shin-1さんの日記

○今日は台風一過よく晴れています。今日は大切なフォーラムに参加するためこれから出かけます。

 こう見出しだけをホテルのロビーに置いているインターネットに走り書きしてホテルを出ました。メールのやり取りは調査役の大関さんでしたが、この日私を迎え生にきていただいた方は佐藤次長さんでした。銀行の黒塗りの車に清水さんと乗り込み、午前中は南魚沼地方をご案内していただきました。

(越後湯沢は新幹線で来るとわずか1時間半余り、東京からも近く、バブル全盛時代に建てられたマンションが異様なほど林立していました)
(冬のスキーシーズンだけ開業するという珍しいガーラ湯沢駅)
(ガーラ湯沢駅から見返る越後湯沢の市街地)

 カメラで行った場所を少し追ってみます。①大源田キャニオンです。

(大源田の湖面)
(キャニオンにかかる釣り橋)
(キャニオンの入口)
(橋の下の湖面には無数の淡水魚が泳いでいました。餌付をしているため。橋上から餌をやると凄い量の魚が集まってきました)

②続いて鈴木牧之記念館を訪ねました。

(記念館の入り口、館内には代表作品北越雪譜など数多くの文筆作品が展示されていました。十返舎一九との親交も深かったようです)
(日本有数の豪雪地帯の様子がリアルに展示れていました)

③日本一の呼び声高い銘柄米魚沼産こしひかりの産地のJAを訪ねました。

(新米は10月1日から発売開始だそうです)

④富岡ホワイト美術館を訪問しました。

(富岡ホワイト美術館の入り口)
(新潟は花火で有名な場所がたくさんあり、作者富岡惣一郎の作風はホワイト絵の具、花火がキーワドのようで、とても新鮮でした)

(富岡ホワイトからの遠望は稲穂が黄色く色づきそれは見事でした。冬にはこの黄色が一面銀世界になるようです。遠望は八海山です)

⑤八海山神社を訪ねました。

(神社に通じる長い参道は古い杉並木が続いていました)
(八海山神社の本殿)
(赤滝という滝のすぐ傍に男根と女根の祀られた怪しげな場所があり顔を赤らめてお参りしました。

(鉄分を含んだ水が流れる赤滝)
(台風一過のさわやかな初秋の風が吹いて、道端に桔梗が印象的に咲いていました)

 いやあ、実に楽しい、そしてリフレッシュできた半日でした。

  「風人(かぜびと)と なりて越後路 訪ねけり 桔梗一輪 われ向き咲きて」

  「八海山 雲を従え そびえけり 間もなく白い 衣に着替え」

  「幾人が 参道踏んだ 杉並木 静寂保ち われを迎えん」

  「赤滝の 水に手を漬け 涼をとる しぶき頭に 時々かかり」 

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shin-1さんの日記

○新潟県越後湯沢に来ています。高村秀夫さんに会いました。今日は魚沼市へ向かいます。

昨日までの二日間、ノロノロ迷走の台風13号に翻弄されっぱなしで少々疲れましたが、それでも台風13号と並走するような形で東京へ無事到着し、ほくとう総研の清水女史と東京駅で合流、上越新幹線で前泊予定の越後湯沢に着きました。越後湯沢駅でぽんしょ館社長の高村秀夫さんと談笑し、越後湯沢駅のお店を見学させてもらいましたが、さすが酒どころ新潟だけあって、100軒ほどの造り酒屋の酒がずらりと並び、呑み助にはたまらないような有名な銘柄のお酒がずらり並べられ、500円出せば5銘柄の酒がその場で楽しめるのです。

 ディスプレーも凝っていて、呑み助が一升瓶を枕に寝そべっている姿や、酔いたんぼが壁に持たれて物思いにふける姿は、どこか酒飲みだった昔の自分を思い出させるようで、どきりとして思わず吹き出してしまいました。その写真は帰ってから、このページに挿入しようと思っています。


 ニューオータニホテルへ今日の迎えの車がやってきて、午前8時30分に出発しなければなりません。ホテルのロビーに設置しているインターネットコーナーにここまで書き込んで、さあ出発です。

 昨日はここまで書いて出かけたのです。しかしよくよく考えてみれば、旅の目的地でもない越後湯沢に前泊のために立ち寄り、ほくとう総研の清水女史の紹介で知り合った高村秀夫さんという人物とどことなく気が合い、どことなく気になる人だと思うようになりました。というのも、その後日本政策投資銀行の佐藤次長さんの案内で南魚沼地方を散策している途中、高村さんから私に携帯電話が入り、私の講演を聴き行ってもいいかと、打診があったのです。高村さんからは前日会った折、近々愛媛県愛南町へ仕事で来るという話を、前もって聞いていたので余計親しみやすさがあったのかも知れません。

 高村さんは約束通り昨日、「2014年問題とこれからの新潟を考える」連続フォーラム、第4回南魚沼市会場となった、南魚沼市コミュニティホール「さわらび」にやってきて私の話を熱心に聞かれました。多分彼が手がけた上枚の写真を見れば彼のセンスの良さが分かると思うのです。

(この方がぽんしょ館の社長高村秀夫さんです。なかなかハンサムな男です
(ぽんしょ館の店内はかなり凝ったディスプレーが施されていました)
(新潟の100軒近くの日本酒蔵元の酒が利き酒できるすごい装置がお店に中にありました。ワンコインで盃杯の銘柄が楽しめるのです。
(この看板も気に入りました。味わう酒、浸る酒、浴びる酒、呑み込む酒、呷る酒とは驚きました)

 私は年中旅をして歩きます。そして行く先々でいろいろな人に会い、色々な名物を飲み食いしますが、体の都合で酒を絶ったことをこの日ほど悔んだことはないのです。でもその悔み分だけいい人に出会いました。同行したほくとう総研の清水女史は勿論のこと、銀行の佐藤次長さんや高村社長さんに会って新しい予感を感じさせてくれました。

  「悔やんでも 悔みきれない 今日だけは 酒断ち身にて 酒の本場を」

  「一升瓶 枕に寝てる ディスプレー 社長発想 これに参った」

  「新潟は 酒の国だと 聞いてたが 凄いもんだな ずらり壮観」

  「利き酒や 風呂に酒まで 酒ずくし 酒の国だと 感心しきり」  




 

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shin-1さんの日記

○コーヒーが苦手な私

 私は何故かコーヒーが苦手です。苦味のあるコーヒーが苦手なんて、苦み走った男でもない私がいうのはちょっと変な感じもしますが、子どものころ生まれて初めてコーヒーを口にした時、「こんな苦いものが飲めるか」と思った瞬間からコーヒーが苦手になったのです。以来私はコーヒーを口にすることもなく63歳の今日を迎えているのです。

 ところが、こともあろうかわが長男はコーヒー専門の喫茶店を営む家の長女といい仲となり、あっという間に有無を言う暇もなく結婚してしまったのですから世の中は面白いものなのです。私の妻はコーヒーが大好きで息子嫁の実家が経営する珈人(本当は人の前に王偏がついて「かじん」と読む)というお店に立ち寄り、コーヒーを飲んだり、コーヒー豆を買って帰って楽しんでいますが、私は中々その店に足が向かないのです。それでも義理もあるので時々立ち寄りますが、私がお定まりのカウンターに座れば、嫁のお父さんはブラックならぬホワイト(ホットミルク)を出してくれるのです。コーヒーのお店でホットミルクを飲むのも何となく気が引けるもので、未だに居心地が悪く、お尻の方がこそばいい感じがするのです。

 昨晩は次男が誕生日を迎えた妻のために御馳走をしてくれるというので松山へ出かけて行きました。昨晩は雨のため松山市へ入る道がかなり混雑して少し遅れ気味でした。次男は看護士として日赤松山病院に勤めていますが、昨晩は仕事が終わるのが午後7時と聞いていたので、三越付近で待ち合わせしました。しかし次男は一向に姿を見せず、自転車で姿を見せたのは7時半を回っていました。お腹の空き加減も上々で、息子が予約していたお寿司屋さんに入りました。最近は回転寿司に行くことが多く、こんな立派な寿司屋さんは久しぶりとあって、妻も嬉しそうでした。次男は「今日は給料日なので大船に乗ったと思って、好きな物を注文して食べて」と太っ腹なところを見せました。

 注文した寿司は極上な味で、久しぶりに美味しいお寿司をいただきました。妻が「今度はお父さんの誕生日だね」とかまをかけて次男に話すと、「お父さんの誕生日も今日まとめてとうことで」とうまくかわされたようでした。親子水入らずの酒も飲まない寿司パーティに、お店の方も気を使って食後にデザートをプレゼントしてくれました。

 店を出て駐車場から車を出して帰る道すがら「お父さん、子供を育てて良かったね」としんみり語りました。

 私の感想ですが、今朝の愛媛新聞朝刊の文化面川柳欄に花山昇さん(松山)が、「父の日は母の日ほどに騒がれず」と相通じると感心して読んだ次第です。

 帰る途中、口直しにコーヒーでもとどちらからともなく誘いあい、息子嫁の実家のコーヒー店に立ち寄りました。妻はここのコーヒーは強すぎて寝れないと「コーヒーゼリーを注文しました。私はお腹がいっぱいだったものですから、ブドウ100パーセントのジュースを注文し、成長著しい孫希心の話に花を咲かせました。

 家へ帰って風呂に入り、妻は早めに床につき、私は12時過ぎまで明日から新潟へ行くための準備をしたりブログを書いたりして遅れて床につきました。2時ころ妻はコーヒーゼリーのせいなのか目が冴えて寝れないというのです。私は眠ったばかりなので妻を無視して寝ましたが、私が4時過ぎに目を覚ますと、さすがに疲れている妻は深い眠りについていました。

 コーヒーが飲めない私と、コーヒーを飲むと寝れない妻はどうやら同じ穴の狢のようでした。昨日の夜買ってきたコーヒーは、先日翠小学校の運動会に参加した時お土産を貰ったお返しに、無類のコーヒー通である和田由美子校長先生に差し上げるつもりで、これから出かけようと思っています。

  「コーヒーも 飲めない私 変人か? 息子の嫁に 何と思わる」

  「苦いお茶 苦み走って いないから 苦み分からず 口することなし」

  「コーヒーの 入ったゼリー 食べただけ 目がさえ寝れず 妻は弱って」

  「これからも おそらく口に するでなく 人生続く 不思議な男」

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shin-1さんの日記

○久しぶりに県公連を訪ねる

 かつて若い頃、双海町教育委員会に勤務して社会教育、とりわけ公民館活動に情熱を燃やしていた頃は、県公連(愛媛県公民館連合会の略称)なしに仕事ができないと思うほど夜も昼も県公連と深くかかわって生きていました。社会教育13年の勤務ん中で、6年間も県公連主事部会の会長としてその運営に当たっていたのです。その頃の県公連は最も華やいだ時期で、22郡市、条例設置公民館366館が加入するピラミッド型の強力な組織を持っていましたので、東の静岡、西の愛媛といわれるような活発な活動を展開していたのです。

 しかしその組織も平成の大合併で市町村の数が70から20に激減し様相は一変、時代を反映してか公民館への市町村行政の反応は鈍く、職員も移動サイクルが速くなり、残念ながら昔のような勢いが感じられなくなってしまいました。それでも私h県公連を自分を育ててくれた恩人だと今も思っていて、公民館を去った今もOBで作る公友会のメンバーとして、また県公連専門委員として深く関わっているのです。

 昨日は県公連の事務局がある生涯学習センターへ個展を見に行ったので、ついでに立ち寄りました。森局長さんは会議に出ていてあいにく留守でしたが、顔馴染みの下村女史がいて笑顔で対応してくれました。

 実は県公連へ立ち寄ったのはもうひとつ理由がありました全公連(全国公民館連合会)が毎月発行している「月刊公民館」の8月号に私の書いた原稿が巻頭言「とびら」に載っているのです。8月に入って全国の公民館に携わる方々や月刊公民館の愛読者から感想を綴ったメールやお便りや電話をいただいていましたが、どういう訳か書いた本人には掲載紙が未だに届かず、どんな原稿を書いたのかさえも忘れてしまっているのです。

 下村さんにそのことを話すと、有難いことに「県公連には毎月2冊づつ送られてくるので一冊差し上げましょう」といただきました。

(月刊公民館8月号)

 私が在職中のようなモノクロではなく表紙はカラーのイラストでした。8月号にふさわしく朝顔のイラストです。残念ながらもう時期は逸していますが、それでも夏の名残りを思い出すこの時期だけに嬉しい贈り物となりました。早速ページをめくると、見慣れた私のイラストと書いた覚えのある文章が出てきました。

(私が巻頭言とびらを書きました)

 文章の締めくくりは今年の11月13日から愛媛県宇和島市を主会場に開催される「地域づくり団体全国研修交流大会」で、公民館と地域との関係を追い直す絶好の機会ととらえたいと訴えていました。私はその大会の実行委員長なのです。私が配ったPR用の名刺をもらった方は是非愛媛へ、そして真珠のふるさと宇和島伊達の城下町へお越しください。

 下村さんはこのこの記事を読んで、同じフロアーで仕事をしている東野さんを誘いお二人で分科会に参加すべく申し込んでくれたというのです。せっかくだからと前夜祭や全体会への参加を熱心に働きかけ、二人をゲットすることに成功しました。私は早速大会事務局の谷本さんに電話を入れ申込みの変更を依頼しました。

(左が東野さん、右は下村さんです。こんな素敵なお二人が参加するのです。参加者の皆さん楽しみにして愛媛へお越しください)


 それにしても若い女性たちと話していると心が浮き浮きします。その分年齢格差を思うのですが、それでも楽しいおしゃべりをして充実したひと時を過ごしました。

  「雑誌載る 見たよ読んだよ いうけれど 手元届かず 何を書いたか」

  「念願の 雑誌一冊 貰い受け 雨に濡らさず 小走り車」

  「お二人の 若い女性と お喋りを 心浮き浮き 今日は男時(おどき)」

  「公民館 去りし今なお 気になって 恩人ゆえに 後押し誓う」 



 

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shin-1さんの日記

○悲喜こもごもの一日

 今日はすでにリタイアして悠々自適の生活をしているであろう3人の知人・友人・旧友の所を相次いで訪問しました。最初に行ったのは病院へのお見舞いでした。数日前ある方からその人が6月頃から体調を崩して入院しているらしいという情報を耳にしたのです。その方とはかつて若いころから仲間であり先輩として酒も議論もよくした間柄なのです。知らないこととはいえ3ヶ月間も、入院しているのに知らなかったとは大失態だと思い、とるものもとりあえず急いで見舞いに行ったのです。友人からおおよその病気や体調について聞いていたので、少々不安でしたが、入院患者案内窓口で部屋を聞き、思いきって病室へ足を運びました。午前11時にエレベーターで病室のある6階まで上がり、病室の入口で入院患者名の名札を確認し中へ入りました。その人は背中を窓際に向けて横になっていたため、4人相部屋のどの人なのか分からず、失礼があってもいけないと、起きて本を読んでる人にその人のベットを尋ねたました。すると背中を向けて横になっている人が、私の気配を感じたのか仰向けになって私を見つけてくれました。見ると顔は薬の副作用らしく別人のようになっていました。肺の病気なので吐く息も荒く、そのまま横になるよう勧めましたが、気をつかったのかベットに座って私と相対し少しの時間お話をしました。昔のように患者に病名や経過を隠す時代は終わって、今は自分の病名や治療後の経過などを医者から聞いているらしく私に詳しく話してくれました。

 あれほど元気だった彼に病気がついて、病気が見つかった時はかなり病状が進んでいたらしく手術ができなかったらしいのです。薬で治療していますが、別の場所に転移していると先日告げられたそうです。弱音を吐く彼を言葉で励ましましたが、痩せた私を見て「お前も元気で頑張れよ」と逆に励まされました。お見舞いの祝儀袋をベッドの枕元において部屋を出ましたが、狼狽した私はうっかり別の方向へ進んでしまうほどショックでした。

 病院を出た私はその足で東温市の中央公民館へ向かって降り出した雨の中を車を走らせました。公民館のロビーでは、公民館に勤めていた若い時代にお世話になった藤原喜久利先生が写真の個展をしているのです。先日葉書をいただいていたので見学に行きました。運よく先生は受付で来客の対応をしている最中でしたので、芳名録に住所と名前を書いて順番に写真を見て回りました。かつては県展の審査員を務めたことのある実力者なので、花や夕日、自然など素敵な写真が所狭しと飾ってありました。先生の話によると飾っている写真は全てデジカメで撮り自分でプリントアウトしたものだそうです。

 退職後折につけカメラ片手に撮影しているのだと、写真を説明する姿はまるで少年のような目の輝きをしていました。「ああいい人生、いい余生を生きているなあ」と感じながら会場を後にしました。

 次の目的地は県の生涯学習センターです。重信川にかかる長い橋を渡りセンターのある川向こうの高台までは15分ほどで到着しました。2階に上がると先ほどの先生とは対照的な山、しかも外国スイスの写真が先生の几帳面さを表すように整然と展示されていました。展覧会の主である室家俊文先生はかつて松山工業高校の校長先生をした方で、私が同校のPTA会長をしたこともあって、リタイア後も親しくお付き合いやご厚誼をいただいているのです。先生は毎年スイスへ約1ヵ月間出かけアイガー北壁などの素敵な写真をもう10年にわたって撮影しているのです。そのことは一部の人が知っていましたが、昨日友人から先生が個展を開いているから行くよう勧められたのです。人から見れば何とも優雅な余生ですが、先生の生きざまを垣間見る思いがしました。

 私は早速アンケート調査用紙に感想文を書いて箱の中投函して部屋を出ました。

 三人三様それぞれの生き方を垣間見ながら、悲喜こもごもの一日を過ごしました。


  

  「病院の ベットで早くも 三ヶ月 治る当てなし 寂しかりけり」

  「亡き母が カメラ道楽 認めよと 遺言残す だから堂々」

  「十年に わたってスイス 一ヵ月 羨ましいが 俺には出来ぬ」

  「一日で 悲喜こもごもの 人生を 垣間見歩く 複雑気持ち」

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shin-1さんの日記

○40年ぶりの再会

 平成になって既に20年が経ち、平成生まれの若者が活躍するような時代になると、「昭和は遠くなりにけり」の感じが否めないこの頃です。しかも昭和19年生まれの私のような人間はどこか古ぼけて見られはしないかと、日頃から言動に気をつけているつもりですが、なかなか時代のギャップは埋まりそうもなく、次々と飛び出す新語や流行にアタフタしているのです。

 私の主張にとって忘れられない日が二つあります。ひとつは今から20年前の43歳の時、平成元年1月14日の出来事です。海外派遣30周年記念論文募集に応募した論文が総務庁長官賞という大臣賞をいただいたのです。東京の赤坂プリンスホテルで開かれた授賞式には皇太子殿下もご列席される予定でしたが、昭和天皇の急なご崩御によって叶いませんでしたが、青年の船で建国200年のアメリカへ行った体験を綴った「地球サイズの時代」という論文は、新聞にも掲載されて大きな反響を呼びました。

 二つ目は今から40年前の23歳の時、昭和42年11月26日の出来事です。第14回NHK青年の主張の愛媛県大会があり、原稿審査にパスした11人がNHK松山放送局で主張をしたのです。当時私は漁師をしていて、仕事に誇りを持とうと「私の訴えたいこと」と題した私の主張が県代表に選ばれたのです。当時はまだその模様はラジオ番組しかなく、次年度からテレビ放送となりました。四国大会へは私ともう一人今治の村上幸一さんが選ばれました。四国大会はテープ審査でしたが、村上幸一さんが選ばれ全国大会へ出場したのです。

 以来村上幸一さんとは年賀状程度の交流が続きましたが、そのうち私の視界から彼は言えて行きました。でも今治を訪ねる度に彼の消息が気になっていましたが、忙しさの余りに調べることもせず時は流れたのです。

 昨晩のことです。私は今治市中央公民館の山田館長さんに頼まれて、「まちづくり・けやき塾」へ講演に出かけました。講演が終わって山田館長さんが「今日は若松さんにとって珍しい人がこの会場に来られています。若松さん覚えていらっしゃいますか、村上幸一さんです」と紹介され、参加者の中の一人が起立しました。「はい覚えています。NHK青年の主張の県代表だった人です」と答えました。みんなが二人の再開に大きな拍手を送ってくれました。



(40年ぶりに再会した村上幸一さん)
(今治けやき塾)

 それにしても驚きました。40年間も会わなかった意中の人に突然に会えたのですから、嬉しさが込みあげてきました。ロビーに出て名刺を交換しました。本当はもっともっと話したかったのですが、時間も夜9時になっていて、帰りの時間が気になるし、加えて彼は受講生なので説明会もあるようなので早々にお暇をしました。

 人にはそれぞれ思い出の出来事や思い出の人がいます。あっという間に駆け抜けた自分の人生の中で、NHK青年の主張くらい私を人生の表舞台に立たせてくれる出発となった出来事はないと思うのです。当時漁業者が主張をするなんてことは滅多になかったので、私のテレビ番組が2本、ラジオ番組が5本も出来ました。その模様はダビング技術のなかった時代ですので闇に消えて残っていませんが、オープンリールのテープだけはNHKからいただき倉庫のどこかに眠っているものと記憶しています。しかしオープンリールのテープレコーダーさえもうなくなった時代なので、果たして再生が可能かどうかも疑問です。当時は私の主張を地元の成人式で記念講演的に発表したり、ちょっとだけヒーロー気分を味わいました。

 それにしても村上幸一さんに昔の面影を重ねながら車を走らせましたが、40年で人の風貌は変わるものだと思いつつ、村上幸一さんもまた、私の風貌の変化に驚いていることだると思いました。

  「覚えてる? 言われて立った 男性に 昔重ねて 記憶を辿る」

  「四十年 どこでどうして 生きてたか 姿変わりて 過ぎし日思う」

  「掲額に 僅かに残る 痕跡が つわものどもの 夢のかけらか」

  「あの頃は いう歳なった 六十路越え 下りの坂を 転ばぬように」 


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shin-1さんの日記

○大根の種を播いたのに生えない

植物は偉いもので、3日前に家の周りの草刈りをしたのに、昨日の雨で刈り取った所から再び芽が出ています。蒔かない種も生えないし植えない木も育たないのに、雑草だけはどうして播きも植えもしないのにどうしてはびこるのでしょう。これこそ憎まれ子世にはびこるの心境なのです。

 季節が秋に傾きかけたので、あちらこちらの畑では野焼きの煙がたなびいちるようです。畑の草を取り天日で乾燥させ畑の隅で焼却処分するのです。こうすることによって雑草の根と種を根こそぎ無くそうとするのですが、種も根もまた逞しくよみがえるようです。

 4日前親父の頼みで大根の種を播きました。親父の作ったかなり大きめの畝に一本すじ状の穴を開け、私がそこへ大根の種を一つ一つ丁寧に播いて行くのです。親父は年齢とともに目が薄くなって、あの小さい種を判別できないのです。親父と私のこうしたコンビネーションはもう10年間も続いているのですが、几帳面な親父に比べ私はかなりアバウトな人間のように見えるらしく、90歳の親父に63歳の私が文句を言われながら作業をするのです。時には親父の文句がうるさくて口喧嘩もしますが、最近はお互いがお互いの性格を知っているため、左程の喧嘩にもならず作業を終えるのです。

 大根の発芽は予想よりかなり早く、僅か4~5日で可愛らしいまるでカイワレ大根のような二つ葉が出てきます。ところが今年の種は発芽率が非常に悪く、荒く播いた種の間がさらに広く感じるほど、約2割の種が発芽しませんでした。朝夕水をまいて発芽を楽しみにしていた親父にしてみれば、私の種の蒔き方が悪いから発芽しないと思うのは当然かも知れません。しかし私の言い分は、親父の買ってきた種が悪から生えないのだと、考えがまちまちなのです。業を煮やした親父は再び生えなかった場所へ種を追い播きしたいと種を一袋購入してきて、私に播くよう勧めました。

 面倒くさいと思いつつ、ここは親父の顔を立てて今朝追い播きしたのです。お皿に種を広げ、指先で土に穴を掘って赤い種を順番に播いて行きました。昨日の雨で畑の土はかなり緩んでいて、履いた長靴は泥がいっぱいつくほどでした。それでもわずか20分ほどで終わったので、汚れたついでに旬菊の種も播きました。大根の種は小さいといっても識別できますが、春菊の種はまるでコスモスの種のようで播種には少し苦労しましたが、何とか親父の満足のいくように播き終えました。

 何年か前、せっかく発芽して育ちつつあった大根の苗が台風の吹き出す突風にもまれて台無しになったことがあり、遅ればせながら種を播き替えた苦い経験が蘇りました。台湾付近で迷走していた台風が近づきつつあり本土をうかがうような雲行きです。今度こそ追い播きで発芽して、順調に育って欲しいと願っています。

 先日伊予市の水口さんに会ったら、今年もキャベツやブロッコリーの苗を差し上げると言ってくれました。昨年は丈夫に育った水口さんが育てたキャベツやブロッコリーの苗のお陰で、キャベツもブロッコリーも大豊作でした。私はそのキャベツ畑を写真に撮って水口さんや友人にプリントアウトしてはがきを書き送ったほどでした。

 間もなく白菜や玉ねぎなどの植え付けもしなければなりませんが、今年も極力無農薬に心掛け、安心で安全な野菜を自給自足できるよう努力したいものです。





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shin-1さんの日記

○相次ぐ妻の誕生会

 昨日は息子夫婦が妻の誕生日を祝って私たち夫婦を食事会に誘ってくれました。妻の誕生日くらいに大袈裟だと二人で苦笑しながら雨の中を出掛けて行きました。土曜日を含めると三連休とあって昼前の国道は伊予市辺りでかなり混んでいて、普通だと40分くらいで行けるのに倍もかかってしまいました。少し早めに出たつもりだのに途中娘の家で落ち合ったこともあって、予約の時間に間に合わず息子から「遅い」と再三携帯電話が入る有様です。

 「樹庭」というレストランは空港のすぐ近くにありました。空港といえば賑やかな騒音を思い出しがちですが、その名が示すとおり広大な敷地には自慢の広々とした洋風庭園があって、メタセコイアやクスノキなどの大木が生い茂り、広いウッドデッキには度肝を抜かれました。このレストランでは結婚式やパーティなども行われるそうで、建築関係の仕事をしている息子は時々利用するようです。

 お店に着くなり控室で、今日の注文を肉にするか魚にするか、案内人の女性から説明を受けながら少し待たされました。やがて清楚で清潔感のあるホールに案内されました。他のテーブルでは何組かの人たちが既にテーブルを囲んで食事をしていました。私たちは窓辺の奥まったテーブルに案内され、孫の希心君も一丁前にチャイルド椅子が用意されていよいよ食事です。お昼の食事にしては手の込んだシチュエーションです。

 私と息子嫁は魚を、息子と妻は肉をそれぞれメインディッシュに選びましたが、2800円のコース料理なのに、食の少々薄くなった私には食べきれないほどの料理が出てきました。しかし西洋料理中華料理に比べさっぱりしているとはいえ、やはりドレッシングなどにはオイルがかなり使われているため、胆のう手術以来油ものが苦手な私としてはかなりハードな食事になりました。

 ここの特徴は無農薬野菜を使っているそうで、わざわざ西条市から契約栽培で取り寄せているそうです。そんな安心が歌い文句なためか、野菜もどことなく味があるような感じもしましたが、わが家では自宅に家庭菜園を持っていて、毎日のようにそれらを食べている者にとっては普通と変わらないとも思いました。

 妻が小声で「お父さん、無農薬野菜というらしいけど、私たちは毎日そんなものばかり食べていて、相当贅沢な暮しをしているね」と得意げになって話しました。そういえば何気ない日々の暮らしの中で私たち夫婦が食べているものは、自分たちは質素と思っているけれど結構贅沢なものを食べていると改めて思い知らされました。

 妻は「お父さん、私の料理は少し火を通し過ぎかしら。だって肉はまるで生、野菜だってほら人参も大根もスティック風にしているけど全て生だもの」と、随分気付かされたようでした。そういえば妻の料理は確かに火を通し過ぎです。肉などは焼き過ぎてまるで噛み切れないほど脂分がなくなっているのです。

 いよいよ最後のデザートが運ばれてきました。ウエイトレスのお嬢さんが、「奥さまの誕生日だと伺っていました。おめでとうございます。当店からのささやかなプレゼントです」とカーネーションを一本ラッピングして私に手渡し、「ご主人さまから奥さまにどうぞ」と手渡されました。デザートのお皿にはチョコレートで「ハッピーバーズデー」と書かれていました。予期せぬお店の気配りに妻はうろたえている様子でしたが、私は言われるまま妻にカーネーションを渡してやりました。息子夫婦と孫希心と私、それにウエイトレスの小さな拍手が起こりました。隣の席の人もつられて拍手をしてくれました。妻にとっては先日わが家で子どもたちが開いてくれたささやかなパーティに続いての感激で、忘れられない誕生日となったようです。

 「誕生日の食事なんて仰々しい」と出かける前に言っていた妻も、帰りの車の中でいたくしんみりした様子で感激に浸っていました。昨日はいい一日でした。

  

  「
おめでとう いきなり言われ 戸惑って 紅潮気味の 妻に花束?」

  「運ばれし デザート皿に ハッピーと チョコで英文字 嬉恥ずかし」

  「無農薬 野菜が出るが わが家では 毎日食べて 当たり前です」

  「生野菜 生肉食べて 少し変 わが家の料理 調理し過ぎだ」


 

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shin-1さんの日記

○秋はそこまで

 「地上の暑さと海の暑さは約1か月の開きがある」という言葉を聞いたことがありますが、残暑を感じる昼の暑さも30度を下回るようになって残暑もようやく峠を越し、朝夕はすっかり秋らしくなってきました。しかし海水温度は相変わらず高いままで、網にかかってせっかく水揚げされた魚が生け簀の中で死んで困ると漁師さんたちがぼやいていました。魚は生きていると高い値段がつくものの海水温度が高いと酸素が欠乏して死ぬのです。生きた魚が死ぬと「あがり」と称するレッテルが張られ半値どころかタダ同然に安く買い叩かれてしまうのでう。

 先日もハモが死んで「あがり」となったので、売っても金にならないから取りに来いというので、親類の漁師さん宅まで貰いに行きました。他の魚と違ってハモは小骨が多く、骨切りしないと食べられないため、誰にでもあげることができないのです。幸い私は元漁師だけあってハモの骨切りはあまり上手くはないながらできるのです。そのハモは夏が旬で骨切りしたハモは小分けにして冷凍保存し湯ざらしにして時折楽しんでいます。

 今朝は地元の有線放送で漁協から、「ハマチがあがったため安く販売するので希望者は集まれ」と放送がありました。私たちの地方ではハマチは秋の魚で、東の風が吹き始めないと獲れない魚ですが、今年は一足早く獲れたようで、早速買い求め知人友人に配りました。魚が上がるとは魚が水揚げされたことの意味ですが、漁師言葉であがりは死んだ魚のことを意味します。

 秋といえば私たちの町では昔からイワシが獲れ、それを釜ゆでして煮干しに加工します。夏の水温の高い時期のイワシは脂がのり過ぎて煮干しには不向きといわれていますので、水温の下がる頃の秋煮干しは保存に最適なため、各方面から注文が多いのです。

 先日煮干し加工に携わっている妻の友人女性から、贈り物として最適の煮干ができたと連絡がありました。この時期わが家では全国の仲間に煮干しを送って喜ばれています。でも煮干しを食べないご家庭に送ると、とんでもないちぐはぐが起こります。

 わが家ではないのですが、地元の漁師さんが秋獲れの最上級煮干しを東京の方に送ったそうです。数日してその方からご丁重なお礼状が舞い込みました。達筆な字はいかにも東京人らしいと感心したものの、「送っていただいた煮干しはうちのタマちゃんが大変喜んで食べました」と感謝の言葉が書かれていました。今でこそドックフードやキャッッフードが出回っていますが、当時猫の餌は煮干が多かったようで、つまり「タマちゃん」とはその家で飼っている猫のことだったようです。

 昨日郵便局を通じて送った煮干しは早くもそれぞれのご家庭に届いたらしく、メールや電話でお礼のメッセージが届いてるようです。

 さて海沿いの町の空いっぱいに間もなくイワシ雲が広がり、秋本番を迎えます。田んぼの畦には真っ赤な彼岸花も咲き始めました。昨晩は中秋の名月とかでまん丸い月が雨が近いせいかぼんやり霞んで見えました。今日は朝から久しぶりの雨です。台風の影響でしょうが水不足に悩む松山地方ではまとまった恵みの雨が期待できそうでホッしています。

  「海からの 贈り物なる 送り物 届きましたと さっそく電話」

  「イワシ獲れ ハマチ獲れたと 浜便り 間もなく空に イワシ雲湧く」

  「猫の餌 されはしないか 心配で それでも送る 世話になる人」

  「天然の ハマチの刺身 ユズ胡椒 これが意外と わが家じゃナウイ」

  

 

 

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