shin-1さんの日記

○赤トンボ先生も目出度くご退職

 団塊の世代とでも言うべきでしょうか、今年は小中学校の校長先生が随分退職され、松山管内は例年にない校長先生の大異動となりました。短いながら市町合併までの2年間、教育長を勤めたこともあって、馴染みの顔が沢山辞められ、一つの時代の終りを感じつつ退任のお便りや挨拶をいただいています。

 その校長先生の中に早くも「前」という漢字をつけなければならない、前松山市立久谷中学校長だった窪田先生がいます。先生は中央青年の家や県教委社会教育課などで青年教育にもかかわりましたし、双海町立上灘中学校の校長先生として勤務され、5人ながら町内校長会長として、楽しくも充実した教育活動をともにやり、肝胆相照らす仲だったのです。特に「双海の子育て10の約束」や「合併後の双海町公民館活動の在り方(諮問・答申)」にも、深く関わり、双海町の社会教育についても恩人なのです。

 窪田先生は私が赤トンボ先生と名付けたように、在任中竹を使って赤トンボを沢山作ってこられました。特に印象に残っているのは、双海町下灘で開かれた松山管内の同和教育研究大会を開いた折、参加した全員に赤トンボを配りたいという私の無謀無茶とも思える企画案に賛同して、教育委員会の職員とともに500個もの赤トンボを期日までに作り、会場を飾った後参加者に差し上げ、大きな反響と深い感動をいただいたのです。その後私の退職と同時に久谷中学校へ異動し今回の退職となったのです。

 異動後も私は先生と私的な交友を続け、先生に赤トンボをいただいて全国各地へその赤トンボとともに旅を続けていたのです。

 私には先生の作った赤トンボを世に出したいという思いがこの3年間離れたことはありません。そのくらい素晴らしいまるで生きているような手乗りの赤トンボを製作出来るのです。聞けば先生は退職後当分は別な仕事に就く予定もないそうなので、退職した明くる日の昨日、思い切って人間牧場へお誘いしました。先生と午前10時にシーサイド公園で待ち合わせして、私の田舎のオープンカーで人間牧場へ行きました。先生が人間牧場へ来たのはもう2年半前、つまりまだ人間牧場に水平線の家しかない草創期でした。先生はその後の人間牧場の充実ぶりに驚いたようでしたが、それから2時間赤トンボ談義に花を咲かせました。

 赤トンボを普及させるため二人でステップアップの仕方について色々な事を考えました。ステップアップ①、まず赤トンボを作るためには竹が必要です。真竹、孟宗竹は里山の荒廃で今はその気になればタダで手に入ります。孟宗竹は人間牧場に隣接している竹藪に手配済みですし、知人友人を訪ねれば真竹も当てはあり、何の問題もありません。田舎のオープンカーも利用出来ます。ステップアップ②、赤トンボを作る場所ですが、先生の自宅と人間牧場に造った倉庫を整理し赤トンボの家として活用することが可能です。既に工具類も今日を見越して購入済みで、赤トンボの家になるべき倉庫に眠っています。ステップアップ③、作る技術は先生が伝授できます。多分先生が関わらなければこの部分が伝承できないほど高度な技術なのです。ステップアップ④、この技術を普及する活動です。これは少年少女おもしろ教室や夏の間シーサイド公園で教室を開くことが可能だと思うのです。勿論出張指導も行えます。出来れば3月と9月の春分・秋分の日を赤トンボの日と定めてイベントを開くことも可能です。ステップアップ⑤、これは経済です。この赤トンボを地域の特産品としてシーサイド公園特産品センターで委託販売することです。ステップアップ⑥、夕日のミュージアムの一角に赤トンボコーナーを設置して赤トンボを文化として情報発信することです。ステップアップ⑦、インターネットでキットを販売したり情報発信すれば面白くなります。


 ざっと考えた私のステップアップ7つの戦略を推進するチーム作りをこれから始めなければなりません。多分5人ぐらいは必要でしょう。私と窪田さんは既に決まりです。これに地域づくりに関わっているえひめ地域政策研究センターの松本さんや、市役所の武田さんを加えてゆけば、作戦会議はもう明日にでも開けるかも知れません。

 考えただけでも面白くなりそうですね。要はこの考えを私的ネットワークで実践に移すことです。

  「赤トンボ 先生退職 さて何を すべきか話す 牧場の春」

  「校長も 辞めればただの 人となり 俺と同じ サンデー毎日」

  「昨日今日 沢山人が 訪ね来て 牧場忙中 閑もなく」

  「悪だくみ いやいやこれは 人助け トンボで町を 起こすのですよ」

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