shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年7月8日

○鯉のいなくなった池

 わが家の池で鯉を飼い始めたのは私がまだ中学生の頃でした。何にでも興味を示す親父は骨董品収集、船の模型製作、庭木の手入れなど様々な趣味の分野に手を広げて90歳の今日まで人生を楽しんで生きてきました。お陰で骨董品収集も船の模型製作もその道のセミプロのようで、「好きこそものの上手なれ」という言葉そのままに、目利きと腕のよさは私も感心するほどの上達ぶりでした。鯉の飼育も同様で一匹何十万円もするような鯉を10匹余り飼っていたのです。ところがつい最近になって自慢の鯉が一匹二匹と死んで、その落胆ぶりはペットに死なれた人のようで、傍から見ても気の毒な感じさえするほどでした。「こんな辛い目をするのだったら自分が死んだほうがましだ」ともいうのです。死んだ鯉を畑の隅に埋めて懇ろに弔ったりしましたが、思い切って鯉を飼うのを止める事にしました。出入りの鯉養殖業者さんに無料で差し上げたり、高い金を出して設置していた自動浄化施設も全て処分してしまったのです。親父の人生にとって最後の決断だったかも知れないと、息子ながらその決断を見守ったのです。

 鯉のいなくなった池は哀れなもので、水を抜いて干し上げた池はまるで親父の心のようにポッカリと空間が出来て、毎日の日課だった餌やりや観察する姿が見えなくなりました。今日の昼に親父の隠居へ行くと「あの池を土で埋めたい」というのです。私は「好きにしたら」といいながら、この池に土を入れるとなると狭くてダンプカーも入らないし、業者に頼まなければならず困ったことだと思いました。

 私の考えでは折角掘った池だから高さも十分あるので地下室にでもしたらどうかと提案したのですが、親子の意見が真っ向から対立してしまいました。

 わが家には私設公民館煙会所と海の資料館海舟館、夕日を見る夕観所に加えて池の鯉が自慢でしたので、残念ながらその自慢が一つ消えた事になってしまいました。幸い親父の手づくりによる小さな池が昨年庭の隅に作られたので、親父の気慰みにはなるようです。

 老いや死が確実にやって来る人間にとって、生きてる証のようなものを求めるのは当然のことかも知れません。30年後には私も確実に今の親父と同じような境遇になる事を思うと、自分の人生の将来に不安も見え隠れし始めました。今は忙しくてそれどころではないのですがそろそろ身辺の整理もしなければなりません。同じような年代の人が新聞のお目出度やお悔やみ欄に名を連ねるのを見る度に、人生を考えるようにもなりました。

 まあ色々いいながら結局は今をどう生きるか、何をしたいのか考えながら今に生きたいと思います。

 鯉の死は親父と私にそれなりのショックを与えたようです。

  「鯉が死に 落胆親父 おろおろと 後なき人生 重ね合わせて」

  「あれ程に 好きな鯉飼い 止めるとは 余程の決意 俺には出来ぬわ」

  「母の死後 心和ませ くれた鯉 今は空しく 空池残る」

  「何処となく 元気の失せた 親父には 忘れかけてた 母が幻」

 

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