙会所と海の資料館海舟館を見学してもらいました。

 皆さんが帰ったあと私は田舎のオープンカーにのってバスを追いかけ、宿舎である松山の共済会館えひめへ出かけ、午後7時からの交流会に参加しました。少々夜遅くなった食事会でしたが皆さん満足して思い出話に花が咲きました。私は今朝早く東京へ発たなければならないため早々にお暇しましたが、いい交流が出来た一日でした。


 

 

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○柿の実が熟れる頃

 私が子どものころ、「柿の木坂の家」という歌が流行っていました。青木光一という歌手が歌っていたように記憶しています。手元にある歌詞本をめくると、昭和32年発表と書いています。石本美由紀作詞、船村徹作曲のようです。私はこの曲が大好きで下手糞ながら今も思い出しながらハーモニカで吹いています。

  1 春には 柿の花が咲き 

    秋には 柿の実が熟れる

    柿の木坂は 駅まで三里

    思い出すなァ ふる里のョ

    乗り合いバスの 悲しい別れ

  2 春には 青いめじろ追い

    秋には 赤いとんぼとり

    柿の木坂で 遊んだ昔

    懐かしいなァ しみじみとョ

    こころに返る 幼い夢が

  3 春くりりゃ 偲ぶ馬の市

    秋くりゃ 恋し村祭り

    柿の木坂の あの娘の家よ

    逢ってみたいなァ 今も尚ョ

    機織りながら 暮らしていてか


 この歌を聴く度にどこか懐かしい少年や青年の頃の思い出が蘇ってくるのです。今はこうした自然を友とした農村の風景もすっかりなくなり、住む人絶えた家が点在し、柿の実さえも取る人とてなく、寂しい感じがするのです。ましてや春の市もなくなり、秋祭りもすっかり様変わりしているようです。

 子どもの頃のこうした懐かしくも楽しい思い出は、時代の流れの中で消え失せて行くのでしょうが、ある意味私たちの年代はこうした素朴な心のぬくもりを感じる思い出を持っているだけでも幸せかも知れません。残念ながら今の子どもたちにはそんな心のふるさとすら味わえないないのです。



 わが家の裏に柿の木が五本ばかりあります。殊勝な柿の木で、毎年実をつけて家族の食べるだけの量を確保してくれています。今年はこの柿の木も大豊作で食べきれないほどの実がなりました。先日和歌山県庁の橋口さんから立派な柿が届きました。わが家の何の手入れもしない無農薬な柿など比べ物にならないほどの甘さで、親類縁者におすそ分けをして喜ばれましたが、親父はもっぱらわが家の醜いあひるの子のような柿を食べているようです。私も柿は大好物で、西条市丹原町の佐伯さんから毎年届く渋抜きの西条柿に加え今年も橋口さんから届いた柿を堪能するほど食べています。

 柿は実だけでなく葉っぱも柔らかいうちはてんぷらにして食べたりしますが、やはり柿は「柿の木坂の家」の歌と同じように原風景にマッチする庭木としての存在も欠かせません。これからも裏庭の柿の木に柿の実が熟れる度に「柿の木坂の家」という歌を思い出しながら感傷にふけりたいと思っています。

 そういえばわが家は「柿の木坂の家」かも知れません。

  「柿の木に 今年も沢山 実がなって 昔の歌を 思い出しつつ」

  「下手糞な ハーモニカ吹き 思い出に ひたりしみじみ あの娘どうして」

  「幼な頃 トンボやメジロ 追いながら 遊んだ野山 今は荒れ果て」

  「食べきれぬ ほどの柿の実 収穫す 親類縁者に 配り歩いて」 


  

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○ストーブの火入れ

 ここのところの冷え込みで、寒さには強いと思っていた私もさすがに堪え切れなくなり、ついに昨日の朝書斎のストーブに火入れをしました。それもそのはずもう明後日には師走といわれる季節ですから、南国四国といえども朝晩の冷え込みは5度程度まで下がっているようです。私の昨年の予定表によると去年の火入れが11月25日でしたから、随分化石燃料の節約につながったと妻に自慢してやると、「それはやせ我慢で、寒さで脳卒中にでもなったらどうするの」ととがめられてしまいました。私は案外寒さに強い方で、退職までは真冬でも下着は年中袖なしランニングだったし、ズボンの下にもパッチなども履きませんでした。勿論コートなども殆ど使わなかったのです。そんな私を見て妻は口うるさく指導をします。やれパッチを履けとか、コートを着ろとかいちいちうるさいのです。私の体のことを心配して言ってくれるのでしょうが、私にはそれが普通だったのです。

 人間の慣れとは恐ろしいもので、薄着で通すとこれまで殆ど風邪もひかずいたって健康に過ごせたのに、厚着をした途端に風邪気味になったりするのです。私の子どもたちも子どもの頃は全員元気で、一年中半袖のような姿で学校へ行っていました。その姿を見て親類の叔母が、「繁子さん、あなたのお家は着る物がないのではと思われるので、洋服を着させて学校へ行かせなさい」と苦言を呈されたことがありました。それもそうよと嫌がる子どもに服を着せると途端に風邪をひいたことがありました。まあ人間は寒いと思えば服を着たりストーブを入れたりすればいいのですから、自分の体感のままに暮らせばいいと思うのです。

 ストーブに火を入れるとわが書斎の部屋は僅か4畳半ですから、直ぐに温度が上がります。そのため乾燥を防ぐ手段としてストーブの上にステンレス製のやかんを置いていますが、昨年はパソコンに夢中になり過ぎて何度か空炊きをしてしまいました。

 私はコーヒーを飲みません。お茶は日本茶緑茶なのですが、これもお客さんが来ない時は自分でお茶を入れて飲むことなど殆どないのです。昨日は妻の留守中に来客が3組もあって、ストーブの上で沸いたお湯でお茶を入れて差し上げましたが、お茶葉や急須、お茶受けのお菓子などがどこにあるのか、慣れないものですから右往左往しました。これでは自立できないと妻に笑われましたが、妻は早速私の来客のために専用の道具と専用の置き場を用意してくれました。

 南国といえど冬の寒さはこれからです。少なくても立春までの3ヶ月間はストーブのご厄介にならなければなりません。小型のストーブゆえ3日に一度は給油もしなければならないし、やかんの水も足さなければなりません。少しずつ迫る冬と老いの足音を聞きながら、火入れしたストーブの赤々と燃える火を見つめました。火はいいもの、何だか心までもポカポカしてきました。冬の寒さががあるから春が恋しいのでしょうが、冬の寒さを迎えるように昨日は今年一番の北西の季節風が吹いて海はもがり、雨風に加えて雷まで鳴りました。今年の冬も元気に過ごしたいものです。

  「ストーブに 火を入れ過ごす 書斎では 戸外の寒さ 別の世界だ」

  「この油 何処から来たの 聞いてみた ストーブ答えず 黙々燃える」

  「お茶さえも 自分入れれぬ 無精者 急須何処やら? お茶葉何処やら?」

  「乾燥は 喉に良くない やかんにて 湿気発生 させて守りぬ」


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○国から出向した素敵な人と出会って

 色々な集会やイベントを計画実行した後は、反省会や慰労会というのがつきものです。私たちが若い頃は集会やイベントの企画段階から反省会や慰労会が組み込まれて、その費用の中で実施されていました。しかし最近は特に食糧費と称する飲み食いのお金に批判が集中するため、飲み食いのお金は会費だと誰にも文句を言われないので、会費制の反省会や慰労会がこじんまりと行われているのです。しかしそんな割勘の反省会や慰労会に金まで出して出席するのは嫌だと何だかんだと理由をつけ参加しない人もいて、その温度差を感じています。私の場合も7~8年前から酒を絶っているため、誘いにくいのでしょうか、誘う方が申し訳ないような小声で「酒も飲まないのに会費なんですが」と誘いをかけてくれるのです。私は元々お酒の場が大好きなので誘われれば余程のことがない限り参加するようにしているのです。


 

 一昨日、先日行われた地域づくり全国大会の事務方を務めた方々からお誘いを受けて松山の小料理屋へ出かけました。昔だったら妻の送迎が必要でしたが、酒を飲まなくなった今ではその心配もなく、車で堂々と出かけられるのです。この日はえひめ地域政策研究センターの面々に、県庁の担当課である市町振興課の人たちを加え楽しい食談会となりました。センターの方々とは年中こんな会をしていますが、県庁の人とは久々なので積もる話を随分しました。特に北村課長さんは国から出向して愛媛県庁に来ている人なので、視野も広くこの一年何かにつけてお話しする機会があるのですが、横に座って飲みながら話をすることなど滅多にないので、どうしたら愛媛県が元気になるか議論をさせてもらいました。

 国・県・市町村とそれぞれ格式の違いがあった昔はこんな横並びの酒席など考えられなかったのに、今は有難いことにこうして胸襟を開いてお話ができるのです。愛媛に来られて3年目だそうですがこれまで国から色々な方々が出向して来られましたが、この課長さんくらい馴染みのある、それでいて心のこもったお付き合いができる人も珍しく、先日も実行委員長を務めた私に心温まる労いの手紙をいただき、恐縮してしまいました。

 課長さんと私の付き合いは昨年8月10日(金)に、栗田所長さんと人間牧場を訪問され全国大会の委員長を要請されたころに遡ります。勿論委員長は実行委員会の互選なので事務局案的な提案でしたが、課長さんはその時の私の話を、私などとっくに忘れていたのによく覚えていてさすがの感じを持ちました。以後実行委員会の副委員長をしてもらったこともあって、実行委員会のその度に宇和島や大洲などへ進んで足を運ばれました。

 先日上京して共催した地域活性化センターへお礼にも行かれ石田理事長さんとも面談していただきお礼の言葉もないのです。

 国から来られる人は比較的若い人が多く、組織の中では難しい面もあるのでしょうが、この課長さんの偉ぶらない立ち居振る舞いの姿はとても好感が持てるのです。国から県への出向の目安は3年ぐらいだと思うと、もうそろそろと思いつつも、県政の抱える限界集落や合併の仕事をもう少しの間お骨折り願えないものかと、欲張った考えも持っています。いい課長さんに巡り合っていい一年でした。

  「お国より 出向課長 気さくにて 何でも話し 夢を共有」

  「そういえば 一年前の 夏だった 人間牧場 草分け訪ね」

  「リタイアの 俺など傍に 寄れぬのに 同席貰い 楽しく話す」

  「色々と 問題あるが 愛媛県 人情良いと 褒めて酒飲む」

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○受け取り手のいない荷物

 昨日外出先から帰って着替えをしていると、玄関のチャイムが鳴りました。「ちょっと待って下さい」と大きな声を出して急いで着替えました。玄関先に出てみると郵便局の職員さんでした。最近は郵便局も民営化したためか、見慣れない顔の人が多くて、その人もこれまで一度もあったことのない顔でした。その職員さんは玄関を開けるなり、「荷物が帰ってきていますので受け取ってください」というのです。「えっ」と思いつつその荷物を見ると確かに妻の字で書かれたわが家発送の荷物なのです。今治に住む息子へみかんを送ったことは妻から聞いていたし、その荷物が届いても息子から連絡がないとこぼしていたのを知っていたのですが、まさかその荷物が相手である息子の元へ届かずに迷走し、わが家へ帰ってくるとは何ともはや奇妙な話です。

 私は納得いかないので、郵便局の職員さんに文句を言いました。するとその人は「何度か届けに行ったようでしたがお留守のようで、受け取られませんでした。お家の方にも連絡して欲しいとメモを入れたのですが連絡も取れなくて」と弁解されました。「それだったら送り主の住所を書いているのですから私の家へでも連絡をくれたらよかったのに」と反論しましたが、堂々めぐりになるし、この人には責任もないだろうと思いあきらめました。

 一週間迷走した荷物は中身の腐敗が進んでいるのでしょう、箱の下から汁が出ていました。私は早速息子の所へ電話を入れましたが、仕事中でつながらず、夜になって息子から電話が入りました。私は「折角みかんを送ってやったのになぜ受け取らぬ」と叱りました。息子の言うのには「このところ仕事が遅くなり、家に帰ってから郵便局へも何度か電話をかけたものの、本日の営業は終わりましたので明日にしてください」との回答ばかりで、結局受け取りタイミングを失ってしまった」とのことでした。荷物の迷走は荷主、荷受人、宅配人、それぞれが努力したのでしょうが、受け取らなかった原因もそれぞれにあるようで、一階に責める訳にもいきません。しかし私も息子も気をつけなければならないことは重々分かりますが、生モノと分かっている郵便局の対応も考えてもらわなければなりません。


 私はクレーマーではありませんが、早速顔見知りの郵便局長に電話を入れました。残念ながら局長は留守で協調代理が出ましたが、平謝りされる電話の向こうに対して少し冷静になってお話をしたのです。私は毎年100個に近い荷物を主に郵便局の窓口から送っています。それは郵便局長との長い付き合いや、郵政懇話会などに招かれたり、郵政研修所で講義をしたりして深いご縁をいただいていることへの感謝の意味を込めてのご愛顧なのです。郵政が民営化され間もないのですが、これが民間の宅配業者だったらどうなっていただろうと、まだまだ甘い郵政の対応に少し眉をひそめました。

 かくして迷走した荷物は私の手によって開けられ、腐敗の進んだみかんとまだ食べられるみかんとに仕分けし処分しました。この荷物が息子に届いていたと仮定すると今頃は、息子の胃袋に納まっていただろうにと思うと、やるせない気持ちになりました。年末年始で忙しくなるこれから、私も息子も、郵便局もみんなでトラブルのない明るい正月を迎えたいものです。後二日で師走ですから・・・・。

  「一週間 迷走続けた 荷が帰る 箱の底から 涙こぼして」

  「信用を していたはずの 郵便が こんな姿で 帰る寂しさ」

  「文句言う 私はやはり クレーマー? 煙たがられて それで終わりか」

  「受け取らぬ 息子も悪い お叱りの 電話しつつも どこか心に」

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shin-1さんの日記

○FAXの調子が悪い

 インターネットでメールが入るようになって、私にとってはすこぶる便利な世の中になってきました。何せ24時間いつでも発受信ができるし、全ての文字や画像が鮮明に読みとれるのですから、こんな嬉しいことはありません。しかしEメールにも欠点があって、相手がメールの送受信のできない人にとっては猫に小判なのです。メールを送って下さいと連絡をしても、FAX番号を聞いてFAXで文章を送って来る人の殆どは、メールが苦手や使えない人が多いのです。

 数日前相手先から「FAXで文章を送ったが届いているか」と問い合わせがありました。FAX兼用の電話に行ってみましたがFAXの文章は届いていないようでした。相手にそう伝えたものの心配になってよくよく調べてみると、FAX用のカーボン紙がなくなって受信した用件が5件も、FAXの中に閉じ込められていたのです。でも最近のFAXは利口なものでそのことをちゃんと記憶して、私に伝えることができるのです、

 わが家のFAX兼電話は接続調子やカーボンの調子が悪く、最近になって買い換えました。ゆえにカーボンもまだ補給しなくてもあるだろうと思っていたのですが、先日相手先から私が書いた40数枚もの原稿の校正ゲラが送られてくるなど、そういえばかなりカーボンを使ったと振り返りつつ、替え用のカーボンをNTTに注文しました。ところが土日を挟んでいたためカーボンが届いたのは昨日で、私が出払っていたため入れ替えが今日になってしまったのです。

 今度のFAXは前回故障した機種とは全く操作が異なっていて、FAXの送信は裏と表が全く反対なのには驚きました。先日も送ったはずの文章が白紙で送られてきたと文句を言われるほどで、メカに弱い自分がつくづく嫌になりました。今日だってそうです。外出先から帰ってNTTから送られてきたカーボンの入れ方が分からず、図解を見ても結局あんな単純な操作を20分もああでもない、こうでもないと触りまくって、やっと飲み込めたのです。


 FAXからプリントアウトして出てきた文章は大切な会議の要件で、早速相手先にFAXのカーボン切れでご迷惑をかけた旨の連絡をして事なきを得ましたが、最早古い情報手段だと思っていたFAXにもしっかりと対応しなければならないと肝に銘じた次第です。

 FAXが役場に設置された頃、なんて便利な道具だろうと思ったものでした。その後ワープロが登場した時も人間の英知に驚いたものでした。そしてまたインターネットに驚き、テレビのデジタル放送に驚きながら、現代を生きています。はてさて今度はどんな情報機器が出現するでしょうか。僅か10年の間に起こったさまざまな情報機器の変化に、ついて行くのがやっとといったこれまでを振り返り、もう賞味期限の切れかけた自分の姿を垣間見るのです。

 今年私はウインドウズXPという比較的新しい情報ソフトにおさらばし、ウインドウズビスタという新しい情報ソフトに乗り換えました。ウインドウズXPをマスターしないまま、これまで使っていたパソコンが壊れたため仕方なしの選択でしたが、進化しない私と進化したパソコンの距離は開くばかりです。リタイアした私にとって13万円の投資は余りにも大きな出費でした。でもこの2ヶ月余りで投資効果は確実にアップして、仕事の効率も大変良くなりました。このパソコンを大事にすると同時にFAXもしっかり使ってやりたいと思いました。


  「FAXの 調子今一 イライラが 募り何とか 修理しました」

  「俺などは 賞味期限も 切れていて 電子機器など 猫に小判か」

  「FAXは カーボンなくも 受信して ちゃんと知らせる 記憶が凄い」

  「ふと見れば 図解している マニュアルを 読みもしないで 分からぬはずだ」

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shin-1さんの日記

○新酒と新米が届く

 先日山の向こう大洲市田処に住む亀本さんが突然見えられ、今年の新米を届けてくれました。最近は早場米などが8月に出回るせっかちな時代になったので、今頃の米を新米といえるかどうかは疑問ですが、山里の棚田で作るお米は、八十八というお米という字そのままに手塩にかけて育て、しかも稲刈りを終えると稲木にかけて自然乾燥させる手間暇の末出来上がった、いわばお百姓さんが愛情を注いで作り上げた芸術品なのです。新潟魚沼産こしひかりなどが美味いお米の代名詞のように言われていますが、最近の汚染米騒動などを考えれば、お米の向こうに作り手の顔が見える安心安全なお米もこれまた一味違ったお米なのです。

 私たちは昔のようにお米を食べなくなりました。昨日一日だけでも朝はパンとリンキャベでご飯なし、昼は麺類でご飯なし、夜は酒宴ががあって飲み放題の店で締めのさつまをいただいたお陰でかろうじて茶碗に軽く一杯ですから、私のお米の消費量は僅か1合にも満たない少量なのです。

 昨日外出先から帰ったのは10時頃でした。酒宴が終わって知人との約束で寿司屋へ立ち寄りました。それまでに腹いっぱい食べていたので、失礼ながらその寿司屋ではあがりを一杯いただいて早々に店を出ました。遠来の知人ながら彼も出来上がっていました。帰り際「手土産のつもりで地元では銘柄の新種を送っておいたから」といわれました。

 家に帰ってみると妻が、「お父さんお酒が届いているよ」というのです。みれば先ほど寿司屋で再開した知人が言っていた手土産の新酒でした。知人は私がまだ酒を止めたことを知らないのでしょうが、いくらいい酒を送られても酒を止めた今の私にはまるで猫に小判といったところでしょう。私の妻もお酒は丸っきし駄目で息子たちも酒はそれほど飲まないので、私が酒を止めた今では正月用の酒がまだ残っているのです。親父は90歳になりますが若いころから酒好きで、今も晩酌を欠かさないのです。さすがに若いころのように量は飲みませんが、それでも毎晩1合弱の酒をたしなんでいるのです。

 おやじに知人の話をして新酒を手渡しましたが、親父は大層喜んでくれました。今晩あたりこの新酒を楽しむことでしょう。

 この酒も元はといえばお米から作られています。最近は酒米事情も変わって酒米を確保するのに大変のようです。先日解禁になった外国産のワインについてはマスコミも大々的に取り上げるのですが、ここは日本なのに何故か新酒の話題は少ないようです。私の町にも最近まで奥嶋酒造という蔵元が島錦という銘柄のお酒を作っていましたが、日本酒の消費量の落ち込みに対応することができず、残念ながら長い歴史に幕を閉じました。高い煙突も白壁の酒蔵も町の格式を示すように残っていますが、酒を作る息遣いが消えた建物が泣いているような寂しさを感じるのです。

 米も人、酒も人なのに全てが洋風化の波に押し流され、米も酒も人の気配がしなくなりつつあります。これも時代の流れでしょうか。私のささやかな日々の暮らしの中からも米と酒は消えようとしているのです。日本人の体に病気が増えた原因を、「米を食べると太る」という間違った宣伝をし続けた結果だという反論学者の説を聞くと、やはり日本人の暮らしや健康にはお米が一番だとも思うのです。そうだこれから少しお米に軸足を移して暮らしてみようと思った次第です。

  「酒飲まず お米も食べぬ 日本人 最早私は 何人でしょう?」

  「送られた 稲木のお米 玄米の ご飯に炊いて 妻と二人で」

  「送られた 酒でちゃっかり 親孝行 親父喜び 一日長生き」

  「蔵元の 酒が消えたる 界隈を 寂しく歩く 秋の夕暮れ」

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○作務衣

 先日国立大洲青少年交流の家で開かれた地域教育実践交流会に参加しました。日ごろ青少年を中心にしたボランティア活動に取り組んでいる170人もの人が集まり、楽しい集会となりました。この集会を開くにあたり実行委員会が組織され、私も愛媛大学の讃岐先生のお声がかりでお世話人さんの末席に加わり、何度か実行委員会に出席して意見を述べたり、当日の運営に参加しましたが、今回も様々なことを学び意義ある参加となりました。

そんな中で私の思いと運営に携わる人の思いが少しずれていて思わぬ効果をもたらしたのが卓話でした。

 私はライオンズクラブや倫理法人会早朝学習会などに呼ばれて卓話をすることがよくあります。ゆえに卓話を今回のプログラムに入れたらどうかと提案したのも私でした。それなら言い出しっぺのあなたがやるべきだといわれ、それなりの覚悟とまではいかなくても、軽い気持ちで引き受けたのです。卓話は一人だけでなく学校の校長先生でもある堺雅子先生を選んで、二人ですることに決まりました。それから何カ月かがあっという間に過ぎ去りました。先生は実行委員会の度に「若松さん卓話はどうする」と誘いの言葉があるのですが、私のイメージとしてはライオンズや法人会のように30分の与えられた時間にしゃべればいいと思っていたので、気にもせず当日を迎えることになったのです。前日事務局からメールが入り、「卓話は作務衣をするようになったのでそのつもりでお願いします」というのです。当日会場に行ってみると既にステージには炬燵まで用意していて、これでは卓話ではなく座卓の卓話、つまり対談ではないかと思いました。仕方がないのでいわれるまま校長先生と一騎打ちならぬ対談をさせてもらいましたが、私のイメージとはかなりかけ離れた結果に終わり、卓話を期待した人も多分「あれっ」と思ったに違いないのです。

(作務衣を着て卓話をする私と堺校長先生)

 私も校長先生も有無を言わせず作務衣に着替えさせられました。聞くところによるとこの作務衣は東南アジアで作られたらしく、HIVに感染した人たちの家族が収入を得るための手段として製作にかかわり、福祉ボランティア団体が販売してその収益金を送金しているのだそうです。

 私は紺のM寸でぴったり、自分で言うのもおこがましいのですが、一度は着てみたかった服だけに体にフィットしてとても着心地がよく、一辺で気に入りました。しかし長時間着ていると私の白いシャツがみるみる紺色に変わり、私の手先も紺色になってきました。多分染めてから水洗いが出来ていなかったものと思われますが、まあそんなことは大したことではなく、家に持ち帰って2度ばかり洗えば色も落ち着いて藍染の渋い色が出てきました。

(作務衣を着た私、似合っているでしょう)

 作務衣はもともと禅宗の僧侶が労働(作務)をする時に着る作業着のことですから、薪割りや畑仕事をするときだって着ればいいわけです。最近は作務衣は芸術家のような人が着ていて、それなりに文化を感じるのか、それなりの人が着て町を歩いているようです。わが21世紀えひめニューフロンティアグループの大野事務局長も盛んに愛用しているのです。

 さて私は卓話というプログラムの思わぬ勘違いから作務衣を手に入れ、卓話のお礼にと校長先生と私の二人とも試着後いただくことになったのです。タダにはタダの礼という言葉があるように、私はこの作務衣の販売の手助けをしなければなりません。そこで考えたのはこの作務衣を着て、この上に塩崎さんに貰った三崎の裂き織袢纏を羽織って落伍をするという試みです。扇子も日本タオルも、ましてや高座の台までも全ていただき物で落伍は益々オーバーヒートしそうな雲行きです。

 勘違いから出た誠とでも申せましょうか、作務衣は思わぬ方向へ向かいそうです。

  「作務衣着て 卓話をせよと 言う人の 言うがままにて 卓話終わりぬ」

  「作務衣着た お陰で作務衣 いただいた 広告塔にて 作務衣宣伝」

  「作務衣着て 落伍をすれば 箔がつく 裂き織上に 羽織ってやろう」

  「染物の 色に染まりし シャツズボン 妻に叱られ 自分洗濯」 

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○3Cの変化

 かつて私たちが若いころの日本は戦後の混乱期という暗いトンネルを抜け、高度成長期の真っただ中にありました。その象徴は東京オリンピックだったように思うのです。それまでは暖をとるのは火鉢、ご飯も風呂も薪をたいていました。洗濯はタライと洗濯板、掃除も箒でした。それがストーブやガス、洗濯機や掃除機が開発普及して今のような文化的な暮らしになったのです。その頃は豊かさの代名詞として3Cという流行語が生み出されました。カー・クーラー・カラーテレビです。そんな3Cを手に入れるためにみんな一生懸命働いたものです。それが今では現実のものとなって、今ではくる桃一家に一台以上は殆ど持っているし、クーラーやカラーテレビは当たり前の時代になっていりのです。

 しかしそんな高度成長も長く続かずバブルの崩壊といわれる時代がやってきて、トイレットペーパーが不足するような、そして全国各地で公害が起こるようになり、選挙も革新的な人や芸人が当選するような時代を迎えたのです。「物から心へ」というキャッチフレーズも生まれ3Cはカルチャーやコミュニティといった横文字で形容されるようになったのです。しかしそれも長く続かず、最近は再びバブルの崩壊が始まり、世界的な経済不況が訪れ、株価は暴落や乱高下を繰り返しているのです。また私たちが子どもの頃は固定相場で1ドル360円だった円とドルの関係は変動相場制になって今や100円を割り込んでいるのです。また油も今は少し値を下げていますが一時は180円の高値を付けていました。それでも自動販売機で買う水やお茶は500ミリリットルで150円ですから、1リットル換算すると300円ものお茶や水を飲んでいて、油の倍の値段がするのですからおかしな話です。

 こんな混沌とした時代は必ず変革を求めるのは世の常で、次期大統領に就任することが決まったオバマ氏はチェンジを訴え、アメリカ史上初の黒人大統領が誕生するのです。オバマ氏は名うての演説家で、Chenge Yes

I Canと訴え、チェンジが流行語となっています。まさにCの時代の到来です。

 私たち人間の一人一人の力は無力で、そのことを承知しているのか自分には出来なくても誰かの力で予直しをして欲しいという強い願望を持っています。多分その表れが保守的なマケイン氏よりオバマ氏を選んだのでしょうが、果たしてオバマ氏がアメリカや世界の救世主になり得るかどうかは疑問な所があるようです。現大統領のブッシュ氏だって就任後起こった湾岸戦争時は圧倒的な8割を超す支持率だったのに、現在の支持率は下がる一方です。これは海の向こうの話だけではなく日本の麻生さんだって同じ運命をたどっているのです。

 オバマ氏の言葉を借りれば確かにチェンジしなければなりません。しかしチェンジしたギアーやハンドルをどこに向かせるのか、そのことが問題なのです。多分キーワードは二つのCだと思うのです。Challengeによって   Cannceをつかむことだと思うのです。チェンジシフトした志はチャレンジしなければチャンスは生まれてこないのです。これからの3Cはチェンジ・チャレンジ・チャンスだと思うのですがいかがでしょうか。

 オバマ氏のような広い世界に生きている人と、私のような小さな世界に生きている人間とでは考えも行動も、その影響も月とスッポンでまるっきり違いますが、私たちのような地べたを這って生きている人間にだってこれからの3Cは必要かも知れないと、密かに行動を起こす決意をしたこのごろです。

  「三Cか 思い指折り 考える チェンジ・チャレンジ そうだチャンスだ」

  「いつの世も アクセル踏み過ぎ ブレーキが かかって気づく 人の愚かさ」

  「アメリカが クシャミをすれば 日本など 周りの国が 風邪をひきます」

  「日本でも オバマ再来 期待して 間抜けな人が 間抜け真似する」 

 

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