shin-1さんの日記

○秋はそこまで

 「地上の暑さと海の暑さは約1か月の開きがある」という言葉を聞いたことがありますが、残暑を感じる昼の暑さも30度を下回るようになって残暑もようやく峠を越し、朝夕はすっかり秋らしくなってきました。しかし海水温度は相変わらず高いままで、網にかかってせっかく水揚げされた魚が生け簀の中で死んで困ると漁師さんたちがぼやいていました。魚は生きていると高い値段がつくものの海水温度が高いと酸素が欠乏して死ぬのです。生きた魚が死ぬと「あがり」と称するレッテルが張られ半値どころかタダ同然に安く買い叩かれてしまうのでう。

 先日もハモが死んで「あがり」となったので、売っても金にならないから取りに来いというので、親類の漁師さん宅まで貰いに行きました。他の魚と違ってハモは小骨が多く、骨切りしないと食べられないため、誰にでもあげることができないのです。幸い私は元漁師だけあってハモの骨切りはあまり上手くはないながらできるのです。そのハモは夏が旬で骨切りしたハモは小分けにして冷凍保存し湯ざらしにして時折楽しんでいます。

 今朝は地元の有線放送で漁協から、「ハマチがあがったため安く販売するので希望者は集まれ」と放送がありました。私たちの地方ではハマチは秋の魚で、東の風が吹き始めないと獲れない魚ですが、今年は一足早く獲れたようで、早速買い求め知人友人に配りました。魚が上がるとは魚が水揚げされたことの意味ですが、漁師言葉であがりは死んだ魚のことを意味します。

 秋といえば私たちの町では昔からイワシが獲れ、それを釜ゆでして煮干しに加工します。夏の水温の高い時期のイワシは脂がのり過ぎて煮干しには不向きといわれていますので、水温の下がる頃の秋煮干しは保存に最適なため、各方面から注文が多いのです。

 先日煮干し加工に携わっている妻の友人女性から、贈り物として最適の煮干ができたと連絡がありました。この時期わが家では全国の仲間に煮干しを送って喜ばれています。でも煮干しを食べないご家庭に送ると、とんでもないちぐはぐが起こります。

 わが家ではないのですが、地元の漁師さんが秋獲れの最上級煮干しを東京の方に送ったそうです。数日してその方からご丁重なお礼状が舞い込みました。達筆な字はいかにも東京人らしいと感心したものの、「送っていただいた煮干しはうちのタマちゃんが大変喜んで食べました」と感謝の言葉が書かれていました。今でこそドックフードやキャッッフードが出回っていますが、当時猫の餌は煮干が多かったようで、つまり「タマちゃん」とはその家で飼っている猫のことだったようです。

 昨日郵便局を通じて送った煮干しは早くもそれぞれのご家庭に届いたらしく、メールや電話でお礼のメッセージが届いてるようです。

 さて海沿いの町の空いっぱいに間もなくイワシ雲が広がり、秋本番を迎えます。田んぼの畦には真っ赤な彼岸花も咲き始めました。昨晩は中秋の名月とかでまん丸い月が雨が近いせいかぼんやり霞んで見えました。今日は朝から久しぶりの雨です。台風の影響でしょうが水不足に悩む松山地方ではまとまった恵みの雨が期待できそうでホッしています。

  「海からの 贈り物なる 送り物 届きましたと さっそく電話」

  「イワシ獲れ ハマチ獲れたと 浜便り 間もなく空に イワシ雲湧く」

  「猫の餌 されはしないか 心配で それでも送る 世話になる人」

  「天然の ハマチの刺身 ユズ胡椒 これが意外と わが家じゃナウイ」

  

 

 

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shin-1さんの日記

○水の世界から土の世界へ

 人間は台風などの被害に遭うと、その被害に遭わないよう色々と知恵を出すものです。特に日本各地で行われてきた稲作は、6月に田植えをして10月に稲刈りをするという稲作文化が定着していました。ところが稲の生育過程には立春から数えて210日という厄日があって、毎年どこかの地域に台風が上陸して、全滅や壊滅の被害を被ってきたのです。その被害を少しでもなくそうと品種改良をした結果、超極早生の稲が誕生し、5月の連休に田植えをして8月末には刈り取るといった常識では考えられない稲作が日常的に行われるようになったのです。そこには俳句の世界で季語や季題として季節の移ろいを詠んだ世界は完全に否定されているのです。

 農家は真夏の色濃い残暑の中で稲刈りをするのですから額に汗して重労働を強いられます。早生品種のため遅手品種に収量的には敵いませんが、それでも台風に全てを持ち去られるよりましと、秋田小町やササニシキといった全国ブランドのお米が、まるで産地偽証のように何故か作られているのですから不思議と言えば不思議です。

 現代の農家はずいぶん楽になりました。稲作にも分業化が進み、苗育てはもう殆どの農家が育苗センターに注文をするようになりました。苗床を作り田んぼの中に椅子を置いて苗を引き抜いて束ね、田んぼのあちこちへばら撒く作業は見ようとしてもなく、自家で苗を育っても殆どが箱の中で育苗するのです。腰をかがめ定規に沿って並んで植えた田植えの風景はも昔のイメージでしかないのです。

 私たちの地域では山田が多いためそこまではいきませんが、大きな田んぼになると田植え機も稲刈り機も大型で、運動靴で乗車できて、泥土に汚れることはほとんどないのですから世の中は変わったものです。

 しかしこんな近代化の陰には機械貧乏といわれる過剰投資の苦悩があるようです。一日の田植えと一日の稲刈りのために立派な機械を購入し、後の一年は倉庫で眠るといった、誰が考えても可笑しいと思う光景や嘆き節が聞こえるのです。最近は30キロの米袋持てない高齢者も増えて、田んぼの横へトラックを置き、モミを直接這い出すコンバインが主流になりつつあるようです。

 水利権を主張しあれ程奪い合った水も人間は勝手なもので、水口を次々と閉ざして水路は干上がって水路に張りついて生きていた水生動植物は無残な姿をさらけ出しているようです。先日孫と二人で逃げ遅れたハヤを捕まえに行きましたが、逃げ場を失ったハヤの稚魚は網で面白いように捕れ、孫は興奮気味でした。

 田舎の田んぼは9月に入ると水の世界から土の世界に一変します。田んぼの中で賑やかに大合唱をしていたカエルたちは一体どこへ行ったのでしょう。彦生えの伸びた稲の切り株近くには、土に帰った田んぼを喜ぶようにコオロギやバッタが楽しそうに暮らしているのです。水の世界が土の世界になることで田舎の原風景を一変しました。稔りの秋ならぬ稔りの夏を終えると田んぼは来年の4月の田起こしまで深い眠りにつくのです。

  「黄金田が 早くも早苗 見まがうよう 彦生え青く 秋の来た知る」

  「水張りし 田んぼが土に 変身し カエルに変わり コオロギ鳴いて」

  「生き場所を 失いニナたち 仰向けに 人間様は わがのことしか」 

  「網すくう ハヤの子孫に 捕えられ 水槽延命 少しの間」

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