shin-1さんの日記

○いやあ、驚きました

(すっかり様変わりした高松駅前のサンポート高松)

 「若松さんではありあせんか」。小豆島へ向けて出港を待つ高松市のサンポート高松での出来事でした。いきなり50歳がらみの素敵な女性が話しかけてきたのです。「はいそうですが」と怪訝そうに対応する私に、「やっぱりそうでしたか。列車の中でそうではないかと思っていたので」と話しをつなぎ、矢継ぎ早な談話が始まりました。そしてその輪は女性のご主人と連れの外国人夫妻を巻き込んで賑やかな話に広がって、船が出港してから小豆島に到着するまで延々と続いたのです。

 八幡浜で私の講演を聞いたこと、夕日によるまちづくりやシーサイド公園を造って双海町を有名にしたこと、海岸の政争を0年余りに渡ってやったこと、植えてはいけないと渋るJRに対抗してポケットから菜の花の種を落として花を咲かせたことなどなど、驚く事に、まるで今話した話を録音テープで再生したように、その女性は私の講演内容を覚えているのです。「あっ、思い出した。私も何年か前、商工会青年部の講演会であなたの話を聞きました。あの時もその木になるカバンを持っていましたよねえ」とご主人も私の思い出の糸にたどり着いたようでした。

 ご主人は青年海外協力隊のメンバーとしてシリアで2年間過ごしたらしく、堪能な語学力で連れの外国人夫妻と、私の事を盛んに紹介しているようですが、残念ながら時々単語が分る程度で理解不能でした。女性は時折電子辞書を使いながら、話の中に輪って入り盛んに私と3人の橋渡しをしてくれました。

 聞けばこの外国人は既にリタイヤしてカナダに住みながら世界中を旅してボランティア活動をしているとのこと、外国人の奥さんは話をしている間も趣味の編み物の手を休めることなく編み続けていました。聞けばご主人の靴下も編んだそうで、その素晴らしい出来に目を見張りました。

 私は通訳してくれた女性と、同行していた外国人夫妻を引き合いに出しながら様々な話をしました。日本人と外国人の生き方の比較、団塊の世代といわれる日本人のリタイア後の生き方、ボランティアに対する考え方の違い、日本の文化に対する価値観のお粗末さなど、素晴らしい考えに圧倒されながら意見を交わしましたが、その殆どは私が日頃考えている私の考えそのものであり、深い共感を得たのです。

 私は4人に似顔絵の名刺をそれぞれ渡し、船着場で手を振ってお別れしました。何でも彼女たちは外国人の要望で、小豆島の高齢者施設を見学に行く途中のようでした。帰りの船が一緒になる事を期待したものの、私の帰りの船が一便早まり出会うことはありませんでしたが、旅先で出会った女性との出会いは私の昨日の旅をとても有意義なものにしてくれました。あいにく名刺を持ち合わせていなかった相手の女性は山本さんというとても品のある、それでいてしっかりとした考えを持っている女性でした。旅先で出会ったほんの一瞬の出来事でしたが、帰る船の中や、特急いしづちの流れては消える車窓の景色の中に彼女の顔がちらつきました。松山まで迎えに来てくれた妻にその女性の話しをしましたが、「やっぱりね」と、その女性の住んでいる所が八幡浜と説明しただけで、八幡浜出身の妻は自分とダブらせて話しをしてくれました。

 小さな町の名もなきに等しい私の話しをこうも鮮明に覚えていてくれる人は少ないと思いつつ、日々の暮しの中でこれからも話しに行くであろう講演を、ただ疎かにしてはいけないと深く肝に銘じたのです。揺り篭から墓場までといつも笑って話すように、幼児教育から高齢者まで、私に与えられるお座敷は年間百回を越えるほど沢山ありますが、私の話に共鳴したり、生きる勇気を与えてくれたと述懐してくれる度に、身の引き締まる思いがするのです。今日もこれから県立中央青年の家で愛媛県青年研究大会があり、講演を依頼されていますが、しっかりと話しをしたいと思っています。

  「若松さん? 船を待つ身の 旅先で 素敵な女性 いきなり声を」

  「肩書きが 巾を利かせる 日本人 リタイアしたら 何の役にも」

  「まだまだと 修行が足りぬ 自分恥じ 心新たに 挑戦はじめ」

  「残像が 消えては浮かぶ 汽車の窓 それ程強い インパクト受け」

  

 

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shin-1さんの日記

○赤トンボの小道具

 このところ落伍家「夕日亭大根心」という芸名で高座に上がって落語ならぬ落伍をやっていますが、よく使う小道具は竹で作ったトンボのおもちゃとハーモニカです。特に赤トンボは埼玉県熊谷市に住む龍前宏さんが送ってくれた向田邦子さんのテープを聞いてから思いついたお話です。向田邦子さんはよく外国へ旅行をしたそうです。発展途上国へ行くと子どもが観光地で物売りをしている姿をよく見かけるのだそうですが、子どもの生き生きとした姿に感動したそうです。私もかつて訪ねたメキシコでそんな光景を目の当たりにしたことを思い出しながら彼女の講演テープを聞いていました。

 ある国に行くと子供たちは到着した観光バスに群がって物売りをするのですが、その観光客が何処の国の人なのか言葉や顔つきで瞬時に見分ける事に驚いたと述懐していました。日本人だと思うと女性観光客には「美人さん」、男性観光客には「ヤンマー」と口々に叫びながら、日本人の心理を掴んで物を売る姿は実に逞しいものです。どうやら日本人女性は「美人」という言葉に弱いし、「美人」に憧れているというのです。

 この話を聞いてとっさに考え付いたのが、渥美清演じる「フーテンの寅さん」でした。寅さんは旅の行く先々で恋をして、啖呵をきりながら大道商売を続けるのですが、それもヒントにして赤トンボの何とも奇妙な動きを落伍に取り入れたのです。

 この赤トンボは私が教育長時代、教育委員会の職員の力を借りて大量生産し管内同和教育大会で参加者の度肝を抜いた経歴のある曰く因縁のある手作りおもちゃです。私は当時の窪田中学校長さんからご指導を受け少し手伝っただけでしたが、その時の赤トンボが5つほど手元にあったので、それを世に出したいとも考えているのです。まあそんなトンボですから落伍に使うのは知恵がいると思いながら、向田邦子―フーテンと寅さん―落伍家夕日亭大根心とつないで高座の友となりました。

 「さてお立会い、今日お集まりの皆さんの中で美人になりたいという女性は手を挙げてください。はいじゃあ今度は私は美人であると自認している女性は手を挙げてください。おっ、いましたね。自分で言っているほどは若くも美しくもないのに、美人だと自認している、あんたは凄く偉い人です。(笑い)さて、美人と自認するあなた、誠に恐れ入りますがちょっと前に出て来てください。実は今日私は美人測定トンボというのを4匹連れてまいりました。ここに取り出したる4匹の赤トンボは別名美人測定トンボというのです。一匹目は普通美人測定トンボ、二匹目は中美人測定トンボ、三匹目は上美人測定トンボ、四匹目は超美人測定トンボです。先日も藤原のりかという美人を相手にテストをしましたが、4匹とも留まり見事超美人の称号を獲得したのです。さてお立会い、まず左手の人差し指を出してください。おっ、普通美人測定トンボは見事留まりました。さて左手の小指の思い出を出してください。はーい、これも見事クリアーです。さてこれからが難しい、愛媛県ではまだ三匹目のトンボが留まった人はいませんが、うーん凄いですこれもクリアです。さて超美人測定トンボが留まればあなたは愛媛県一の超美人というお墨付きをいただいて、記者会見となるのです。わー凄い、そこのカメラを持ったお兄さん、世紀の一瞬です、明日の記者会見の証拠写真として記念に一枚撮ってあげてください。(大笑い)」

 まあこんな筋書きで話す予定なのですが、まだまだ未熟な小話で、会場を笑いの渦に巻き込むことはできません。いずれ真打にでも昇進する時期がくればもっと赤トンボの小道具は生き生きとすることでしょう。向田邦子さん、渥美清さん、ネタの提供有難うございました。

  「あら不思議 指先留まった 赤トンボ 美人願望 女性誰でも」

  「寅さんの 啖呵を学ぶ つれづれに 人の心理の 難しことか」

  「ちょっとした コツでほのぼの 大爆笑 笑いはいいね 元気の基だ」  

  「小道具を 使って話す 落伍家も 顔は悪いが 目だけは自慢」

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shin-1さんの日記

○ほどほどな出会い

 私には沢山の知人友人がいます。その中には一週間に二度も三度も出会うような人もいれば、半年ぶりというような人もいます。また年賀状を出してもあて先に届かず音信不通で帰って来る気になる人もいてまちまちですが、それらを含めて63年間の人生を生きて得た知人友人だけにこれからも大切にしたいと思っています。

 2~3日前、わが家に帰って玄関の戸を開けると、何やら白いビニール袋が置かれていました。おっつけ仕事から帰った妻に聞くと、「長浜の菊池邦求さんが自分で作ったお米なので食べてください」と、わざわざ持参してくれたそうです。菊池さんとはかつて公民館主事をしていた頃、県公民館連絡協議会の主事部会で役員をやり今も肝胆相照らす中なのですが、その後の職場がお互い違ったために多少遠のいてました。私も彼もリタイアして少し自由になったこともあって、最近は電話や先日のえひめ地域づくり研究会議年次フォーラムで再開し、見事音信が復活したのです。世の中には生き方が似ている人がいるといわれていますが、菊池さんも鏡に写せば私とよく似た人生なのです。

 青年団活動を経て社会教育の世界に入ったり、公民館主事集団「煙仲間」を組織したり、いい公民館活動をやったことなどは完璧に一致です。最も彼と似ているのは「NHK青年の主張」という今では神話になった主張大会の私が第十四回県代表、確か菊池さんは第十五回の県代表だと記憶しています。菊池さんはもの書きが得意で彼の論文は全国でも高い評価を得て、私に相当な刺激を与えてくれました。その後私の論文も海外派遣30周年記念論文が総務大臣賞を受賞したりしたのも、彼の影響と思っています。リタイア後の今は民生委員などをして社会活動をしていますが、菊池さんと出会うと何時間でも話したい心境になるのです。

 もう一人、何となく気になる人がいます。松山に住む玉井恭介さんです。玉井さんは海難事故で有名になったわが母校、愛媛県立宇和島水産高等学校の先輩です。早朝ミーティングでひょんなことから知り合い、広告会社に勤めていた頃私の自著本「昇る夕日でまちづくり」や21世紀えひめニューフロンティアグループの「今やれる青春」という本の出版を手伝ってもらいました。その後リタイアしたものの、砥部町の坪内家再生や高齢者福祉などで再三再四知り合い、先輩後輩ではない人間的なお付き合いを続けているのです。玉井さんは詩や絵が堪能で、司馬遼太郎に傾注していてよくその手の手紙が届きます。コーラスなどもやる、私流にいわせると風流な人なのです。「考える村村長」「今日閑人」などの肩書きを平気で使い分ける玉井さんから昨日、長い長い電話がかかってきました。彼が今夢中になっているのは放任園のミカンだそうで、私の友人の料理人真鍋さんに頼んでミカンドレッシングを作っているそうです。まあこんな具合で楽しくも何処か気になる変なオジサンなのです。

 今日は香川県小豆島へ講演に行くため朝4時前に起床し、パソコンに向いネットを開きメールの返信をし終えて、ブログを書き始めました。さて何を書こうかと思いながら手と頭がついつい二人の顔にたどり着いたのです。

ブログに人の名前を書くのは個人情報のこともあるので慎重にと思いつつ、平気で知人友人の名前を書いてしまう悪い癖は今も健在のようで困ったものです。知人友人の皆さんお許し下さい。

 さて私は今夜の帰りが遅くなるのでもう一本ブログを書こうと心に決めて朝早起きたので、この辺で菊池さん、玉井さんの話は続編ありということで終わります。

  「あの人は どうしているか 顔思う 俺のことなど 忘れていように」

  「米届き 炊きたてご飯 卵かけ 昔馳走の 思い出語る」

  「今日閑人 何とも素敵 ペンネーム 電話の向こう 楽しお話」

  「気になりつ ついつい疎遠 なりにけり 友を訪ねし 旅に出たいね」

 



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shin-1さんの日記

○メジロの啄ばみ

 裏庭にかなり大きなサザンカの木があります。剪定も親父がして大事に育てていますが、もうそろそろ山茶花の花も終りを告げて、赤い花びらを地面に落としています。このところの寒波襲来で周りに餌がなくなったせいもあるのでしょが、メジロが数羽山茶花の蜜を吸いにやって来て、小枝のすき間で戯れています。

 数日前にやって来た孫が私の書斎からこの様子を見て、「おじいちゃんあの鳥は何という鳥」と聞くのです。「目の周りが白いからメジロだ」というと、「このメジロに餌をやりたい」というのです。私は孫と一緒に台所へ行ってミカンを輪切りにして割り箸に突き刺し、孫と一緒に裏庭に出てシノブのからまった庭石に突き刺しました。警戒心の強い野鳥にとって人間は敵と思うのか、しばらく観察していたけれど一向に食べる気配はなく、孫は諦めて別の部屋に行ってしまいました。私も忙しさにかまけてすっかりその事を忘れていましたが、今朝書斎から見える庭石を見ると、いつの間にか孫と二人で突き刺していたミカンは無残なほどの食い散らかしようで、殆ど食べ尽くされているのです。

 その事に気付いた私は孫とやったと同じようにミカンを輪切りにして、再びメジロの餌場を作りました。今度は場所を少し移動して、書斎から丸見えの部分に置いたので少し時間がかかるかも知れませんが、やがて食べてくれることでしょう。

 孫の家では娘が毎日私のブログを読んでいるので、孫ににもこのことは今日のうちに伝わるかも知れないと思い、これから注意深くバードウォッチングを続けたいと思っています。そのため警戒心の強いメジロを意識して、書斎の吐き出し窓に白いカーテンを引いて、メジロに私の存在が見えないようにしてみました。

 虫が嫌い、鳥が嫌いだった5歳の孫も見違えるように成長し、今では親が心配するほど野性的な子どもに育ち、わが家へ来るとやれドングリを植えて芽を出させるだとか、虫を捕まえに行こうとか、盛んに私を誘うまでになりました。週末は孫の来訪を心待ちにする眉毛8時20分のおじいちゃんに変身している今日この頃です。

 最近はわが家に来ても外が寒いため、風邪を引かせては大変と部屋の中で遊ぶことが多くなりました。子どもは風の子と昔から言われているように子どもはやっぱり戸外で遊びたいようです。仕方がないので妻が取っておいた菓子箱などを利用して、ガムテープをふんだんに使い、様々な遊び道具を作っています。ダンボールアートとでも言うのでしょうか、先日はせがまれてロケットを2基製作しました。孫にとっておじいちゃんは何でも作ってくれる天才博士のような存在で、今度来る時はロボットを作る約束をして帰って行きました。

 お金で買えばなんでもすむ時代です。ましてやトイザラスなどのようなおもちゃ専門のお店もあって、子どもたちの目はそチラに向いてしまいがちですが、創作遊びを与えることも周りの大人の役割かも知れません。いい子、逞しい子に育って欲しいものです。

  「裏庭に 小鳥の餌にと ミカン置く 孫の優しさ 小鳥啄ばむ」

  「あの鳥は 何いう名か 孫が聞く お目々白くて メジロというの」

  「ロケットを 二つ作って 嬉しそう じいちゃん博士? そうだ博士だ」

  「ほら来たよ 口に手をあて 静々と メジロ指差す 爺と孫と」  

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shin-1さんの日記

○人を動かすには

 私はこれまで請われるまま様々な役職に赴いてきました。2年半前に合併による退職で殆ど全ての役職を退任して身軽になっていましたが、その後の継続した活動によっていつの間にか沢山の公職が復活し始めました。えひめ地域づくり研究会議の代表運営委員や21世紀えひめニューフロンティアグループ代表などに加え、来年度、つまり今年の11月14日と15日の二日間愛媛県で行われる予定の全国地域づくり団体交流大会の実行委員長も仰せつかって、事の重大さを認識しているこのごろです。

 「人を動かす」というおこがましい気持ちではなく、「人に動いてもらう」ためにはどうしたら良いか、これまでもこれからも考えなければならない私に課せられた大きなテーマなのですが、その基本は「人を動かすには耳を働かせ、人に好かれるには口を動かせ」という、昔の人の話しを信じて日々活動しています。

 「耳を働かせる」とは相手たる人に話しをさせ、その話しをしっかり聞くことです。人は多かれ少なかれ自分の意見を持っています。ところが普通の人はその場の雰囲気に飲み込まれて、自分の思っている事を中々口に出していえないものなのです。そんな折、相手の立場になってやんわり心の扉を開けてあげると、ポツポツながら話し始めるのです。コーディネーターとかファシリテーターなどという横文字の言葉が流行っているようですが、その本当の意味さえも分らない人からいきなり発言を求められた場合は、私だってドキドキする?のですから初心者は当然のことです。人間は不思議な事に「話せ」といったら話さないのに、「話すな」といったら話したがるものなのです。話したいけど話さなかった不完全燃焼は、会議が終わった後のプライベートな時になると、「私も言おうとしたのだがあの場の雰囲気では」と堰を切ったようにうっぷんを話すのです、そんな相手の心を推し量って発言させる妙技はやはりなれる訓練をする以外ないようです。

 私は根がおっちょこちょいだし、人のように周到な準備をするでもなく事を始めるアドリブ人間なので、その場の雰囲気を読み取って人の話しを聴くよう心がけていますが、やはり人を動かすには人の意見をしっかり聞くことこそ涵養なのです。

 人を動かすためにもう一つ大事なことは「人に好かれる」ことです。そのためには「口を動かす」ことも欠かせない大事なことです。人に会ったり電話をしたり、今の時代ですからメールのやり取りするのも人間関係を保つ上で大事なことなのです。私はデジタル万能な時代に生きていながら実はアナログ人間の典型で、未だに毎日三枚のハガキを書き綴り全国へ送り続けています。希少価値という点ではアナログなハガキは効果抜群で、ハガキのお陰で随分得をしています。見栄やおべんちゃらで人の気をそそり、好かれようとしてもそれは所詮メッキのようなもので、どこかで辻褄が合わなくなって、むしろ自分の価値を下げることが多いようです。結局「自分の値打ちは自分で決めるものではなく、人が決めるもの」である事をしっかり肝に銘じるべきだと思うのです。

 「人に好かれる」ためには「相手の立場に立って考える」ことも見逃してはなりません。これも口で言うのは簡単ですが、相手を知るためには様々な努力が必要でしょう。その一番の近道はパートナーから始めることです。私にも世間並みに妻がいます。私が世界中で一番良く知ってるのは妻のはずですが、いつも一緒だと悪い処ばかりが目に付いてしょっちゅう喧嘩もします。でもちょっとした思いやりを持って妻を見てみると、意外と他の女性にはないいいものが沢山見えてきます。私は妻との関係を実験台?にしながら、知人友人との関係を「人に好かれる」よう努力をしています。そんな相手をいたわる年齢になったせいもあるのでしょうが、お陰様「口を動かす」ことによっていい人間関係の中で日々の暮しをしています。幸せです。

  「耳二つ 口は一つか ないけれど 使い次第で 動いて好かれ」

  「話し聞く ただそれだけで 納得す そこから始まる 人の関係」

  「好かれたい 人を好いたら 直ぐ出来る こんな単純 計算どおり」

  「年金を 分けて離婚が 増えている 一足す一が 一引く一に」 

 

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shin-1さんの日記

○落伍家「夕日亭大根心」移動寄席

 今日は地域づくり人養成講座の発表会並びに閉講式が松山市民会館であり、出席しました。午前10時半からの開会だったのですが、どうしても急いで片付けなければ」ならない仕事が急に入り、多少遅れて塾生の発表の最初を聞き損じてしまいました。遅れることの嫌いな私としては、自分の出番で穴を空けることはなかったのですが、とんだ失態でお詫びのしようもないのです。それでも皆さんのレポート集を基にした発表は中々のもので、いい勉強になりました。

 この日の私の仕事は閉講式など全ての日程が終わってから、特別講義として落伍及び落伍ライブを1時間半の予定でやるのです。昨日まで広島へ出張していた関係もあって今日は朝から人間牧場へめくりを取りに行ったり、準備のためにあれやこれやの大騒動でした。落伍をやるのには自分の高座に上がる服装から考えなければなりません。センターの清水さんから「カジュアルな服装で」とお許しをいただいていたので、妻の言うがままの服装にしました。だいたい私は平生から服装には無頓着なため、放っておいたら平気で普段着で出かけるような人間なので、妻は自分が笑われると思いいつも気が気ではないのです。ですから私の服装はパンツからネクタイまで全て妻のコーディネートしたものを、文句を言いつつ着て出かけるのです。

 それでも落伍の高座となると妻の用意した服装に加え、羽織に見立てた裂き織のちゃんちゃんこ、出囃子用のCD、拍子木、高座本、机の上に置く木になるカバン、ハーモニカ、人間牧場の切り株の上で高座をやってる写真、めくり、小道具と、出かける時忘れてはいけないと思って車に積み込んだものの、清水さんから指定された大根一本、座布団一枚、メキシコ産の角笛などをあいにく忘れるところでした。

 今日の反省ですが、これほどの小道具が必要な訳ですから、これからは忘れるといけないので準備物一式の目録を用意して望まなければならないとしみじみ思った次第です。

 さて夕日寄席は殆ど時間通り始まりました。重さ0.1トン、大番頭松本宏さんの歯切れ良い前口上に続いて拍子木が打たれ、出囃子に乗って清水三の案内で高座に上がりました。高座といっても机を三つ並べただけの仮の舞台です。そこで「えーご紹介をいただきました夕日亭大根心でございますが、毎度馬鹿馬鹿しいお笑いを一席・・・・」と気がつけば1時間ほどやっていました。持参した大根は八幡浜の女性に差し上げたりしながら少しずつ笑いの中に引きこんで行くのです。その後は即興で落伍ライブです。参加した人に手を挙げてもらい私が面白おかしくお返しをするのです。いきなり三瓶の人から手が挙がり「まんぼうを使ってまちおこしをしているが中々上手く行かない、師匠にお尋ねしたいが何か妙案はないか」、私は即興で「へい、マンボ」「マンボの音楽は万国共通だからこれを使ったら歌も踊りもできます」とやったら、大爆笑となりました。落伍ライブの面白さをやっと掴んだ一瞬でした。


 落伍のあと、農協の地下室?で懇親会があり、美味しい料理やお酒を飲みながら楽しい交流会をしました。この日は昨年、一昨年この研修を受講した先輩達も駆けつけて後輩たちを激励していました。中にはこの講習受講後に町会議員になった優秀な女性もいて、裾野の広がりを感じさせてくれました。

 今日は粉浮舞うあいにく寒い一日でしたが、心がポカポカするようないい研修会でした。

  「俺だって 昔はこんな 時あった 発表緊張 する人を見て」

  「かまぼこの ようだと批評 板につく 笑い飛ばして 今日も元気だ」

  「わが話し 白色レグホン トンチンカン 尾も白いとは 年配の人」

  「大根を 洗って持参 ネタにする 妻の白肌 褒めて腐して」 


 追伸

    今治の村上太さんから、メールで落伍への感想文が寄せられました。写真を添付してくれました。さすがカメラマンだけあって、現場の雰囲気がリアルに表現されていて、いい写真ですので公開します。

  

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shin-1さんの日記

○満月の朝

昨晩広島県福山市から帰ってゆっくりのんびりしたため、今朝はゆっくり起きようと心に決めて寝たものの、やはり習慣とは恐ろしいもので、やはり今朝も4時過ぎに目が覚めました。昨夜強風注意報が県下全域に発令され、窓の外では風の音がピューとうなりを上げています。書斎に行きパソコンを開きながら、「そうだ今日は落伍ライブを頼まれていた」と思い、急な思いつきで人間牧場の水平線の家へ落伍の「めくり」と台本を取りに行く事にしました。町のミュージックサイレンが鳴り出し外が薄明るくなった6時を見計ってトラックを運転して人間牧場へ向いました。海岸国道378号に出ると西の空には綺麗な満月の月明かりが冬の海を煌々と照らし、トラック運転席のの寒さをより寒く感じさせました。そんな光景を見ながらふと過ぎし日の思い出が二つ頭を過ぎりました。

 その一つはシーサイド公園を通った時です。このシーサイド公園が出来ても14年になりますが。私は12年間も毎朝4時に起きてこのシーサイド公園の砂浜に立ち、来る日も来る日も毎日毎日砂浜の掃除を続けたのです。冬になると今日のような寒さや風はザラで、寒さの中で海岸のゴミを行ったり来たりしながら掃除したものです。最初は奇人変人のような目で見られたり、そんなええ格好もそのうち辞めるだろうと人々は冷ややかに見ていましたが、12年間の続けたボランティア善行は多くの人の共感を呼び、掃除の行き届いたシーサイドとして内外に広く知られることとなりました。私を信用してもらったこの行動が観光カリスマ百選にも選ばれる一因ともなったのです。反対を押しての夕日やシーサイド公園建設だったため、それなりの覚悟はしていましたが、掃除という思わぬ出来事で信用を得るとは夢にも思いませんでした。結果的には無理がたたって胆のうを患い入院したり酒が飲めなくなりましたが、それでもいい思い出なのです。

 もう一つは下灘の豊田漁港を通った時です。今朝は海が荒れていて漁港には黄色い漁船がまるで羽根を休める鳥のように行儀よく並んで港に係留されていました。私は18歳から役場職員になるまでの7年間家業である漁師をしながら青年団活動をしました。漁船漁業の朝は早く午前1時から2時頃にはこの港を出港しエンジン全速で漁場である佐田岬半島へ向うのです。海は春夏秋冬それぞれの季節風が吹き、それぞれの季節に合った魚を求めて漁をするのですが、特に冬海の早朝は寒くて手が凍えるほどでした。それでも午後3時の帰港時には船倉いっぱいに魚を入れて意気揚々と帰ったものです。今朝の海は大寒ということもあって月明かりの海はそんなここを思い出させてくれました。もう40年も前の出来事なのについ昨日のように蘇えってきました。

 まだ薄暗い人間牧場から見る夜明け前の瀬戸内海は海からの冷たい風が吹きつけるものの、凛として気持ちがいいものです。トラックの灯りで水平線の家の戸を開け中に入って電気をつけ、押入れから高座本とめくりを取り出し、永井は無用とばかり再びもと来た道をわが家へと引き返しました。時計を見ると6時40分です。片道20分、往復40分でしたが過去を思い出すちょっとした感傷的な時間となりました。

 今日はこのめくりと台本を基に「地域づくり人養成講座」に出席し、松山市民会館で落伍ライブをやる予定です。早朝のこの二つの思い出も大切な私のネタ話しとして披露しようと思いました。

 「そうだ、主催者であるえひえめ地域政策研究センターの清水さんから芸名由来の大根も持参するよう言われていた」ことを思い出し、これから自宅横の家庭菜園に行って大根を引き抜き洗わなければなりません。寒そうです。

  「月明かり 見ては感傷 思い出す 掃除や漁業 明け暮れ日々を」

  「もし俺が 掃除をせずば 誰がした 公園見る度 汚れ気になる」

  「寒空を 照らし続ける 灯台の 鈍い光は 今も変わらず」

  「人は皆 こんな思い出 持ちながら やがて朽ちるか 俺もそのうち」 

 














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shin-1さんの日記

○広島県社会教育研究大会に招かれて

 広島は近いようで遠く、遠いようで近い県です。お隣の県といいながらやはり海を隔てているため頻度はそれほど高い方ではありません。しかし島根や山口へ行く時は必ず中継地点となるため意外と足繁く通っているのです。そして今日の福山市神辺文化センターで行われた研修会にも、意外と多くの馴染みの方々がいる事にあらためて驚いたのです。

(立派な神辺文化センターです。横には図書館も併設されていて文化の殿堂という感じがしました)
 

 会場について講演が始まる前と講演が終わってから、講師控え室へ沢山の人が挨拶やら面会に来てくれました、そして講演中も盛んに手を振って私にエールを送ってくれるのです。そういえば広島の色々なまちへ講演に行ったなあと、過去に行ったまちや過去に出会った人々の顔を思い出しました。

(講演をする前にパチリ一枚、ブログ用にステージから撮らせてもらいました)

 

 主催者の話だと、大体100人くらいの参加者を予定していたそうですが、この日の集会には倍の200人が参加したそうです。その様子を見て私の「ネームバリューも大したものだ」と事務局や福山市教育委員会の担当者がお世辞を言ってくれましたが、何はともあれ参加の数だけから言うと大成功のようでした。

 私の話は楽しいお喋りに終始しました。どんな立派な話も聞く参加者が寝たのでは何にもならないのですから・・・・。

 講演終了後早速2件の講演予約が来ました。来年度のことなので日程は決めませんでしたが、「帰ったらメールを入れる」といって分かれました。

 講演が終わって帰る頃には雨も上がって曇り空、それでもこの寒さだし東京地方は朝から雪が降っているという情報もあって、講演が終わり次第文化センターを後に帰郷の途につきました。尾道からしまなみ海道に入り、先日因島大浜に行った折は通らなかった2つの橋を明るい内に通ったので、車の中から尾道と向島を結ぶ尾道大橋、向島と因島にかかる橋因島大橋をパチリ、デジカメに納めました。特に尾道大橋は旧道と高速道路を同じように二つの橋が並んでかかる珍しい橋なので、一瞬どちらの橋を渡ればいいのか迷うような錯覚をいつもするのです。

(二つの橋が平行してかかっている珍しい尾道大橋)
(因島大橋)
(愛媛県に入り最近の雨で見えなかった西空が久しぶりに茜色に染まりました。行く雲も早く、橋を渡る風も車を揺らすほどに吹きつけるようになり、速度を70キロという制限速度を守りながら走りました)

 

 今回の大会も県レベルの大会だけに、主催者や来賓者として広島県教育委員会、福山市教育委員会などの社会教育関係者が随分顔をそろえていて、役職的には高い身分の名刺を沢山いただきました。かつては私もそんな名刺を持ち歩いていましたが、今はその名刺もなく人を食ったような「人間牧場主」という菜もなき名刺しか持っていないのです。ふと、この人たちは今の社会教育の現状をどう見ているのだろうと、雑談のつれづれに話しを持ちかけましたが、残念ながら今の社会教育の厳しい現実を直視したり、その解決に向けて努力している妙案は語られず終いでした。多分今の忙しい仕事に悩殺されて日々を暮らしているのでしょが、大変失礼な話ながら危機感がないとも感じたりしました。

 今社会教育は危機的状況にあります。市町村合併によって公民館が自治センターなどと改称され、合理化の名の元に職員の引き上げが相次ぎ、名ばかりの住民自治という名前にすりかわっています。また、職員のやる気も失せて第一線の公民館などはかつて隆盛など見る影もないのです。社会教育に命を燃やし、社会教育を恩人と思っている私にはそう見えて仕方がないのです。

 一私人として人間牧場で生涯学習をやろうと決意したのもそんな世相を肌で感じたからかも知れません。

  「ふるさとが 段々遠く なりにけり 合併するも 心寒々」

  「隣県 だのに知り人 多くいて 懐かし笑顔 心癒され」

  「帰り道 西空茜 今頃は ふるさとの空 同じ茜に」

  「一泊の 講演旅行 終えホッと 妻の笑顔に 心癒され」

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shin-1さんの日記

○葛原しげるのふるさとを訪ねる

 広島県福山市で開かれた広島県社会教育研究大会に招かれたので、事務局の言うがまま昨日から福山市に入り、事務局の手配したウエルサンピア福山という厚生年金健康福祉センターへ泊まりました。数日前に尾道市因島大浜公民館へ出かけたばかりでのしまなみ海道なので、知ったかぶりで走りましたが、二日目の寒波で広島県側の山並みには白い雪が積もり、うって変わった景色に多少驚きながら夕方6時ごろ到着し、あいにくの雨なので散歩することも出来ず、ホテルのレストランで簡単な夕食を取り、やってきた事務局の方と明くる日の簡単な打ち合わせを終え、久しぶりに何するでもなくホテルでのんびりさせてもらいました。ホテルの部屋の照明は何となく薄暗く、本を一冊持参していたのですが、目が疲れて早々に止め、テレビを見る事にしました。どこのチャンネルを回して見ても肌に合わないバラエティ番組ばかりで、よくもまあ毎日こんな番組だけで国民は飽きないなあと思いつつ、ニュース番組に切り替えました。しかしここでも世界中で起こっている株安、国会の自民党と民主党のガソリン税の揉め事ばかりで、ヘキヘキしながらまた本を読むことになったのです。

(宿泊したウエルサンピア福山)

 事務局から送られてきた資料を見ていると、ふと福山の平井悦夫さんのことを思い出しました。彼は私に広島向島に住む半田さんが喋った講演集「ハガキは嬉しい活力素」という本をくれた方で、私が何年も毎日三枚のハガキを書く事を日課にして過ごすきっかけを作ってくれた張本人なのです。喜び堂のときめ木タイムスというハガキ文を毎月贈ってくれる方なのです。事務局の方の話だと平井さんに「若松さんが来る」ということをはなしたそうなのですが、あいにく仕事の都合がつかないとのことでした。

 そういえば平井さんに連れられてもう二十年も前、「夕日」の作詞で有名な葛原しげるのふるさとへ連れて行ってもらったことも思い出しました。「そうだ明日は講演会は午後なので午前中葛原しげるの生家を訪ねよう」と思いました。

 朝は5時過ぎに目が覚めましたが何をするでもなく本を読んで7時まで過ごし、7時半からレストランで食事をしました。何人かのお客さんは若い人は洋食、私のような年配は和食と食べるものがはっきり分かれているようで、面白いなあと思いました。ここの白いご飯は最近食べたご飯の中ではぴか一で、美味しいと思って食べました。私だけではなくあちらこちらで「ご飯のお代わり」が何人もありました。

 9時過ぎにチェックインを済ませ直ぐ横にあるバラ公園の見学に出かけました。厳冬の今の時期はバラの花も休眠状態で見る影もなくさびしく雨に打たれていましたが、それでもその素晴らしい開花の時期を思いながら雨に濡れた公園をのんびり散策しました。

(福山のバラ公園)

 その後車に戻り神辺文化センターをカーナビに入力しいよいよ出発です。センターまでは30分ほどで間違うことなく性格に到着しました。事務所に行って職員の方に道順を聞きましたが、差し出されたマップでは中々込み入って分らず、書き込んでもらった福山通運の倉庫を頼りに見当をつけて走りました。私の感は大体あっていてそれなりの道を進みそれなりに間違うこともなく生家へたどり着くことが出来ました。生家の前で車を止めそこら辺を散策したり、ボタンを押すと「ぎんぎんぎらぎら」の童謡が放送されびっくりしました。

(葛原しげるの生家)
(生家前に建つ夕日の歌碑)
(ボタンを押すと夕日の歌が聞こえます)

 私は車に入ってハーモニカを取り出し葛原しげるの歌碑の前でこともあろうにハーモニカを吹いたのです。「夕日」と「赤トンボ」と「夕やけこやけ」の3曲を吹きました。人がいたらこんなこと恥かしくて出来なかったのでしょうが、あいにく雨が降って人影もなく幸いだと思っていたら、なんとそこへタクシーが一台来たではありませんか。時既に遅しでした。タクシーから降りてきた方は見ず知らずながら私のハーモニカの音色に拍手を送ってくれました。嬉しいやら恥かしいやらで弱りました。

(歌碑の前でハーモニカを吹く私)

 それでも夕日によるまちづくりを二十年にわたってやってきた私の、葛原しげるへのせめてもの供養だと思ってやったことで、少し肩の荷が降りたような気持ちになりました。というのも、私が手掛けたシーサイド公園の一角に童謡の小路というの造っていますが、7基あるひとつが葛原しげるの「夕日」なのです。既に他界している葛原しげるに何の相談もなく造ったことへの謝罪の意味も込めてのハーモニカ演奏だったのです。

  「葛原の 生家の前で 一人吹く ハーモニカの音 無住家響く」

  「句碑建てた 詫びのつもりが 客一人 タクシー降りて 拍手送りて」

  「住む人も なくひっそりと 時刻む 屋根のしかかる 青竹一本」

  「葛原は 夕日を思い 歌作る 同じ夕日で 私は観光」

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shin-1さんの日記

○限界集落

 昨晩は「限界集落」についての勉強会が伊予市であり、仲間8人を誘って出かけました。この手の勉強会は得てして役所か役所に務めている人が仕掛けるものですが、今回は伊予市の商店主として中心市街地の活性化に積極的に取り組んでいる人の音頭で始めました。彼は伊予市の中心市街地の空洞化も私たちの住む田舎の少子高齢化、過疎化も元をただせば同じ悩みだと言うのです。私もそうだと思い合併以来伊予市の人と余り突っ込んでまちづくりへのかかわりをしていないこともあって、誘いに乗りました。伊予市といいながら、旧伊予市と双海町や中山町のような中山間地域とでは抱えている問題は全く次元が違うのですが、人口問題からえぐってみると意外な共通点が浮かび上がってくるようです。

 私は「限界集落」の問題の勉強会に誰を誘えばいいのか迷いました。田舎にどっぷり浸かり過ぎる人にこの問題を話すと、やたら行政批判になってしまいます。逆に田舎を愛せない人に話すと「それは行政のやること」として一蹴されてしまうのです。「最初から行政批判をしない人」「自分たちにでも何か出来ることがあるかもしれないと思う人」をリストアップして9人の人に手紙を出したのです。その中の一人は年齢を理由に固辞の電話がありましたが、残る8人は全員参加をしてくれました。10人ほどの参加を見込んでいた中山町はお二人の参加だったため拍子抜けがしましたが、私の役目は一応果たすことが出来たようです。

 さて、呼びかけ人の商店主は資料提出を渋る市役所から貰った基礎データーを基に、様々な資料をパソコン加工して当日に間に合わせてくれました。私は数日前事前にこの資料を商店主の店に行ってあらかじめいただいて意見を戦わせていたので、彼の約1時間にわたる詳しい説明は納得しながら聞きましたが、初めて参加した人たちはその資料の緻密さや厳しい実態に驚きの声を上げていました。

 限界集落とは65歳以上の人口比率が50パーセントを超えた集落、準限界集落とは55歳以上の人口比率が50パーセントを超えた集落、存続集落とは55歳未満の人口比率が50パーセント未満と位置づけた、これらの意味さえも理解し難い人たちに、これらのデーターはどう写りどう考えたことでしょう。

 最初のことでもあり参加した人全員からショートコメントのような形で意見を出してもらい、とりあえず次の勉強会を4月に中山町で開く事を決め散会しました。



 私たちの双海町グループはその後意見交換会と称して近くの飲み屋に繰り出し旧交を温めました。乾杯をするようになってわが家から電話がかかり、親父が体調不良を訴えているようなので直ぐに帰るように言われました。私が仕掛けた会議なので後ろ髪を引かれるような思いで店を後にしました。幸い下灘診療所の先生が往診に駆けつけてくれて大事には至りませんでしたが、医療という限界集落を巡る問題を目の当たりにしてハッとするような出来事でした。

 「限界集落」の勉強会は始まったばかりですが、そこから見えてくる様々な地域問題に挑む地域づくりもこれから私の大きなテーマになりそうです。参加したある人が「65歳以上を高齢というが、それは実態と違う」とギクリ釘を刺しました。「うーん一利あるなあ」と感じました。

  「限界と 呼ばれる集落 増えている 役所は何を 考えてるか」

  「六十五 以上を高齢 いうけれど いやいや違う 異論唱える」

  「役所より 凄い資料に 加工して 人口問題 いよいよこれから」

  「後二年 したら私も 高齢者 ぞっとするけど これが現実」


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