shin-1さんの日記

○季節外れのジャガイモ

 昨年の秋、同じ市内に住む水口マリ子さんから電話があり、ジャガイモの種があるので植えないかとお誘いの電話がありました。水口さんは更生保護婦人会の役員を務める私の最も親しい友人の一人で、お家は育苗農家として手広く経営をされています。ふとしたことから知り合い、今では季節の野菜や葉牡丹の鉢植えまでいただいています。特に水口さんの炊く黒豆は絶品で、正月のおせちにと毎年いただくのですが、甘さを控えた黒豆は家族の大人気で、小出しにして美味しく食べました。

 わが家の敷地は660坪と田舎らしくて広いものの山を背にしているため、晩秋から初冬にかけて日当たりが悪い難点があります。したがって冬野菜は晩秋でも陽の当る早めに作付けをしないと人並みには出来ません。水口さんからいただいたジャガイモの種は既に芽吹きをして「早く植えて欲しい」といわんばかりの元気な種芋でした。「秋ジャガイモの種は切らずにこのまま植えなさい」と指導を受けて、その日のうちに植え付けしました。

 やがて立派な茎が青々と育っていましたが、やがて初冬になりその茎も次第に弱り始めて、今ではハコベなどの草に埋もっていました。正月を挟んだ頃には一緒にいただいたブロッコリーやカリフラワーがぐんぐん生長し、今まで見たこともないような立派な花野菜が出来て、毎日美味しくいただいていますが、その脇に忘れられたように茎を弱らせているジャガイモ掘ってみると、土の中から雪のようにという表現がピッタリの真っ白いジャガイモが出てくるのです。春ジャガイモのように沢山の数ではありませんが、一株毎に2~3個ですが、見たこともないような大きなジャガイモです。こんなに出来たのは初めてなので近所や娘、息子に水口さんからいただいた種芋だと離しながら、さも自分の作り方が良かったかのように得意げになっておすそ分けをしました。まだ土の中には沢山の芋が残っていますので、寒中ゆえいつまで持つか分りませんが、小出しにしてその味を楽しんでいるところです。

 さてこのジャガイモは今のところシチューやカレーのほか、マッシュポテトにしたりして味わっていますが、美味しい食べ方は輪切りにして魚の煮付けと一緒に炊くと美味しいし、堀りだちを塩湯でしてバターかマーガリンでいただくとこれまた抜群です。堀りだちのジャガイモは薄皮がパリンと割れて、粉を吹くような舌触りが何ともいいものです。

 園芸店の店先には早くも春植えのジャガイモの種芋がうず高く積まれ、季節の変化を告げています。昨年収穫した春ジャガイモは、思わぬ秋ジャガイモの出現にその座を奪われ、倉庫の片隅で寂しく芽を出しています。ジャガイモの芽は中毒を起すといわれて敬遠されるのか、妻もどちらかというと秋ジャガイモに目を奪われているようです。親父はそんな姿を見取ってか、芽が出たジャガイモを選んでゴミ袋に入れて処分しているようです。

 春はもうそこまで来ています。昨日出かけた人間牧場の梅林では早くも一本だけ満開の梅の木がありました。芳しい香りに誘われてメジロが沢山蜜を吸いに来ていました。

  「秋ジャガが 土の中から 顔を出す 白い肌して 妻のようだね?」

  「食卓に 並ぶジャガイモ 人面に さて誰の顔? 思い出しつつ」

  「体調を 気遣う妻の 手料理に 美味いもんだと ねぎらう言葉」

  「種芋を 貰った人の 名前言い おすそ分けする でめてお返し」

  

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shin-1さんの日記

○冬の草刈り

 昨日はテレビを見ていたら、四国の高速道路やJRなどが雪のため通行止めや運転見合せというテロップが流れ、南国ゆえに雪に弱いなあと、先月秋田県横手市で体感した大雪を思い出しました。12月だというのにあんなに雪が降り、積雪が10センチを越えても、タクシーなど60キロ近くの速度でバンバン走っているのには驚きました。そこへ行くと四国は道に薄っすらと雪が降っただけでも、やれスリップ事故だ渋滞だと騒ぐのです。でも今年の冬は確実に寒く、大寒入りの今朝もかなり気温が下がっていて、氷など張らないものの吹く風は冷たく肌身に刺すようでした。私たちの町ではこの季節に吹く風は西高東低の気圧配置のため北西の季節風なのですが、今年はどうしたことか、今日も秋に吹くはずの北東の風が吹いていました。やはり気象異変でしょうか、気圧の等圧線が縦だと北西、横だと北東なので、高気圧の張り出しもいつもと違っているようです。

 今日は寒いながら久しぶりにお休みなので、草刈機をオープンカーに積んで人間牧場の草刈りに出かけました。冬に草刈りなど聞いたこともなく、ましてや私もやったことがないのです。山道ですれ違う農家の人が「こんな寒い日に何処へ何しに」と聞かれました。「はい草刈りに」というと、「えっ、草刈りですか?」と怪訝そうな顔をされました。

 実は秋の終りの草刈りが遅れ、泥棒草と称する草がやたらと生えて、ズボンや手袋に付着するものですから、刈っておかないと、梅の花を愛でる時も、畑作業をする時もやんちゃなため、草刈機で借り倒そうと思ったのです。昨日の雨が尾を引き、今日も朝から小雨交じりのあいにくの天気でしたが、長い間使っていないものの草刈機も絶好調で、満タンにしたタンクが空になるまでエンジンを吹かして刈り込みました。一段落ついたところで手に入れていたブルーベリーの苗を植えました。細い苗なので路地で栽培できるまでに成長するかどうかは分りませんが、梅、スモモに続く果樹として、サツマイモやフキに加えるべく植え込みました。本当は薪ストーブを焚いてのんびり過ごす計画でしたが、雨足が強くなって天候の回復も望めないことから、農作業を断念しました。

 落ち葉を使った腐葉土作りも、その後豚糞を振り撒きそのままにしていたので、教育委員会の日山さんが手配してくれた透明なビニールを二枚切りして、囲いい中に入れた落ち葉の上に被せました。風が吹いて飛ばないよう豚糞の袋を四方に置いて、当分はこれで代用します。落ち葉は空気と水と発酵菌、それに水を加えると発酵が始まります。ただし外気温の低い状態では発酵しないので、このビニールで発行の際に出る熱で更に発酵を促進させようとするのです。本当はこの熱で囲いの中の室温を保ち、芋の苗床で季節を早めてイモヅルを確保する計画なのですが、3月には腐葉土が完成しなければならないので、少し早めの作業になったようです。

 雨がいよいよ本降りになってきました。早々に帰った私を見て妻はちょっと首を傾げ、「馴れない事をするから雨が降る」と皮肉たっぷりにいわれました。

 綺麗に草を刈った梅林では早咲きの梅が早くも5分以上咲いており、芳しい香りを漂わせていました。今年は友人たちと梅の花を愛でながら一杯やろうと約束をしているので、これで舞台は整いました。昨日人間牧場に醸造している梅酒を初絞りしましたが、中々の出来栄えです。梅酒に付けた梅は今まで捨てていましたが、これもお茶漬けの当てにもってこいだということが分り、昨日から妻と二人で食べ始めました。わが家の梅酒はカビ生え防止に少しホワイトリカーを入れているだけの、どちらかというと梅ジュースの類なので、子どもに飲ませても大丈夫なので、今年は子供たちにも飲ませてやりたいと思っています。

  「寒い冬 何故に草刈る 変じゃない お陰様にて 畑綺麗に」

  「二十年 使いこなした 草刈機 今も現役 俺に似てるな」

  「ピートモス 回りに入れて 土被せ 実験スタート 生るかも知れぬ」

  「土の下 早くも草は 根を伸ばし 春の準備 怠りもせず」



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shin-1さんの日記

○あなたはどうして輝いているの?

 私の知人友人たちが60歳定年というハードルを越えて、私と同じ自由人の仲間入りをし始めました。これまで肩書きや名刺がものをいう社会にいた人間にとって自由は憧れですから、殆どの人があれもしたいこれもしたいと思っているに違いありません。しかしいざ自由人になってみると、確かに会社や役所の縛りから開放されて誰はばかることなく発言や行動が出来るのですが、その反面収入がなくなるばかりでなく、今まで肩書きがものをいっていたのに、ただの人になるのですからその落差は相当なものなのです。こんなはずではなかったと思ってみても、世の中はそんなに甘くはなく、現役では生き生きと輝いていた人が自由人になった途端、まるでしぼんだ風船のように見る影もなく、健康までも損ねて落ちぶれている姿は哀れささえ感じるのです。

 数日前、えひめ地域づくり研究会議の年次フォーラムに参加してもらった友人と久しぶりに出会いお話をしました。「若松さん、あんたは仕事を辞める前も辞めた後も変わらず生き生きと輝いて生きていますが、羨ましい限りですね」と言われました。確かに私は言われるほど輝いてはいませんが、そこそこ輝いて生きていることは確かです。友人は「輝いて生きるコツは何ですか」と追い討ちの質問を投げかけてきました。

 私の輝きの秘訣は強いてあげれば「目標をもって生きる」「健康に生きる」「家族とともに生きる」「仕事に生きる」くらいだと思います。

 「目標を持って生きる」ことは二十三歳の時、青年学級で生活設計を教わり、自分の人生は自分がコントロールできることを学んだことが役立っています。今振り返れば26歳で結婚する、子どもを4人作る、30歳でアメリカへ行くなど夢はドリームではなくターゲットできたのです。60歳からの人生も50代で「人間牧場構想」という楽しく生きる自由人としての夢を描いていました。その結果大きな果実を手に入れ今は目標を持って生きているのです。 

 「健康に生きる」は、心の健康と体の健康のバランスです。飲食生活は酒を止めたことで随分改善され、まちづくりの中で学んだ健康に生きるための工夫が実践という形で体に表れています。勿論自称ポジティブ・マンというほどプラス思考で日々を暮らしています。

 「家族とともに生きる」は、現役中は働き蜂の異名を取るほど随分働いたため、家族をないがしろにして生きてきました、家庭を顧みなかった駄目亭主も今では軌道修正して家族とともに生きる事を実践しているのです。人間牧場づくりは家族との関係を見事に修復してくれたように思うのです。

 「仕事に生きる」ですが、リタイアしているもののセミリタイアで、愛媛大学の非常勤講師や、地域づくりに関する講演などで忙しく全国行脚が出来ることも、若い頃からの蓄積が生んだ結果だと思うのです。

 勿論いささかなりとも社会貢献しなければなりませんから、地域の自治会活動や人間牧場での少年少女おもしろ教室など、積極的に関わっています。そうすることが「目標」や「健康」、「家族」「仕事」への新しい生き方へと進化をしていくのです。

 人間は積極的、すなわちポジティブに生きてゆかなければ進化はせず、むしろ後退の道を辿ります。去年よりは今年、今年よりは来年とステップアップすることが人間として生きていることの意味だと思うのです。

  「羨まし あなたは何故に 輝いて? いわれてはてな? 四つくらいか」

  「目標を 超えれば次の 目標が 出来るものです ポジティブ生きりゃ」

  「当分は 生き生き生きれ そうですと 仲間に話す 仲間負けたと」

  「家族です 歯の浮くような 一言を 言えりゃ本物 私本物」


 

 

 

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shin-1さんの日記

○息切れするが視野は広くなる

 先日町のシンボルでもある本尊山という近くの山に一人で登りました。正月休みにおご馳走を食べ過ぎ、何となく運動不足だったため地元の氏神様天一稲荷神社まで散歩に行ったついでの、急な思いつきなので全く軽装でした。線路をまたぎ坂道を登るほどに息遣いは荒くなり、運動不足と加齢による体力不足を感じながら、急ぐこともあるまいとマイペースで登って行くと、まるで踏みつけ道のような山道のあちこちには、矢竹が生い茂り通行さえもままならず行く手を阻まれたり、クモの巣が体全体にくっついたりと散々な目に会いました。

 それでも30分ほど歩くと周りの視界が徐々に開け、落葉樹の樹間に下界の景色が見えてき始め、やがて大きな石がどっかりと座っているように見える9合目へ出ました。ここには難視聴を解消するため私たちの加入するテレビ協調組合が立てたアンテナのある場所で、天一稲荷神社の奥の院らしく石の鳥居が立ち、何か霊感を感じるような雰囲気です。私はその場所で休むことなくいよいよ最後の難関に挑戦しました。この坂は一番の難所で周りの木々の助けを借りないと登れないほど急な坂道で、少し滲んだ汗を感じながら頂上に出ました。ここは中世の城郭本尊城の跡で今もその当時の石類群が数多く残っていて往時を忍ばせてくれます。

 頂上には三角点があって、そこからは瀬戸内海や松山の道後平野が一望できるばかりでなく、シーサイド公園、上灘漁港、上灘中学校、由並小学校など町の殆ど全てが見えるばかりか、わが家の敷地全体がまるでヘリコプターから見るように見えるのです。

 ふと僅か30分足らずの山登りを自分の人生に例えてみました。私の人生ももうそろそろ八合目辺りでしょうか。ある映画監督が「老齢は山登りに似ている。登れば登るほど息切れするが視野は益々広くなる」という言葉を残していますが、その通りだと思いました。63歳になると「登れば登るほど息切れする」という言葉が実感できますし、これ以上先へは進めないと諦めたりするものです。しかし闇雲に働き周りが見えなかった昔に比べ、今は行く文化の余裕も出来て、辺りを見渡したり風の音や鳥の声、足元の草花や落ち葉など様々なことに気を配ることが出来、八合目を過ぎると周囲の木々も少なくなって視界が開けてくるのです。これが「視野は益々広くなる」意味なのだと思いました。

 出来るだけ同じ道を引き返さないのが私流なので、頂上を越えて歩き掘り切りという戦略上重要な場所まで行って沢伝いに上灘川沿いまで歩いて出ました。まさに道なき道でしたが新年早々ふるさとの名山に登れていい経験が出来ました。本尊山に登った事を息子に話すと、今度は一緒に登ろう」と誘われましたが、いつになるやらです。加齢とともに自分のふるさとが遠くなるような感じがしています。というのも、役場という地元の職場をリタイアすると、地元の話題に触れることは極端に少なくなってきました。妻が近くの歯医者さんに勤めているので、かろうじてそこら辺の地ネタは拾えるのですが、私のように家や町を四六時中空けると、町の話題は遠のくばかりです。また車の利用が多くなると、町中を歩くことも少なくなって、出会う人も限られて、まさにふるさとは遠い存在になりつつあるようです。ひょっとしたら90歳になった親父の方が近所の話題には詳しいのかも知れません。

  「ただ一人 ふるさとの山 登りつつ あれやこれやと 人生思う」

  「ある人が 加齢段々 息切れが するも視界は 広くなる言う」

  「年毎に ふるさと段々 遠くなる 地ネタ知らずに ただただ生きて」

  「頂上で ヤッホー山彦 帰り来る わが家上から 見下ろし叫ぶ」 

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shin-1さんの日記

○えひめ地域づくり研究会議年次フォーラム2008開催

 昨日は朝から忙しい一日でした。私が代表運営委員を務めるえひめ地域づくり研究会議が毎年この時期開いているフォーラムをリジェール松山(農協会館)で行うため、同じ代表を務める伊方町三崎の塩崎さんと双海で待ち合わせし二人で出かけました。既に会場では松本さんはじめ事務局であるえひめ地域政策研究センターの職員が忙しく準備をしてくれていました。

 今年は今年の11月14日と15日の両日愛媛県で開催される第26回地域づくり団体交流大会のプレイベントとして開催するためでしょうか、例年になく多い参加者で、当日参加をあわせると200人もの人が参加するのです。一応の準備が終わった頃を見計って運営委員会が持たれました。私は開会のあいさつもそこそこに、大会の記念講演をお願いしていた法政大学教授の岡崎先生を空港まで出迎えに行きました。土曜日のためか空港はかなり混んでいて、顔見知りの顔もちらほら、偶然にもチェロリストの上田真二さんご夫妻にめぐり合いました。上田さんとはかつて若松進一、上田真二、小林真三さんのワン・ツー・スリーコンビでシンポジウムをやった経験がある懐かしい人です。十年の時を越えた再会でしたが若い頃の思い出が鮮やかに蘇ってきました。飛行機は予定通り到着し、岡崎先生とも久しぶりの出会いで懐かしく感じながら、私の車で会場まで向かいました。

 フォーラムは午後1時からでしたが、会場となるリジェールの8階からは松山城や堀の内がまるで一枚の絵でも見ているように美しく見えました。壇上には松本さんの配慮で双海の水仙が馥郁とした香りを漂わせて活けられ、花を添えてくれました。私の役目は開会の挨拶です。近藤代表運営委員の司会で開会しましたが、さすがに200人もの集会となると迫力がありいい感じでのスタートです。

 岡崎先生の話は「連帯と協働による新しいまちづくり」について、なぜ新しいまちづくりなのか、新しいまちづくりの担い手、課題解決の方策などについて、具体的な事例を織り交ぜながら話してもらいました。

 またその後の分散会は、①~③は全国大会において分科会を担当する地域づくり団体が5団体づつに分かれて発表討議し、④分散会はボランティアガイドが集まり発表討議しました。それぞれの分科会を見て回りましたが、全国大会で全国各地から仲間を受け入れようとする意欲が伝わってきました。

 分散会のはっぴょうの後、100人もの人が参加して交流会が持たれました。それぞれの団体では自慢の特産品を持ち寄って、楽しい抽選会をやったりしましたが、酒を酌み交わしながら、様々な話に花が咲きました。

 会場には何年かぶりに出会った長浜の菊池さんやフロンティア塾の常連塾生だった末光さんなど多くの旧友に会い、時間の制限もあって積もる話はできませんでしたが、いい交流が出来ました。また最近知り合った新友や昔からの旧友など、参加者の殆どを知り尽くしているだけに、予定された2時間は時間の短さを感じました。

 実行委員会が組織されて3案買い会合が持たれ、それを受けてえひめ地域づくり研究会議が年次フォーラムと位置づけ準備したこの日の会合で、ある意味でやっと全国大会のスタートが切れたように思います。早くも2月1日から茨城県水戸市で始まる今年度の全国大会に出席して愛媛大会のピーアールをするべくプロモーションムービーや団体紹介のファイルも出来て、さあ実行委員会委員長たる私の仕事もいよいよスイッチオンです。

  「久しぶり 出会った友の 懐かしさ 酒酌み交わし 過ぎ越し日々を」

  「全国へ 情報発信 するために ムービーフアィル 容易万端」

  「二百人 顔が集まり フォーラムで 熱い議論を 交わして帰る」

  「若者の 参加少ない 気になるな どうにかせんと けつまずくかも」


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shin-1さんの日記

○健康診断

 「今日は忘れないように病院へ行くように」と妻に念を押されていたので久しぶりに県立中央病院へ出かけました。私は8年前に胆のう摘出手術をして以来欠かすことなく2ヶ月検診を受けていましたが、昨年の6月にどうしても日程の折り合いがつかず病院に行くことが出来ず、その後ぎっくり腰を患った程度で大した体の不具合もなく過ごしてきましたが、妻にとってはそのことが気になるらしく、自分でさっさと私の日程表の空きを見て病院の予約センターへ電話を入れ、予約をしてくれていたのです。

 半年ぶりの病院は午後2時からの検診予約だったので、大した混乱や待つこともなく、自動予約受付の機械で予約を済ませ座っていると、顔見知りの人が何人か通り、「あら若松さんではないですか。何処が悪いの」と会う人毎に聞かれるのです。「体はいいのですが顔が悪くて」なんて洒落をいいつつ、同じような返答をしてテレビの前で過ごしていると、「若松様」と「様」付けでクロークさんから名前を呼ばれたのは午後2時15分でした。「はい」と返事をして中待合で待っていると、中へ入るように勧められました。見ると私の担当医師の二宮先生ではない女医さんが座っていました。「二宮先生は救急対応で来れませんので私が変わって」とその女医さんは、患者の私がいるのにパソコンに向って話し始めました。

 「長い間来られていませんね。どうしてですか」。「はい仕事が忙しくてついつい」。「それは大変ですね。でも体は大事にしてください」とやんわりお灸を据えられ、「今度はいつ来られますか。今のところ空いているのは月29日ですので、後で説明致しますので注意書きをよく読んでお越し下さい。今日は血液検査をして帰ってください」でチョンです。「えっ、血圧も測らないのですか?」と問い直そうとしましたが、女医さんは私の予定をパソコン画面に打ち込み、それで終りでした。あっけに取られたものの、仕方がないので言われるまま血液検査の部屋に行き、採血を終えました。「会計で支払いをお願いします」でここも4~5分で終了、何のために病院へ来たのか分らぬまま病院を後にしました。

 それにしても病院とは不思議な所です。私の顔色も見ず体の調子も聞かず、血液のデーターだけで私の現状を判別するのですから偉いものです。勿論今度来るときにはそのデータが揃っていて、エコー検査や透視検査で総合的に判断するのでしょうが、少々納得のいかない一日でした。

 家へ帰るなり心配して待っていた妻は開口一番「病院の結果はどうだった」と聞くのです。病院では血液検査をしただけで何も診てくれなかった。今度2月29日の金曜日で予約を取ったから忘れないように」と、さも人ごとのような口調で話すと、妻は早速居間のカレンダーをめくって「進一健康診断の日」と大きく書き込んでくれました。今日は病院へ行く時、日程表を忘れて行きお医者さんの示した2月29日が空いているか気が気ではありませんでしたが、何とか空いていてホッとしました。

 病院へ行くと何か病気になったように気が滅入ります。それでも病院へ行かねば自分の体のことは殆ど分りません。早期発見、早期治療のために検査は欠かせないことなので、これからも何はさて置いてでも健康診断だけは受けようと思っていますが、しっかりと元気を確保してこれからの人生に備えたいと思いました。

  「顔色も 体も見ずに はいこれで えっ?と驚き シブシブ帰る」

  「どうだった? 聞かれはしたが 答えよう なくて分らん たったそれだけ」

  「パソコンに 向って話し する医者に 俺の体を もっと見てくれ」

  「二時予約 二時半終わる 三時半 家に帰りて 妻は驚き」

 







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shin-1さんの日記

○5本川の字になって寝る

 川の字は縦線3本で「川と読みますが、昨晩は泊まりにやってきた娘の家族と一つの部屋で川の字ならぬ「11111」の字になって寝ました。一番最初に寝るのは生後8ヶ月になる孫尚樹です。8時には風呂に入れて床につきスヤスヤと寝入っています。続いて私と一緒に風呂に入った5歳の孫朋樹が8時30分ころ床につきます。娘が来ない場合は私と床に入って私のお話を聞かせるのですが、昨日は娘がお母さん役で本を読み聞かせていましたが、昼間の疲れなのかアッという間に夢の世界です。

 その後娘と妻と私でみかんを食べながらテレビを視聴し、10時30分に孫を挟んで二人が眠ったようでした。その後私は書斎で締め切りが近づいている原稿を書いていましたが、12時になったのでそろそろ寝ようとパソコンのスイッチを切り、ストーブの火を落として居間に行きましたが、どういう訳か妻は私の布団を敷き忘れているようなのです。寝入っている妻に声をかけるものの、寒くて面倒くさかったのか、「お父さん今日はみんなで寝よう」と自分の横に来て寝るよう勧めるのです。仕方がないので一番隅の妻の横に潜り込みました。妻の体温で布団の中は暖かく、私の冷えた手と足が入ると妻はクルリ背を向けて孫の方を向いて寝てしまいました。やがてそのうち私も夢の世界に突入しましたが、娘は5歳の孫朋樹を12時にトイレへ連れて行き、途中尚樹にお乳をあてがう程度で大した混乱もなく朝を迎えました。私は朝4時の起床なのですがこの日は孫と一緒に寝るよう妻から言われ、5時頃まで布団の中にいました。生後8ヶ月の尚樹は既に目を覚ましていて、指を吸いながら一人遊んでいました。娘は尚樹のオムツを替えてまたスヤスヤなので、妻と私の間に孫を入れて遊んでやりました。孫は豆電球の光ながら笑顔で私と対話です。対話といってもまだ言葉は喋れませんが、それでも「アー」とか「ウー」とか何となく分るような言葉を発して私の顔を触ったりしながら30分くらい遊びました。娘がお乳を与える間に床から抜け出しましたが、まるで雑魚寝ながら、昨晩は楽しい一夜を過ごしたのです。

 そういえば子どもが小さい頃は5本川ならぬ6本川の字になって同じ部屋で毎日寝たものでした。夏になると子どもたちは部屋の中を寝たまま自由に動いて、子どもを捜すのに迷ってしまうようなことがしょっちゅうでした。冬になるとはみ出す子どもを布団の中に入れるのに一苦労もしました。また子どもにオネショを掛けられ風呂場まで走った経験も何度かありました。でも振り返れば貧しくて決して豊ではなかったけれどあの頃が一番幸せだったなあと思うのです。親父がいつも「子どもが小さい頃が家庭は一番幸せだ」と言っていた意味が分るような気がするのです。孫の乳臭い匂いも、オムツから出る匂いも全て懐かしさの象徴だと思いました。

 いつの間にか四人もいたわが子はそれぞれ大きくなって、古巣から旅立ってよきました。気がつけば親鳥二人に年老いた老い鳥が一人、肩を寄せ合うように古巣で生きています。たまに来る孫鳥たちもやがて大きくなってわが家と同じように巣立って行くのでしょうが、少し寂しく少し切ない家族の運命を感じました。

 ふと、娘婿が一緒に来ない日はこれから、孫が来る度にこんな寝方もおつなものだと妻に話しましたが、「私は眠れないので反対」とあっさり否決されてしまいました。そういえばオムツを取りに行ったりり布団を敷いたりと、週末に孫が来ることによる妻の仕事量増加は、目には見えないけれどおびただしいものがあるようです。

  「孫が来る 孫が帰るの 大騒ぎ 嬉し半分 寂し半分」

  「川の字に なった布団に 潜り込む 孫の匂いは どこか懐かし」

  「また一人 また一人去り 気がつけば わが家は古い 三人残る」

  「オシッコに 起す夜中の 大騒動 孫は寝ぼけて そこらウロチョロ」   

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shin-1さんの日記

○地域活性化講演会

 あらかじめ電話で聞いていた会場となる公民館の電話番号をカーナビに入力し、確実に行くことが出来ると確信したので、少し寄り道をして水軍城に立ち寄りました。何年か前妻と来た時はあいにく休館日だったため中を見ることが出来なかったのですが、この日もまた運悪く休館日で、運の悪さを雌時と嘆きました。夕闇迫る午後5時前のことゆえ人の気配は全くなく、一人で天守閣のある頂上までの急な坂道を登って行きました。

 入り口には村上水軍の旗印を示す絵文字が庭木で表現していました。

 そこここに村上水軍の旗印が色鮮やかに立ててられて、何処かから水軍の雄たけびが聞こえてきそうな雰囲気です。

 天守閣まではそんなに険しくもなく階段を上がる毎に周りの眺望が開けて絶景の地にありました。

 城山の頂上付近から横道が続き、お寺の裏にある村上一族のお墓へと通じていました。

 墓地は水軍の武将らしく格式の高い五輪の塔が幾つもあって、歴史の重さを感じました。



 金蓮寺は村上水軍ゆかりの寺で、山門の入口にはめずらし石仏の阿吽像が立っていました。

 目指す大浜公民館は目の前に向島にかかる大橋が見える絶好な場所にありました。公民館の施設は立派で、みかんの形をした丸いドームのような屋根が目印と伺っていたので、迷うことなく少し早めでしたが明るいうちに到着しました。館長の酒井先生と職員の楢原さんが優しいい笑顔で迎えてくれました。聞けば酒井さんも楢原さんのご主人も私と同級生だそうで、楢原さんのご主人は退職後釣りや畑仕事三昧の暮らしをしているそうで羨ましくも、同じ世代の話に花を咲かせました。

 この日は今年一番の冷え込みにもかかわらず和室には沢山の人が集まって、時間通りに集まって時間通りに始まった和気藹々の姿に、大浜地区の文化度の高さを感じました。2月3日の節分の日には伝統行事の神明際という伝統行事も予定されているそうで、この地域ならしっかり生きていけると確信がもてました。

 私の話は夜分のことでもあり、ましてや疲れた体を押して集まって来ているのですから、四方山話のような楽しいい話にしようと心がけて1時間30分程お話させてもらいました。この地域は70歳以上が33パーセントを占める限界集落に近い感じの地域ですから、これからの生き方は助け合いと自分を見失しなうことなく生きることが大切だと強調しました。

 いい集会に参加するとほのぼのとした気持ちになります。8時40分に終わり、楢原さんから「お茶でも」と誘いを受けましたが、「今日中に帰りたいので」とすまなく断り、元来た道と橋を渡って帰って来ました。夜道といいながらそれでも自宅に帰ったのは11時を過ぎていました。

  「水軍の つわものどもが 夢の跡 訪ねて騒ぐ 同じ海人」

  「同年の 人と話せば 何となく ホッとするやら 嬉しいやらで」

  「お土産に 八朔一箱 いただいて もと来た道を ほのぼの帰る」

  「いいですね 田舎の集まり 笑い声 ここにも贈る オンリーワンを」




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shin-1さんの日記

○久しぶりにしまなみ海道を渡る

 四国には贅沢に鳴門~明石ルート、坂出~岡山ルート、今治~尾道ルートと3本もの橋がかかっています。いずれもそれなりの期待を込めてかけられた20世紀の国家的大型プロジェクトでしたが、残念ながら橋の効果はブームで終り、経済発展までには波及していないようです。

 それでも私たち四国に住み、本州と行き来をする私のような人間にとって三つの橋はこの上ない便利さで、その目的や用途に合わせて使い分けています。例えば東京行きの深夜バスは鳴門~明石ルート、京阪神へは鉄道併用橋の坂出~岡山ルートを通って新幹線接続、中国地方へは歩道共用の今治~尾道ルートを使っていますが、自分が車を運転して圧倒的に多いのはやはり坂出~岡山ルートが多いようです。

 昨日は尾道市と合併した因島大浜公民館の招きだったので、しまなみ海道を通って講演会に出かけました。このルートを渡る度にいつも思うのですが、芸予諸島を縫うように走るこのルートの景観は素晴らしく、全国の仲間に見せてあげたいような気持ちになります。まず最初に渡るのは今治来島海峡大橋です。この橋は世界でも類を見ない三連吊橋でその優雅さはどの橋にもないような見事なものです。残念ながら自分で運転して車で走るとそうそうわき見運転も出来ないので景色を楽しむことは出来ませんが、それでも右や左や橋下を行き交う船等が長閑な瀬戸内の景観を醸しています。

(三連吊橋の来島海峡大橋)

(大島大橋)
(大三島大橋)
(愛媛県と広島県を結ぶ多々羅大橋)
(平山郁夫画伯書の多々羅大橋標柱があるサービスエリアからの遠望)

 しまなみ海道には合わせて10の橋がかかっています。大島大橋は宮窪と伯方、大三島大橋は伯方と大三島をそれぞれ結んで、上浦と瀬戸田にかかった多々羅大橋が愛媛県と広島県を結んでいます。トイレ休憩のため瀬戸田のサービスエリアへ立ち寄りました。ここも季節柄閑散としていて、駐車している車は3台ほどで、店の中に入ってみたものの、客は一人もいませんでした。何年か前の開通に沸いた頃、ここへ車を止めて婦人会のおばちゃんたちと多々羅大橋を歩いて渡った記憶が蘇えってきました。あの頃はみんな若かったし、この界隈も活気に満ち溢れていました。しかし通行料金の高さなどもあって、最近はめっきり人も減り、どうすれば沿線の活性化が図れるか会議を続けていますが妙案はないようです。

 カーラジオが北海道の旭川では氷点下30度を越え、今年一番の冷え込みだと報じていましたが、サービスエリアでも風があって底冷えがするので、早々に車へ戻り出発しました。車は瀬戸田と因島にかかる因島大橋を渡って、因島南のインターチェンジを下りました。夜の集会ながら不案内な土地柄もあって、早めに出発したため、全ての橋の全容を見ることが出来てラッキーでした。それにしてもしまなみ海道の橋は素晴らしいの一言です。

(因島大橋)

 橋を渡りながら橋沿いに暮す人たちのことを思い出しました。今治には河上、日浅、湯山さんなどフロンティアグループのメンバーである私の友人が沢山住んでいます。またわが息子も今治の警察署に勤務しています。吉海に住む矢野さんは合併して今治市役所に勤務、今年の3月で退職すると年賀葉書に書いていました。伯方の赤瀬さん、宮窪の村上さん、大三島の藤原さん、上浦の後藤さん、瀬戸田の金本さんなど、数えれば切りがないほどの人々に出会っています。それぞれ合併という訳の分らぬ時代の流れに翻弄されながらも必死で生きているようです。暇が出来たら島伝いに出会いの旅でもと思っていますが、いつになることやら・・・・。

  「橋渡る 度に顔々 思い出す 懐かしき日々 昨日のように」

  「便利だな 金は高いが 尾道へ 日帰り旅の 出来る幸せ」

  「寒さゆえ 島沿い故に 人もなく 手持ち無沙汰の 店員こっくり」

  「あの船は 何処へ行くのか 橋の下 白波けたて 西に東に」



 

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○「何がないか」より「何があるか」が大切

 昨日ある新聞社の記者からメールが入り、昨年11月に講演に出かけた地域の活性化について意見を求められました。私が訪ねたその地域は歴史や自然それに地理的に、私たちの地域からすればはるかに条件がいいと思われるのですが、特に観光は右肩下がりでこのままだと将来への不安を隠しきれないというのです。「そこで無から有を生んできた若松さんお知恵を」というのですが、「私如きの知恵で地域が起きるのだったら既に起きています」と前置きし、お話をさせてもらいました。

 地域づくりでいつも問題になるのは発想の原点を「何がないか」から始めることです。九州や東北では新幹線の延伸工事が進んでいるようですが、新幹線のルートは政治家が深く絡んでいるとの噂は聞いているものの、誰が決めるのか私たち凡人には知るよしもありません。幸運にもルートになった地域は「新幹線が通ったら必ずいいことがあるに違いない」と思うのは当然のことかも知れません。ところが外れた地域は「新幹線が通らないのは国の責任だ」と他力本願を嘆くのです。これは「何がないか」を如実に物語る現象なのでしょうが、四国などは新幹線の「新」の字も望めない地域ですから、「新幹線がないから」なんて考えず、別の事を考えるのです。

 これは瀬戸内海に3本の橋がかかったころの話によく似ています。橋がかかれば島も四国も良くなるとみんな信じていました。しかし橋のブームは一年も持たず、橋がかかった効果など庶民の暮らしには殆ど影響が出ませんでした。橋のかかった島でさえ、フェリーの減便でかえって不便になったようです。更に追い討ちはストロー現象で過疎化の波は一層激しくなっているのです。

 地域づくりにとって地域資源を生かすことは当然のことなのですが、その地域に暮らしていると自分の地域にある「お宝」には中々気付かないものなのです。外からそのまちを訪れた時感じる香りや風さえもそれは当たり前になっているのです。私は全国を歩いていますが、その地域には風土と呼ぶに相応しいそこにしかないものが必ずあって、そのまちに足を踏み入れた瞬間、違った文化を感じとれることができるのです。でもそれをいくら私が言っても地域の人々の心の扉が開かなかったら、それは潜在能力であっても健在能力に変化しないのです。つい最近はワークショップなどの技法が取り入れられて「まち歩き」による「地域資源発掘」が行われていますが、まさに地域を見つめ、地域に何があるか考え、それをどう生かすか考えれば幾らでも生かす資源は見えてくるのです。ただそこで終わると振り子時計の原理で「ああでもない、こうでもない」の議論で終ります。次に進むには実践と物語づくり、そして情報発信というステップアップを遂げなくてはなりません。私はこれを地域づくりステップアップの7段階と称して、関わる人たちに自分達のレベルを確認させました。そうすれば次のステップへと進めるのです。

 地域づくりは人の流れによる経済を高めなければ何の役にもたちません。1回のイベントを開いて糞と小便とゴミだけが落ちたのでは駄目なのです。でも最初は糞と小便とゴミだけでも落さなければ次には進めないことも肝に銘じなければなりません。

 夕やけぴラットホームコンサートから始まった夕日によるまちづくりが、ソフトからハードを産んだ仕掛けや行動はまさにその典型で、観光客ゼロが55万人になり、経済効果をもたらした夕日によるまちづくりは、やれば出来ることを証明しています。

 私の町にには何もない。だから何でも出来る。そんな開き直りな行動が自称日本一夕日が美しいオンリーワンの町をつくったのです。地域づくりは人生と同じで、できるだけ思いどおりにならない方がいいものです。思いどおりに行かないからこそ他に方法はないかと知恵を巡らすのです。工夫や抑制や難儀の結果思わぬ好機に巡りあい、一気に開花した事例は山ほどあるのです。

  「何がない いつも言うけど 何がある ただそれだけで まちは起きます」

  「幸運は 不運の中で 生まれくる 不運の次は 必ず幸運」

  「世の中は 思い通りに ならぬもの 汗知恵出せば 道は開ける」

  「いつまでも 議論ばかりじゃ 進まない 振り子時計は 行ったり来たり」

  


 

 

 

 

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