shin-1さんの日記

○今年最後の草刈り

 人間牧場とわが家の周辺は自然が豊かなのか一年中草が生え、ちょっと油断するとまるで草むらのようになってしまいます。草の管理だけでも一苦労で、農家のように草枯らしという除草剤でも撒こうかと思ったりもしますが、環境をテーマにしているだけにそんなことも出来ず、体が続く限りは草を刈り、草を削って対応したいと思っています。さてそんな考えもいつまで続くか心配です。やがて歳をとったら息子に経営を移譲しなければならないのでしょうが、息子は草刈機を使ったことも殆どない状態なので将来が不安です。でも人間牧場もわが家も息子が深く関わっていますので、多分私がそうであったように加齢とともに自覚が出来て、それなりに手入れをすることでしょう。

 昨日は今年最後の草刈りをしようと意気込んでいましたが、孫がやって来て人間牧場へ行くというので、仕方なく連れて行き、一人で遊ぶという約束をしましたが、残念ながら私の姿が草間に隠れるやいなや、大きな声で私を呼ぶのです。私には草刈機の音が大きくて届かないため、更に大きな声で叫ぶのです。仕方がないので山蕗の畑や梅の畑を刈っただけで終わってしまいました。

 孫の守りと草刈りは両立するはずもなく断念して、草刈り機を積んで家へ帰り、今度は家の周りの草を刈りました。親父が草集めなどを手伝ってくれましたが、前回の草刈りから間が開いていないため、そんなに大草ではないため、2時間ほどで終了しました。

 孫の世話で草刈りが残った人間牧場はさておいて、家の周りはすっかり綺麗になって、次は4月の1番草刈りまで永い眠りに付くのです。

 草刈りをしながら思うのは、草の旺盛な生きる力にはただただ驚くばかりです。そこへ行くと人間が食べる作物は大事小事に育てても、ましてや水や肥料をやっても満足のいくような大きさには殆ど育ちません。虫に食われ、病気に遭い、時には寝腐れしたりするのです。また連作障害を起したり原因不明の枯れ方もします。植物は本来そのままだと自然に育つように出来ているのですが、人間のエゴに合わせて品種改良したり、適地でもない場所に植えたりするものですから、当然植物は拒否反応を起すのです。

 私は若い頃一時期盆栽に凝っていました。青年の船でアメリカへ行った折も、「子ども泣かすな盆栽水遣り怠るな」などと妻に手紙を書いたほどでした。その折学んだことはですが、植物は根を切り枝を切ると若返るのです。多分雑草は草刈機で痛めつけているように見えますが、実は草刈りによって雑草の若返りを図っているのです。若草はそうしてどんどん伸びてゆくのです。

 お百姓さんは「草がなかったらどんなに農業は楽な商売か」とよくいっていますが、草だって自然の循環にとって極めて大事な役割を果たしているのです。草が朽ちて土に帰る自然循環がなければ農業は成立しないのです。これまで草だと思っていたものの中にも薬草のように利用できるものもあれば、私が風流として残したススキやツワブキは秋を演出してくれる道具に早代わりしています。今年の冬は雑草や枯葉を集めて人間牧場で腐葉土を作る計画を立てています。その腐葉土が完成したら芋の苗を立てて芋ツルを作って来年こそはいい芋を育てたいと意気込んでいます。12月になるとその準備にとりかかりたいのですがさて上手く行くかどうか気がかりです。

  「草のよう 出来たらいいと 思うけど 家庭菜園 今年も不作」

  「雑草の ように生きたや 人生も だけどちょっぴり 欲が持ち上げ」

  「指折りつ 数えて草を 刈った日々 来る年もまた 同じ数だけ」

  「もう寿命 思ったけれど まだ動く 感謝しつつも 草刈り機駆け」  


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○夕日を見に行こう

 今日の夕暮れ時、わが町のシンボルである本尊山が夕日に照らされて真赤な色になりました。本尊山の裾野には真赤なハゼもみじが今を盛りと紅葉していて、まさに絵になる光景でした。この本尊山を借景として暮らしているものですから、本尊山の姿によってその日や明日の天気まで占えるようになっているのです。

 私たちの地方には「秋の夕やけ鎌を研げ」などという諺がありますが、この分だと明日も晴れそうだと予感しました。一緒に外でドングリの分別をして遊んでいた孫が突然、「おじいちゃん、単車で夕日を見にシーサイド公園まで行こう」と唐突にいうのです。少し風邪気味の孫なので何が何でも単車ではと思い、乗用車に孫とデジカメを積んで出かけました。

 シーサイド公園は連休の中日とあってかなりの人がベンチや階段式護岸に座って夕日を見学していました。若いカップルは突堤辺りに陣取っているようで、私も孫と砂浜を走って突堤まで行きました。孫は最近シーサイド公園の砂浜で貝殻を拾って遊ぶのが好きなようで、夕日には目もくれず砂浜で貝殻を探しているようでした。


私はいいアングルを探して突堤の中ほどまでやって来ましたが、そこには若いカップルが既に何組も陣取っていて、一人者の私などお邪魔虫のような肩身の狭い感じがしました。それでもやっと場所を確保し一枚写真を撮りました。双海の夕日は今が一番西よりのコースに落ちるので長浜の港付近に落ちるようです。


 やがて空が真赤に焼けて「ああ秋の夕日だ」と思わせるような光景でした。何日か前にやって来た高知県須崎市の方々や岡山県真庭市の方々に見せてあげていような夕日夕やけでした。

 最後の締めはこの一枚です。残念ながらダルマの夕日にはなりませんでしたが、それでもいい夕日で、見学に来ていた隣で写真を撮っていた旅人とおぼしき人が、「いやあ日本一と聞いていましたが、名に恥じぬ夕日を見せてもらいました。心が洗われ」と私に相槌を求めてきました。夕日の仕掛け人である私と知らずに相槌を打ったのです。私は「そうですね。まさに日本一の夕日です」と答えました。

 孫が「おじいちゃんあっちを見てご覧、綺麗なお月様よ」というので、反対側の本尊山辺りを見れば、真ん丸い大きな十五夜のお月様が東の空にポッカリ浮かんでいるではありませんか。それまで夕日にしか向いていなかった観客も、孫の一言に反応して、美しい夕日を見たり月を見たりと右往左往していました。

 帰り際、孫が「おじいちゃん、お月様が追いかけてくる」というのです。そういえばお月様が家路へ急ぐ私たちを追いかけてくるようでした。

  「西空に 夕日眺めて 東空 満月出でて 二つ楽しむ」

  「おじいちゃん 月が僕たち 追っかける 上手い表現 座布団二枚」

  「綺麗だな 孫の指差す 出でし月 何とも不思議 コラボレーション」

  「旅人が ここの夕日は 日本一 褒めて嬉や 仕掛けた本人」


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○満5歳になりました②

 昨日、孫朋樹が満5歳の誕生日を迎えました。誕生してから今日までの5年間、初孫だった朋樹は私たち家族にとってまるで宝物のような存在でした。この5年間は私にとっても役場地域振興課長から教育長、市町の合併による退職、自由人の選択など目まぐるしい5年間でしたが、逆にその激動を忘れさせてくれるに充分な存在でした。熊本県島原への講演旅行に連れて行ったり、今年も先月島根県境港での講演に連れて行きゲゲゲの鬼太郎を見せ、先週は高知県へも連れて行きましたが、孫の存在は私たちの希望でもあるのです。

 昨日は長男夫婦が朋樹のために小さなバーズレィケーキを持ってお祝いに駆けつけてくれました。すっかり暗くなった6時半からわが家で、賑やかな食事が始まりました。勿論主役は誕生日を迎えた朋樹です。やがて食事が終り焼肉パーティの片づけが終わると、食卓にケーキが置かれ、ローソク5本に火が灯され明かりが消されました。みんなでハッピバーズデーの歌を歌って朋樹が一気にローソクを吹き消し、拍手が起こりました。

(朋樹君が主役の誕生パーティ)

(明かりが消された部屋でケーキのローソクが5本燃えています)

 見てください。幸せそうな朋樹の笑顔を・・・・・・・・。あいにく弟尚樹は眠っていたため参加できませんでしたが、長男の長男希心も小さいながら見学となりました。

(これが三人目の孫希心君と父親です)

(これが二人目の孫尚樹君と母親です)

(朋樹君が私のカメラを横取りし、2枚写真を撮ってくれました。いい感じです。ひょっとしたら私より腕は上かもしれません)
(朋樹君が撮ってくれたトボケた顔の私と妻です)

 孫の成長を祝いながら、私たち夫婦の幸せも噛みしめました。私が大病をしたのは今から7年前です。胆のうを摘出した結果13キロも痩せましたが、酒を断ったり健康に留意したりした結果、体重は減ったままですが何とか健康を維持しています。その間妻の体にも少し異変が起こり食事療法を試みたところ、コレストロールの数値も標準に下がって今は健康を取り戻しています。これからはまだ結婚していない二人の息子の将来も考えながら、とにかく健康第一に考えた暮しをしたいものです。孫の誕生日は私たちへのプレゼントのようだと思いました。

 今日は親父の白内障の手術後の検診日で、孫と3人で伊予市の病院へ出かけました。先生の話だと術後の経過も良好で、感染症にもかかっていないとのことでした。帰宅後孫と二人で軽四トラックにカブトムシの養殖用樽を積んで人間牧場へ出かけて行きました。先日人間牧場で開いた研修会に参加した方が、私の話を聞いてわざわざ職員組合研修会のあった伊予市民会館まで持ってきてくれたのです。孫は大そう喜んで、置き場所として人間牧場の倉庫を選んだのです。今日は久しぶりに寒さも和らぎ絶好の日和となりました。私は山蕗の畑がカズラやハズの根で覆われているため、その草刈りをしようと思い草刈機で作業を始めました。孫は最初一人で遊んでいたのですが寂しくなって私の元へやって来ました。草刈機作業は危ないので1時間ほどで止め、ストーブで焼き芋を作りました。孫の拾ってきた薪を燃やし、銀紙に包んだサツマイモを焼きました。30分もすればホックラとした焼き芋が出来上がり、孫と二人で汗をかきながら昼飯代わりに美味しい美味しいといいながら食べました。昨日までは4歳、今日から5歳、言うことなすこと僅か1日の違いなのにどこか逞しくなったような感じがするのはおじいちゃんの欲目でしょうか。

  「気が付けば 孫が三人 上五歳 年とるはずだ あれから五年か」

  「孫成長 私減速 仕方ない せめて元気で 成長見たい」

  「あき深し ストーブ中から 芋を出し フーフー言いつつ 孫と二人で」

  「美味しいね ハゼのもみじを 眺めつつ 黒くなりたる 口元笑い」 

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shin-1さんの日記

○満5歳になりました①

 昨晩から長女の家族が泊まりに来ていてわが家は何かと賑やかです。長女の旦那は大学に勤めていますが、最近は何かと出張が多く、その度に長女は子ども二人を連れて里帰りをするのです。次男は5月に生まれてから順調に成長しているようですが、昨日から少し風邪気味で鼻水とよだれでよだれかけは今日だけでも6枚は取り替えるなど、子育ても大変なようです。それでも長男は11月23日建国記念の日が誕生日で、日本国中が日の丸を掲げて祝ってくれるような錯覚にとらわれるお目出度い日に生まれているのです。その誕生日は娘婿の出張とかで既に家族では終わっているのですが、わが家でそのパーティをやろうという企画があって、長男夫婦も昼過ぎに生まれて2ヶ月余りの子どもを連れて帰って来ました。長女の次男と長男の長男、つまり二人の赤ちゃんがいるものですから、発の巣をつついたようにまあ賑やかだこと、想像を絶するような賑やかさです。

 私たち夫婦は二人とも休みだったこともあり、今日はこの二人に加え、今日で5歳になる長男のお守りに徹する事になりました。長女がいうように「自分たちが子どもの頃、お父さんに遊んでもらった記憶がない」というように、忙しさにかまけてまったく子育てに参加していない後ろめたさもあって、今は孫育てに深く関わっているのです。

 今朝は早朝ちょっとしたハプニングがありました。孫の朋樹が朝からぐずって中々いう事を聞かないものですから押入れに入れました。孫は何よりも押入れが怖いようで、「言う事を聞くから」と詫びましたが、その後遺症で誕生日だというのに朝からギクシャクしてしまいました。少し機嫌が直ったので誕生日のプレゼントを買いに行くことになったのですが、叱られたことが悪いと思ったのか、えらい機嫌のとりようで、すっかり仲直りをしました。

 孫は誕生日に当たり買ってもらいたいプレゼントを決めていて、フジの本屋さんにはそのお目当てがなく、はる屋という本屋へ出かけました。孫が欲しがっているのは虫の図鑑だそうで、探すのに一苦労しましたが、800円前後のカード式になっている図鑑です。中には100種類以上の虫たちのアップの写真が載っており、大人の私たちが考えれば「えっ、なんでこんな本なの?」と思うのですが、おもちゃでも恐竜でもパソコンでもない「虫の図鑑」とはいやはや驚きました。

 孫は早速帰りの車の中でこの図鑑を開けて盛んに読みふけっているのです。ポケモンとかいうマンガのお陰でカタカナも読めるようになって、たどたどしい日本語で虫の名前を読んでいました。

 今日は孫の誕生日といいながら大人の都合で焼肉です。私はその献立が余り好きではないので、朝から憂うつでしたが、妻は私のためにちゃんと魚料理を用意してくれました。

 今日5歳になる孫は只今9つのポケットを持っています。両親、私たち夫婦、大阪のおばあちゃん、長男夫婦、それにまだ結婚していない私の子ども二人を会せると9人になるのです。これまで物心付いてから今日まで約3年間その9つのポケットは正月や誕生日などに全て満タンになるほど独り占めしてきたのです。来年から弟の誕生や息子の息子の誕生によってポケットの独り占めはできなくなりましたが、それでも今日ばかりは鼻高々の一日でした。

  「九つの ポケットいっぱい 詰め込んで 一人占めする 孫誕生日」

  「虫図鑑 買って欲しいと 梯子する 本屋の棚に それを見つけし」

  「カタカナを たどたどしくも 読めるよに なって図鑑の 虫の名前が」

  「叱られて 押入れ入れられ 大声で 助けを求め 昔の俺も」

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○砥部町楽学大学に招かれて

 県女性総合センターの所長をされていた頃からの知人である井伊磯子先生が代表を務める、砥部町楽学大学に招かれて昨夜出かけて行きました。2年半前までは同じ伊予郡だったため、青年団時代から深いご縁のあった砥部町ですが、合併後はそのご縁も切れて、知人友人はいるものの仕事で行くことは滅多になくなりました。それでもそこここに思い出がある土地なので懐かしく感じれレました。

 そもそも私の話は最初6月の20日に予定されていましたが、愛媛大学の小松正幸学長さんの話が入り、加えてこの日が水曜日で私の大学講義日であるため、11月22日に変更となったのです。それにしても町民自らが運営するこの講座は井伊先生の思い入れもあって楽学という珍しい名前がついていて、何かワクワクするような気持ちになりました。この講座への私に対する講演依頼は、日銀松山支店に事務局のある県の金融広報委員会で、金融広報アドバイザーとして長年活躍されてきた丹佐杜子さんからの第一報でした。彼女とは同じアドバイザーとして長年活動に関わってきた間柄だし、井伊先生とも旧知の間柄なので断る理由もなく喜んで馳せ参じました。

 集会には松山近郊らしく知識人も多く参加して、かなりレベルの高い塾とお見受けしました。私も仕事柄年中この手の集会に招かれますが、会場に入った瞬間感じられる阿吽の呼吸でその集団の持つ気風が感じられるのです。

 この日は大学の最終回とあって和気藹々でしたし、年五回の皆勤賞の表彰を受ける人が殆どでした。また帰り際には女性総合センターに勤めていた青井さんからワインをプレゼントしてもらったり、その日会場を飾っていたお花を丹さんから手渡されるなど、思わぬハプニングに心がジーンとなりました。

 会場には旧広田村から参加した人もいましたが、中に私の同級生が駆けつけてくれていました。この方は私が高校生の頃文通をしていた同級生です。宇和島水産高校に進学した私にとって、彼女からの便りは強い励ましとなったことはいうまでもありません。男子校だっため、彼女からの便りは仲間から随分羨ましがられたものです。高校を卒業して私が帰郷してからは音信が途絶え、3年前還暦の中学校同窓会の幹事をした折、住所の確認のため彼女の家に電話しましたが、ご主人を亡くされて間もない時だったことを電話で知り、昔の思い出を語り合うような雰囲気ではなかったことを今も忘れることは出来ません。その後何度か手紙のやり取りもあったようですが、私の忙しさが昔への回帰を拒んでいたようにも思えるのです。

 お互いそれぞれの道を歩み、それぞれが時代の流れに翻弄されながら生きてきました。願わくば一度お会いして話がしたいと思っていますが、あの集会では声を掛けるのがやっとで、後ろ髪を引かれる思い出会場を後にしました。でもいい一夜でした。明くる日の今日、井伊先生から留守中と在宅中に二度もお礼の電話があり恐縮しました。私は今朝起きて直ぐに先生と丹さんにお礼のハガキをしたためて午前中投函していたので、ホッと胸を撫で下ろしました。

  「楽学と 何ともおもろい 名前付け 学ぶ姿に いやはや感動」

  「偉ぶらず 今も社会に 尽くす人 見習いたいと 今も残像」

  「文通を していた彼女 会場に 少し照れたが 知らぬふりして」

  「昨晩も またいい人に めぐり合う こうして成長 これから先も」

 

 

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○まちづくり人との語らい

 昨晩は私が非常勤講師を務める愛媛大学法文学部総合政策学科の講義日でしたが、昨日のテーマは「まちづくり人に学ぶ」というタイトルで、えひめ地域政策研究センターに市町村から出向している3人の研究員にお願いして、まちづくりについて語ってもらいました。急遽同センターの栗田所長さんも見えられ、賑やかな研修となりました。3人はそれぞれ自分の出向元の市町村や出向前の仕事、それに出向して取り組んでいる仕事について約10分間ずつ話しました。

(谷本研究員)
(坂本研究員)
(松本研究員)

 谷本さんは宇和島市遊子公民館の主事としての経験から、地域づくりの拠点として公民館がどうあらねばならないか水ケ浦の段畑を引き会いに出しながら景観について話しました。坂本さんは久万高原町で観光を担当していましたが、木にこだわったまちづくりや合併によって広くなった地域の限界集落などの悩みを話しました。松本さんは伊予市の産業振興を担当していましたが、それ以前は教育の仕事が長く、今も自分のふるさと双海の地域おこしに思いを寄せている話をラグビーを事例に話しました。

 選ばれて出向しているだけあって、さすがと思うような切り口からまちづくりについていい話をしてくれました。早速私がコーディネーターになって一問一答のような形で学生と質疑を行いました。前半は坂本さんの話した移住促進に話題が集中し、大いに盛り上がりました。

 後半は松本さんの夢語りや、谷本さんのふるさと運動などに話題を移し、「うん、うちの学生も中々やるなあ」と思わせるような質問や私見意見が沢山出ました、最後は栗田所長さんにまとめの話をしていただきました。

(聞き入る学生)

 学生たちはこの一年私の講義やフィールドワークで訪ねた自治体での話を基に勉強してきましたが、今年の講義もいよいよこれが最後となりました。次からはまとめの作業に入り、各グループで訪ねたいまちと住みたいまちの理想像を作り上げる作業をして、三週間後には発表会を予定しており、みんなの投票によってグランプリを決定するのです。そしてグランプリのグループには私のポケットマネーで1万円の賞金を出す事になっているのです。毎年やっているプログラムでも、その年度によってかなり出来栄えが違います。今年はどんな作品が出来るかとても楽しみです。正月が過ぎると個人レポートが私の元に送られてきて今年度の成績がつけられる仕組みなのです。

(栗田所長さん)

 メモをしていないのでみんなの話を正確には覚えていませんが栗田所長さんは、偶然にも3人とも谷本、坂本、松本と名前に「本」が付いているのを素早く見つけ、毛利元就の3本の矢に例えてお話をしてくれました。また職業にはなりたくてなれる仕事もあれば、なりたくてもなれない仕事もあり、さらになりたくないのにならねばならない仕事だってあるのです。でもいずれにせよそれを宿命と受け止めることなく、運命と位置づけて未来を切り開いて欲しいと締めくくられました。味わい深い話でした。

 学生は得てして大学害外の人の話を聞く機会に恵まれません。一方研究機関といいながら政策研究センターも学生の話を聞く機会はそれ程多くはありません。お互い歩み寄りながら学ぶよう努力したなら、いい学生やいい研究が出来るだろうと思うのです。今後も折に触れ交流や研究を広め、深めて行きたいものです。栗田所長さん含め4人の皆さん、素敵なメッセージをありがとうございました。

  「三本の 矢に似た話 放たれて 聞き入る学生 反応いいね」

  「色々な 人に出会うと 面白い 話飛び出し 学生食いつく」

  「人話し コーディネートを する私 更に聞きたい ことを質問」

  「夜間主の 学生目覚め 話聞く 昼とは違う 白熱議論」

  

  

  


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shin-1さんの日記

○白内障の手術

 昨日は九十歳になる親父の白内障の手術の日でした。これまでかかっていた愛媛県立中央病院の先生に書いてもらった紹介状を持って、今月始めに伊予市に開業した本宮アイクリニックへ行ったのは11月5日でした。そこで詳しい精密検査をしてもらい、昨日の手術日を決めました。

 親父は若い頃鼻ガンを患い右目を受けている頬骨の殆どを取っているため、右目は落ち込んで殆ど見えない状態です。今回手術するのは左目なのです。したがってもし手術に失敗するようなことがあると全盲になる危険性もあるので色々悩みましたが、白内障の手術の技術が進んでいることもあって、思い切って手術をすることにしたのです。しかし手術後は目にガーゼを当てて見えないようにするため、介護が必要なことから私の日程に合わせて昨日の午後の手術日を選んだのです。

 人間誰でもそうなのでしょうが、手術となると不安になるものです。特に親父の場合は全盲になるかも知れないという不安があって、朝からソワソワしていました。私が前日に人間牧場の農場から取って帰ったシキビを持って近くの墓地へお墓参りです。多分母に手術がうまくいきますようにと祈ったに違いありません。また昨日は家の敷地内にあるお地蔵様の縁日なので幟を立てて祈ったことでしょう。12時30分に病院に来るよう言われていたのに11時30分にはもうスタンバイしているのです。せっかちだと思いつつ車に乗せて早めに病院へ到着しました。真新しい病院はどの部屋も清潔で、また看護婦さんも親切な方ばかりで、手術の準備時間にはお茶までいただきました。

 手術は1時から始まりました。普通だと10分か15分で終わる予定だそうですが、親父は麻酔が聞かなかったのか30分もかかってしまいました。本来だと手術した左目はガーゼで塞ぐのですが、暮しの不便だろうとプラスチックの透明な眼帯をしていただきました。生まれて初めて目の見えない親父の手を引いて病院から駐車場へ移動し車に乗せました。手術後の安堵と不安、それに折からの寒さで体が少し震えているようにも見えました。

 家に帰ると少し落ち着いたのか気を取り直して暮しの準備を始めました。豆炭をガスで焼いてコタツを入れ、電気ストーブを入れて暖をとりました。手術後ですが少し明かりが見えるのでしょうか手探りでトイレにも行けるようです。本来ならずっと看病してやりたいのですが、残念ながら私は昨日が大学の講義日であるため、帰ってきた妻にバトンタッチし、長男にも電話を入れて来るよう頼んで午後4時半過ぎ出かけました。

 大学の講義が終わってわが家へ帰ったのは9時前でした。隠居へ行って見ると親父は床に伏せっていましたが、心配された痛みもなく、長男と会話しながら過ごしたそうです。食事の後の片付けも全て長男がしてくれたそうで、孫の優しい心に満足したのかそのうち眠りました。昨日の夜は親父と床を並べて寝る予定だったのですが、親父がその必要はないというものですから、午前2時頃に一度親父の寝床を確認した程度で今朝を迎えたのです。

 今日は午前9時から手術後の通院のため再び病院へ出かけましたが、術後の経過も順調で親父も私もホッとしました。九十歳という高齢ですから体のあちこちが傷んでくるのは当然ですが、これからも元気で長生きして欲しいものだと思うと同時に、私自身の健康についても今一度検診をしっかり受けたいと思いました。

 相次いで見舞いに訪れた姉や妹、そして身の回りの世話をしてくれた長男や妻など、昨日は親父にとって満足な一日だったと、「有難う」の感謝の言葉を述べてくれました。

  白内の 手術不安で 右往左往 母に祈りの シキビ手向けて」

  「手術後の 経過順調 ホッとする 祈り通じて お目目ぱっちり」

  「親の手を 初めて握り 親孝行 真似事のよう 照れくさそうに」

  「わが息子 じいちゃんどんな 見舞い来る 孫の優しさ 涙少々」

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shin-1さんの日記

○今日は21日だねえ

 今朝起きると妻が「今日は21日だねえ」と唐突に言うのです。「えっ21日って何の日?」と思い、尋ねるのは当然かも知れません。「21日って何かあったかい」と再び尋ねると、「まあそれも忘れているの」と呆れた返事が返ってきました。実は毎月21日は家の入り口に祀られているお地蔵様の縁日なのです。そういえばそうかと思い出しながら外に出ると、90歳の親父はもう既にその事を承知で、お地蔵さんに上がる石段にせっせと幟を立てているのです。昔かたぎの人は信心深いなあと思いながら家に入ると、妻もまた出勤前の忙しい時間なのにお赤飯を炊いているのです。

 この作業はわが家がこの土地に引っ越してきてから30年、毎月欠かさずやっているお地蔵様のお接待なのです。最初の頃は母がやっていましたが、いつの頃からでしょうか、少なくとも妻がやり始めてからもう20年間は経っているような気がするのです。21日が来ると妻は前日に小豆を水に浸して下準備をします。もち米を少し交ぜたお米を洗ってガス炊飯器に入れ、小豆と一緒に炊き込むようにして21日の朝、炊飯器のスイッチを入れると美味しいお赤飯が出来上がるのです。焚きあがったお赤飯は寿司はんぼに入れてよく混ぜながら冷まします。冷めた頃を見計って透き通ったトレーに入れて近所に配るのです。配る先は親類縁者や妻が民生委員として受け持っている独居老人にも持って行きます。その担当は主に私が請合うのですが、独居老人などはこれが結構役に立って、毎月声かけになるのです。

 昨日は寒かったので、さすがに単車はきついと思い、妻の愛用車であるトラックに積んで各家々を回りました。独居老人たちはやはり冬の寒さは堪えるのでしょうか、チャイムを鳴らしても人の気配がするのに中々出てきません。やっと出てきた人も迷惑そうな顔をするのですが、私の顔を見た途端そんな顔が笑顔に変わり、「ありがとう」と言葉を返してくれるのです。

 妻は今月で長年務めた民生委員を退任する事になりました。何せ5期15年も請われるままにやったのですからボランティアも大したものです。15年間毎月お赤飯を持って声かけに出かけた私の仕事もいよいよ今月で終りです。お接待も声かけも続けたいのは山々ですが、後任の人も決まっており、その人の仕事を侵すことも出来ないので、近々に妻は担当地区を回って退任のあいさつをするようです。それにしてもこれもお地蔵様のお陰でしょうか、お赤飯配りが独居老人の音信連絡の決め手になるとは思いませんでした。

 それにしても時代の流れでしょうか、最近わが集落でも独居老人の家が随分増えてきました。その殆どは女性の独居老人なのです。男性より女性の寿命が長いのですから当然かも知れませんが、物騒な世の中を反映してか独居女性は家の全てにカギをかけ、応答もままなりません。地震などの災害時や体調が悪くなっても、近所の人が中へ入ることも出来ないようなガードをしており、昨年近所に住む人が家の中で亡くなっていても数日分らなかった事例を考えれば、何か妙案はないものか考えてしまいます。わが身に積もる老いも忘れて・・・・。

  「三十年 よくぞ続いた お接待 赤飯配り 音信便り」

  「神仏に 赤飯供え 手を合わせ 今日も元気と 感謝の祈り」

  「程ほどの 貧乏暮し いいのかも 人の温もり 感じられます」

  「お礼にと 小豆が届く 嬉しさよ 早速瓶に 流しこむ技」 

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shin-1さんの日記

○トイレの掃除ならぬ受信トレイの掃除

 先日長旅で3日間ほど家を空けました。その間妻のことや九十歳になった親父のことも気になるのですが、長旅で気になることの一つに、ブログが書けないことやインターネットで入力してくるメールのことがあります。そのくらい今の私にとってパソコンはついやする時間が多い分気になるのです。3日間の旅を終えて家に帰り、机の上のノートパソコンを開けて驚きました。メールのカウントが500件を超えているのです。私のパソコンに入ってくるメールには、娘婿の配慮で必要メールと迷惑メールに分類されるように一年前から加入しているので幾分助かるものの、受信拒否すると必要なメールも入らなくなるため、迷惑メールだけ受信拒否することが出来ず、大きな悩みとなっているのです。結局は毎日パソコンを開けるとトイレの掃除ならぬ受信トレイの掃除をすることから始めなければならないのです。先日のように迷惑メールが300件も越えるともうお手上げで、途中休憩しなければならないほど憂うつで単純な作業が延々と続くのです。

 迷惑メールの殆どはセックスに関することや物販販売です。最初は気になって開けたりしていましたが、こうも洪水のように入れられると機械的に消去するしか方法がないのです。英語で書かれた迷惑メールは英語が読めないので全て消去の対象にしていますが、時には外国の人から送られたメールを消すことだってあり、先日もニュージーランドのクレーグさんからのメールを読みもせず消してしまったのです。英語のメールの中にはよく見るとバイアグラなどと判読されるものもあって、今では消去の作業が随分早くなりました。多分これらは年間契約の使い放題のためにどんなに使おうが金額は一緒とばかりに送られてくるのでしょうが、メールの向こうに青少年もいるので、何とか規制して欲しいと願っています。

 私のパソコンにも緩やかなものですが、幾つかのセキュリティロックが掛けられていて外からの親友が出来にくくなっていますが、パソコンに詳しい人だといとも簡単に侵入できるのです。多分今人間の世界で流行っているインフルエンザにかかっているかも知れないのです。最も私のパソコンなどは他のパソコンと違って個人情報など殆どなく、空き巣に入っても殆ど殆ど取る物もなく、むしろ置いて帰られるようなものなのですが、それでもウイルスに侵されると使えなくなるし、情報が駄目になってしまうのです。何度かそんな目に遭い、何度か修理をしましたが、今のところは持ちこたえているようです。

 しかし世の中には暇な人がいるもので、こんな情報の撒き餌をして引っかかる人を待っているのです。もっと困ったことはこの撒き餌に群がって、たまには釣られる人がいるのですから驚きです。パソコンが元で犯罪や被害にあった人は後を断たないようで、大きな社会問題になっているようです。パソコンのない時代に育った私たちは、その意味さえも分らないまま平気で使っていますが、考えようによっては恐ろしい道具といわざるを得ません。人間は考える動物です。人間はこんな素晴らしい道具を発明しました。まさに人間が始めて火を手に入れた時と同じです。火は人間に大きな恩恵をもたらしましたが、それでも火の使い方を間違うと一瞬にして生命や財産を失ったりするのです。道具を便利に使うか、悪の道具として使うかは使う人間の心がけ次第です。いい道具として使いたいものです。

  「パソコンを 開けてまずは 掃除する トイレでなくて トレイ綺麗に」

  「よくもまあ 毎日こんな 情報を 撒き餌の如く 流す人有り」

  「バイアグラ? 英語で書いて 私宛 送りつけてる 相手分らず」

  「ああ今日も うんざりするよな 情報を 消してイタチの 追っかけごっこ」 



 

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○岡山県真庭市からのお客様

 今日は冬が来たような寒い一日でしたが、岡山県真庭市から20人ほどの視察団がやって来ました。真庭市へは今年の9月11日落合老人大学に招かれ、訪ねた場所だし、その模様をブログに書いていたのでよく記憶しているのです。忘れられないのはその時の演題が「ニコ・ピン・コロの人生」という珍しい演題だったこと、最もこれは私のホームページに掲載している私の講演ジャンルの中から取ったものなので別に可笑しいとは思わないのですが、参加者からは面白い演題だとことの他喜ばれました。またその担当者が私の弟嫁の旧姓と同じだったこと、そしてお礼にいただいたブドウがこれまた超一級品で、今まで食べたどのブドウよりも美味しかったことなど、私が旅の土産に話した話を聞いた妻さえも覚えているのですから、忘れることはできないのです。

 本当は人間牧場へ案内したかったのですが、残念な事にバスが大型で断念し、寒い季節だったこともあって、役場の一室を借りて私の話を中心に進め、翠小学校を案内する程度の研修となりました。今日の私の話は1時間余りでしたが、それでも熱心な方々ばかりで、頭の下がるような勉強をされました。

 視察に来られた方々に対して私が話すのは主に成功事例が多いのですが、今日のような熱心な方には何故か失敗談を話してしまうのです。多分本当に聞きたい話は、特別な話ではなく自分たちにも出来るかもしれないという淡い期待が持てるような話だろうと思うのです。まして今日の方々は合併によって中央が他所の町に移り、何か寂れたり割り切れないような思いを持っている人たちなのです。だからこそ地域が自立に向けて頑張らなければならないと、自治公民館活動や組織、それに翠小学校を中心にしたグリ-ンツーリズムの動きなどをお話させていただきました。ここでも地域の自立とは何かという極めて大切な話が、これまでないがしろにされてきたことへの反省を語りました。

(校長室を見学しました)
(校長先生から昔の古い写真を見せてもらい説明を受けました。帰りのバスで、校長先生は宝塚のスターみたいとニコニコして言っていました。私はそうは思いませんと話しましたた。(笑)まあ楽しい時間でした)

 これまで何気なくあった学校が、次の改革のターゲットになることへの危機感も徐々に感じているようです。統廃合が決まってバタバタ反対運動を起したところで、行政の力や社会の流れを止めることはできないのです。私が関わった予讃線海岸周りの存続運動も、夕やけプラットホームコンサートがなければ、消えているかもしれないし、上灘川のホタル保護活動がなかったら翠小学校の存続も危なかったかもしれません。当面は回避できていますが、何年か後にはこの二つとも危ないのです。でも例え海岸周りや小学校がなくなっても、その運動によって培った地域活性化のノウハウや力は残るのですから頑張らなければなりません。

 視察の依頼を市役所にしても、土日は駄目だとか、私の町には何もないとか、また担当者の都合が悪いといって断られることが多く、結局は昔の好で私が対応していますが、行政のこうした体質が変わらない限り、観光などは発展が望めないと思うのです。(ちなみに双海総合支所の観光担当は実によく対応しています)

 ちなみに今月だけでも、もし私がいなければ観光カリスマ塾の30人余りや須崎市の14人、それに真庭市の20人余りはこの町に来ていないだろうし、その人たちの一部は宿泊もしていなかっただろうと思うと、人の交流は人によって仕組まれるものだとしみじみ思いました。

(みんなで記念写真を撮りました。研修の終了写真です)

  「もし俺が いなきゃこの人 この町に 泊まることなし 人人を呼ぶ」

  「手土産に 貰ったブドウ 忘れずに 落合人を 優しく迎え」

  「朝早く 発って研修 すぐ帰る 熱心姿 頭下がるね」

  「視察団 糞とション便 落すけど 金と知恵なる 大事も落す」



 

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