shin-1さんの日記

○私の大好きなマリおばさん

 こんな呼び方をすると相手に失礼ですが、私はこの人を「大好きなマリおばさん」と呼んでいます。3年前に合併して今は同じ伊予市の市民となりましたが、彼女は旧伊予市に住んでいます。何処で知り合ったかもう随分前のことで記憶は定かではありませんが、マリおばさんの話だと私の町で行われたある人の結婚披露宴に列席した時、その披露宴の司会進行を私がやっていたようです。私はこれまで537組もの結婚披露宴の司会をしているため、これまで貯めている予定表をめくれば何月何日と分かるのでしょうが、その折私の司会進行にかなり感心して帰られたようです。それ以来縁もゆかりもなく過ぎていましたが、マリおばさんが更生保護婦人会の役員をしていてその研修会に招かれて講演をして再開しました。またマリおばさんが民生委員をしていt折にも地域の高齢者研修会に招かれ講演をしました。こうして急速に交流が深まり、マリおばさんの家は息子さん夫婦や雇ってる人たちで稲苗を生産する大農家ですので、ビニールハウスで栽培したトマトやキューりを頻繁に届けてくれるようになったのです。枝豆やソラマメなど季節の食べ物がどっさり届き、珍しいものばかりでわが家の食卓を賑わせているのです。

 私としては差し上げるものもなく、時折いただいたおすそ分け程度の魚を届けるのですが、その度に若い息子さんご夫婦ともすっかり顔なじみになって、親類のような付き合いをさせていただいています。

 数日前私は魚を持参しました。あいにくマリおばさんは旅行に出かけていて留守でしたが、若奥さんから毎年いただくキャベツやブロッコリーの苗を沢山段ボールに詰めていただいたのです。その日はあいにく雨でしたが私は山口行きの出張の前日で家を留守にするため、雨の中で畝を起こし植えました。今朝その様子を見に菜園へ出かけましたが、降った雨でちゃんと畑の中で活着しているようです。

 昨年もマリおばさんからいただいたキャベツやブロッコリーの苗を沢山植えましたが、それは立派なキャベツがやブロッコリーが沢山できて近所や親類に配って喜ばれました。また年末になると葉ボタンの寄せ植えが届いて家の玄関を綺麗に飾りました。昨年は秋馬鈴薯の種をいただい秋ジャガイモを相当楽しんで食べたのです。

 昨晩山口県から帰って一息ついたころ、マリおばさんから電話がかかりました。旅行で留守をしていたので、今日は私の家へ新米を持って行くからというのです。わが家であ玄米のご飯を食べているのを知っているのです。何時に来るかも定かではないのですが、マリおばさんは妹さんとわが家を訪ねるようです。マリおばさんは昨年友人を連れて人間牧場へ遊びにやってきました。その折は足湯などをして楽しんだと記憶していますが、はてさて私は今日は午前午後、それに夕方からは福井へ向けて出発しなければなりません。会えるかどうか心配ですが、マリおばさんがいうように、「会えなかったら会えなかったでまた会える」と思って、気にせず出かけることにしています。

 朗らかに生きている水口まり子さんを見習って私ももっともっと前向きに朗らかに生きていこうと思っています。

  「大好きと 言われるような 人間に なりたいでものと 今日も見本に」

  「好物の 野菜の苗が 活着し 来年春を 目指して育つ」

  「新米を 持って憧れ やってくる だのに留守とは 済まぬことです」

  「台風は 何処へ行ったか 跡形も 見せぬ青空 雲がゆっくり」 


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shn-1さんの日記

○内向きと外向き

 最近はインターネットが普及して、私のような田舎に住んでいる人間でも、その気になってインターネットを使えば、世界各国の情報が瞬時にして自分のデスクに届くのですから、便利な世の中になったものです。今や最も格差を感じるのはインターネットが使えるかどうかというのだそうですが、わが町にはまあインターネットに縁遠い人だって沢山いて、インターネットの話をしてもまるでチンプンカンプンという話をよく耳にするのです。例えば私が毎日のように書いているブログだって、約祖に努めている人でさえ読めないのですから、どんな立派な文章を書いて毎日配信しても、インタネットを使えない人には猫に小判、馬の耳に念仏といったところでしょう。

 私たちは知らず知らずのうちにこんな情報社会に生きていて、外向きな情報にはかなり敏感になってきましたが、外向きの情報が多い反面内向きな情報に意外と疎くなっているように思えるのです。海の向こうのウォール街の金融情報がその日のうちに自分の手元に届くのに、隣近所の情報は中々入ってこないばかりか、知らないことだっていっぱいあるのです。私は昨日までの二日間山口県へ出張していました。故郷を離れたのは僅か二日間ですし、大きな地元のニュースは時折かけてくる妻の電話で報告を受けるのですが、妻の行動範囲の情報収集能力はたかが知れていて、そんなに広い範囲の情報はつかみ得ないのです。

 昔から地元の噂話の火種は散髪屋と風呂屋といわれるように、人の集まりところには必ず情報が集まります。もっともその情報の中には単なる噂話もあるのですが、それでもそんな場所に時々顔を出すと知らないことをいっぱい教えてくれるのです。

 この二日間の留守中に、少し深刻な話が持ちあがっていました。プライバシーにかかわる話なので公表はできませんが耳を疑うような話でした。この話は今朝の散歩で同じ散歩をしている町内では著名な方から、「あんたこんな話知ってるか?」と、唐突に立ち話で聞いたのです。「知らない」といえば、「ここだけの話なので、私から聞いたと言わないようにしてくれ」と釘を刺されて話を聞きました。「へえー、そんなことがあったの」と、僅か二日間の留守中の話に驚いたものです。正直身近な情報に疎くなったと思いました。これまでは良きにつけ悪しきにつけ役場という社会に身を置いていたため、身近な情報は沢山入っていましたが、今はそんな情報も頭の上を通り過ぎているのです。

 もうひとつ、自分自身のことになると、自分の外への関心が募る余りに大切な内面を見忘れてしまいがちになっているようです。こういう時代だからこそ自分を知り努力をしなければならないと思うのです。

 人間は自分というもう一人の自分を案外知らないようです。「自分」という文字を分解してみると「自分」の「自」は

独自なもの、「分」は一部分だと思うのです。浅学非才な私に自分を語る能力などありませんが、自分は自分であるとあると同時に他のもの、つまり全体の一部分ではないかと思うのです。そう考えれば人間と人間、人間と自然との共生という人間の生き方も見えてくるのです。

 何年か前グロ-バルとローカルを組み合わせてグローカルという言葉を作ったことがありますが、自分とはまさにグローカルなものえあること思うのです。インターネットの世界はグロ-バルな地球規模の広い情報ですが、耳や肌で感じるローカルな情報も必要であり、付け加えるなら自分のミクロカル(勝手に考えた造語)な内面に潜む紹鴎もまた必要な気がするのです。朝から難しい話を書いてしまいました。

  「外向きに なればなるほど 内向きが 疎かになる 気をつけなくちゃ」  

  「昨日まで たった二日の 留守中に 色々起こる 知らないニュース」

  「自分とは いかなるものぞ 考える そんな暇ありゃ もっと働け」

  「留守中に 届いたメール 数知れず 日々刻々と 時代は進む」

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shin-1さんの日記

○台風とともに

 旅先の宿だというのに今朝も相変わらず午前4時に目が覚めました。このホテルにはパソコンもないため何もすることがないので、朝読書を約1時間やりました。それからまだ薄暗い外に出て散歩を1時間ばかり、宿に戻って朝湯を楽しみました。これも旅の楽しみの一つです。一緒に泊まっていた担当者の安冨さんも起きてきて一緒に風呂に入りました。さすが世に知られた名湯だけあっていい湯加減でした。

(宿泊場所となったセントコア山口の朝の風景)

 朝食は和食を注文していたため案内されたレストランの方に進んで、おいしい朝食を御馳走になりました。残念ながら私は家庭にいる時キャベツとリンゴ、通称キャベリンを食べて黒酢を飲むのですが、今朝はレタスや水菜を主体とした野菜と牛乳でした。昨晩は台風の進路が気になって、遅くまでテレビをつけてウトウトしていたため少々寝不足のようでしたが、朝食後の散歩や、散歩後山本さんが迎えにくるまでの1時間のウトウトですっかり元気を回復しました。

(ホテルの窓から見えた台風一過の湯田の街)

 今日は中川さんに代わって山本さんが私を柳井までご案内してくれるのです。山本さんは昨晩の皆さんの話だと雨男らしく、朝の天気が心配されましたが、私が晴れ男なので私の運が勝ったのか、今朝は台風一過の好天に恵まれ、ホテルの窓から見える湯田の街は雲ひとつない青空でした。彼は学校の先生らしく几帳面で、一分の狂いもなく約束の10時きっかりにホテルへ迎えに来ました。同乗させてもらい色々な国道を通って柳井を目指しましたが、これも予定通り12時に市内に入り和食店で昼食を食べました。

(台風一過の穏やかな瀬戸内海の島々を車窓い眺めながら走りました)

 途中の右手に広がる海は真夏の太陽がぶり返したようでキラキラと輝き、遠くには国東半島や丸木舟で黒曜石を積んで航海した懐かしい周防灘の海が開けていました。また原発で揺れる上関や祝島もよく見えて、何年か前にお邪魔いしたことを懐かしく思い出しました。

 今日の会場となるアクティブ柳井に到着すると、準備のため先発し昨晩交流した社会教育・文化財課の面々が優しく迎えてくれました。


(柳井の伝建地区)
(柳井の町並み)
(国木田独歩の旧宅)

(急な坂を登った丘の上に国木田独歩の旧宅はありました。大分県佐伯市にも独歩の旧宅がありました)

 私はまだ講演まで時間があるので、思い切って近くの柳井伝建地区の見学に出かけました。愛媛にも内子町という名の知れた町並みがありますが、柳井の町並みも綺麗に整備されていて見る目を奪われました。国木田独歩の居宅跡まで急ぎ足で歩いて見学をさせてもらいましたが、まるで真夏のような暑日に汗だくだくでした。しかし歩く人も平日の昼下がりなためかまばらで、どこか寂しい感じもしましたが、日本人の心のまずさや文化に対する理解のなさには失望です。こんな文化をもっともっと見てもらい、文化度を高めもらいたいものです。

(講演会場となったアクティブやない)

 急いで会場まで帰り身支度を整えて講演に備えました。この日は日本のはるか洋上を去りつつあるため台風で防予汽船が欠航する心配もなくなり、無理をいって少し休憩時間を早めてもらい、午後4時10分の便に間に合うよう講演を終わりました。山本さんの車で柳井の港まで送ってもらい、周防大島の北側航路を通って二日ぶりに四国の地に帰ってきました。帰路の途中再び周防大島大橋の下をくぐり周防大島を右手に見ながら海峡の心地よい潮風を楽しみました。山口と愛媛の狭い海峡を受ける頃には綺麗な夕日が船上から見えました。

(往路見た雨の中の橋とは違い秋空にかかる周防大島大橋)
(周防大島旧東和町家室島辺りに落ちる夕日、対岸には双海町があり、私は毎日ここを見て暮らしているのです)
(日の丸と夕日は何とも美しい)

台風が気になって今回の旅は少々長く感じられましたが、何の粗相もなくわが家に9時前に到着し、妻の手料理で一日を占めくくりました。

(私たちが20年間にわたって無人島キャンプをした由利島が印象的に夕映えの海に浮かんでいました)

 メールの整理をしましたが、たった2日間だけなのにまあ凄いメールの量でびっくりしながら返信を書き、要件を処理して、明日の予定では午前と午後の会議を終えて福井県へ旅立つ予定です。忙しい日々は当分続くようです。

  「蚊に刺され 独歩訪ねて 坂登る 眼下に遥か 瀬戸の島々」

  「久し振り 訪ねし柳井 町並みも 人通りなく 猫が昼寝す」

  「宮本が 生まれし島を しみじみと 眺めつ船は 三津を目指して」

  「夕映えに 浮かぶ小島の 懐かしさ 俺はあの島 大統領だ」

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shin-1さんの日記

○台風に翻弄されて

 「近頃お父さんが遠出する時、決まったように台風が来るね」と、出発の前夜妻が私に言いました。それもそのはず、先月の新潟行きは台風13号の影響で松山発の飛行機が欠航が予想され一日早い出発となりました。でも読みが的中し新潟行きの日程には支障も出ず、台風一過の好天に恵まれていい旅の思い出ができました。

 今回も台風15号が台湾付近でUターンして台風13号と全く同じようなコースをたどり、本土上陸をうかがっていたため、昨日早朝の旅立ちは土砂降りの中でいやな予感がしたのです。午前4時に起床して身支度を整え、4時半に家を出ました。三津浜から5時30分発の防予汽船で山口県柳井へ向かったのです。その間雨は一向に止む気配もなく降り続いていました。船の中は台風接近の影響かお客さんは5人ほどで、後はトラックの運転手さんでした。その少ない人も椅子席ではなく桟敷のような船室に身を横たえ2時間半の船旅の間静かに仮眠をとっていました。

(雨に煙る周防大島大橋)

 柳井の港は非常に便利で船着場からJR柳井港という駅まではほんの歩いて2~3分の所にありますがこの日は1時間に一本程度の列車本数なので、待ち時間が40分もありました。でも次の船便だと徳山から新幹線を乗り継いでも新山口に着くのは遅くなるので、のんびりゆっくりの旅が実現しました。列車は鈍行です。この列車も徳山や小野田へ講演に行く場合や益田へ行く場合よく使った勝手知ったる路線なので、海の景色を見るため先行方向に向かって左側の席に座りました。

 あいにくの雨で瀬戸内海の海は泣いているような黒い雲に覆われていました。途中田布施から乗り込み私の前に座った素敵な女性が私のカバンを見て、「まあ珍しいカバンをお持ちですね」と話しかけてきました。私の好きそうなタイプだったので、蓋を開けて中まで見せるサービスぶりでした。すると向こうの席に座っていた女性も集まってきて、まあ賑やかな話に花が咲きました。その人たちは徳山で降りましたが、今もあの生きずり女性の笑顔が忘れられません。ちなみに話のついでに私の似顔絵の名刺を三人の女性に渡してしまいました。この女性は降り際に「必ずメールを入れます」といっていまいたが、帰ってメールを開いてみるとおっかなびっくり、メールが入っていたのです。しめしめです。

(偶然見つけたSL山口号)

 新山口駅には10時半に到着しました。指定された北口へ向かっい一番ホームへ下りると、そこにはSLやまぐち号が出発の準備をしていました。迎えに来てくれた中川さんの前を通り過ぎ、荷物を置いてカメラで記念撮影をさせてもらいました。最近ではSLも滅多に見れないためラッキーでした。

 中川さんの車に乗せて貰い会場となる美祢市へ向かいました。車窓には秋吉台のカルストが広がり、久しぶりの光景を楽しみました。またセメント工場の煙突やベルトコンベアーなど、何年か前美祢市に文化講演会で招かれた時の思い出が蘇りました。

(大きく立派な会場でした)

 来福という規模の大きな団地の中にある立派な美祢来福センターが会場でした。この日は山口県社会教育委員連絡協議会地区別研修会の西部地区です。

 中にはこれまでに私の話を聞いたという方が何人もいて、私の「今やれる青春」という本まで持参していました。冒頭私の紹介をするため清水研究員がプレゼントしてくれたDVDをプロフィール代りに上映してもらい、講演を始めました。90分の講演はかなり盛り上がって、帰り際には何人かの人と名刺の交換までさせてもらいました。

(セントコア山口はとても素敵なホテルでした)

 その夜の宿は湯田温泉にある公立学校共済組合山口宿泊所とな名のみの、すごくハイレベルなセントコム山口でした。夕方は社会教育・文化財課の職員さんと隣の菜の花という飲み屋さんで一献交わしました。私は酒が飲めないのですが、みなさんと様々な話に花を咲かせながら語り合いました。9時過ぎに終わって外へ出ると、いつしか雨も止んで、台風の行方が気になりながら風呂にゆっくりつかり、旅の疲れをいやしました。

(交流会場となった菜の花)

 料理屋さんを出たところに一本の柳の木があって、そこには文人を多く排出している土地だけあって、山頭火や中原中也の句碑が建つていました。薄暗くて判読もできないため早朝散歩でその句を読ませてもらいました。あいにくメモを持たなかったので忘れましたが、山頭火の句は「○○も○○もお湯のようなものが湧き出る」といった少し卑猥で滑稽な句で、思わず噴き出してしまいました。

 それにしても思い出に残るいい一夜でした

(中原中也の記念碑)
(柳の木が風情を醸す山頭火の句碑)

  「酒のまず 酔ったふりして 話する 湯田の一夜は 楽しかりけり」

  「山頭火 暗がり句碑が 読めなくて 朝の散歩で 顔赤くなり」

  「台風を 迎えに本州 やって来た 恐れなしたか 私を敬遠」

  「このカバン 珍しから見せてくれ 見知らぬ女性 俺にアタック」

  

   

  

 

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shin-1さんの日記

○不思議な男

 今日の朝も昨日の朝と同じように午前4時に目がさめました。一緒に寝ている妻は「もっとゆっくり寝てから起きて」と毎日のようにいうのですが、長年の癖は年をとってからも治らず、もう40年余りもこんな暮らしをしているのですから、妻にいわせると「呆れてものがいえない」そうです。私は若いころ水産高校を卒業後親父がガンで倒れたのを機に故郷に帰り漁師を7年しました。漁師は朝が早いという癖がそのまま公務員35年を含めた40年が経っても、未だに続いているのですから癖とは恐ろしいものです。でも朝起きるのが苦手というよりは「早起きは三文の得」という言葉通り、私はこの早起き癖で随分三文の得と徳を得てきました。

 毎朝起きてブログを書いたり、読書をしたり、親父の隠居へサロンパスを腰に張る作業など、今ではすっかり日課となっていることを、無意識のうちにこなして日々を過ごしているのです。

 先日私のそんな姿を見ている友人が私のことを、「不思議な男」といいました。何が不思議か尋ねたところ、①朝4時に起きて12時に寝る4時間の睡眠でよく体が持つなあ、②ブログを毎日2本も3年間続けてよく書けるなあ、③講演や会議をよくこんなにこなせるなあ、④奥さんがよく理解するなあ、⑤次々と常に新しいことをよくするなあ、と4つとも「~をよく~するなあ」と感心しきりでした。「私はこれが普通だと思っているので別に不思議な男とは思わない」と反論しましたが、「歳を重ねてもそのように毎日やることがあって生き生きと輝いて生きているように見えるあなたが羨ましい」とも付け加えられました。自分で当たり前だと思っていても人から見れば変わり者呼ばわりされる、人と違う生き方をしている人は私の周りにも沢山います。でもそれを自然体でやっている人にとっては、自分が普通で、周りの人が変わっている思うのです。私も当然自分では当たり前の生き方をしていると思っているのです。

 昨日丹原に住む旧友、ちろりん農園の西川さんに会いました。自然農法に近い暮らしを営む西川さんも周りから見れば変わった生き方ですが、変わったと思える今の農業は西川さんから見れば、おかしな生き方なのです。

私が開いている年輪塾の第1号塾生となった浜田久男さんも変わった人の部類かも知れません。浜田さんはご存知のように民俗学者宮本常一の信奉者ですが、浜田さんは「宮本常一を語る愛媛の会を立ち上げ、その普及のために宮本常一に関する本を購入し心ある人に送り続けているのです。私は浜田さんから読書の大切さを教えられ、毎日たとえ一行でも本を読むよう心がけるるようになったのです。自分だけが不思議な男にならず、人を巻き込んで感化するさせる術は私も西川さんも浜田さんにも共通することですが、それにしても私の周りにはこのような不思議な人が何と多いことか、このような不思議な人のおかげで自分の人生も随分広がってます。これからも当分は「不思議な男」といわれることに快感を覚えて、不思議な生き方をしたいと思っています。

  「友人が 私を評して 不思議だと いわれはてさて 何が不思議か?」

  「四時間の 睡眠だけで 生きている 私に妻が 不思議な人と」

  「歳とって 寝れないのでしょう いう人に 寝過ぎるあなた 既にぼけてる」

  「友人が 不思議な人と 形容す 嬉しい評価 浜田あなたも」

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shin-1さんの日記

○限界集落リレー講演会&映画会

 昨日は久万高原町で限界集落の研修会がありました。この研修会は県下3ヶ所で、しかも同じプログラムで行うもので、昨日の久万高原町が最初でした。今日は伊方町三崎、明日は愛南町でえひめ地域づくり研究会議のメンバーが実行委員会を組織してそれぞれ開くのです。結果的には人集めや会場選びなど開催地の人たちに迷惑をかける結果となってしまいました。それでも「限界集落」というテーマが愛媛県内の過疎地では、好む好まざるにかかわらず今日的テーマであるだけに、久万高原町の会場となった上浮穴産業文化会館には80人近くの人が集まりました。

(会館の緞帳)

 映画上映ができる会場ということででメインホールを使ったため、空席が多く少し寂しく感じられましたが、テーマが限界集落だけに余計情感をそそりました。

 映画は九州の寒川という集落が消えた村の物語で、離村前と離村、離村後の様子が豊かな自然の移ろいを織り交ぜながら上映されました。寒川の場合もご多分に漏れず、少子化による学校の廃校が引き金となって離村のスピードが上がったようでした。村に残りたいけど残れない悔しさがスクリーンから滲み出て、廃校跡で開かれた村の同窓会や専門家の話にも、行政の現場にいただけにリアルでした。大ヒットした映画「三丁目の夕日」と同じように、戦後からバブル期を同じように生きてきた私にとっては、身につまされるシーンが多く、少し涙ぐむ場面もありました。と同時に限界集落といわれる地域からやがて第二、第三寒川のような地域が出るのかと思うと、やり場のにむなしさも感じました。

 続いて熊本大学の徳野貞雄先生の講演を聞きました。先生とはもう何度も顔を合わせており、わが町のシンポジウムや人間牧場で開かれた逆手塾にも来ていただいているので、その話芸の巧みさには驚きませんでしたが、熱が入ると時間を忘れて話す悪い癖(笑い)(失礼)は今も健在のようで、講演が大幅に伸びてディスカッションの時間が殆ど取れずに終わって終いました。

(熱弁の徳野先生)

 先生の話では、行政の無責任な平成の大合併の罪は大きく重く集落にのしかかり、しかも行政は電卓でデータ的に限界集落を決めてかかっているようだと厳しく指摘糾弾しました。実際に限界集落と呼ばれる地域に入って現地調査をしてみると、限界集落の中には消滅するであろう集落と、近隣に出て暮らしている子どもたちとの交流もあって生き残る集落もあるので一概に電卓だけで決めつけることはできないと、調査の必要性も話されました。消える運命にある所には福祉を、生き残るところには地域づくりを支援することが大事だとも説かれました。

 この研修会には伊予市から日ごろ限界集落の勉強会にも加わっている人たちを含めた8名が参加しました。一緒の車で出かけ帰りましたが、行き帰りの車内での話は年代の違う人たちなので、さながら時間切れでできなかったパネルディスカッションのようでもあり参考になりました。

 限界集落をネガティブな問題ととらえるかポジティブにとらえるかは人それぞれです。地域住民の幸せを守る行政にはネガティブにとらえ、その解決に努力してもらわなければなりませんが、限界集落に生きる人たちにはポジティブに生きて欲しいと願っています。さて中間に位置する私たちはどういうスタンスで取り組めばいいのか、さしずめ限界集落の味方として、その解決のために行政にもの申す気概を持たなければなりません。そのためにはもっと限界集落の実態を詳しく研究する必要があるのかも知れません。

  「そういえば 何度か高知 行ったけど 久万を通らず 迂回の道を」

  「ひっそりと 静まり返る 久万の町 コスモス揺れて 秋の虫鳴く」

  「冷えるから 妻の助言の 背広着て 二三度低い 山里の風」

  「映画見つ 俺らも今に こうなるな ヒソヒソ話す 声も寂しく」

 

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shin-1さんの日記

○ダルマの夕日が見えました

 昨日は愛媛大学構内にある放送大学会議室で、11月22日・23日に行われる地域教育実践交流集会の第4回目実行委員会が持たれました。讃岐先生のたっての頼みとあって世話人の末席を汚すことになったため出かけました。讃岐先生が急病で欠席のため急きょ開会あいさつをといわれてあどえましたが、午後2時から2時間程度の集会を無事終えました。実行委員会に出席するまでに道後のにぎたつ会館に出かけ、鈴木さんと間近に迫った青年の船班長会の打ち合わせを行い、会議が終わると娘の家へ立ち寄って孫と少しだけ遊び、夕方家路へ急ぎました。

 私は夕日に狂った人間ですから、夕方になって太陽が西に沈み始めるとそわそわ胸騒ぎがするのです。昨日も例によって何となく気になり始めました。伊予市の市街に入った頃にはもう西の空が真っ赤に焼けていました。秋の交通安全週間でもあって余りスピードを出すこともできず、加えて前をノロノロ運転のもみじマークが走っているのです。結局三秋峠の坂を下った頃には夕日は沈んだようで諦めていました。

 ところが高野川の下り坂を下りると一気に視界が開け、海の向こうに今まさに沈まんとする夕日が見えました。とるものもとりあえず旧海楽園前の路側帯に車を止めて持参のデジカメラを取り出し戸外に出ました。何人かの人が車を止めて携帯電話のカメラで写真を撮ったり、見学していました。

 海と空を染め分けて沈む夕日はまさに「よっ、日本一」と呼ぶにふさわしい絵になる光景でした。この日は空気が澄んでいて、日頃は遠くて見えない山口県の島々や大分県国東半島の沖に浮かぶ姫島までくっきりと見えました。しかも水平線辺りに雲もなくダルマの夕日が見えたほか、最後の一瞬まで夕日を見ることができました。

 昔から私たちの地方では、「秋の夕焼け鎌を研げ」と言われるように、秋の夕焼けは明日の天気を約束してくれるのです。今朝はその予報も超大型台風の影響か幾分はずれ気味で、曇っていますが雨は心配なさそうです。

秋の夕日は夕焼け雲といわれる雲の美しさも絵になります。 これからイワシ雲や飛行機雲を夕日が染める風景が時々見えることでしょう。

 しかし上の写真と下の写真はまったく同じ場所で同じ時間に同じカメラで、しかも同じ人間が撮影したのに、ズームだけでこうもイメージが変わって写るのですから不思議な話です。私のカメラはかなり画素数の高いものらしいのですが、いわゆる普通のデジカメです。カメラマニアが持っているような一眼レフのカメラではないし、望遠機能も精度は高くないのです。ズームアップすると夕日がボケたりもします。でもカメラやメカに詳しくない私にはこれ位が丁度よいのかも知れないと思い使っているのです。

 秋は夕日のシーズンです。昔のように夕日を見ながら詩を作ったりしてみたいと思いました。

  「秋になり 自慢の夕日 昨日また ダルマになって 西の彼方に」

  「ああ今日も 幸せでした 夕日見え 心に何か エネルギー受く」

  「国東の 沖に浮かんだ 姫島を 夕日優しく 照らして沈む」

  「鎌を研げ 先祖は多分 夕日見て 明日の日和を 占ないおりし」

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shin-1さんの日記

○薬を間違えて飲んでいた親父

 毎朝の日課にしている散歩から帰って食事をしている親父の隠居を訪ねました。腕が器用な親父は大工さんに少し手伝ってもらつたものの、殆ど自分の力で居間の掘り炬燵を造り、ちゃぶ台も適当なものを再利用して使っているのです。今更ながら親父の生き方には頭が下がる思いがするのです。

 そんな親父のここ2~3日は傍で見ても明らかに様子がおかしく感じられました。眠たいのに寝れないというのです。交通事故で痛めた足の付け根の痛みも一向に引かず「わしもいよいよだ」とこぼすようになっていたのです。ところが今朝隠居に行ってみるとすこぶる上機嫌で顔色もよく食事をしていました。聞けば先日私が「足が痛いので診療所へ連れて行ってくれ」というので、診療所へ連れて行った折、痛み止めの注射を打ち、痛み止めの薬をもらって帰りましたが、その薬と一緒に枕元の薬箱に入れて、看護婦さんの言われるまま朝夕飲んでいたようです。ところが飲むと眠たくなる日が2~3日続くので、昨晩薬箱の中を開けて見ると、呑んだはずの痛み止めはそのままで、寝れない時に飲む安定剤が2錠づつ殆どなくなっているこに気づいたそうで、昨晩はその痛み止めを飲んだところ痛みも引いて、久しぶりにぐっすり寝たそうなのです。

 安定剤は眠り薬です。痛み止めならぬ眠り薬を朝夕飲んでいたのですから眠たいはずです。今朝は親父に「薬は気をつけて飲まないと薬が毒になる」としっかりと大きな声で話をしてやりました。そして痛み止めをちゃぶ台の上に置いてマジックインクで赤く塗り、「痛み止め」と書いてやりました。薬箱から安定剤を取り出して見ると、親父が言うように確かに薬の姿形は同じようなので、間違うはずだと思いました。

 正露丸くらいしか薬を飲まない私に比べ、親父は病院へ行く度に薬をもらい、安定剤だの血圧の薬だの色々飲んでいますが、よく間違わずに飲むなと感心して見ていましたが、これからは薬の飲み方も少し注意してやらないといけないようです。

 今の病院は正直言って薬を出し過ぎます。しかも一応聞くには聞くのですが、それは儀礼的でどこの病院でどんな薬を処方されているか、年寄りに聞いても耳が遠く、しかも何の薬をどのくらい飲んでいるかなど即答できないのです。そのために家族がいるのですから病院や医師を責めることはできませんが、薬は使用方法を間違えれば毒になることを教えてくれました。

 隠居で暮らしているとはいえ同じ敷地に住んでいる安心感が親父にも私たちにもあって、聞こえの良い在宅介護をしていますが、認知症も殆ど感じられず、むしろ自立型高齢者の親父の面倒は余り気にもせず暮してきましたが、いよいよ介護の必要性を痛感しました。

 やがて行く道だと思えば、親父の加齢による衰えはわが身のこととして考えなければなりません。90歳の今日まで長生きし、介護も必要としなかった親父なので、これから10年はしっかりと向き合って暮らしたいと思うのです。

  「間違って 違う薬を 飲んでいた 笑い話で 良かったものの」

  「薬箱 大事小事に 保存して 賞味期限が 過ぎたものまで」

  「絶対に 医者の言うこと 守ってる 信じて飲むと 効いた気分に」

  「あの医者が いるから今の 健康が 信じて通う 七キロの道」



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