shin-1さんの日記

○生徒からの感想文がどっさり届く

 私は講演に行く機会が多く、相手も北は北海道から沖縄まで、しかも揺り篭から墓場までなんて冗談で言うほどバラエティに富んでいて、子どもからお年寄りまでが対象です。行く場所や対象によっても違いますが、時々私の講演内容を事前の了解を得てビデオで撮影しDVDにして送ってくれたりするのです。浅学非才な私の話など何の役にもたたず、早く記憶の彼方に消してしまいたいような気持ちですが、相手にとっては大事な記憶らしく、そのDVDを見聞きした人が、「うちでも是非お話を・・・」てなことになることだってあるのですから世の中は分らないものです。

 中学校や高校になると、授業の一環で聞くものですから、必ずといっていいくらい、感想文を欠かされるようですが、几帳面な先生はその感想文をコピーしてわざわざ送ってくれるのです。実はこれが意外と役に立つのです。人間は自分で考えたことを、相手もそう思うであろうと話すものです。ところがこちらではそう思っていても、聞く相手はそう思っていないし、何気なく話した話が子どもの心に残っていたりするのです。

 8月23日インスパイアリングレクチャーに出かけた新田青雲中等教育学校の石丸和弘校長先生から今日、生徒たちの感想文のコピーがどっさり届きました。その数50枚以上です。今時珍しいB5版一枚256字に短くまとめられた感想文はとても読みやすく、失礼ですが外出から帰ったそのままの立ち読みで、一気に読んでしまいました。アドリブで話した1時間の話なので何を喋ったのかさえも思い出せませんが、生徒の感想文には私の話しを聞いた記憶が書かれているのです。

 宇和島水産高校の練習船でオーストラリアまでマグロを獲りに行った帰りの大時化の海からの生還から学んだ命の大切さやふるさとの有難さは生徒たちに受け入れられたようでした。

 青春とは心の若さだから、若い間に仲間、主張、ふるさと、感動という四つの道具を手に入れ、それを磨いて欲しいと話しました。この四つの道具は今も私の大切な宝物です。

 人間は生まれた時はまるで冷蔵庫から取り出した小さな氷のようにみんな同じ大きさをしています。本を読み、人の話しを聞き、知らない場所を見ることによって知的エネルギーが貯えられ大きな氷に成長してゆくのです。ですから本を読みなさい、人の話しを聴きなさい、知らないものを見なさい、そうすれば潜在能力は必ず大きくなるのです。しかしもっと大事なことは貯えた知識を智恵にして使わなければ何の役にもたたないのです。そのためには書こう、喋ろう、実践しよう。

 私は一日三枚のハガキを一年間休むことなく23年も書いています。また私は音楽が苦手でしたが、毎日練習してハーモニカが吹けるようになりました。今では160曲以上吹けるのですから驚きです。

 生徒の感想文の中にはこんな私の話のくだりが随所に読み取れました。私の一度の話で生徒たちの心や行動が変わるなんてことはないと思いますが、インスパイアリングレクチャーで聞いた色々な人の話しを参考にしながら強く生きて欲しいと願いました。さて私は次の人を選ぶ権利を与えられました。意中の人はいますので学校の許しを得てバトンを渡したいと思っています。

  「送られし 感想文を 読みながら 赤面したり 納得したり」

  「読みやすい 綺麗な文字の 感想文 送ってくれた 校長思う」

  「二学期制 どこが区切りか 分らぬが 六年学ぶ 今こそ男時」

  「少しでも お役に立てて ホッとする 私の後は 誰に頼むか」 


 

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shin-1さんの日記

○卒寿を迎えた親父

 還暦・喜寿・米寿と人生の節目を何とか通り越した親父が難関である卒寿を無事迎えました。本当はそれらの節目は数え年で迎えるので、既に昨年迎えているのですが、9月1日の誕生日で正真正銘の満90歳になったのですからお祝いです。親父は大正7年9月1日に生まれています。なくなった祖母の証言だと、昔は乳幼児の死亡率が高くて、誕生しても2年間は戸籍を入れなかったそうで、親父の誕生日は入籍した日となっていて、誕生日とかなりの開きがあるようですが、祖母も亡くなった今ではその詮索も叶わず、今は戸籍に書かれた誕生日をを信じる以外ないので90歳にしておきます。

 親父は私が高校を卒業して専攻科に進むと決まっていた若い頃、突然ガンにかかりました。鼻ガンというかなり難しい難病でした。顔の形が一変するほど頬骨とあごの骨を取り、手術後3ヶ月間は喉に開けた穴から流動食を入れていました。見舞いに駆けつけた集落の殆どの人が、「あの様子じゃあ正月が越せない」と噂をしていました。勿論医者も長くて1年と本人には知らせず、こっそり私や母に告げていました。食事が喉を通るようになると毎日家族の誰かが親父の好きな「鯛の刺身」を入院先の県立中央病院に差し入れしましたが、何がどう良かったのか、同じような病気で入院した他の患者が次々死んで行くのに、親父は主治医も驚くほどの回復をみせ、無事退院しました。しかし目を支えている台座の頬骨を削っているため片方の目が見えず、片目ゆえ遠近が分らず何度も転んで足や手には無数の擦り傷が出来ましたが、病気は順調に回復し1年、3年。5年、10年という再発の目安もクリアして、何と手術後45年年間も生き延びているのですから驚きです。

 数年前おやじの手術をしてもらった主治医の佐藤先生にロータリークラブの例会でお会いしました。例会の卓話を頼まれてお話に行きましたが、私と親父のことは先生はよく覚えておられて、不思議なご縁や親父のガンの完治についてもお話をしたものです。

 親父は12人兄弟の長男に生まれ、子どもの頃から漁師として働き続けてきました。また2度も戦場に赴き辛酸をなめています。昔はどの家も貧乏で、ご多分に漏れずわが家も赤貧洗うが如き貧乏だったようで、若くして亡くなった祖父に変わって長男の親父は全ての兄弟を嫁がせたり独立させたしました。

 70歳で生業の漁業を辞めて陸に上がるまでは腕のよい鯛網漁師として活躍し、陸に上がってからは母と二人でつつましやかな隠居生活を営み、生来の器用な腕を生かして船の模型を造り、わが家の敷地内に私設海の資料館「海舟館」まで設置して多くの人を迎え入れているのです。

 親父は今も私たちと同じ敷地内に一戸建ての隠居を構え味噌汁の冷めない距離で暮らしています。90歳になったとはいえまだまだ元気で、その元気さは7キロ先の診療所まで自転車で往復する健脚ぶりで、周りの人を驚かせています。

 親父は仕事しで毎日欠かさず家の横の家庭菜園に出て野良仕事をしています。几帳面な性格そのままに家も菜園もきちんと片付いていて、野暮な性格の私はいつも叱られています。

 多少耳が遠いだけの親父で、腰が悪いとか色々いっていますが、まあ元気で卒寿を迎えたのですから親父には感謝しなければなりません。

 問題はこれからです。今のところ親父の食事の世話は妻がしていますが、やがて足腰が弱ると寝たきりになることも覚悟しなければなりません。その予防として毎朝往復2キロの散歩を欠かさないようですが、最近はさすがに「歩くのが疲れた」と弱音を吐くことがあります。それでも歩かないと寝たきりになると思っているのか、今朝も元気に散歩から帰って、朝飯はパン二切れですから食欲も旺盛です。

 親父は身体障害者なので扶養していますが、私の所得税はいつも親父のおかげで減税で随分助かるのです。私の車も親父の病院通院に使う回数が増えてきました。そろそろ身障者用のステッカーを貼らなければならなくなりました。

 いると口うるさいように感じる親父ですが、何時までも長生きして欲しいと願っています。

  「長生きが 信じられない ほど生きて ガンを克服 卒寿迎える」

  「親父まで 生きるとすれば 先長く これからどんな 生き方するか」

  「九十の 年輪刻み 生きてきた 名もなき等し 親父に勲章」

  「喜寿米寿 卒寿と生きて さて次は 白寿目指して 頑張れ親父」 


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