shin-1さんの日記

投稿者: | 2006年4月20日

○人間牧場から見た今日の豊田漁港

 今日は北西の風が強く、海は白波が立つほどの時化で豊田漁港の漁船は全て休漁です。小型底引き網の漁船は普通だと早朝2時頃から出漁して、遠い漁場でははるか豊後水道入り口まで行って漁をします。約100隻の船体を黄色く塗った漁船は、休みだと港にこのようにきちんと係留されているのです。

 この漁港も私たちが子どもの頃は僅か一本の突堤にしか過ぎませんでした。ですから親父の乗った船が出漁する度に家族総出で船を海岸から降ろして見送り、帰ると又海岸にウインチで揚げなした。この作業は気の遠くなるようなしんどい仕事で、特に時化た日の「船のぼし」作業は困難を極めたものです。でも何故かその頃の思い出が鮮明に残っているのは、やはり家族の絆の深さではなかったかと思うのです。また鯛が沢山獲れた大量の日などは浜が活気付き輝いて見えました。漁港には漁港計画というのがあって、度重なる計画の推進によって見違えるような姿に変身を遂げました。今では西日本、とりわけ瀬戸内海では屈指の漁港規模を誇り、全国各地から視察者が相次いでいます。この写真の右側に出来た新しい漁港は計画図面区域の段階から私も深く関わり、その実現にいささかなりとも努力したものですから、いつかその顛末を書いておかなければならないと思っています。

 漁港の全体がこのように美しく見える場所は探しても中々見つからないので、人間牧場のこのアングルは私のお気に入りの場所です。昔「港が見える丘」という流行歌が流行りましたが、まさに港が見える山といった所でしょう。私はこの漁村で生まれ、この漁村で育ちました。私の人生の心の港はこの港なのです。そして遍歴を辿ってはいますが、青年時代の7年間は自らも若吉丸の船長として漁船に乗り込み漁師をしたのです。この港を出てこの港へ帰ってくる作業を何百回も繰り返しました。港の灯台の灯りに見送られて出航した思い出は今も忘れられない光景で、時々陸路この灯台へ歩いて行くのですが、漁港の外郭施設が拡張される度に灯台の位置も変わって、今は気が遠くなるほど歩かねば灯台へ行くことは出来ません。

 しかし人間とは素晴らしいものです。何もない場所にコンクリートの塊でこんな立派な港を造るのですから信じ難い仕事です。その度に漁港担当者は漁民の意見を聞き、その意見を絵にして県や国に金のむしんをしてきました。またその実現のために町長は県と国への陳情を繰り返し、その隠れた努力がこの漁港を造ったのです。私は担当者として魚市場と、新しい東側の漁港計画を直接担当しましたので感慨も一入です。

 自分の人生と矢の様に駆け抜けた昭和や平成の時代を重ねながら、この港の物語を振り返ってみました。そういう意味でこの原風景が独り占めできる人間牧場のこの位置に満足しているのです。

  「北西の 波風強い この位置に 人の力で 港立派に」

  「灯台の 赤き光に 送られて 何度港を 出漁したか」

  「この一枚 俺の思い出 原風景 何時まで見ても 飽きぬばかりに」

  「えっあれは 知らぬ間に 家が建ち 屋根の姿に 記憶まさぐる」  

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