shin-1さんの日記

○叔父危篤

 「親父が危ない」と従兄弟から電話がかかってきたのは「さあ寝よう」と思った午前0時前でした。昨日からわが家に泊まりにきていた孫を寝かせ、そろそろトイレへ小便に連れて行こうと思う矢先のことです。従兄弟の親父、つまり私の親父の弟は85歳なのです。十二人兄弟の長男に生まれた私の親父は大正7年生まれです。私の親父の末の妹、つまり私の叔母は54歳で昭和18年生まれなのです。上手く説明しないと分らないくらい私の祖母は26年間に12人の子どもを生んだ計算になるのです。よくもまあと思うのですが、いろはかるたに詠まれた「律儀者の子沢山」という言葉そのままに子どもを産み育てているのです。しかも戦前・戦中・戦後の食う物とて少ない赤貧洗うが如き激動の時代にですから、想像を絶する他はないのです。

 昨晩危篤の知らせを受け叔父は最近急に衰えが目立ち、認知症がかなり進んで、介護している叔母の手を随分煩わせ、介護で叔母が病気になる限界まできていたようなので、そろそろ特別養護老人ホームへと相談し始めた矢先のことでした。

 私たち夫婦は身支度を整えて孫を起こし車に乗り込み、御前様の酔いタンボがそこら辺をウロウロする松山の道を走って日赤病院へ向かいました。途中で孫を娘の家に降ろし、病院へ到着したのは深夜1時頃でした。ロビーには救急当直病院なのでしょうか、様々な病気や怪我の人がロビーに詰めかけ、まるで昼間のような賑やかさです。

受付で名前を告げると、第3病棟5階と案内してくれました。夜の病院は静まり返り何となく寂しいものです。度々病院へ見舞いに来ている妻は要領よく事を運んで、エレベーターの乗り口まで熟知していて、さすがと感心しました。病室へ入ると叔父はまるで機械のように幾つものパイプを口から鼻から入れられ、側の生命維持装置が無造作に体温、脈拍、血圧などのデーターを表示しながら右から左へ波打つように流れていました。また分厚い輸血のための真赤な血液が病気の重さを物語っていました。

 叔母も従兄弟夫婦も心配そうに叔父のベットの横で座っていましたが、私たち夫婦の見舞い来訪を叔父に告げ、叔父もかすかな記憶を引き出そうと目を開けて反応しているようには見えるのですが、直ぐに目を瞑ってしまうのです。「医者の話では体内の動脈瘤が破けていて手術は不可能なので24時間以内しか・・・・」と息を殺したような低い悲しい声で私に話しました。10分ほどの面会で深夜のことなのでひとまず家に帰り、叔母連中に連絡する役目を引き受けました。深夜のことながら叔母たちは家族がしっかりと対応してくれ、大坂の叔母を除けば直ぐに見舞いに駆けつける言ってくれホッとし、浅い眠りに着きました。

 親父が起きる6時に親父に叔父の危篤を告げ、病院へ連れて行きましたが、道すがら叔父の幼い頃からの思い出話を話す親父は悲しそうでした。十二人兄弟姉妹といいながら2人の妹を大坂戦災で亡くし、二人の弟も既にガンで亡くなっています。今度弟と別れれば、一番長男の自分しか残っていない順番の狂いを嘆いて、「出来れば変わってやりたい」とも話しました。僅か10分ほどの面会でしたが、叔父も懸命に応えて穏やかな面会で幾分救われたのか、親父も満足そうでした。

  午後2時15分頃、従兄弟から「叔父死亡」という携帯電話が入りました。それからは慌しく、松前の叔父の家を何度も往復し馴れない従兄弟そ相談相手として通夜や葬儀の決め事を葬儀社の人と相談し、今晩は身内だけの通夜、明日は式場で午後6時半から通夜、明後日午前10時半から葬儀などを決め、忙しくも空しい一日を過ごしました。それでも叔父は自分の過ごした家に戻って、眠るように穏やかな顔で横たわっているのが印象的でした。

  「一日が こんなに長い ものなのか 叔父の最後に 行ったり来たり」

  「もの言えず それでも目開け 応えたる 叔父の姿に 感動涙」

  「ロウソクの 灯り消えゆく ように逝く 叔父は現世に 終りを告げて」

  「ああ無常 人の命の はかなさよ 親父も俺も いつかこのように」


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