人間牧場

○里山拡命がテーマの第30回記念逆手塾(その1)

 昨日と今日の2日間、広島市庄原市総領町のふるさとセンター田総で、「里山拡命」をテーマにした第30回記念逆手塾が開かれ、記念講演に招かれました。送られてきた案内状に「ねらい」と題して次のようなメッセージが載っていました。

 あの「3.11」を契機に、「金が一番」の物差しが変わろうとしている気配です。「金よりも大切なもの=いのち・いい人間関係・役立ち感」にこだわってきた私たちの里山暮らしが見直されようとしています。「過疎を逆手にとる会」を組織して30年、理念は理解されても、現実は「限界集落」だらけ、「傍流」の中であがき続けています。でも、その「あがき」が、「希望」を失ったニッポンを元気にする大切なものを届けることになると確信しています。
 すべてを人のせいや政治のせいにして、私が変わること、私が変えることを忘れて、「復興!」のスローガンだけが目立つ今、「ニッポン復興大反対!」をテーマの奥に秘め、「希望」を取り戻す記念の逆手塾を目指します。
 大木も枝葉が枯れたらお終いです。「持続可能な社会(生き方)を理想とする時、決め手は「里山暮らし」。エネルギーも食料も自給の可能性のある里山。人間が求める究極の「役立ち感」も手に入り可能性が高く、 ちょっと重いけれど「絆」もある里山暮らし。人と自然が響存し笑顔があふれる社会=里山を、日本再生のキーワードとして、「里山拡命」をあなたとやりたいのです。
 「里山拡命」の戦士は、「里山(さともり)です。「里人」とは、「里山暮らしの達人=里山を食い物にすることが出来る人間」です。そのことにより、限界集落化するふるさと(地方)を元気にし、自分も元気になり、倒壊寸前の日本を救うことにもなる人間です。ここに集われた「あなた」です。そして、「私」です。

 この過激とも思える「ねらい」を読めば、通称過疎逆という団体を知っている人はそれなりに理解できても、おおよその人は「この研修会は一体何を目指しているのだろう?」と、首をかしげるに違いないのです。しかし、そのくらい過疎逆が30年で培ってきた田舎からの主張は、ある意味理論的である意味深い意味を持っているのです。
  過疎を逆手にとる会が、山深い中国山地で産声を上げた30年前といえば、農山漁村から人が減るという過疎問題が私たちの田舎で真剣に議論され始めた時期でした。過疎を克服するため様々な議論が行なわれ、その手立てとなる計画に沿って様々な施策が実施されたのです。しかし皮肉にも過疎計画が目指した夢のような人口倍増計画は、やればやるほど過疎を助長するという皮肉な結果を生んで、その帳尻合わせとして平成の市町村合併が行なわれ、何の成果も得ぬまま、何の検証も行なわれぬまま、また誰一人説明責任を取らぬまま放置され、現在に至っているのです。

 私にとってもこの30年は、地域づくりに明け暮れた時代でもありました。ゆえに華々しくアドバルーンを揚げて活躍する過疎を逆手にとる会の運動や活動を、ある意味羨望の眼差しで見てきました。そして過疎を逆手にとる会に続けとばかりに、同じような運動や活動を起動してきたのです。私の活動や運動は過疎を逆手にとる会とは、多少方向を異にしながらも今日まで続けていますが、残念ながら同じ頃全国各地で起こった村おこしやまちづくりと称する活動は、矢折れ刀尽きて見る影もなく消滅していのです。
 「過疎を逆手にとる会」が「逆手塾」と名を変え今日まで続いていることや、それを検証しながら新たな出発をしようとしていることには多いに喜ばしいことなので、深い親交のある逆手塾会長の和田芳治さんから記念講演のお誘いを受けた時、一も二もなく引き受けました。そして逆手塾の戦士である和田さんはじめ、宮崎さん、田中さんたちの顔を思い浮かべ、再会を楽しみにして乗り込みました。

  「逆手塾 三十周年 来ないかと 親友誘われ 一人出かける」

  「激動の この三十年を 振り返る 私にとっても まさに激動」

  「あれほどに 過疎に危機感 持ちながら 何も糸口 見つけぬままに」

  「お互いに 歳をとったと 苦笑する あのころみんな 元気だったな」

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人間牧場

○今日から2日間広島へ出張します

 今日から2日間、しまなみ海道、尾道道、一般国道432号線を通って、中国地方の山深い広島県庄原市旧総領町で行なわれる逆手塾30周年記念大会へ講演に出かけます。帰りは明日の夕方になる予定です。

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人間牧場

○孫の押入れ騒動

 昨日の夕方、私は収穫したジャガイモとタマネギをナイロン袋に入れて、弟宅や叔父宅に配るため外出していましたが、孫二人は元気に機嫌よく保育園から自宅へ帰っていたようでした。私が自宅へ帰り、あいにく腰痛とかで伏せっていた弟にいただいた、イサキという魚を流し台に置いて手を洗い、書斎で明くる日広島へ行くための準備をしていると、壁を隔てた隣のダイニングキッチンが何やら騒々しいのです。母親に叱られた二人の孫が大声で泣いているようでした。壁の向うの出来事ですが孫たち二人が喧嘩をして母親の言うことを聞かない姿が容易に想像できたので、ダイニングキッチンに入ってみると、床に寝転んでわめき散らしていました。

 私は有無を言わせず下の孫奏心を抱き抱え、玄関から孫が目下のところ一番怖がっている煙会所へ連れて行きました。これまでにも悪いことをしたらお仕置きの場所として使っているので、孫は手出し足出し大声を出しで、「もうしません。堪えて下さい」と大声で泣きながら私に訴えましたが、構わず戸を開け畳の上に置いて戸を閉めました。孫は泣き叫びながら内からドンドンと板戸を叩き開けようとするのですが、私が必死で開けないようにしました。やがて喧嘩の原因となった兄希心も母親に言われたのか「ごめんなさい」と鳴きながらやって来て、二人とも煙会所の中に正座をさせて再び戸を閉めました。

 中の様子は容易に想像できました。泣きながら「もうしません。おじいちゃん、堪えて下さい」と何度も侘びをさせ、二人を抱き抱えて諭しましたが、二人ともおじいちゃんのただならぬ激怒した姿に驚いたようで、しゃくりあげて泣いていました。
 子どもを叱って諭すのは親の責任かも知れません。でもこの二人は私にとっても大事な内孫なのですから、「ならぬことはなりませぬ」とばかりに時々悪者になっ、て育爺ぶりを発揮するのです。子どもが小さい頃のしつけはとても大事です。同居するようになって一年が経ちましたが、私の役割は日増しに増えてくるようです。

 この一年で孫たちが生活習慣として出来るようになったことは、靴を揃えること、障子を破らないこと、仏様に手を合わせることくらいですが、これはとても大きな進歩なのです。近所の家の障子が孫の出現によって破れ放題であるのを見るにつけ、わが家の障子は破れはひとつもないのですから、これはもう孫を誉めてやらなければなりません。また靴は外から帰るときちんと揃えれるし、手を洗ってうがいをする習慣も身につきました。嬉しいのは仏様に手を合わせて時々ですが祈っているようです。これからも私は例え嫌われても、育爺としての役割をしっかり果たそうと思っています。

  「だだをこね 泣き叫ぶ孫 抱き抱え 有無を言わせず 倉庫押し込む」

  「悪いこと したら倉庫が 待っている 孫は薄々 セオリー気づく」

  「悪ガキが 二人もいても 障子等 破ることない 孫たち立派」

  「もうしません しゃくりを上げて 泣きながら 孫は私の 懐飛び込む」 

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人間牧場

○県外で私の話題が一人歩き

 私の行動範囲も、役場を退職して自由人になったことをいいことに、今では北は北海道から南は沖縄まで全国へとどんどん広がっています。今のところ気力も体力も充実していて、それはそれとしていいことに違いはないのですが、いかんせん知力が今一で、講演やコーディネーター、パネラー、助言者などなど、その役割に応じて下調べをする時間が増えて、書斎へこもる時間が長くなっています。私の場合「学歴を求められたりレジメの提出が必要な所へは行かない」ことを今も貫いているため、下準備にそんなに時間をかけてはいませんが、歳を経てくると「何を話そうか?」と不安になったり、「失敗はしたくない」という思いが頭を持ち上げてくるのです。結局は今までの悪い癖が出て、その殆んどをアドリブでこなしてしまうのです。

 例えば中四国や九州など隣県と思われる県外に講演に出かけると、決まったように一年以内にその研修会に参加し私の話を聞いた人から、講演のオファーがかかるのです。これも講演の反応や成果ですから、喜んでお引き受けするのですが、中には「いいお話でしたので是非わが町わが団体でご講演を」の依頼の最後に「お金がないので講演謝金は余り出せない」と言い訳のくだりが待っているのです。その言い訳を聞きながら「いいですよ」と言わざるを得ませんが、「お金がないのであなた程度で折り合いをつける」と聞こえなくもないのです。
 それでも企画段階の打ち合わせ会や呑み会で、私の話題が一人歩きしていることも事実で、そろそろ引き時と思うこの歳になっても、私の行動範囲は相変わらず広がりを見せているのです。

 

田辺さん

 昨日は岡山県から田辺靖博さんという社長さんが一人で、人間牧場へ私の話を聞きにやって来ました。この方は飲食事業やフラーワー事業を手広く手掛けていて、「自分の定休日が木曜日なので、そちらへ伺うから人間牧場で是非話が聞きたい」言うのです。岡山からだと3時間はかかると逆算して、午前7時に出れば10時には間に合うと思い、「午前10時にシーサイド公園で会いましょう」と約束しました。勉強に来る人の鉄則は少し早く来る」ですが、田辺さんは30分前にやって来て下灘駅やシーサイド公園を一巡していました。さすがです。私も30分前にシーサイド公園へ行き、じゃこ天のお店で4日後に迫った女性起業家リーダー研修の打ち合わせを、田辺さんの来訪を気にしながら、会長である小西千鶴子さんと行いました。

 

わが家からの昨日の夕景

 私の軽四トラックに乗せ人間牧場へ到着後は、天候が良かったこともあって、ウッドデッキに背もたれ椅子を二脚用意し、二人で人間牧場の特徴である海と空を見ながら、色々な話を思いつくまま2時間ばかりお話しました。田辺さんとは今回の出会いは二度目です。何ヶ月か前私にアポもとらず駄目もとでやって来て、僅か10分足らずシーサイド公園で立ち話をしました。その時聞いた話によると、彼のお店に来たお客さんが、「愛媛には珍しい生き方や考えを持った若松さんという人がいる」と噂話をしたようで、その話に釣られてやってきたようでした。その時「必ず近々」と約束し今回の再会となったのです。
 田辺さんの熱心さには負けてしまうほどの向学でした。私も釣られて色々のことを話しました。午後の予定があるので12時過ぎに分かれましたが、いつかお店に呼びたいと再再会の約束をさされました。

  「県外の あちこち私の 話出る 時には飲み屋 知らぬお客が」

  「定休の 時間を割いて 勉強に たった一人で 見上げたものだ」

  「背もたれの 椅子に座りて 海空を 見ながら話す 思いつくまま」

  「人に会う ただこれだけで 異文化を 感じることが できる幸せ」 

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人間牧場

○タマネギの収穫

 昨日は午前中、NHKのディレクターが取材のためにやって来ました。夕日にまつわる取材だそうで、一通り色々な話を電話でやり取りして、人間牧場が見たいというので案内することになりました。転勤族のディレクターなので双海町まではタクシーで着たとか、そこからわが家まで携帯電話でいつものように、「地域事務所から歩いて400mくらいなところにカーブミラーがあります」なんて説明をして、歩いて来るディレクターを県道まで迎えに行きました。わが家で息子嫁の入れてくれた絞りたての梅ジュースで、喉を潤しながら煙会所でお話した後、軽四トラックで人間牧場へ向かいました。ディレクターは一応にその道中の道の狭さや土地の急峻さに驚いていたようですが、急峻故水平的な土地利用をしている人間牧場の充実ぶりに目を見張っていました。

軒先に陰干しされたタマネギ

 昼食時間でしたがシーサイド公園でディレクターを降ろし、わが家に帰って急いで昼食を済ませ、親父に頼まれていたタマネギの収穫をしました。親父にしてみれば梅雨間近な天候なので、早く収穫したいと思うのか、気が気ではないようでした。前日の降雨で畑は幾分湿っていて容易に引き抜けましたが、親父は私が引き抜いたタマネギの茎を残して葉っぱを切り取る作業をしてくれました。苗は500本植えたのでかなりの量です。今年は春先が少雨気味で近所の人は、タマネギの太りが今一だと言っていますが、わが家は菜園に引いている井戸水を、親父が適当に散水したお陰で、近年になく玉太りがよくって大豊作のようです。収穫したタマネギはザルで運んで東屋の軒先で陰干しをすることにしました。土間に板を並べて敷き、その上に行儀よくタマネギを並べて行くのです。友人の塩崎さんと自宅で待ち合わせている午後4時30分までには、なんとしても片付けたいとせかして、やっとの思いでタマネギを取り込みました。

 今朝親父が私を呼びに来ました。タマネギの陰干しをしている場所へ行って見ると、既に朝早く起きて作業に取り掛かり、タマネギの古い薄皮を剥いて、長いキャリーに幾つか並べていました。こうすることでタマネギの腐敗を防ぎ、茎の部分を日向に干して枯らし、紐でくくり易いようにするのです。毎年の事ながら親父の気の遠くなるような作業に、ただただ驚き感謝するのみなのです。
 親父の言うがまま、皮を剥いたタマネギを庭に運んで日干しにしています。夕方取り込み天気が良ければ2~3日乾燥して10個くらいを一束にして、煙会所の軒先に吊るすのです。皮を剥いた白い肌のタマネギの表面が再び薄黄色になったら完了です。
 それにしても年寄りの仕事は瞬発力はないものの持続力によって、若い私の近づくことのできない成果を上げるのです。ふとこの作業は近い将来、私の仕事になるのだろうと思いました。いやはや先が思いやられます。

  「タマネギを 今年も親子 収穫す 手間暇かけて 食べれるように」

  「この仕事 近い将来 誰がする? 多分俺だと 思う憂鬱」

  「年寄りは 手間暇かけて アリのよう 私にゃとても 真似ができない」

  「タマネギを 軒先吊るす 風物は 田舎ならでは インテリアのよう」

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人間牧場

○人は教えながら学ぶ

 昨日は第一火曜日でした。愛媛新聞社の武田さんの勧めで4月から開講したカルチャースクール「街中の人間牧場移動塾」の講義日なのです。カルチャースクールの仕組みも進め方も分からぬまま、とにかくスタートしましたが、早いものであっという間に3回目が終ってしまいました。私は3回で終るものと思っていましたが、送られてくる資料によるとどうやら後3回は続くようで、講師の私は勿論、受講生たち4人もそのことを知らなかったようで、講義終了後にそのことを話すと、継続を希望してくれて、正直なところホッとしているところです。
 私は今回の開講に当たって私の執筆した「夕日徒然草・水の書・火の書・風の書」の三冊をテキストにするため、受講条件の中に教材代として500円×3冊=1,500円を明記しました。本当は地の書も購入して欲しかったのですが、地の書は既に完売売り切れで残部がまったくないのです。皆さんに最新作「夕日徒然草・空の書」を出版する予定であることを伝え、出版時買ってもらう約束を取り付けました。

楽しい学びの受講生

 きっかけが武田さんの勧めだと書きましたが、本来なら人間牧場で話すべき落伍ながら、人間牧場が多少遠隔の地にあるため、全ての人が人間牧場へ来れる訳ではないので、いっそのこと人間牧場を飛び出して街中で移動塾をやったらどうかと思いついたのです。人間牧場は知っていても「街中の人間牧場移動塾」の知名度はまったくゼロなので、案の定受講の申し込みは最初2名でした。愛媛新聞社のカルチャースクールは1人でも申し込みがあれば開講するのが方針なので、私も受講生もそれを承知で少人数ながらスタートしたのです。その後浅野さんのお骨折りもあって、受講生は嬉しい倍増の4人になりましたが、私にとっては人数の多少等問題ではなく、結構気に入って講義を続けているのです。

 今朝の日めぐりにローマの政治家で思想家であるセネカの、「人は教えながら学ぶ」という言葉を見つけました。夕日徒然草の一話に10分から15分をかけてゆっくり解説をするのですが、時には受講生に雑談めいた質問をする会話形式の講義の中で、受講生から色々なことを学ぶのです。まさに反面教師で色々なことを教わっているのです。
 昨日は私と同じ年代に生まれ育ったご主人と、仲良く暮らしている女性の受講生と、いい時代に生まれたことを喜ぶ話をしをしました。私たちは戦後の物のない時代に生まれ育ちました。でもその代わり心の豊かな時代に育っているのです。またその日その日を完全燃焼して、明日への夢を追いかけて生きてきました。その結果夢だった物の豊かさも手に入れることができたのです。これ以上何の不足があろうかと思いきや、世間の惰性に押し流されて、何とはなしの不平や不満を感じつつ生きているのです。もう一度原点に戻り、もう一度ゼロに戻って幸せな今に感謝して、残りの健康寿命をもっと楽しい気持ちで暮らしたいと話しました。「街中の人間牧場移動塾」を開講してよかったと思うと同時に、後3ヶ月も気を抜くことなく修行のつもりでお話したいと思いました。

  「日めぐりに 人はみな 教えながらも 学ぶこと ローマの偉い 政治家言ってる」

  「気がつけば 昭和も古く なりにけり 平成生まれ 既に主流に」

  「物はなく 貧しい時代 育ったが 心豊かな 時代に育つ」

  「感謝して 健康寿命 生き生きと 感謝しながら 生きよう決意」

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人間牧場

○梅の実の収穫

 昨日九州南部が梅雨入りした模様であると気象庁から発表がありました。今年の冬の寒さが厳しかった影響でしょうか、例年より少し遅れての入梅のようで、九州に続いて私の住んでいる四国地方も、間もなく梅雨に入るものと思われます。そんなこともあって、このところ遅れ気味の農作業の尻に火がついたようなせかされた気になって、仕事の合間・合間を縫って色々な作業をこなしていますが、あれやこれやと忙しいこともあって、中々はかどらないというのが正直なところです。

 昨日は人間牧場梅園の梅の実の収穫を弁当持参で思いつきました。母が存命中から20年に余ってずっと使っていたテント生地で作った採果袋が、昨年破けて修理不能となっていたので、前日農材スーパーで雨に強いナイロン系の採果袋を妻と一緒に購入に出かけ購入していたものや、キャリーを3個軽四トラックに積んで人間牧場へ出かけました。
 昨日は薄曇の天気だったので梅園での作業も順調に見えましたが、既に夏の害虫薮蚊が出て邪魔をするのです。今年は梅の実のなりが薄く、剪定も一切していない梅の木に登っての収穫は中々辛い作業でした。

 ご承知のように梅の木には沢山の棘があって、その棘が木登りの不安定さもあって体中に傷をつけるのです。妻はそんな傷だらけで毎年帰ってくる私の体を気遣って、黒い腕抜きを用意してくれましたが、作業に邪魔で結局は妻に悪いと思いましたが抜いてしまいました。
 梅の収穫をする度に今年こそは剪定をしようと毎年思うのですが、ついつい億劫になって、今年も多分できないだろうと諦めているのです。でも「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」と昔から言われているので、そろそろ正念場と覚悟しているのです。

 梅の実の採集をしていると、下の畑で消毒作業をしている地元の女性から「勢が出ますね。今年は梅が不作と聞いていますがいかがですか?」と声がかかりました。この奥さんは私より二歳年下のご主人を一年前に亡くさていて、残された果樹園を必死で守っているようです。昨日は草刈り後の短く延びた草に、除草剤を撒いているとのことでした。一人の仕事は一馬力、二人でする仕事は三馬力の効果を生むことを知っていて、仕事がはかどらないとため息交じりで話されていました。夫婦揃って健康で長生きが一番だとしみじみ思いました。途中持参の弁当を食べて、ウッドデッキに大の字になって寝転んで休憩したりして、やっとキャリー3個と採果袋一つの梅の実を4時頃までかかって収穫しました。単純計算だと70キロほどの収穫です。梅の木にはまだ10kg程度は残っているので、後は暇を見ての収穫です。

 家に帰り前日ジャガイモを収穫した後の畑に耕運機をかけ、畝を切っていた所に枝豆とスィートコーンの種を蒔きました。早くもスーパーの店頭にはスィートコーンが出回り始めていて、少し遅い感じもしますがこうでもしないと、除草に明け暮れる日々を過ごさなければならなくなるのです。これから収穫するジャガイモとタマネギの跡地にも、購入した種がまだ残っているので、ずらし蒔きしようと思っています。
 さあ収穫した青梅の実をこの4~5日で梅酒や梅干用の塩漬けに加工しなければなりません。昨年仕込んだビンを開けなければならない作業も待っています。忙しくなりそうです。

  「梅の木に 登って青梅 収穫す チクリチクリと 肌に刺さりて」

  「新しい 採果袋を ぶら下げて 枝から枝へ まるでお猿だ」

  「声かける 農家の奥さん 独り者 夫を亡くし 孤軍奮闘」

  「不作でも キャリー三個と 一袋 自家用十分 青梅ゲット」

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人間牧場

○雨の中でのほたる祭り

ほたる祭り会場翠小学校の賑わい

 先日、友人の岡田博助さんから「ほたるが沢山飛んでいるので見に来ないか」とお誘いがあり、妻を誘ってほんの目と鼻の先にある上灘川へ行きました。暗闇の中を進んで行くと、あちらこちらに幻想的なほたるが沢山飛び交っていました。岡田さんの声を頼りに合流しましたが、この場所は先月ほたるの幼虫が上陸した様子を、やはり岡田さんの案内で見ているので、ことさら感慨深げでした。
 私は在職中に双海町のまちづくりを担当してほたるの保護活動に深く関わりましたが、どちらかというとほたるの保護活動は他の人に任せ、私はもっぱらほたる祭りのイベントを担当して、心血を注いできました。ほたるの保護活動が縁で今ではすっかりシンボリックな場所となっている翠小学校を会場に、ほたる祭りを開くイベントも30年近くの時の流れで、今では多くの地元の人が関わり、また多くの人がやって来るまでに成長しました。私の目論見どおりホタル保護活動のお陰で、児童数20人ほどながら学校も統廃合されることもなく残っていることはとても嬉しいことなのです。

和気さん家族と渡辺さん

 イベントに雨はつきもので、特にこの時期は梅雨の走りで天候不順なため、雨を心配する関係者の気を揉む姿が目に浮かぶようです。その心配する姿をもて遊ぶように、今年も昼過ぎからかなり強い雨が降り、午後3時からの開会の出鼻をくじいてしまいました。その後は小降りになり何とかほたる祭りは屋外での開催に漕ぎつけましたが、イベントで売る商品や材料を仕入れて準備していた人たちは、気が気ではなかったようでした。
 恒例の行事なのでわが家でも何はさて置き、家族でほたる祭りに出かけました。孫奏心は日本脳炎の予防注射の影響で熱と咳が出て風邪気味なので、息子嫁と二人でお留守番です。娘家族と息子家族で出かけましたが、県道の片側に駐車する車の列が延々と久保の入口付近の橋まで続き、私たちも付近へ駐車して歩いて会場まで行きました。毎度の事ながら一年に一度の賑わいは地域の活性化に大いに役立っているようです。
 入口付近で交通整理をする人、会場で物を売る人、参加した人などの中には顔見知りの人も多く、あいさつを交わすのに忙しく、あちらこちらで立ち話となり、家族とは離れ離れになってしまいました。

双海人のテント

 会場で珍しい人に会いました。南海放送の和気アナウンサー家族です。和気さんは南海放送のニュースキャスターとして活躍していますが、和気さんは旧城辺町に住んでいた子どものころ、私が主宰した大野ヶ原での酪農・農業体験モゥーモッゥー塾に参加していて、何かにつけてお互いがその当時のことを思い出すのです。和気さんは既に結婚して松山に住んでいますが、この日は奥さんや二人の子どもさんを連れ、家族で参加していました。愛媛大学の和田先生から先日電話が入り、「学生たちを連れて福島から家族で双海町へやって来ている渡辺さんの、農場で農業ボランティアに行くから、会場で会いましょう」と予告がありましたが、和田先生と学生の一行もほたる祭りを楽しんでいるようでした。
 松本さんや浜田さん、冨田さんたち双海人のメンバーも、先日人間牧場ピザ釜で試作していたハンバーガーを販売して完売したようでした。

ちょうちん行列

 孫たちは夜店の明かりに釣られ、おばあちゃんにおねだりして、遊び道具を買ってもらいご満悦でした。その後ちょうちん行列の列の中に加わり、ほたるの見学に出かけましたが、孫たちも草むらを飛び交うほたるを見つけて歓声を挙げていました。

「あいにくの 雨にたたられ 気を揉むが 今年もほたる 沢山飛び交い」

「孫たちは ほたるなんかは 気にもせず ばあちゃん頼り 夜店巡りて」

「懐かしき 人顔見つけ 立ち話 ほたる祭りは 人との出会い」

「来年も 元気でほたる 見れるよう 健康くれぐれ お互い確認」

 

6月4日の愛媛新聞朝刊

 

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人間牧場

○梅雨の予感

 6月に入った途端空模様が怪しくなって、梅雨の予感を感じさせ始めています。梅雨は梅雨として水資源確保の観点から考えると、大切な年中行事のようなものですから、むしろ前向きに捉えなければならないのでしょうが、屋外で活動することの多い地域づくり人を自認する私としては、30年にも余って空とにらめっこして一喜一憂してきただけに、やはり気になるのです。
 一方わが家の家庭菜園では、タマネギとジャガイモの収穫が間近で、とりあえず5種類植えた最初の二畝を一昨日の夕方、人間牧場で薪小屋を完成させて午後6時に帰ってから、急な思いつきで掘りました。この二畝は北海道美幌町の検校さんから食用に送られてきたものの残りが春になっていち早く芽吹いたため、試験的に駄目もとで植えたものです。ホームセンターで買った種芋でないので期待は半分でしたが、何と堀り上げてみると立派な芋が沢山ついていて、キャリーに一箱も収穫することができました。この芋は既に試し掘りして2~3度食べましたが、普通の男爵と違って黄色味がかって、とても美味しいようでした。

 昨日の天気予報では午後から雨の確立50パーセントなので、昼食が終わると直ぐ、メークインという品種の5畝を掘ることにしました。ジャガイモを掘り始めて間もなく、「おじいちゃんがジャガイモを掘っているから手伝うように」と言う妻の言葉に促された希心、奏心、尚樹の孫三人組が畑へ入ってきて、「手伝う、手伝う」と大はしゃぎでした。鍬で掘り上げたジャガイモをキャリー二つに大小餞別して入れる作業を、手伝うというよりは邪魔をする程度手伝ってくれました。メークインは豊作で、土の中から大きな芋が顔を覗かせるたびに歓声を上げてるのですが、畑の中を動き回って横に植えているインゲン豆の畝まで踏み荒らして、気が気ではありませんでした。そのうち雨がポツポツ落ち始め、急いで残りを収穫し終わったところで、間一髪雨に合うこともなく収穫を終えました。一輪車で夕観所の東屋まで運んで雨宿りさせましたが、天気になったら風を通して収納倉庫に納めたいと思っています。

彫り上げた男爵系ジャガイモ

 残りのジャガイモは男爵とキタアカリという品種が3ヶ所残っています。明日から始まる来週からは殺人的スケジュールが待ち構えていますが、天候を見計らって朝夕を利用してジャガイモの収穫をやろうと思っています。タマネギと梅の収穫も控えているので、腰を痛めないよう注意をして、楽しみながら収穫をゆっくり味わいたいと思っています。
 収穫したジャガイモはわが家の一年分の食材となりますが、親類にお裾分けしなければなりません。早速娘はちゃっかり買い物籠に入れて持ち帰ったようです。
 孫たちに手伝ったお駄賃として、ジャガイモ一個を選ばせて与えましたが、昨日の夕食に掘ったばかりのジャガイモの塩茹でとポテトサラダが乗りました。いやあ美味しかったです。

  「梅雨間近 予感ジャガイモ 鍬を打つ 土の中から 続々美味そう」

  「手伝うと 言いつつ孫ら 邪魔をする これも育ちと 大目に見つつ」

  「手伝った 御礼ジャガイモ 手渡すと 孫は大いに 喜び走る」

  「食卓に 掘り立て芋が 湯気を出し 食べて食べてと 言わんばかりに」

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人間牧場

○薪小屋造り(その3・完成)

 昨日の夕方6時前、人間牧場からの帰り道、吉久酒店横の信号を国道から右折した所で、仕事を終えて帰る地域事務所の松本さんにバッタリ会いました。後続の車がいないことをいいことに、こともあろうか交差点で停車して、松本さんの車の横で窓を開け、信号赤で止まったいた松本さんとお互いが言葉を交わしました。
 松本さん「薪小屋ができたようですね」。私「はいお陰様で」とショートな会話をしました。私は一瞬「えっ、何で知ってるの?」と思いましたが、直ぐにその謎は解けました。謎などといういうおこがましいものではありませんが、松本さんは殆んど毎日日常生活を書いている、私のブログを愛読してくれているのです。薪小屋の話は造るきっかけから作っている所、完成間近な様子までご丁寧に、デジカメで撮影した写真とともに掲載しているのですから、知っていて当然だと納得しました。

完成した薪小屋

 昨日は少しだけ不足していたエスロン波型屋根材を、前日コープえひめの理事会に出席した帰り、西村ジョイで買って帰っていたので、後少しの作業をしに弁当持参で人間牧場へ出かけました。たった一日なのに前日は5月、昨日は6月です。6月はやはり夏です。薄曇りながら時折夏の日差しが照りつけ、3年間被っている麦藁帽子も何のその、汗ばむどころか大汗をかき、早くも出没している薮蚊に悩まされながらの作業となりました。11時までに屋根材を張り終わり、出来上がった小屋の縦横のたてりを補正して、ひとまず薪小屋はお粗末ながら完成しました。完成で気が緩んだのか正午を知らせる屋外ミュージックサイレンを聞きながら少し早い食事を終えると、少し眠気を催したため久しぶりに背もたれ椅子を木陰に持ち出し、オーシャンビューを楽しみながら贅沢な午睡を楽しみました。木陰は玄関戸と窓を全開していることもあって、心地よい風が吹き抜けて、見繕って本棚から取り出した一冊の本も2~3ページ読んだだけで、浅い眠りについてしまいました。

薪面を揃えて積んだ古い薪と新しい薪

 ズボンのポケットの携帯電話の音で目が覚めました。講演依頼の電話でした。最近は自分のスケジュールを管理している卓上カレンダーも持参しているので、難なく講演を受諾しました。
 昼からは出来上がった薪小屋へ薪を移動する作業です。倉庫の北東側に積み上げていた薪をキャリーに入れて運び積み上げるのですが、薪小屋が石垣の上にあるためこれが結構きつい作業で大汗です。折角造った新しい薪小屋なので、美的にしようと薪面を合わせて前と後二段に積み上げて行くのですが、薪の性格上長かったり短かったりいびつだったりして、散々苦労しました。古い薪はクヌギです。その上に子ども体験塾で先日子どもたちが割った、杉の間伐材利用の薪を積み上げるのに2時間以上もかかってしまいました。一人の作業量はやはり一人前どころか半人前で、作業ははかどりませんでした。それでも綺麗に積み終えた充実感はありました。まだ割っていない丸太も収納し、そこら辺を掃除してゴミを焚き火で焼却たり、石垣下の草を刈ったりしたところで5時になりました。

 人間牧場にまた小さいながらも手作り薪小屋という伝説が生まれました。妻が「お父さんは小屋という言葉が好きね」と言われました。そういえばかまど小屋から始まって作業小屋、ピザ釜小屋、今回の薪小屋と小屋のついた名前の施設がいっぱいあるのです。ツリーハウスもロケ風呂も独立した小屋なので、まるで住宅展示場のように思いの詰まった小屋が次々誕生しています。「余り施設を増やすと管理する自分が困るよ」と、妻から忠告を受けていますが、その言葉は既に実感しているのです。
 薪小屋は施設の中では目立たないバックヤードのようなものです。「バックヤードを見ればその人の性格が分かる」とある人から教わり、私のある意味バックヤードだったシーサイド公園の、人工砂浜清掃を思いついたことを考えれば、薪小屋の存在は大きな意味があるのです。さあこの薪をかまどやピザ釜、ストーブを使って増やしたり減したりしながら、充実した活動をしたいと思っています。何はともあれ薪小屋は短時間ながらこれで嬉しい完成です。

  「念願の 薪小屋不器用 一人にて ついに完成 少し満足」

  「蚊に刺され 一人黙々 薪を積む 古い薪上 新しい薪」

  「薪小屋は バックヤードの 一つにて 綺麗身上 注意おさおさ」

  「汚いと 思った所 綺麗なる 清々しくも 作業を終える」

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