shin-1さんの日記

○お飾りはやし

 日本の各地から新年を祝う行事の話題が消え、平静を取り戻してきましたが、わが家では1月15日、正月を締めくくる行事として「お飾りはやし」という行事をやりました。行事といっても仕事で外出している妻を除き、親父と二人だけでする簡単なもので、年末に私が作って家の神仏に供えてあった全ての正月飾りを集めて畑の隅で焼くのです。他地域ではどんど焼きなどと呼ばれているようです。漁村に育った私が子どもの頃は海岸の砂浜、しかも波打ち際にお飾りを持ち寄りその行事をしたものですが、焚き火禁止令?などもあって近頃はそんな風習も何処かへ消えてなくなってしまったようです。それでも90歳の親父のいる家庭では必ずこうした行事を長男がやらないといけない風習となって遺されています。

 神様棚に飾った海老型のお飾りだけは一年中飾っておくためその一つだけ残し、全てをうず高く積んで火をつけました。風もなく穏やかな天気だったため藁と裏白、それに竹ばかりなので火の回りが速く、あっという間に燃えてしまいました。親父は玄関に飾っていた青竹を割って鏡餅を挟み、火で焙っていました。この煙や火の粉を被り鏡餅を食べると無病息災になると信じている親父は程よく焼けた餅を私と分け合って食べました。これで親父も私も健康に暮らせると自分に言い聞かせながら食べました。

 残り火を見ながら親父から面白い話を聞きました。しめ飾りの縄綯いの時7本、5本、3本と奇数で綯いこみますが、数が多過ぎるので1本、5本、3本とするのは7・5・3のことで「しめ」と呼ぶのだそうです。7・5・3で綯ったしめ飾りは火の中で焼かれて燃え尽きてたとえ灰になっても縄のままで残るというのです。そういえば全てが燃えた燃え殻は縄のままでした。これを夫婦になぞらえ、「たとえ死んでも夫婦二人は一緒」だと教えてくれました。母が逝って既に8年が経過しましたが、親父の言葉には何処となく、先に逝った母への思慕があるようで少ししんみりした話になりました。それでも昔の人の有り難い言葉として長男に伝えたいと思っています。

 神棚に供えていたカブスや小みかん、干し柿などは「お下がり」と称して少しずつ分け合って食べます。鏡餅の大きい方は勿体ないと思い、既に5日前に鏡割りを済ませ他の餅とともに寒の水に漬けられ、朝な夕な焼き餅や雑煮、水炊きなどにして美味しく食べています。

 わが家の伝統行事は親父が長寿のため、親父の意見を尊重しかろうじて長男である私に受け継がれています。しかし聞くところによるとそんな一見煩わしい伝統行事は若い人には受け入れられ難く、他の家庭では次第に姿を消しているようです。わが家でさえも「昔はこんなことをしていた」と懐かしくなるような行事がいっぱいあるのですが、記録にさえも留めていないのです。こうした「田舎らしい民俗学の掘り起こし」をしようと、心に決めた2年半前の自分への約束も、まだまだ意思半ばで先へ進んでいません。僅かにこうしてブログに書くことや写真に残すことくらいしか今のところ余裕がないのが実情です。でも少し軸足をそうしたことに移して今年は書いてみようと思っています。

 今年の正月は長男夫婦家族が長逗留したお陰で、少しだけ長男へわが家のしきたりを伝授することができました。これからも少しずつ伝え遺してゆきたいものです。

  「年老いた 親父と二人 お飾りを はやして食べる 餅の固さよ」

  「しめ飾り 灰になっても 壊れずに 二本仲良く 夫婦かくあれ」

  「年寄りが いるから伝統 守られる 年寄りになり 何を遺せる」

  「長閑なり 田舎の朝の 畑にて お飾り火付け 煙まといて」 

 

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shin-1さんの日記

○話題について行けない

 昨日は生協の委員会が今治市の日本食研本社であり、生協本部から大川理事長さんの運転する車に乗せてもらって出かけました。高速道路からの眺めは冬とは思えない穏やかな日差しに恵まれ、遠くに望む石鎚の山並みも燧灘の海もどこか新春の晴れやかさを感じさせていました。

 高速道路を使うと1時間余りで日本食研に着きました。今や飛ぶ鳥を落す勢いといわれ、食文化の独創的な企業活動を展開している日本食研の大沢一彦さんは私と一緒に生協の理事に就任していますが、無位無官な私などとは月とスッポンで、一事が万事住む世界が違うのです。

 日本食研に行って一際目につくのはKO宮殿工場です。オーストリアの首都ウィーンに280年前に建設された現存するベルベデーレ宮殿を模して造った工場は、ただただ驚くばかりで、庭園も宮殿も、中の展示もその素晴らしさも、見た人に感動を与えるのです。会議が始まる前2時間をかけて会社の女性に案内してもらいましたが、2時間かけても駆け足の状態でした。

 感心覚めやらぬ中、まるで閣議でも開けるようなこれまた立派な貴賓室で大沢さんを座長に1時間ばかり会議を行い、議論を交わして終わりました。

 その後会場をレストランに移しえ夕食会が持たれました。食の会社に相応しい自慢の施設は社員レストランながら800食以上の調理可能な厨房施設や、専門シェフによるバラエティーに富むメニューはホテルのレストランにも負けない豪華さです。行き届いた清潔感やサービスはオーナーである大沢一彦さんの生き方そのもののを見る思いでした。

 出席した委員会のメンバーが松山大学学長の森本先生と愛媛法律事務所所長で弁護士の東先生だったりしたものですから、ハイクオリティなお話で、下座に暮す私などは話について行くのがやっとです。特にゴルフの話になると大沢さんの話は饒舌で、まったくゴルフをやらない私などは、ホールインやイーグルという単語くらいは分っていてもまったくチンプンカンプンなのです。大沢さんは50代後半からゴルフを始めたそうですが既に全国47都道府県のゴルフ場を回っていて、ゴルフ博物館を有するなど尋常でない生き方に一芸秀いづる物は百芸に通じる感を持ちました。

 それにしても、私は何て不器用な男なのでしょう。これまでゴルフなど、小さなミニゴルフ場に出かけ話のタネに友人の誘いで一回回っただけしか知らないのです。多分これからもゴルフをやらないでしょうから大沢さんとの話の中に入って行くことは出来ないものと思われます。まあこれも生き方が違う世界が違うと諦めれば、背伸びをして生きなくてすむだけでもオンリーワンが貫けるのです。人間全てを知ることはできませんから、「ゴルフを知らない若松」で、大沢さんからこれからもせいぜいゴルフの話しを聞きたいと思っています。

 昨日は少々お酒が出たため、帰りは生協の尾崎部長さん運転の車に乗り変わって帰りました。生協と私との窓口は尾崎部長さんが圧倒的に多いものの話す機会もそんなに多くなかったものですから、絶好の機会と思い四方山話をしながら本部まで帰りました。尾崎部長さんの人となりは日頃から感じていましたが、旧土居町の出身であったり農家の長男であったり、単身赴任であったり、孫が出来たことなどなどたくさんの話をしました。ゴルフの話に甲乙つけ難い話に少し救われるような気持ちでした。

  「こりゃ駄目だ ゴルフの話 チンプンカン それでも学ぶ ゴルフに学ぶ」

  「ゴルフとは  面白過ぎて 止められぬ それが欠点 だから止めれぬ」

  「これからも ゴルフしないが ステイタス 俺流生きる それでいいだろ」

  「世の中は 全てを知るは 出来ぬもの 人の教えを 聞けばすむこと」

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shin-1さんの日記

○病気になって見えてくるもの

 私は自称「ポジティブマン」なので、自分でいうのもおこがましいのですが、病気になったり失敗しても少々なことではへこたれない強い精神力を持っています。私を回りの人からは「何がそんなに楽しいの」とか「あなたのような生き方が羨ましい」と時々言われるのです。多分それは何度か患った病気によって学んだことも多分にあるような気がするのです。

 私はこれまでに3度大病を患いました。最初は24歳の時過労が元で意識不明になり本人は気がつかなかったのですが死線をさまよいました。当時は家業の後を継ぎ漁師をしながら青年団活動に夢中になっていました。夜更しと大酒のせいだったようですが、そのことがきっかけで漁師の道を断念し役場に転職しました。朝日新聞が「酒を飲み過ぎて公務員になった男」と私を書いた記事で紹介したのもうなずける話です。その時役場に勤める同級生が何気なく発した「お前は永久に私を越えれない」の言葉に発奮し日本一を目指して頑張ったのですからこれまた「ポジティブ」の何ものでもありません。この病気で様々な健康維持方法を学び以後は風邪一つ引かず、腹一つうずかず、35年の役場生活を終えることが出来ました。

 2回目の病気は55歳時の胆のうの摘出手術です。健康診断でひっかかり、エコーやCT検査で胆のうにポリープが見つかり摘出手術を受けました。医学の進歩は目覚しく、今は腹に4箇所穴を開け内視鏡で摘出手術するのです。手術はうまくいったのだそうですがそれから痩せ始め68キロあった体重は13キロ減の55キロまでになり、今もその体重のままです。でもこの手術以後あれほど飲んでいたお酒をきっぱり断って8年以上が経ちました。自分で自分を褒めてやりたいような心境で、今は酒なしの穏やかな暮しにギアチェンジしています。

 3回目の病気は怪我です。わが家の裏庭が台風の大雨で崩れ土砂災害に遭いました。その折裏山から倒れてきた倒木をチエンソーで切っていて運悪く向こうずねをチェンソーで切って20針も縫う大きな怪我となり20日ほど入院しました。車椅子や松葉杖などのお世話になりましたが、大事に至ったものの大事に至らず元通りの暮しが出来るようになりました。それ以来足腰の鍛錬をしていますが、ぎっくり腰程度で健康に暮らしています。

 誰でも健康が一番だと思い丈夫な体を持ちたいと願っています。でも人間は不思議なもので健康な時にはそれ程体の事をいとわないものです。ところが病気になると健康の有り難さがしみじみ分るのです。つまり「有り難さ」とは「難が有る」と漢字で書くように「難」に出会わないと分らないものなのです。私は3度の病気や怪我で様々な事を学び生き方そのものを変えて生きてきました。振り返れば病気にならなかったら見えてこないものが沢山あったようです。

 私は少々おっちょこちょいなのか4、5日前、車のドアーを閉める際、小指を挟んでしまいました。目が飛び出るほどの激痛が走り、指先は黒く変色しています。痛みも引いて今は普通に使っていますが、日常の暮しで小指の存在など何も気付かず、ましてや小指なんてただ添え物くらいんしか思っていませんでしたが、小指を怪我してみると、何と不便なことかがしみじみ分りました。小指だってちゃんと役割があるのです。

 風邪をひけば妻のいたわりに感謝し、小指を詰めれば小指の働きを思う、この失敗からの学びこそ大切な人間の生き方かも知れません。大袈裟な話ですが、直るような病気ならたまにはした方がいいのかも知れませんね。

  「自動車の ドアに挟んで 小指怪我 日頃分らぬ 役割見つけ」

  「もし病気 ならずば今も 酒を飲み 巷徘徊 体滅びて」

  「病気して 今の自分が あるのです たまには病気 してみるものよ」

  「風呂入り スネの古傷 さする度 よくぞ残った 両足立てる」

 

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shin-1さんの日記

○最近気になる飲み放題

 地域づくりの仕事に深く関わっていると飲み会はつきもので、楽しかったといっては飲み、失敗したといっては飲みで、酒のない地域づくりは考えられないような日々でした。したがって家に帰ってもその延長なのか晩酌をするのが日課となって、まあ早い話が酒のない生活は考えられないほど酒と深く付き合ってきたのです。その結果も多分にあるのでしょうが7年前に胆のうを患い、以後かたくなに酒を断ってきました。

 酒を断ったからといって酒の席へ出ない訳ではありません。付き合いの悪さは則地域づくりの破綻につながると信じて今も回数こそ減ったものの一次会、二次会へ誘われるままに出かけ、ウーロン茶で酔ったような顔をして付き合い交流を深めているのです。

 最近気になっているのですが、若い人たちがセットする飲み会の殆どは2時間飲み放題5千円というのが多く、とにかく2時間のうちに何が何で食って飲んでという、まるで暴飲暴食を推奨するような飲み会が多いのです。先日も食育の会議が持たれ、食育という極めて大切な議論をしたにも関わらず、その夜の懇親交流会はこともあろうに飲み放題の店で無頓着な飲み会をしたのです。その事に気がついた私は年配の故をもって指名された乾杯の音頭の時に、その事を指摘するような話をしましら、素面ゆえみんなの納得を得たようでしたが、アルコールで脳が麻痺した30分もすれば、「ビールお代わり。こっちは焼酎のお湯割り」などと手が上がり、結局は暴飲暴食となってしまいました。

 私たちの身の回りには、健康診断で病気が発見された人、糖尿病やうつ病などで体の不調を訴え通院する人、胃や大腸を手術した人などが沢山病院に通っています。推し量るに食生活が原因ではないかと思える節が沢山あるようです。例えば飲み放題のような店が幾つも出来て、安く飲ませてくれるのは有り難いのですが、暴飲暴食の何ものでもない飲み放題の店は、ある一定の年齢を過ぎると要注意だと思わなければなりません。また肉をはじめ天ぷらや中華料理風のどちらかといえば脂濃いものを食べる暮しが家庭にまで広がっています。幸い私は魚党なので油濃いものは余り食べませんが、肉の消費は昔と比べたら格段の量です。またスイーツと称する砂糖で味付けした甘いものも好んで食べられて、飲み会の席で最後に残るのは野菜だけというお粗末さです。

 最近はテレビのバラエティー番組にもその傾向が顕著で、ギャル曽根なんて女性が登場し大口で上手そうに寿司10舟を美味しそうにペロリと平らげたり、回転寿司を何個食べられるかとかいう料理や食事番組がやたらと多く、見ている私たちに暴飲暴食をよしとする風潮を創り上げているのです。

 外食をして家に帰ると妙に喉の乾きを覚えるのは、外食の濃い味のせいかも知れません。家では薄味がよいと思って実践しているのに、外食では塩分の取り過ぎ、カロリーの取り過ぎで、規則正しい食生活を乱してしまうのです。長生きした人の話だと「腹八分は医者要らず」だそうです。だとしたら「飲み放題は医者が要る」のかもしれないと、同じ会費で飲めない私は多少悔いは残りますが、ウーロン茶は2杯まで、食べ物は魚と野菜中心で程々と心に決めて参加しています。お陰様で飲み放題の店を出て「もう一軒付き合ってください」といわれても、付き合える余裕があるのです。

 毎日大量に出されるゴミの山を見て、これも消費拡大、日本の経済成長と思うか、日本人の美風欠如と思うかはその人次第ですが、間違った方向に生きつつあることは確かなようです。

  「飲み放題 暴飲暴食 推奨し これでは体 悪くなります」

  「ギャル曽根の 胃袋何で 出来てるの 今に地獄が 待っていますよ」

  「腹八分 何でも美味く 感じます 体いとえと 妻の手料理」

  「酒捨てて でも飲み会は 参加する さすが二次会 までに留める」 

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shin-1さんの日記

○パソコンの手術

 どうも私のパソコンの老朽化が進んでいるようです。というのも昨日の夕方娘婿がパソコンの修理にやって来て、色々いじっている最中に、耳慣れない異音を聞いて、「どうもこの音はパソコンの故障前兆のような音だ」とショッキングな話しをするのです。こんな音を勤務先の職場で何度か聞いたそうで、パソコンが2台故障したそうです。さて困りました。今でさえパソコンの不都合で悩んでいるのに、これ以上不都合が続くと、えらい出費になるからです。そろそろパソコン貯蓄でも始めねばと思うのですが、年金暮らしの私にそんな余裕はなく、妻の理解をやんわり引き出しておかなければなりません。

 パソコンが言う事を聞かなくなって2週間が過ぎました。娘婿や息子の懸命な治療によって何とか延命措置はしてもらっていましたが、画像の入力が出来なくなっていました。このパソコンの容量が少ないことも原因があるかも知れないと、パソコンの形式番号を知らせるようメールが入りました。今まで何年も使っているのにノートパソコンの画面右下に小さく書かれている「PCG-CRS52V/P」なんて文字など目に入りませんでした。早速メールで送ると、早速インターネットで部品を取り寄せ昨日の夜の手術と相成ったのです。

 娘婿は慣れた手つきでパソコン修理用の小さいドライバーなどを取り出し、パソコンのコンセントやコードを抜き去って裏面のカバーを外し、中からマイクロチップを取り出し、持ってきたマイクロチップと交換し始めたのです。その手際よさや向寒風景を見ていると、まるでテレビで見た人間の心臓手術のようでした。

 手術は10分余りで終わりましたが、その後30分余りにわたって、画面に出てくるデーターをいじくり回し、やっと元通り動くようになったのです。「治ったようですのでテストして見てください」といわれ、恐る恐るテストをしてみました。テストといっても私が使うのはメールのやり取りとブログの入力、それにデジカメ写真の入出力ぐらいなものですから、簡単な操作でテストは順調に進み終了しました。娘婿はもう一度確かめたいことがあるのでと、食事が終わった後もメンテナンスをして帰って行きました。

 何らなすすべもなくただ漠然と娘婿の作業を1時間にわたって見ながら、パソコンの奥の深さと、娘婿の英知にただただ感心と感謝をするばかりでした。これまで3年間娘婿と長男に事ある度にパソコンの不具合を見てもらい、その都度メールで指導を受けてきましたが、これからもパソコンのメンテナンスをお願いしなければならないと、浅学を恥じた一日でした。

 パソコンの調子が良くなると気分まで良くなって、デジカメに溜ったままの写真を早速入力し、その内の何枚かは圧縮してブログに取り込む編集作業を終えました。これでまた全国行脚の旅も上手く行くだろうと、デジカメのバッテリーを充電し万全を期しました。

 パソコンも所詮は機械です。人間の寿命と同じように何時かは壊れる宿命を背負っています。でも酷使することなくメンテナンスをすれば、車と同じように長く持つものです。これからも寿命の続く限り大切に使いたいと、パソコンに感謝の文字を張りました。

  「手術終え 元に戻りし パソコンに 感謝の文字を 書き込みました」

  「早速に デジカメ写真 入力し ブログ全開 孫の写真も」

  「そういえば 要らぬ情報 そのままだ 見直し整理 ゴミ箱移す」

  「パソコンが 治ってすっきり 気分まで 今日から元気 回復体操」

  「


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○休日を孫と楽しむ

 昨日の夕方わが家へ泊まりにやって来た孫朋樹と昨晩約束した人間牧場へのピクニックを今朝から始めました。まず朝起きると身支度を整え、妻の作ってくれた握り飯弁当と飲み物を田舎のオープンカーに積んで、いざ出発です。ピクニックといっても真冬の寒空ですから、室内で遊ぶ事を考え、近くへ薪を拾いに行って薪ストーブに火を入れました。年末年始の北西の季節風の影響でしょうか、そこら辺を少し歩いただけで種火に使う杉葉は沢山集まり、小枝もあっという間にキャリー一杯になり、薪をくべると雑作もなく火は燃え盛り、その中へ銀紙で包んだサツマイモを2個放り込みました。

 先日遣り残した農作業が残っていたので、朋樹に火の番をさせてまず腐葉土作りの囲いの中へ大洲市田処の亀本さんが持ってきてくれた豚糞を5袋振り撒きました。亀本さんの話によると豚糞には発酵を促す働きがあるらしく、こうすることで落ち葉の発酵を早くするのだそうですが、是非手づくりの腐葉土で今年のサツマイモの苗をたてたいものです。

 続いてブルーベリーの苗木5本に竹の支柱を立てました。これも3日前の日没時間切れのためやり残した仕事なのです。幸いその後は雨だけで風邪が吹かなかったため傷みもなく、この分だと活着しそうです。

 一人になった朋樹は心細くなったのか水平線の家から大きな声で「焼き芋が焼けた」と呼ぶのです。ストーブのそばに帰ってみると、朋樹がいうように銀紙で包んだストーブに放り込んでおいたサツマイモは程よく焼けていました。軍手をして少し焦げた部分の皮をむいで二人でフーフーしながら食べました。私も朋樹も大満足です。

 やがて小腹も太って、今度は網にかかったキツツキを脚立を掛けて取り外す作業にかかりました。キツツキの爪は鋭くまるで漁師さんが立て網に掛ったイセエビを外すのと同じように丁寧に外して行きました。朋樹にとっては死んでいるとはいいながらキツツキを見るのは初めてとあって興味深々です。朋樹のピクニックの目的はこのことにあったようで、前もって妻から発泡スチロールの蓋つき魚箱を持参していて、私が投げ落としたキツツキを恐々箱の中に入れました。朋樹はこれをみんなに見せて驚かせるのだと張り切っていました。

 朋樹と二人で水平線の家の板間に掃除をしてワックスをかける作業をしました。邪魔をする朋樹のお陰で、刷毛で塗る作業は半分しか出来ませんでしたが、やがて昼の音楽サイレンが鳴り、二人で待ちに待った昼食です。梅干し入りおにぎりが6個弁当箱に入れられていましたが、朋樹は三つもペロリと平らげてしまいました。

 やがて2時過ぎになったので身支度を整えカギを掛けて人間牧場を後にしました。帰る途中私の妹が経営するくじらという店により、朋樹の作戦はまんまと図に当りみんなが驚く様子を見てしてやったりの心境で有頂天になっていました。


 家に帰ってからキツツキのお墓を作ろうと朋樹がダンボール紙片に「キツツキのおはか」と書いた物を持って、畑の隅に穴を掘り埋めて祈りを捧げました。朋樹にとってこの作業は初めての体験だったようです。

 その後漁協女性部の皆さんに差し上げるため家庭菜園の大根を朋樹と二人で30本引き抜いて一輪車に積み、外の水道で水洗いをしてシーサイド公園まで持って行きました。漁協女性部の皆さんは三連休の最後の日とあって、猫の手も借りたいような忙しさでしたが、みんな喜んでくれました。

 帰り際、何とか字が読めるようになった朋樹は「いちご園開演中」の看板を目ざとく見つけ、「いちご狩りに行こう」という話になりました。家を通り越して翠小学校近くまで行き、穏やかな日差しの中でいちご狩りを楽しみました。既に午後なのに何組ものお客さんがいちご狩りを楽しんでいましたが、朋樹も私も沢山食べてもう満足でした。孫と朋樹とおじいちゃん進一のデコボココンビはとても楽しい一日を過ごすことができました。孫朋樹に感謝です。夕方私のパソコン修理のためやって来たお父さんたちと楽しい夕食を終え、無事わが家へと帰って行きました。めでたしめでたしです。

  「笑う度 私の顔も 大笑い 孫はいいもの 私に元気」

  「焼き芋の 黒炭つけた 顔笑う ストーブの前 二人仲良く」

  「大丈夫 腹を心配 するほどに いちご頬張る 孫の食欲」

  「たまに来る 孫は私の 栄養剤 次はいつ来る 早くも予約」


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shin-1さんの日記

○犬小屋作り
 昨日は夕方妻が5歳になる孫朋樹を連れて帰りました。孫にとっても幼稚園が3連休、加えて娘と子ども尚樹が風邪気味なので二日間面倒を見ることになりました。正月以来そんなに日数も経っていないのにもう何日も会っていないような気がするのはおじいちゃんやおばあちゃんになりきっているせいでしょうか。
 孫はどうやら正月に大阪で買ってもらった電池仕掛けで動く犬を忘れて帰ったのが気になるようで、わが家へ来るなり「くろちゃんは何処」と探すのです。私が手渡すとまるで生き物のように「元気だった」と言葉を掛けて電動のスイッチを入れて動かしていました。
 「ねえおじいちゃん、この犬の犬小屋を作ろう」といきなり言うものですから、「じゃおばあちゃんに紙の箱とセロテープとガムテープ、それにカッターやハサミを貰っといで」と伝え、私は昨日から始まった大相撲のテレビ中継を見ていました。2場所連続出場停止処分を受けて休場していた朝青龍の相撲がどうしても見たかったのです。でも孫朋樹は犬小屋の方が気がかりで、盛んに私に犬小屋づくりに熱中するよう勧め、テレビと私の間に入り込もうとするのです。見かねた妻が「おじいちゃんは相撲が好きだから、相撲を見せてあげて」と注意し不機嫌ながら納得しつつ、自分でハサミを使って小道具を作っていました。昨日の横綱は休場の心配など何処吹く風で、琴承菊を豪快な上手投げで一蹴したし、横綱白鵬も負けじとばかり出島をこれまた豪快な上手投げで倒しました。胸のすくような二人の活躍に安心し、早速犬小屋作りです。


 妻が保管していた菓子箱をカッターで切り分け、屋根や柱を作り、その部品をガムテープで張り合わせて行くのです。孫はもっぱら犬が主人公のビデオテープに夢中になって、中々身が入りませんでしたが、約1時間の作業で何とか犬小屋が完成しました。孫はサンタクロースが入る煙突や、魔女の宅急便よろしく郵便受け箱を身振り手振りで要求し、それも小物として作り張り合わせて完成しました。「今日はこの犬小屋を布団の横に置いて一緒に寝る」と満足気味でした。小さな孫にとって生きものへの興味は尽きることがありません。本当は子犬の一匹も飼ってやりたいのでしょうがマンション住まいではどうにもなりません。孫もそのことが分かっていてチュワワ?という犬の模型がどうしても欲しいと頼み込んで買ってもらったようです。犬の模型はまるで本物そっくりでスイッチを入れると歩くし泣くことも出来るのです。孫はこの白い犬に「くろちゃん」と名前をつけています。真っ黒な目が印象的だったのでしょうか、早速習いたてのひらがなで犬の名前を書き表札まで貼り付けました。
 昨晩は私と一緒に風呂に入り、私と妻の間にまるで湯たんぽのように潜り込んで寝ました。孫の体温は温かく至福の一晩でした。私は孫と寝る時はせがまれるままに創作話しをよくしてやります。孫は拍手をしてくれるのですが、この日ばかりは犬小屋が気になるらしく、夢の世界でも犬と一緒に寝ているような穏やかな眠りでした。今は朝の6時です。居間の寝床から孫の声が聞こえてきました。朝寝坊な孫がもう犬と戯れています。余程嬉しかったのでしょう。
 最近の子どもは何かにつけお金で買い与えるおもちゃ類が多いようですが、紙箱やガムテープでもこんな遊び道具が出来るのです。夢を育くんでやることもおじいちゃんやおばあちゃんの務めかも知れませんね。いいプレゼントが出来たように思いました。
  犬小屋を 二人で作る 楽しいね 枕元置き 夢の世界へ」
  「不器用と 思う私に 凄いねと 感心するは 孫一人かも」
  「湯たんぽの ような孫抱き 眠る夜 潜る私と 飛び出る孫と」
  「不思議だね 孫なら飽きぬ いつまでも 子供の時は こうはいかぬに」

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shin-1さんの日記

○八幡浜市公民館大会
 昨日の雨とうって変わって今日は朝から穏やかな好天に恵まれました。昨日と今日の二日間、ふたみシーサイド公園では恒例の「初春水仙祭り」が予定され、大勢の人がやって来る予定でしたが、初日の昨日はあいにくの雨にたたられて、少しで足が鈍かったようです。昨日はわが家にも水仙祭りを見ようと、長男家族をはじめ何人かの人が立ち寄りました。私も愛大生の朝早い視察研修に付き合ったため、水仙祭りの会場で、花の会の人たちに混じって祭りの準備を多少なりとも手伝ってあげました。嬉しいことに、大谷さん、米井さんの事務局組みに加え、かつて地域振興課や社会教育課で仕事を共にした米湊さん、松本さん夫婦、閏木さんなども参加してくれていて、賑やかな幕開けでした。本当は今日も手伝いたかったのですが、私は今日は八幡浜市公民館大会に招かれていたので、二日目の会場を横目に見ながら海岸国道378号を西下し、瀬戸内海側から夜昼トンネルを越えて宇和海側に向いました。
 大会は午後1時30分からでしたが、何人かから電話が入っていて、大会が終わったら会いたいらしのです。でも夕方は所用が予定されていて大会が終われば帰らなければならず、事前に大洲と八幡浜に立ち寄って話しを終えました。その後義父母の墓参りを思い立ち大宝禅寺の裏山にある墓地に車のダッシュボードからいつも積んでいる線香を持ち出して一人登って行きました。私は墓地ながら八幡浜湾や諏訪崎、それに八幡浜の市街が一望できるここからの眺めが大好きで、冬とは言いながら小春日和のような好天の眺めは胸のすくような感じでした。丁度九州から1隻のフェリーが着岸する瞬間だったため絵になる光景でした。本当は正月に妻と二人で墓参りに来たかったのですが所用でそれも適わず、墓前で義父母にそのことを詫びながら、年末に国立がんセンターで喉頭がんの手術をした義兄の様子を報告し、一日も早い回復を祈りました。
 公民館大会は北浜にあるスポーツセンターで行われていました。今日は私の記念講演以外にプログラムは予定されていないのに300人もの関係者が参加して、会場は一杯の大盛況でした。会場には何人も知人友人がいて、顔や手で盛んに反応をしてくれました。
 私の話は前半はふるさと教育について、中盤は社会の変化について、後半は公民館とまちづくりについて話させてもらいました。1時間30分の話の組み立ては余り気にせず、楽しい話に終始しましたが、終わって会場から出ると何人もの人が握手を求めたり声をかけたり、私の自著本を読みたいのだがなどと相変わらずの賑やかさです。
 最近公民館に元気がない事を心配していましたが、八幡浜の公民館はかなり元気なようで安心しました。公民館は何といっても人ですし、組織です。会場一杯に張り巡らされていた展示のような個性あるオンリーワンのいい活動を期待したいものです。
 帰りはほのぼのとした気持ちで保内から長い長いごぜヶ峠を越えて瀬戸内海側に出て、かつて私が関わって命名した夕やけこやけラインの愛称で親しまれている国道378号を走りました。午後4時過ぎの海岸は、多少北よりの風が吹いていましたが、昨日の雨で空気が澄んでいるのか遠く国東半島や姫島など大分がくっきり見え、山口県や広島県、それに愛媛県の島々が一望でき、加えて夕景も雲を映していい雰囲気でした。
  「八幡浜 一望できる 墓地にて 線香手向け 兄無事祈る」
  「妻所用 妻の実家を 訪ねたり 兄妻聞きし 妻は何故来ぬ」
  「豊後路が くっきり見える 海沿いを 夕日バックに 家路急ぎぬ」
  「合併で 遠い大洲は 隣街 道路標識 見ては驚き」 
 
 
 

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○二人のなっちゃん
 私には二人の「なっちゃん」という女性の友人がいます。一人は30歳を過ぎた二人の子持ちの只今産休中の公務員、もう一人は大学卒業間際4回生の若い女性です。いずれも私と同じ双海町出身で、名前こそ同じ「なっちゃん」ですが、一方は「夏芽ちゃん」、もう一方は「奈津ちゃん」と漢字で書けば一目瞭然違いが分るのですが、普通の愛称は「なっちゃん」で通っています。いつもはそれぞれの道を歩んでいるため滅多に会うことはありませんが、ふとした機会に「元気だろうか」と思い出したりして、どこか気になる女性なのです。
 「夏芽ちゃん」は大学を卒業すると直ぐに双海町役場に就職してきました。私の娘と同じ年齢だし、私の生まれた集落で生まれているため、家族全ての顔を子どもの頃からよく知っていました。役場では福祉関係の仕事が長かったのですが、まちづくりなどに興味を持っていて、職場は違っても何かにつけて参加してくれるため色々な場面で出会ったものです。特に双海町が重要課題として取り組んでいた「人づくり」海外派遣事業では、第十一回目にニュージーランド・オーストラリア派遣生のメンバーとなりました。10回を終え11回目から国際交流を目指したこともあって、私はその団長として一緒に海外へ行ったのです。語学もそこそこ出来たなっちゃんは、ホームスティなどで語学もそこそこさえ出来ない私を随分サポートして随分助けてくれました。その後彼女は教育委員会学校教育課に移りましたが、偶然か私が教育長に就任し同じ職場で働く事になり、様々な場面で私の仕事を支えてくれました。結婚して二児のお母さんになりその後産休を続けて子育てに専念していますが、いつも気になる「なっちゃん」なのです。
 もう一人の「なっちゃん」は高知大学の学生です。彼女はイギリスに留学後高知大学に入学した変わった経歴の女性です。大学のインターンシップで奈半利町に半年間住み込み、まちづくりのサポータとして活躍をしていた頃にに知り合いました。彼女は奈半利町のまちづくりを目指すメンバーと随分親しくなり、まるでマスコットのように可愛がられました。今は米ケ岡という自然豊かな場所でお米を作ったりしながら、三昧な暮しをしています。
 三日前私が高知県馬路村へ出かけた折も、彼女の事が気になっていました。やはり合い通じるのでしょうか馬路村に着いた途端携帯が入りました。「やっと正月休みも帰郷しないで取り組んだ卒業論文が出来た。今度の連休に帰郷するので見て欲しい」というのです。昨日は彼女帰郷する日でした。愛媛大学の大学生の対応やスイセン祭りが終わって、バスと列車を乗り継いで帰った彼女を伊予市まで迎えに行ってわが家で話しこんだ後卒論を貰い、家まで送って行きました。彼女は大学院への進学も既に決まっていて、まちづくりに関わりながら今の暮しを続けるようです。
 どちらの「なっやん」も「気配りの出来る夏ちゃん」と「気丈に生きる奈津ちゃん」と性格や生き方、年齢こそ違え、「双海町産女性」と胸を張って人に紹介できる自慢の女性です。間もなく職場復帰をするであろう「夏ちゃん」は相次いだ二人の子どもの産休中に市町合併があって、戸惑うことが多かろうと推察しています。一方の「奈津ちゃん」は大学卒業という一つの区切りを終えて大学院という新たな人生にチャレンジするそうで、それなりの心の葛藤があるでしょう。いずれも様々な社会の荒波に翻弄されることでしょうが、いい人生のプロセスとして頑張って欲しいと願っています。
  「なっやんと 呼ばれる二人 それぞれに 強く生きてと 心で拍手」
  「卒論に 引用文献 自著本を 書かれてドキリ 弱ったものだ」
  「子育ても 学びも同じ 人生の 試練と思え その先楽し」
  「大学は どうして人の フンドシで 相撲とるのか そんな感じが」 

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