shin-1さんの日記

○上灘川の源流を探る小さな旅①

 私たちの町には大小20もの川が目の前に広がる瀬戸内海に向って流れています。いつの頃からか定かではありませんが、人々はこの川沿いに暮らし、くぁの水の恩恵を受けながら生産と生活を営んできたのです。しかしその恵みの水が一体どんな道筋をたどって私たちの元に届くのかは知る由もなく、また知ろうともしないのです。もし明日からといわず今日からこの水が途絶えるとしたら、人々は大慌てに慌ててその原因を探るのでしょうが、そんな困窮をしても、水を貯める貯水施設や水道管、それに水を管理する人たちへの問い合わせくらいで、水の命を素人はしないはずです。

 私は常々自分たちが毎日使っている水が一体どんな場所で生まれ、どんな経路を経て来るのか知りたいし、そのことを子どもたちに教えてやりたいと思っていました。学校教育ではそれなりのカリキュラムがあってそんな余裕も口出しも出来ないため、幸い私が実行委員長を務める少年少女おもしろ教室のプログラムに「源流を探る」というメニューを加えたのです。

 このところの暑さで温度計はうなぎ上りの状態で、数日前に近隣の大洲では38度を越えてその日の日本一を記録するなど猛暑日が続いていますが、子どもたちは元気に出発しました。

(市役所支所ロビーでの開会式)
(何時もの事ながらスタッフも沢山集まりました)

 マイクロバスで下流域の灘町から上灘川に沿って上流域となる奥大栄を目指しました。車内では私と運転手を務める教育委員会の木曽さんがガイドを務め、子どもたちの関心を引くため、アドリブで川の長さや川に架かっている橋の数、目指す奥大栄の在宅戸数などをクイズとして出しながら山道を進みました。やがて麓に到着しバスを降り、いよいよ源流を目指して出発です。この集落も超々限界集落でかつては10戸以上ありましたが、今は在宅戸数は4戸であちこちに空き家や崩れし家が目立ちました。
(かつては棚田の美しい地区でしたが、今は田んぼも少なくなって、永年作物であるみかんも殆どなくなり、安定収入のキウイフルーツなどが栽培されているようです)
(大きな民家もこのように崩れしままとなって、余計寂しさを感じました)


 子どもたちにとっては、説明をしなければこの集落がどんな意味があるのか知る由もありません。源流域の人たちの地道な暮しが水源を守っているのだと説明してやりましたが、果してどう聞こえたのでしょう。

 私たちは森林の中を歩き、奥大栄の名所のひとつである花の石を目指しました。夏草に埋もれて行く道も分らないようになっていたそうですが、地元の人の協力で事前に道を刈り分けてもらっていて、随分助かりました。

 花の石を後にした一行は沢まで下り森の中を源流を求めて沢沿いの道を上流へ歩きました。最初はかなりの水量だった沢もやがて水が殆どなくなり、源流を突き止めたのです。

(二本の丸木橋を渡って進む子どもたち)
(ここが源流と分り歓声を上げる子どもたち)


 空から降った雨の一滴はここから長い旅に出ます。気の遠くなるような時を越え、途中で取水されながら海まで注ぐのですが森は海の恋人とはよくいったものです。この日は都合で木を植えることが出来ませんでしたが、山の恵みに感謝するため是非次の機会にここへ木を植えたいとみんなで考えました。

  「源流を 求め旅する 子どもたち 水の尊さ 知ってくれたか」

  「降りし雨 長い旅路の その果てに 海まで注ぐ 感心しきり」

  「人住まず 崩れしままの 家寂し ここで生まれた 人はいずこぞ」

  「日々飲みし 水はここから 流れ来る それを忘れず 生きて行きたい」

 

 

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shin-1さんの日記

○隣町は今

 合併するまで近隣の市町村の位置はきっちり頭に入っていて、また隣町のニュースなどは競争という意識が強いのか、絶えず気を配っていました。特に同じ郡の同じような規模だった中山町や、同じ海を持つ長浜町、それに最も近い伊予市などは負けてなるものかと思いながら暮らしてきました。

 ところが合併してからの最近は市町の位置すらおぼろげで、また役所を退職してまちづくりの任から降りたため、何処かよそ事のような気がするのです。それでも昔の癖は治ることなく、時々頭を持ち上げるのですから染み付いているのでしょう。

 数日前八幡浜市保内町幼稚園へ講演を頼まれて出かけました。その帰りに長浜を通りかかりました。晴海工業団地に近づくと頭の上に立体的な道路が出来ているのに気付きました。工事をしていたころからこの道路は一体何処へ通じるのだろうと思っていました。ふと好奇心が頭を持ち上げ大きく左折してその道を走ってみました。案の定この橋脚の上を走る道は旧長浜町自慢の肱川嵐が展望できる公園へと通じていました。

 山道ゆえ曲がりくねった道を進んで行くと、見覚えのある嵐公園へ到着しました。この日は視界もよく展望台に上がると四方八方が一望できました。特に肱川河口に架かった新旧2本の橋が印象的に見えました。

 特に赤橋といわれる鉄橋は片勝鬨橋で日本でも珍しい近代化遺産の橋として注目されています。毎年10月下旬になるとこの橋を包み込むように靄が肱川嵐となって海上へ吹き出すのです。旧長浜町ではこれを地域資源ととらえ初嵐の日をクイズ形式で当てるコンテストなどをやっていますが、残念ながらその効果は上がっていないようです。というのもかなりの費用をかけて嵐を見るための公園を造ったものの、嵐は早朝に吹き出るため、また寒いため観光客には敬遠されて中々人が集まらないのが実態のようです。

 この日は公園に着くと見覚えのある人に会いました。役場に勤める豊茂の中田さんです。彼は今国土調査の仕事をしているらしく、私の時ならぬ来訪に驚いた様子でした。

 瀬戸内海に突き出たように見える展望台からは、坂本龍馬が脱藩の折ここを船出して渡ったであろう伊予灘の海が拓け、坂本龍馬が目指した山口県が雲にかすんで見えました。

(長浜町の埋め立て造成地はまだ空き地も見られましたが、遠望では大きな油タンクも見え、工業団地としてそれなりの成果を収めているようです)

(肱川の右岸には団地も沢山見えました)
 合併によってまちづくりの世界も大きく変容しています。これまで隣町を意識し、隣町に蔵が建ったら腹が立つといわれるほど競争した昭和の時代から平成の時代は終りを告げました。確かに競争はよくないことかもしれませんが、ある意味で競争は地域に元気をもたらしました。競争の消えた合併後は隣町がどんなことをしているのかさえも関心のない時代となっているようです。

 役場を去った私でさえもこうして東国原宮崎県知事のように「どげんかせんといかん」と思っているのですから、役所に務めている人はことさらに「何とかせんといけない」と危機感を持って生きて欲しいと思いました。

  「隣町 いつの間にやら 何処だっけ 何が起ころと 関係ないか」

  「ふるさとを 思う心を 持たずんば 国は滅びる 歴史が語る」

  「朝もやで 地域おこしを 考えた 見事外れて 寂し公園」

  「いや見事 長浜の町 橋風景 好きなアングル 皆に見せたい」

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shin-1さんの日記

○熊本県天草からのお客さん

 2007年1月15日に熊本県天草市経済同友会から講演の依頼があって車で出かけました。その日の前日娘が、切迫流産のの危険があるとかで緊急入院してしまい、孫の面倒を見なければならなくなったため、妻と二人で予定していた天草行きに急遽孫を連れて行く事になりました。孫は長い道中でしたが楽しかったことが忘れられず、一泊したホテル海心館の優しいもてなしや、講演のあったホテルアレグリア天草近くの水族館でのアザラシ、イルカなどとの出会いが忘れられず、未だに何かにつけて天草の話しをするのです。

 その後天草経済同友会の中川会長さんとのご縁も深まって、2007年6月25日に天草のご一行がわが町へ視察に来られ旧交を温めました。その同じ月には熊本県あさぎり町へ講演に行くなど様々な熊本との交流が進んだのは、多分松山と熊本を結ぶ天草エアラインの就航によるものだと、人や地域との交流にとってアクセスは大事だと痛感したものでした。

 あれから1年が経った先週7月16日、再び天草から視察団がやって来ました。今度は自治会の皆さんでしたが、中川会長さんから直接電話があったものですから、少し変わったプログラムを組んでお迎えしました。

 まず役場会議室で私の講義を1時間程度行いました。自治会のメンバーなので地域の自立について突っ込んだ話をしました。その後わが家と翠小学校、シーサイドでの昼食を挟んで人間牧場の案内です。これは中川会長さんの希望でもあったので、中型バスの乗り入れはギリギリなので気を揉みましたが、どうにか行くことが出来ました。

 まず翠小学校ですが、運良く校長先生がいらっしゃってご案内をいただきました。一行は窓を吹き抜ける爽やかな海風を感じながら今時の学校では珍しい和室で校長先生の話を聞きました。この学校が現役木造校舎では県下で一番古いこと、エコ改修の指定を受けて調査研究をしていること、この学校が地域のコミュニティづくりに果たしている役割、ホタルとのかかわりなど特色ある学校づくりについての説明に納得した様子でした。

 最近の学校は危険という名の元に門を閉ざし、心を閉ざしている学校が多いようですが、この学校は門こそ閉じていてもいつもオープンスタンスで迎えてくれます。子どもたちも先生たちもお客さんを意識せず常に自然体で迎えてくれるのです。人数的には児童数31名と小規模校ながら、やっていることや目指していることは大規模なのです。学校とは木が交わって学ぶとはよくいったものです。木はそれぞれ癖を持っていますが、木の癖組みこそが人間力を育むのだと思いました。

 人間牧場では主に限界集落のことや、住民自治、それに人間力とは何かを感じ取ってもらおうと思いました。時代が進歩する中でややもすると後退しようとしているのが今の地方の現状です。合併によって行政サービスが低下したと意識する住民、学校統合や限界集落などで将来への不安を感じている住民、住民自治といいながら高齢化と過疎の狭間で自治などやりようがないと宿命を感じ取っている住民、様々な問題が横たわっていて、これは日本全国を揺るがしているのです。

 一生懸命生きる、それでも駄目だったら潔く諦める、そんな生き方をしている私にとって、視察に来られる人に幾ら「頑張って下さい」といったって、それはもう自助努力の域を超えているのですから、「私はこんなに楽しい生き方をしています」と見せること以外ないのです。たった一度の人生だからみんな楽しく生きて行きましょう。

  「天草の 人と再び 面会す 私の生き方 素敵でしょうが」

  「漢字では 木が交わって 学ぶ書く 学校ではない 学校増えた」

  「空青く 海も深蒼 澄み切って 真夏の双海 客をもてなす」

  「俺に逢う 人が沢山 やって来る だから気張って 素敵生き方」

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○三津の渡し

 新幹線で大阪から東京まで3時間もかからない、こんなにスピードの速い世の中なのに、ゆっくりのんびりした世界があるものです。私の親友河野正彦さんは昨年市役所を定年退職しました。遊んでいるのも何だからと、再就職をしたのですが、その就職先は何と愛媛県松山市三津浜の運河を行き交う渡し舟の船長だと聞いて少し驚きました。彼は海技免除を持っているためその職につきましたが、何人かでチームを組んでその運行に当るのですが、行き交う船の数は相当多いようで、その中を縫うように走る渡し舟は、ゆっくりのんびりどころか朝7時から夕方まで、安全第一故に気の抜けない仕事のようです。

 この渡し舟は庶民の足として近所に住む人たちに長年親しまれてきただけに、財政難や行政改革、車優先の社会になった今、廃止について色々取りざたされているようですが当分は続くようです。

 数日前私は広島へ行く機会がありました。折角だから彼の雄姿を一目見ようと途中立ち寄りました。7時からの運行にそなえ準備の真っ最中でしたが、対岸から私の姿を見つけ、お客さんもまだ姿を見せていないので、こちらの岸に舟を走らせてきました。聞けばこの渡し舟は不定期で時刻表がなく、お客がいれば運行するという面白いものです。手を挙げれば対岸まで迎えに来てくれるのですから、これこそ庶民の足というべき乗り物でしょう。

 ところでこの渡し舟の歴史は古く、1469年に遡るそうです。伊予の守河野通春が湊山城主であったとき、この渡しを利用したのが始まりといわれています。あの有名な小林一茶も1795年に乗ったという逸話もあるほどです。大正の初めは水竿で運行していましたが、その後は手漕ぎ櫓となり、昭和45年にエンジンがつけられ現在に至っています。

 現在の正式名称は松山市道高浜2号線と呼ばれる道の一部なのです。海の上を私道が走っている珍しいもので、運河の幅は妬く0メートルだそうです。


 私は何度かこの舟に乗った経験があります。漁師をしていた若い頃ヤンマージーゼルの会社が三津浜にあって、エンジンを修理にやって来た時、対岸の造船所からこの渡し舟に乗りました。未だその頃は手押し櫓漕ぎだったと記憶していますあ。いにくこの日は先を急いでいてこの渡し舟に乗ることは出来ませんでしたが、河野さんの運転する渡し舟に是非一度乗ってみたいものです。

  「時刻表 なくも運行 渡し舟 手を挙げすれば タダで迎えに」

  「のんびりと 港の景色 眺めつつ 対岸渡る 長閑けき渡し」

  「渡し舟 乗らず歩けば 三十分 それがたったの 五分で向こう」

  「長閑だが 客を乗せ行く 仕事にて 目と気配りを いつも忘れず」

   

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○真夏のレオマワールド

 妻と孫の三人で香川県へ一泊二日の旅をしました。孫にとっては迷惑な旅の同行に報いようと、夏休みになったこともあって、孫の希望を汲み入れてレオマワールドを目的地に選びました。レオマワールドは金毘羅さんから近い場所にあるテーマパークですが、一度経営破たんしたことがありました。その後食品メーカー加ト吉が経営に加わり再会されたようですが、今度はその加ト吉に疑惑が持ち上がりかなり苦労をしているようです。

 午前中善通寺で早々と霊場参りを終えたため、香川だったら名代讃岐うどんを食べて行こうと、とある店へ入りました。間もなく昼飯時とあって店内は少し混み合っていましたが待つこともなく店内へ案内されました。妻と孫は釜揚げうどん、私は大根おろしうどんの大を注文しました。どちらも何のトッピングもないシンプルなもので、特に私の大根うどんは下しガネで自分で下し大根を作らなければなりません。少し多めにすり下ろしてうどんの上に乗せ、そこへ生醤油をかけるだけなのですが、夏の大根はかなり辛くうどんの本当の味を楽しむことが出来ました。だし汁もなく生醤油だけでうどんを食べることなど愛媛では余り馴染みがないのですが、近頃はテレビの旅番組などで度々紹介されているので、一度は食べてみたかったのです。

(うどん屋の店先で記念撮影をする朋樹)

(孫はブロック館でブロックの組み立てをしたかったようですが、ここで抜いた

 腹も太っていよいよレオマワールドへ到着しました。園内は正午過ぎの最も暑い時間帯なのに夏休み最初の日曜日とあって沢山の車が詰め掛けていましたが、駐車場はまだまだ余裕があってそれ程の混雑ではありませんでした。この日園内では農機具展示会が催されていて、子どもに関係のないような雰囲気が漂い、日焼けした農家の人たちが広い園内を汗だくになって右往左往している姿をよく見かけました。



 私と朋樹は4種類の乗り物に乗りました。冒険ワールド、クルリン自転車、足漕ぎボート、観覧車です。孫はまだ乗り物が怖いようで、乗る度に気乗りがしないようでしたが、冒険ワールドは室内に作られた夢の世界を気球に乗って一周するもので、とても楽しい旅でした。クルリン自転車は空中を二人乗りの自転車タイプの乗り物で一蹴するもので、かなりスリルがありました。足漕ぎボートは妻も一緒にボートに乗って池を20分航海するものです。足の届かない孫は真ん中に乗ってもっぱら船長さん役で体力のない妻は殆どブレーキのようで、私一人が20分にわたって漕ぎました。お陰で私はまるで潮吹き鯨のように汗びっしょりになりました。

 最後の乗り物は観覧車でゆっくり動くのでそんなに怖くはありませんでしたが、さすがに一番上に上がった時下界を見渡すと足元が怖いような錯覚に見舞われました。怖いといっていた孫は、伊予鉄高島屋のスケールの大きい観覧車に乗った経験があるらしく、涼しげな雰囲気でした。

 手も顔も出ている体中に太陽が照りつけ少し疲れたので午後3時早々にレオマワールドを出発し、高速道路を使って帰路に着きました。途中温泉に入って汗を流し夕食は孫のリクエストに応えて回転寿司でした。3人で30皿も平らげました。

 その足で下灘港祭りの会場まで車を走らせ、対岸のコミュニティセンター裏で花火を見学しました。二十年に渡って主催者として港祭りの企画や運営にかかわって、花火など見学する余裕もなかった私にとっては考えられないようなひと時でした。



 昨年は台風がやってきて皆と祭りも花火も中止となっていたため、昨年度の予算を使ったためか何時になく見事な花火だと、見ている人は大きな口を開け夜空を眺めながら拍手や歓声をあげていました。

 孫にとっても私たちにとっても、この二日は久しぶりにリフレッシュした休日となりました。孫は今日午後、迎えに来た両親と弟に連れられて、帰りたくないのにしょんぼりと帰って行きました。カブトムシの世話は私に頼まれました。

  「小旅行 孫と過ごした 二日間 写真見ながら 回想楽し」

  「来年は 学校入る どうなるか 今年最後と 思い出つくる」

  「フィナーレは 孫と一緒に 花火見て 爺婆も 幸せ浸り」

  「又来ると 泣きべそかいて 帰る孫 カブト飼育は じいちゃん頼む」 


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shin-1さんの日記

○孫を連れて遍路旅

 今日は午前中観音寺と善通寺周辺のお寺さん6ヶ寺を巡ろうと、7時から食事をして8時に宿を出発しました。今朝は雲ひとつない快晴の朝でした。カーナビでお寺さんの電話番号を入力し最初のお寺は第68番札所神恵院と第69番観音寺のお寺が同じ敷地内にあるお寺にお参りしました。お参りする人間にとっては二つのお寺が一緒にあるのは便利ですが奇妙なことです。寺の縁起によると明治の神仏分離令により68番の本地仏を観音寺の西金堂に請来したことにより、一境内2札所となったようです。

(第68番神恵院)
(第69番観音寺)
(展望台から寛永通宝の大砂絵)

 寺の裏手の山を登れば寛永通宝の大砂文字や根上がりの松など見所も多く、私たちもせっかくだからと一方通行の急な坂道を車で登りました。孫朋樹にとってはこんな大きな昔のお金は理解し難く、何度も質問されおばあちゃんはタジタジでした。そこから第70番本山寺、第71番弥谷寺を経て善通寺市内へ入りました。どのお寺も印象深いのですが特に弥谷寺(いやだにでらと読む)の長い108段の鉄階段は孫にとっても階段を数えて登ったため思い出に残るお寺でした。

(第70番本山寺の五重塔)
(第71番弥谷寺の長い鉄段)
(第72番曼荼羅寺)
(第73番出釈迦寺)

 第72番曼荼羅寺と第73番出釈迦寺は目と鼻の先でした。残りは飛び飛びでお参りしているため、第75番善通寺へのお参りです。ここは真言宗善通寺派の総本山らしく、弘法大師ゆかりの寺らしく他のお寺にはない広大な敷地と威厳を感じさせてくれました。寺の縁起によると唐から帰朝した大師は先祖の氏寺を建立せんとして、父通郷から寺領として荘園四町余りを拝受し、そこにかつて学んだ唐の青竜寺に模した堂宇を建てました。寺号は父の名をとって善通寺と命名し、山号は背後の5つの山にちなんで五岳山と号したようです。

(立派な石橋)
(第85番善通寺)

 この日はお参りしませんでしたが、ここの地下には89メートルの戒壇めぐりがあり、お寺の名所となっています。

 午前中駆け足で回った香川西方六ヶ寺参りは空に力強い入道雲が湧き上がる暑さの中でしたが、カーナビのお陰で路に迷うこともなくスムースにお参りが出来ました。これで残りは川之江の三角寺と松山市内のお寺を残すのみとなりました。

  「雲が湧き セミのしぐれや 寺めぐり 孫は迷惑 言いたげゾロリ」

  「木陰なく 汗を拭きつつ 心経を 唱えつお寺 次から次へ」

  「カーナビと いう文明の 力借り 迷うことなく お寺を巡る」

  「掛け軸に 独特書体 書く僧侶 汗などかかず 冷房部屋で」

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shin-1さんの日記

○プライベートな旅

 毎日小さな旅や大きな旅をし、特に大きな旅は旅先で泊まることが多いのですが、この2年ほどは殆どプライベートな宿泊を伴った旅はしていないことに気付いて、昨日と今日の二日間、四国霊場八十八ヵ所巡りを兼ねた小旅行に妻と孫朋樹を伴って出かけました。前にもブログで紹介しましたが、私たち夫婦はもう10年以上にわたってついで旅のついで遍路をしているのですが、私と妻の休暇予定が会わず、僅か八十八ヵ所のお寺さん参りなのに、未だに完結していないのです。私の退職を機に遍路旅を早く終わらせようと夫婦で相談したのですが、私の方が現職時代より忙しいのではないかと思うほどに忙しくなって、延び延びになってしまっていたのです。こんなことではバチが当るのも当然なので、後2日もかければ終わるので、何としても納経帳と掛け軸だけでも終わらせようと再び挑戦し始め、昨日今日のお参りとなったのです。

 昨日は妻の仕事が終わってからの出発なので午後3時でした。この時間だとお参りするお寺さんは納経所などは早々と店じまいしているので、宿の都合で金毘羅さんにお参りする事にしました。伊予のインターチェンジから高速に乗って善通寺までは、途中サービスエリアでトイレ休憩をしても2時間で到着です。

(門前をいざ出発です)

 この日は土曜日を含めると③連休とあって、金毘羅さんの門前もかなり沢山の人で混雑していました。相変わらず土産物屋さんの客引きにあい、土産物を千三百円以上買えば5百円の駐車料金がタダとあって、妻は早速子どもたちへの土産物を買ってからの出発です。西陽の傾いた午後5時とはいいながら梅雨の明けた太陽は容赦なく照りつけ、三人とも前身汗まみれになり、フーフーいいながら長い石段を、土産物やさんから借りた竹の杖をつきながら登りました。私たち夫婦より五歳の孫は元気で、石段の途中ではいつもトップで、「おじいちゃん、おばあちゃん早く早く」催促される有様なのです。

 私たちの生まれた漁村では、毎年夏になるとその年新造船を進水させた家では、海の神様といわれる金毘羅様か宮島様へ大漁幟を立ててお参りに行く風習がありました。親類や自分の家の船に乗ってお参りするのは、そんなに遠い所へ旅に出ることのなかった私たち子どもにとって、飛びっきりの楽しみであり、この石段は沢山の土産物が並んでいるまるで宝石箱の中を歩いているような夢の世界だったのです。最近は土産物事情も随分変わって、余り売れないと休憩のために立ち寄ったお店のおばちゃんはこぼしていました。

(境内にある凄く大きいスクリューの前での記念写真)

(讃岐富士を一望できる本殿、二人とも汗びっしょりです)

 本殿にお参りして、遠く讃岐平野を一望しましたが、讃岐富士や周りの山々、それに日本一多いといわれるため池が絵のように見えました。この風景は昔も今も変わらぬ見覚えのある風景なのです。お参りは予想以上に速いペースで僅か1時間ほどで元の駐車場へ帰って来ました。

(かんぽの宿では綺麗な夕日が出迎えてくれました)

 この日の宿はインターネットで調べて予約した観音寺にあるかんぽの宿です。カーナビに入力したとおりの道を40分ほど走りましたが、到着した時間は夕日が沈む時間で、高台の宿からは燧灘に沈む夕日がことの他美しく見えました。温泉で汗を流し午後8時からの遅い夕食となりましたが、孫は5歳以下で宿泊料は布団代以外タダで安い料金ながらサービスが行き届き、係りの人たちも皆さん親切でいい旅の思い出が出来ました。この夜は孫を真ん中にして私たち夫婦は川の字になって寝ました。孫との旅は想像以上に楽しいものです。来年からは小学生になるためこんな旅は出来ないかも知れないと思いました。

(孫朋樹君のために用意された豪華な料理)

  「金毘羅は 子どもの頃の 思い出が いっぱい詰まった 夢ある世界」

  「孫に負け 夫婦体力 下り坂 登りきらずに 下りを意識」

  「冷や汗は かかぬが大汗 かきました 孫と三人 お湯に浸かりて」

  「ホテル着く 迎えてくれた 夕日見て 遠く離れた ふるさと思う」

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shin-1さんの日記

○広島は暑かった

 昨日は久しぶりに広島へ行きました。広島県自治総合研修センターの招きにより、「地域・人づくりセミナー」で講演をしました。このセミナーは2泊3日で二日間は国際理解教育情報センターの代表である藤井満さんがワークショップについて手中講義をされているようでした。私は毎年このセミナーに呼んでいただいていますが、藤井さんとはいつもすれ違いで顔をあわせたことはありません。職員の方の話だと、「明日は双海町の若松さんが面白い話しをしますので期待していてください」と予告されて帰ったそうで、何でも出身地が伊予市らしく、一度はお会いしたいものだと思っています。

 昨日は午前中は広島県高宮町の辻駒さんが講演をされているようで、私は午後の3時間半をとっていただきたっぷりお話をさせてもらいました。昨日の参加者は広島県下各地から集まった20名が対象でした。途中休憩を10分挟んで講演を3時間しましたが、用意したDVDやスライドをするのを忘れるほど熱を入れて話、研修生から「若松さん、DVDやスライドはいつ見せるの?」と質問され我に帰り、時間がない事に気付きながら慌てて紹介するほどでした。

 昨日の参加者は意識も高く、研修が始まる10分前から名刺を交換して名刺談義で始まるなどしっくり行く講義だったように思います。

 講義後はもっと時間を割いて対話したかったのですが、船の時間が気になって、結局対話は20分弱で終わってしまい心残りとなりました。でも真ん中の席に座った人をランダムに選び質問してもらった6人の方はとてもいい質問をしてくれました。

 私はその質問に答える形で三つのりんごについてお話しました。あなたは「リンゴ」と聞いて何を連想するでしょう。私は毎朝食べるリンキャベ(リンゴとキャベツ)のことを思うのですが、この話しをすると長くなるので、三つのリンゴの話しを引用してまちづくりと絡めてみました。

 ①ニュートンのリンゴ=ニュートンという科学者は木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を考えました。これは発見です。まちづくりのテーマや地域資源はその気になって見たり考えたりしないと中々見つけれるものではありません。しかし私たちの身の回りには地域資源が無数に転がっているのです。私が夕日とであったようにちょっとしたきっかけや、人の何気ない一言が気付きのきっかけになるのです。ニュートンのリンゴから始めないと何にも始まらないようです。

 ②アダムとイヴのリンゴ=毒入りリンゴという常識を覆す挑戦です。常識をくつがえすのは難しいものです。「そんなの常識」を小島よしおの漫才のように「そんなの関係ない」と挑戦できるかどうか、一歩前へ踏み出し始める勇気と挑戦する人のみが成功を勝ち得るのです。

 ③ウイリアムテルのリンゴ=頭の上に置いたリンゴを射抜く、これは強い意志と目的です。リンゴを射抜くという強い意志た信念と基本コンセプトがしっかりしていないと、人の命まで奪う事だってあるのです。

 この三つのリンゴはまちづくりにとって非常に大事な視点であることを話しました。果して私のメッセージは参加した皆さんに伝わったかどうか、これもまた私にとっては気になるところです。人に何かを伝え、人の心を動かし行動する意欲を掻き立てる研修は本当に大事だとしみじみ思った研修会でした。

  「リンゴ見て 何を思うか それぞれに 私は三つ みんなに話す」

  「今回も やる気創造 感じ取る 人が集まり 熱い学びが」

  「広島に 広がる元は この場所で 出会ったことが 始まり多し」

  「楽しみに していたですと 初対面 ながら名刺を 差し出す女性」

  


 

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shin-1さんの日記

○私の町の夕日も綺麗、「それがどうした」

 研修会や講演などで年中日本全国を旅している私は時々、旅先でハッとするような夕日に出会うことがあります。かつて夕日をテーマにまちづくりを始めようと思って訪ねた頃の日本各地の夕日は、心に夕日を楽しむ余裕もなく、ただただ自分の町と他所の町の比較対照を試みるにしか過ぎなかったのでした。そしてその残像に一喜一憂しながら意味もなく「勝った。負けた」と優越感や挫折感を味わったものでした。

 あれから20年余りが過ぎ、夕日によるまちづくりが一応成果を収めた今は、どの町の夕日もオンリーワンとして認めて見えるのですから大きな成長です。

 私が夕日によるまちづくりを行ったことや、夕日を地域資源に様々な活動をしていることは、マスコミや講演などによって既に広く全国に知れ渡っているため、夕日の話になると相手は夕日のスペシャリストである私に一目置いて一オクターブ下げた話しを話しますが、酒でも入ると口惜しいのか、かつての私のように、「あなたの町の夕日も綺麗でしょうがうちの町の夕日も綺麗だ」と自慢し始めるのです。中には強気な人もいて「あんたの町の夕日より私の町の夕日の方が絶対綺麗」と胸を張って自慢するのです。

(昨日船のデッキから見た中島へ沈む夕日)
(一週間前人間牧場に沈んだ夕日)
(三日前わが家から見る山口県周防大島辺りに沈む夕日)

 これは何も夕日に限った事ではなく、全国各地でこのような自慢話はあるようです。

 日本一と誰もが認める富士山の自慢話は駿河の国の人に出会うと必ず出てきます。これを聞いた伊予の国の人は口惜しく唇をかくのですが、何とかその鼻っぱしを追ってやりたいと思い挑戦するのです。「俺の国には富士山より高い山があるんじゃあ。余りにも高くて細く倒れたらいけないので寝かしている。この山の高さは13里もある高いもので、3千メートルそこそこの富士山など物の数ではない」と豪語するのはご存知トッポ話の一説です。

この話の山とは佐田岬のことで、岬13里と形容するほど日本一細長い半島なのです。

 日本全国には讃岐富士、薩摩富士、伊予の小富士などと幾つも富士山の略称を形容する山がありますが、これも自慢の現れだし、日本全国の商店街に意外と多い銀座なども名前にあやかったもののようです。

 私に対して「俺の町の夕日は双海町より綺麗だ」と自慢する人に私は「それがどうした」と冷や水を浴びせて反論します。追い討ちをかけるように、「夕日が綺麗と思う町は沢山あります。この町の夕日も確かに綺麗かも知れませんが、綺麗というだけでは何の価値もありません。夕日が美しいと思うならその仕掛けを見せてください」というと二の句が次げず黙り込んでしまうのです。

 まあこんな風に自慢しあっていますが、私は日本一だと思うことは別に誰はばかることはないと思います。つまりナンバーワンやベストワンではなくオンリーワンなら日本一は沢山あってもいいと思うのです。

 昨日広島から帰りに広島~松山航路の船上から、中島本島辺りに沈む綺麗な夕日を見ました。数日前に学生を連れてこの島へフィールドワークの授業で出かけた折、中島町の古野セキヱさんに出会いましたが、彼女もまたいつも「中島の夕日は美しい」と自慢しています。「それがどうした」と反論するも、彼女は一向お構いなしに自慢しているのです。

 金曜の船上のお客さんは真赤な夕日が落ちる姿をカメラに収めたり、甲板に出てしみじみ眺めていました。私はあえて「わあーきり名夕日だ。感激だー」などと回りの人を誘発するように少し大きめの声で話しました。それまでテレビを見たり雑誌を読んでいた人も立ち上がって夕日見学と相成ったのです。してやったりでした。

  「わあー綺麗 私の声に 誘われて 船上の客 一斉夕日」

  「自慢する だけある島の 夕日見て 旧友の顔 夕日の中に」

  「あの夕日 明日はどんな 顔をして 朝日となって 昇って来るか」

  「手を合わせ 沈む夕日に 祈る俺 今日も一日 感謝を込めて」


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shin-1さんの日記

○夏の花

 春の花が終り、盛夏の今は夏の花が暑さをものともせず咲いています。ひまわりやグラジオラスの花を見る度に、遠い少年の頃の思い出が蘇ってくるのです。そんな花の中で私が一押しの花はオニユリです。この頃になると伊予の花街道と植物学者八木繁一先生が名付けた国道378号線沿線には様々な野の花に混じって強烈なオレンジ色のオニユリが存在感を示すように咲いているのです。

 昨日は保内幼稚園での講演会に出かけるため海岸国道378号線をひとり自家用車プラッツに乗って走りました。先日この国道で双海町のお年寄りが車にはねられ亡くなったため、警察も取り締まり重点地域にしているのか、あちらこちらで取締りをしているため、制限速度に注意をしながら海沿いの道のドライブを楽しみました。

 夏草が国道の歩道に覆いかぶさるように繁っていましたが、山が海まで迫るような急峻な断崖絶壁などにオニユリの花を見つけました。「そうだ。帰りには一枚オニユリの可憐な花の写真を撮ろう」と思いながら当りをつけて場所を頭に入れました。途中大洲市役所長浜支所の西岡市所長さんを訪ね、8月4日の愛媛大学法文学部の学生がフィールドワークの授業でを訪ねるお願いと打ち合わせを行い、さらには知人である元保育園長岡村久美子先生と講演前久々の面会をするため早く到着し旧交を温めました。やがて保内幼稚園での講演が終わり、お茶やお菓子、それに美味しい弁当まで出してもらい、園長先生の心温まるお接待を受けた後幼稚園を後にしましたが、頭の片隅にオニユリの写真撮影のことが残っていました。

 ところが昨日は保内を出てゴゼヶ峠のトンネルを抜ける頃には前と後に大型保冷トラックが何台も続いて、写真撮影どころではないのです。結局は長浜近くまで帰ってしまい、狭い路側帯に車を止めてオニユリを探しました。オニユリは沢山ありましたが、夏草が茂って中々近寄れないのです。仕方がないのでカメラをズームにして不完全燃焼ながら2~3枚写真に収めました。

 実は私にはオニユリの思い出があるのです。私の今は亡き祖母はこの国道の向こうへと続く佐田岬頂上線から入り組んだ入り江に位置する旧瀬戸町小島出身なのですが、私が漁師をしていた頃、漁の都合で立ち寄った小島の港の直ぐ横に風光明媚な住吉神社がありました。神社付近の断崖に無数のオニユリを見て感動した経験があるのです。それ以来夏になると住吉神社や周辺に咲いていたオニユリの花の思い出が何故か思い出されるのです。遠い昔日の思い出は祖母のふるさとだけに心に残っているのでしょう。

 2年前に三崎町へ講演に行く途中懐かしくなって小島を訪れ、住吉神社にお参りをしましたが、出来ることならオニユリの咲く頃にもう一度訪ねて見たいものだと花を見ながら思いました。

  「懐かしき 色と香りの オニユリを 岬巡りの 路に見つけぬ」

  「花愛でる 優しい心 持てと母 生前俺に 諭していたっけ」

  「小雨降る 海沿いの道 走りつつ 祖母の姿 頭に浮かべ」

  「夏草の 中に埋もれし オニユリを 見つけ写真に 収めて帰る」 

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