〇講演の反応は様々
私は退職前も退職後も、県内はもとより県外からも声がかかって、講演や講義、コーディネーターなどをして欲しいと頼まれて出かけています。慣れというのは恐ろしいもので、若い頃のように話に行く前に話の構想を練ったりレジメを作る訳でもなく、ごく自然体でしかもアドリブで90分も話をするのですからいい加減なものです。それは相手を軽く見たりするものでは決してないのですが、講演の反応は様々で、時には参加者の心情を壊して不快の念を与えてしまうことだってあるのです。その折は主催者を通じて申し出があり、お断りの電話や手紙、面談したりして、浅学や不徳の致すところを侘びながら深く反省するのですが、その度に話は難しいとふと原点に戻り、思いを新たにするのです。
話は文字書きと違ってビデオや録音をしなければ証拠は残りません。「言った」「言わない」で揉めるのは本位ではないし、それ程高飛車で傲慢な人間ではないので、素直に謝まらなければなりません。それが大人の責任であり、時には説明責任も果たさなければならないのです。証拠がどうであれ言ったことはしっかりと受け止めなければならない、これが私の基本姿勢です。
講演は一般社会人を対象に行われることが多いのですが、ある人の言葉を借りれば「小学生は45分、中学生は50分、高校生は1時間、大学生は90分が集中して聞ける時間」のようです。ちなみにその人の言葉を借りれば「一般社会人は30分型」だそうです。そんな人に90分話して、眠らずに話を聞けという方がどだい無理な話なのですが、何故か講演は90分が圧倒的に多いようです。
「どんな立派な話も寝たのでは何にもならない」は私のけだし名言です。そのため興味をそそったり笑いを誘うような楽しい話をするのですが、そのために失態をしてしまう恨みもあるようです。昨日一昨日行った高松から一本のメールが入りました。研修会で聞いた私の話が面白く、できれば近いうちに人間牧場へお邪魔したいという肯定的な反応でした。これはもう講演冥利に尽きるもので、そんなメールが入ると俄然嬉しくなり、昨日は一日中浮き浮きした気分で過ごすことができました。嬉しい反応メールは私にとって「おひねり」のようなものかも知れません。
「話芸を磨く」ために始めた落伍も、落伍のネタ本「夕日徒然草」の著作も日常の訓練です。地域おこし協力隊の冨田さんに自炊して作ってもらった自著本の電子書籍化も、私にとっては修行の大切な道具なので、毎日持ち歩いています。
「逆鱗に 触れてお詫びの 手紙出す まだまだ修行 足らぬ戒め」
「良かったと 嬉しいメール 届く度 これはおひねり 私の肥やし」
「30分 頭のシャッター 降りる人 相手に何と 90分も」
「もう少し 話芸を磨く 修行する 道は半ばだ これから先も」