人間牧場

○人間牧場に薪小屋(その1・着工)

 わが家の敷地内には海の資料館「海舟館」というのがあって、親父が漁師をリタイアした後造った、和船の模型が所狭しと飾られています。そんな何かと手先の器用な親父の息子なのに、子種が違うのではないかと思うほど私は不器用なのです。マサカリで薪を作ればマサカリの柄を折るし、鍬を使えば鍬の柄を折るなどして、「お前は不器用な上に道具類まで壊してしまう。ましてや使った道具の始末が悪い」などと、子どものころから親父に散々叱られて育ちました。ゆえに「私は生まれながらの不器用な男」を自認して、日曜大工仕事の殆んどを親父がやるため、私は益々コンプレックスが酷くなり、不器用なままで人生を終りそうなのです。

 そんな私でも、親父が歳をとって小回りが利かなくなったのをいいことに、少しずつ日曜大工の真似事を始めているのですが、残念ながらおいそれと上達するものではなく、造った物も一笑に付されるようなものばかりのようです。
 先週は共栄木材の会長さんに貰った杉板で初めてミツバチの巣箱を造りました。ところがこの杉板が分厚く乾燥の過程で反り返っていて、ネジ釘で造って行くのですが、所々に隙間のある欠陥商品に仕上がってしまいました。「これは私が造ったミツバチの巣箱」と胸を張って人に見せれる代物ではないので、まだ倉庫の影に終って使わないでいるのです。木は癖組みと親父から聞かされていて、反り返った木を上手に使うのも器用の証なのです。

 そんな私がこともあろうか、立派な施設群?の並ぶ人間牧場に「薪小屋」を造る計画を思い立ちました。先週の土曜日人間牧場で開いた子ども体験塾で、子どもたちに薪割り体験をさせるメニューを入れていたため、出来上がった薪が牧場広場に置かれたままになっているのです。薪もインテリアの一部だと思って、宮栄館長さんから貰ったクヌギの木で作った大量の薪も、風雨に晒されすっかりみすぼらしくなって、かえって美観を損ねていて、何とかしなければならないと人間牧場へ行く度に思っていました。
 一口に「薪小屋」といってもピンからキリまであるのでしょうが、私が造ろうとしている薪小屋は、昨年石垣工事ですっかり綺麗になった作業小屋裏手の石垣の上を利用したいと思いついたのです。

薪小屋はこの石垣の上に作る計画です

 不器用な私は「薪小屋」の製作に当ってコピー用紙の裏に簡単な見取り図のような完成予想図を書き、体験塾が終って人間牧場を後に下山する時、メジャーで寸法を測り、必要な材木の量を計算しました。同居しているわが息子は設計の仕事をしていて、相談すると「止めた方がいい」と言われるのは分かっているので、隠密裏に進めなくてはならないのです。
 今週初め松山へ出張した折、軽四トラックに乗って行き、帰りに西村ジョイというホームセンターで材木、ネジ釘、エスロン波型屋根材などの材料を1万円も仕込んで帰り、その足で人間牧場まで運んでおきました。

着工前の作業小屋外観

  「親父の子? 疑うほどに 不器用を 自認の私 一念発起」

  「薪小屋を 造る計画 こそこそと 自分ひとりで 絵に描き準備」

  「一万円 投資はしたが 出来上がり 笑われるかも 疑心暗鬼に」

  「採寸を した絵を基に 薪小屋の 材料運び 夢が膨らむ」

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人間牧場

○子ども体験塾始まる(その4)

 先週の土曜日5月26日に行なわれた子ども体験塾は予想通り、いや予想以上に大きな盛り上がりを見せました。その後街中で子ども体験塾に参加した子どもたちに出会うと、「ピザが美味しかった」とか、「薪割が楽しかった」とか、中には「進ちゃんに習ったゲームができるようになった」と近寄って来ては、目を輝かせて楽しそうに話してくれるのです。これはもう主催者として一番嬉しい反応で、良かった良かったと胸を撫で下ろすのです。

貼り終わったイノシシ除けの魚網

 日曜日を挟んだ月曜日には、公民館の赤石さんと久保さんと私の3人で、残りの仕事と後片付けに人間牧場へ出かけました。何よりも気になっていたイノシシ除けの網の不足分を補う作業と、植えたサツマイモの苗が水不足を起こして枯れては大変と、水遣り作業を3人で分担して行ないました。イノシシ除けの魚網張りは、ずぶの素人の赤石さんや久保さんには何をどうしていいのか分からず、持って行った魚網をただ呆然でした。そこへ行くと私は痩せて枯れてはいますが元漁師です。直感的に網の使い方を決めて赤石さんに手伝ってもらい、いい状態で不足分を張ることができました。久保さんはポリタンクで持参した未使用分の水を、ジョロに移して水をやる作業をしてもらいました。

 一通りの片づけが終わり、帰る途中下灘小学校と由並小学校へお礼のごあいさつに立ち寄りました。どの学校も子ども体験塾の実施には好意的で、今年から実行委員も校長先生から実務の教頭先生に顔ぶれを変えましたが、全員が参加してくれました。
 人間牧場は私個人の持ち物なのですが、こうして地域の人の共有財産のような形で、使われることが一番嬉しいことなのです。しかし折角できたかまどもピザ釜も、まだ一度も家族が使っていないのは、少々気になるところで、近々家族で使うことも考えなければなるまいと、少々胸を痛めているのです。

特別参加の孫たち

 そんなこともあって、今回は部外者ながら息子嫁と二人の孫を見学のために誘いました。3人は山道を恐る恐る車で登ってきたようで、つかず離れず見学していたようですが、孫は早速小学生の輪の中へ入って遊び半分楽しんでいました。ピザもご馳走になって大いに満足していたようです。孫も大きくなれば子ども体験塾に参加させて、逞しくも心の優しい子どもに育ててやりたい思っています。
 よほど嬉しかったのか、その日の夜は、人間牧場でサツマイモを植えたことや、ピザが美味しかったことを一生懸命話していたようです。

  「主催者は 準備片付け 忙しい フォローできれば 一人前だ」

  「網を張る チンプンカンプン 二人見て 無理もないなと 一人で苦笑」

  「そういえば 人間牧場 家族には お披露目まだと はたと気がつく」

  「孫たちも 塾に参加し 大はしゃぎ 早くみんなと 一緒に活動」

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人間牧場

○子ども体験塾始まる(その3)

ピザ釜でピザを焼く松本さん

 子どもを集める行事やプログラムは何かと気を使うものです。特に安全には気を使わなければなりません。それは私たち大人と子どもの全てが違うからです。大人の体力から考えれば40分の山道歩行などどおってことはないし、マサカリで薪を割ることも子どものころに体験済みなのですが、通学くらいで余り歩かなくなった子どもの中には、かなりきつい子もいるようでした。ましてや薪など自分の日々の暮らしの中にはまったくなく、マサカリを始めて見たり、マサカリで木を割ることも始めての体験なのです。ゆえに私たちが当たり前と思っていた薪割り作業が一番人気があったのには驚ろいてしまいました。

作業小屋赤とんぼの家でピザ作りに挑戦

 今回の子ども体験塾で労力を費やしたのは、去年人間牧場に設置したピザ釜を利用して、子どもたちにピザを作る実習をさせ、焼いて食べさせることです。この日は昨年の夏ピザ釜を造ってくれた松本さんと築炉指導をした戸田さんの二人に加え、地方局の前神さん、地域づくり応援隊の冨田さん、それに双海人の浜田さんが仕込から火入れ、焼く作業まで一手に引き受けて指導してくれました。松本さんは人間牧場のピザ釜、戸田さんは自分の移動式ピザ釜を人間牧場へ持ち込んで築炉したピザ釜に、付きっきりで対応してくれました。運よく曇っていたとはいいながら、火を使って一人一枚のピザを人数分だけ焼く作業は重労働で、70枚以上のピザを焼き上げたようです。

ピザを頬張る子どもたち

 人間牧場のピザ釜は完成してから一度だけ試験的に使いましたが、本格的な利用は今回が初めてです。本当は私もピザ釜の火入れや焼き方などの全てに関わって、マスターしたかったのですが、実行委員長ということもあって、運営に手を取られてまったく手伝いができなかったのです。それでも火入れの様子や焼き具合等はつまみ食いをしながら適当に学ばさせてもらいました。
 この日はピザ釜を使って、様々なピザに挑戦するプロジェクトも松本さんたちがスタートさせていて、子ども体験塾終了後も熱心に実験研究が行なわれていました。私も折角できたピザ釜を燻製等に使えないか考えていて、楽しいことがこれから始まりそうなのです。

ピザプロジェクト実験研究もスタート

 子どもたちにとっては、ピザ一枚はかなりの量だと思いましたが、歩行訓練や芋つる植え、薪割りなどで大いに体力を使っていたため食欲旺盛で、高学年の子どもは本部の分まで狙って食べていました。昨年はかまどで炊いたご飯と味噌汁が大好評でした。今年もピザ焼きは大好評でしたが、その裏で生地の仕込からトッピング具材の調達、焼く作業まで、やはり食べることの世話は大変なようでした。それでも子どもたちの「美味しい」という笑顔の一言が皆さんを大いに喜ばせていたようです。
 子どもたちは感想文を書いて、午後2時元気に歩いて下山して行きました。何はともあれ満足の行く第一回目のプログラムは多くの人に助けられて無事終りました。

  「安全は 何より優先 肝命じ スタッフ一同 今年もやる気」

  「ピザ釜に 付きっきりして ピザを焼く 破顔一笑 美味い美味いと」

  「ピザ焼きを マスターしたい 思うけど 別のやること 沢山あって」

  「ピザ釜の 調子はどう?と 訪ねれば 絶好調と 言葉が返る」

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人間牧場

○子ども体験塾始まる(その2)

 

いもづる植え

 今年の子ども体験塾に応募した子どもは40人と過去最高です。加えてこの日のスタッフやボランティアは20人を越える賑やかなスタートとなりました。この日のメインテーマはサツマイモのつる植えなので、先ず実行委員長の私が、歩いて山道を登ってきた子どもたちをロケ風呂前の舗装道路の広場に座らせ、サツマイモの話をしました。サツマイモはその名前の通り今の鹿児島県から江戸時代に伝来したこと、今治の沖合いに浮かぶ大島には芋地蔵という芋を持っているお地蔵さんが安置されていて、芋を伝来した先人を今も大切にお祀りしていること、隣の松前町にも義農作兵衛という人がいて、来年の種を遺すために種を枕にして亡くなったこと、芋は春になると芽を出してつるを伸ばし、そのつるを植えると秋にはサツマイモが育つ命のリレーをしていること、植物は挿し木によって根を出し、その根が芋になること、芋は米とともに連作障害が少なく、食糧増産にぴったりで、戦後の食糧難から日本国民を救ったことなどを、しっかり話してやりました。

盛り上がった薪割り作業

 本来なら全員が一気に用意した200本のいもづるを植えるのですが、畑が狭いことと人数が多いため5班に分けて植え始めました。一班にマルチを掛けた2畝が用意され、私が包丁で切ったマルチの穴に宮栄館長さんの指導でしっかりと植え込んで行きました。植え方の指導や植えた後の確認も小班毎なので、目配り気配りもできて、手足やズボンを余分に汚さずしかも短時間で植え終わりました。
 子どもたちは薪割り、案山子作り、班旗造りの別メニューも用意されていて、ローテーションを組んでスムーズにことが運びました。予想以上に盛り上がったのは薪割り体験です。役場の井上課長さんからいただき、前もって運んで薪の長さにチェンソーデ切っておいた杉の丸太を、マサカリとカキヤを使って割るのですが、殆んどの子供が初めてとあってまあ下手糞で、薪どころか地球を割るような頓珍漢な作業に、笑いや拍手の渦が沸き起こりました。

魚網で囲われ芋植えの終った芋畑

 班旗もイノシシ除けのための案山子も班毎に作られ、まあこれも下手糞ながらそれなりのものができました。私と宮栄館長、三好教頭先生、それに下小の女先生、人間牧場を見学に来た吉岡さんが中心になって、芋畑の周りに鉄筋を打ち込みイノシシ除けの頑丈な網を張り巡らしました。今年は農場を少し広げたため網の長さが少し足りず、後日の補足作業となりましたが、今年は網の裾に鉄筋を打ち込み、イノシシが進入してサツマイモを全て食べられて昨年の苦い経験を、何としても防ぎたいと思っています。
 

下手糞な出来栄えの案山子

今年の収穫祭は10月13日の予定です。それまでに夏の草引きや草刈りなどの肥培管理も行なわなければなりませんが、イノシシの被害もさることながら、沢山サツマイモが収穫できるよう祈っています。植えたいもづるは、ここ当分好天が続きそうなので、一度水遣りをすべきかどうか迷っています。

  「サツマイモ 切ったつるから 根を出して 芋に変身 何とも不思議」

  「今年こそ イノシシたちと 知恵比べ 勝って芋食う 秋迎えたい」

  「芋話 これも大事な 役目にて 熱弁ふるい 子どもに話す」

  「薪割りに 挑戦するも 地球割る そんな勢い 今の子どもは」

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人間牧場

○子ども体験塾始まる(その1)

 双海町に住む子どもたちを優しくたくましい子どもに育てる、「子ども体験塾」がいよいよ今年も始まりました。町内の小学校三校にお願いして募集をかけたところ、定員30人をはるかに超える40人が応募をしてくれました。以来実行委員会で決まった担当が中心になって、その内容吟味や準備が行なわれました。私は実行委員長をしていることもあり、また第一回のいもづる植えと秋の収穫祭の会場が人間牧場なので担当することとなり、事務局の赤石さんと何度も打ち合わせを行い、また公民館の松原さんたちの協力を得て、事前に芋畑の中耕やマルチ掛け、草刈りなど、今迄で一番労力を費やしました。

 前日雨が降り、その余勢が残る深い霧が残ってはいたものの心配された天気も、むしろ初夏の太陽を遮ってくれて、ラッキーな一日となりました。私は朝起きて水タンクに炊事用の水を2個入れて、トラックに積み込もうと思いましたが、腰の具合が今一だったため、居合わせた長男息子に詰んでもらい、7時30分に自宅を出発しました。人間牧場へ到着すると腰の痛さなどすっかり忘れて水タンクを降ろし、水平線の家の大きな窓を全開して、とりあえず掃除を始めました。そのうち浜田さんがやって来て、一緒に掃除をしたり段取りをしました。午前8時30分になったので、開会式に出席するため浜田さんに掃除の依頼をして、一旦下灘コミセンへ向かいました。

 コミセン2階には参加する親子連れが集まり、受付や雑談をしていましたが、その人の群れの中に福島から原発疎開で福島県から、わが町にやって来ている渡辺さんの奥さんの姿を見つけました。先月末の29日に元気な男のこの赤ちゃんを出産していて、その子を抱いて娘さんを連れて来ていました。嬉しい双海っ子の誕生を、開会式のあいさつに入れ、みんなからお祝いの拍手が贈られました。
 開会のあいさつでは、「心が優しくて逞しい子どもを育てる」、子ども体験塾の趣旨をしっかりと話しました。実行委員やスタッフが紹介され、いよいよ今年の子ども体験塾がスタートしました。私は開会式が終ると直ぐに人間牧場へ引き返し、既に到着していた松本さんや戸田さん、冨田さん仲神さん、宮栄館長さんたちとともに慌しく準備をしました。

 コミセンから約40分の山道を歩いて登る子どもたちのために、今年はオリエンテーリング形式のクイズを道沿いに配置していたようで、スタッフも中々やるものです。そのうち子どもたちの歓声が聞こえ始め全員元気に人間牧場へ到着しました。子どもたちの中にはまだ体力が備わっていない子どももいて、到着するなり「疲れた」を連発してコンクリート舗装の道路に寝転んだりしていましたが、これも想定内の逞しさ育成術なのです。40人は五つの反に分かれていて、今年はそれぞれの班がメニューにローテーションを組み、別メニューで進行しました。班旗づくり、薪割り、いもづる植え、案山子づくり、ピザ体験を20分程度やるのですが、どれも楽しいメニューで、今年初めて取り入れた薪割りやピザ体験は大いに盛り上がったようでした。

  「今年も 四十人の 子どもたち 人間牧場 歩いてフーフー」

  「この町で 生まれた子ども 抱いて来る 原発疎開 逞し母さん」

  「心根の 優しい子ども 育てたい 人間牧場 造った意味あり」

  「新たなる メニュー子ども 歓声を 挙げて楽しい 一日過ごす」

 

歩いて人間牧場へ到着した子どもたち

 

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人間牧場

○長崎県諫早への旅(その3)

私のお相手を一日していただいた小川課長さん

 今回の長崎県諫早への旅は、諫早市社会福祉協議会から諫早市民生児童委員協議会連合会総会の記念講演へのお招きでした。人口15万人近くの長崎県第三の都市ともなると民生児童委員の数も300人を超えていて、少し離れた郊外の高台にある諫早文化会館中ホールは満席状態でした。
 列車の都合で会場へは午前中に到着しましたが、行く場所もなく講師控室で小川課長さんを相手に3時間近く色々な話をしました。12時30分の受付開始時間になると、会長さんや諫早市長さんも見えられ、慌しく名刺交換した後開会式のあいさつをするため出て行かれ、控室は再び私と小川課長さんだけとなりました。小川課長さんは地元の大学で福祉に関する講義もされているようで、女性ながら比較的私とよく似た二束の草鞋を履いているようでした。

諫早湾の象徴水門を車窓から

 そのうち長崎市と合併した香焼町の公民館に勤める武次さんがやって来ました。武次さんとは20年来の友だちで、香焼町へも講演に招かれて出かけたり、生涯学習の必要性を強く感じている気の会う人の一人なのです。聞けば長崎県下の仲間に呼びかけ昨年社会教育支援草社の会を立ち上げたようで、第一線を退き再任用で同じ香焼公民館職員として働きながら、元気に活動していることを聞き嬉しく思いました。私も公民館のOBで組織している愛媛県公友会の会長になっているので、これまたよく似たことをしていると苦笑いをしてしまいました。
 講演は予定通り14時30分から始まり16時までの90分、参加者の反応のよさに助けられて淀みなくお話をすることができました。終了後直ちに迎えに来たタクシーで諫早駅へ向かい、JR特急白いかもめに乗り、車窓に広がる干いた有明海を見ながら長崎を後にしました。

幻想的なミストつきミュージック噴水

 午後5時を回っての列車は佐賀駅から混み始め、自由席だったので通路もデッキも立っている人が沢山いました。博多で連絡している特急ソニックに乗り小倉を目指しました。博多を中心に発着するJR九州の列車は形や色調にどれも特長があって、見飽きないものばかりです。特に白を基調の特急白いかもめや黒と赤の配色が九州らしい特急ソニックはどこか旅の風情を感じさせてくれまあいた。
 丁度良い時間に小倉に着き、駅前で軽い食事を済ませ駅周辺を少しだけ歩きましたが、海に面した駅前広場のミュージック噴水はミスト(霧)が発生し、カクテル光線に照らされて見事でした。その場所は来訪者も若いカップル一組と私ともう一人の行きずりの人の4人だけで、何とも贅沢な見学となりました。

  「久方に 長崎友人 出会いたる 益々盛ん 嬉しくなりて」

  「諫早の 水門車窓 消え行きて 次の機会は いつになるやら」

  「干潟見せ 有明海は 静まりて 遠望はるか 雲仙山並み」

  「この海も わが瀬戸内海と 続きたり 不思議思いつ 車窓眺める」

 

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人間牧場

○長崎県諫早へ行って来ました(その2)

諫早公園の眼鏡橋

 人の記憶はあやふやと言いつつ、私の記憶もまんざらではないと思ったのは、諫早市社会福祉協議会から今回の講演依頼の話があった時、直感で諫早=眼鏡橋=楠の大木=友人の武次さんや松本さんを思い出したことです。眼鏡橋と楠の大木はさておいて、今回の講演依頼が長崎市と合併した元香焼町の公民館に勤める武次さんの推薦だと小川課長さんから聞かされた時、懐かしくも嬉しくなりました。間髪を入れず武次さんから「再会が楽しみ。できたら長崎へ泊まって松本さんを交え一杯やりましょう」との誘いの電話が入っていました。しかしよくよく日程を調整してみると、明くる日の午前中既に予約が入っていて、諫早へ行く数日前に武次さんにその旨を電話連絡し、呑み会を断わった始末です。

城跡の大楠の木(樹齢推定600~800年)

 諫早といえば、物議を醸し今も相対する意見が真っ向から対立している、諫早湾の干拓や水門の話を思い出すほど、開発か保全かで話題になっている人口10万人を超える長崎県第三番目の大きな街です。特急列車白いかもめに乗って佐賀県から長崎県に入ると、列車の左側には有明海が、そしてその向うには大爆発を起こし、多くの犠牲者を出した雲仙普賢岳が見え始め、そして水門が見えてきます。
 諫早駅に降り立ち、とりあえずタクシーに乗って諫早神社まで行き、大楠群を見学しました。またそこからは少し歩いて眼鏡橋まで行きました。大楠も眼鏡橋も私の記憶どおり威風堂々として私を迎えてくれました。大楠は樹齢500年を越えていて、その根回りや枝張り、根張りは神社の境内ゆえに注連縄が張られていて、木霊が宿っているような雰囲気でした。
 また石造りの眼鏡橋も今まで全国を渡り歩いて見て来た橋の中でも一、二を争う見事なものでした。眼鏡橋を左右、裏表、上下から見学しましたが、改めて先人の技術の確かさに感嘆してしまいました。

蛍塚句碑

 木になるカバンと着替えを入れたもう一つのカバンを両手に抱え、加えて今回はカバンの中に講演で使うため金次郎の銅像を入れていたため、腕や肩が張って諫早公園の中にある城跡の大楠に辿り着くころには、大汗をかいてしまいました。それでも城跡の山頂から見える諫早の街の眺めは最高で、吹き渡る初夏の風に癒され、つわものどもの夢の跡に思いを馳せました。
 眼鏡橋の周辺には蛍の幼虫を育てるカワニナ養殖水路があって、防虫ネットを張っていました。また眼鏡橋の袂には句碑や中学生の蛍塚なども立っていました。再び汗をかきながら河川敷の中の散策道を歩いて、飛び石等を渡り諫早駅まで帰り、前もって送られているタクシーチケットを使って、講演会場である諫早文化会館まで辿り着きました。少し早い到着に準備をしていた社会福祉協議会の皆さんは、一応に驚いた様子でしたが、皆さんとレストランで名刺交換したり、用意していただいた食事をして時を過ごしました。

  「わが記憶 この歳なりて 定かなし されど記憶の 糸を手繰りて」

  「眼鏡橋 大楠群に 感激し もう一度みたい 念願叶う」

  「金次郎 までも同伴 した故に 手や肩ズシリ 大汗かいて」

  「日本には まだまだ誇れる ものがある 諫早湾を 何と聞くらん」  

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人間牧場

○久しぶりの九州路(その1)

 1月18日に福岡県直方市へ講演で出かけて以来、約4ヶ月ぶりの九州路です。瀬戸内海や宇和海を挟んだ隣の島でなりながら、九州はやはり遠いと感じます。と同時に北九州を中心とした発展ぶりはミニ東京といった感じで、小倉も博多も町の中を歩いていると何かエキゾチックな雰囲気があるのです。
 小倉駅周辺のコンベンションホールはとてもでっかくて、また動く歩道やモノレールがあってすごく便利です。その反面駅から少し歩くと素晴らしい小倉城公園もあって、いい雰囲気の街です。今回は早朝だったため小倉や博多の街中を歩くことはありませんでしたが、近い7月6日には京都郡町議会議員研修で、8月2日には福岡県公民館大会でそれぞれ相次いで福岡県へ入る予定なので、前後の日程を割いて周辺を回って見たいと思っています。

私の乗った特急白いかもめ

 小倉から特急ソニック、博多から特急白いかもめという列車を乗り継ぎました。ウトウトしつつも本を読んだり車窓の景色を眺めながらのんびり過ごしました。福岡県から佐賀県に入ると車窓の景色は一変し、小麦畑が長崎県まで続いていました。今は麦秋の頃で刈り取り前の小麦が黄色く色づいて目にも鮮やかでした。松山地方の日本一を誇る大麦裸麦の黄金色に比べるとやや見劣りしますが、それでもあの広い麦畑には圧倒されました。
 麦畑を眺めながら親友の青木晴美さんに携帯でメールを入れました。彼女からは先日も岩手への旅の途中でメールを貰いましたが、私も時々列車の中でメールを送ったりするのです。

佐賀平野の小麦畑の麦秋

 佐賀県辺りから長崎県に入ると有明海の干潟が広がってきました。干満の差が多いため海は淀んでいて、私の町の海のように澄んではいませんが、それでも海の広がるる光景は何ともいえない開放感がありました。目的地の諫早が近づき、何かと物議を醸し続けている諫早湾の巨大な水門が見えてきました。列車の中からか見ることはできませんでしたが、一度近くによって見てみたいものです。
 私が諫早の駅の降りたのは今回が3度目です。前2回は大村市と周辺での講演でしたが、特急白いかもめが止まらないため、諫早へ降りて迎えに来てもらったり、諫早から別の列車に乗るため途中下車したのです。前2回の強烈なインパクトが頭を過ぎって、メガネ橋と楠の巨木群はどうしても見たいと思っていたのです。僅か1時間ほどの余裕しかありませんでしたが、メガネ橋と城山の楠の木、それに諫早神社の楠の木群を見ることができラッキーでした。

  「久方に 西の彼方の 九州路 列車に乗って 旅を続ける」

  「佐賀県は 何年か前 大会に みんなで出かけ 思い一入」

  「佐賀平野 小麦畑が 延々と 続く圧巻 メールで知らせ」

  「有明は 月の引力 見える海 干満の差あり 海の底見え」

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人間牧場

○家族で金環日食を見る

 

雲の切れ間に見える日食

 私の住んでいる四国愛媛県伊予市双海町では、前日の夜から雨が降っていて、金環日食を見れないだろうとすっかり諦めていました。いつものように朝4時に起床して書斎の窓から外を眺めても、窓から見える明け行く空は、相変わらず曇っていました。仕方なく6時半からダイニングで新聞を読みながら食事を取っていると、7時ころ息子が少し興奮気味に私や家族に、「金環日食が見え出したので早く外に出て」と呼びに来ました。食事を一時中断して玄関先の庭に出て空を見上げると、うす曇の空の彼方に少し欠け始めた太陽が肉眼で見えました。息子は目を焼くから直接見ないようにと、特殊なフィルター付きのメガネを用意していて、みんなで代わる代わるかけて空を見上げました。

妻と一緒に

 うす曇が幸いして金環日食か部分日食かも分からぬまま、家族みんなでワイワイガヤガヤ言いながら天体ショーを楽しみましたが、塀の外に見えるご近所で空を見上げて金環日食を見ている人は皆無で、馬鹿騒ぎをしているわが家が恥ずかしいほどでした。
 私はデジカメを用意して何枚か、世紀の一瞬を写真に収めようとしましたが、簡易な私のデジカメでは多分写らないだろうと諦めつつ最大ズームにして何枚か試みましたが、綺麗には写らなかったものの、まあ何とか様子だけは撮れたようで、撮ったばかりのデジカメの写真を家族に見せながら、20分ばかり過ごしました。孫たちもメガネをかけて見えにくい日食を見ていましたが、そのうち飽きてむしろ私のデジカメの写真の方に興味を示し、「見せて見せて」とせがみました。

 

本当はこう見えるのです

 日本で金環日食が見られたのは沖縄以来26年ぶり、県内では767年ぶりといいますから、沖縄へ見に行った人以外金環日食を見た県民はいないのです。金環日食は太陽と地球の間を月が横切り、中心部を月に隠された太陽の輪郭がリング状に見える天体現象です。太陽と月の見かけの大きさはほぼ同じで、月が完全に太陽を隠した場合は皆既日食といいますが、月が遠くにあるときは太陽の淵が隠れずにリング状になるのだそうです。皆既日食とは違って、太陽が眩しいままのため、直視すると目を傷める危険性があるそうで、インターネットやデパートなどでは早くから、専用のメガネを販売しているようでした。子どものころはそんな道具もなく、板ガラスにローソクですすをつけてみたような記憶が残っています。
 県内で次に金環日食が見られるのは83年後だとか。多分ではなく絶対生きていないので、昨日が見納めです。息子に感謝の朝でした。

  「お父さん 早く早くと せかされて 庭先に出て 金環日食見る」

  「デジカメで 記録記憶に 留めたる 金環日食 ラッキーでした」

  「口開けて 家族全員 空仰ぐ 金環日食 幸運予感」

  「天文は いまだ不思議な 事ばかり 金環何故に 凡人私」

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人間牧場

○人間牧場で野良仕事にいそしむ

 このところの好天続きで、春先の寒さや忙しくて遅れ気味だった野良仕事が、一気に片付いて少しだけ余裕が持てるようになりました。今週末に予定されている子ども体験塾が少し気になって、昨日も人間牧場へ出かけ、半日ほど草刈りやコンニャク畑の草引き等の野良仕事で汗を流しました。ミツバチの巣箱に出入りするミツバチたちも活発で、入居している四つの巣箱は順調なようですが、新しく杉の木の下に置いた巣箱は兆候が見られるものの、まだ本物とはなっていないようで、雨除けのために巣箱の上に仮に置いていた肥料袋を、持参した波型エスロンと取り替えました。
 昨日は夕方から雨が降るという天気予報だったので、先日サツマイモ畑から取り出した雑草類を道の下まで運び、見苦しいので焼却処分しました。これで子どもたちを迎える一通りの準備を終えホッと一息つきました。

小窓もついた作業小屋が完成しました

 私が赤とんぼの家と命名している作業小屋も、すっかり片付いて、隣のピザ釜小屋に面した壁面に小さな窓を造る工事も後はハバキをつけるだけとなり、窓がついただけで作業小屋の中が一変したようです。作業台は息子がどこかの工事現場からいただいたという大理石の板が、かまど小屋と同じように贅沢にも使われ、ピザの生地をこねたりトッピングの作業もこれでOKのようです。願わくば小さなシンクも置きたいのですが、まあとりあえず使ってみてからにしたいと思っています。
 この部屋には高知県馬路村魚梁瀬に住む湯浅さんからいただいた魚梁瀬杉の大きな板を使う計画でしたが、余りにも場所を取るため、また勿体ないため今回は断念し、作業小屋の壁に立てかけて収納するため場所を移動しました。

ピザ釜小屋小窓から見える作業小屋

 さてもう一つ難問ができました。それは今回の子ども体験塾で子どもたちに体験させるため用意した、杉の丸太をチェンソーで小切りして、薪を作る計画ですが、その大量の薪を何処へ収納するかです。3年前に風呂、かまど、ピザの三つの場所で使うため大量に用意したクヌギの薪もまだかなり残っていて、どうやら薪小屋が必要になってきました。薪は綺麗に収納できれば人間牧場のインテリアになると思っていましたが、このままでは美観を損なうことにもなりかねないようです。
 昨日は新しい発見もありました。今年はサツマイモの苗床を寒さのため使うことができず、また忙しかったため苗床へ枯葉を入れることができませんでした。昨日苗床の草を引いていると、大きなかぶと虫の幼虫が出てきました。多分この中には無数にかぶと虫の幼虫がいるものと思われます。今年は早めに防虫ネットをかけてかぶと虫を捕獲したいと思っています。子どもたちも喜ぶことでしょう。

  「牧場で あれやこれやと 野良仕事 汗を流して 一人楽しむ」

  「作業小屋 すっかり片付き 大理石 使った台も できて嬉しい」

  「窓一つ できただけでも 雰囲気が がらり変わって 写真一枚」

  「苗床に カブト虫たち 幼虫が 苗に代わって 新た資源に」

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