shin-1さんの日記

○秋刀魚にすり大根

 秋も深まって、全国の仲間から様々な旬の味が届くようになりました。新米の米、ジャガイモ、お酒、お菓子類、果物など様々ですが、中でも秋刀魚は海の町ながらわが町では獲れない代物だけに嬉しい贈り物です。

 昨日旅先から帰ってみると、北の友人からではない首都圏の友人から東北の秋刀魚がどっさり届いていました。そういえば旅先で知人友人の顔を思い出し、旅先の産物を送ることが可能である便利な時代になったのです。私が帰った頃には宅配の発泡スチロールは既に開けられて、玄関先まで「今日は秋刀魚の塩焼きですよ」と言わんばかりに塩焼きの匂いがプーンと漂ってきました。「今日の夕食おかずは秋刀魚か」と妻に言えば「そう、○○さんから美味しそうな秋刀魚が届いた」と見せてくれました。秋刀魚の語源そのままに、氷詰めされた秋刀魚はピンとして色もよくまるで刀のようです。「今日は久しぶりに新鮮な秋刀魚なので刺身も作りました」とお魚ママさんの講習で免許皆伝をいただいている妻だけあって嬉しい対応です。

 外出の背広を着替え早めの風呂に入って居間着に着替え今日はキッチンではなく居間に料理を持ち込んで食べる事にしました。最近までは大家族だったわが家もいつの間にか一抜けニ抜けと家族が減って、料理を運んでやって隠居で食事をする親父も別所帯なので、夫婦二人なのです。妻は大家族時代の余韻なのか、毎日の料理をついつい作り過ぎて、同じものを3回も食べさせられることもしばしばですが、昨晩の料理は好物だけに格別でした。

 秋刀魚が焼ける頃を見計って私は少し暗くなった自宅の敷地内菜園に行き、大根とカブを抜いて水洗いしました。カブは塩もみの漬物でス。真っ白いカブは大き目に刻んでパラパラと塩を振るだけでしんなりして、浅漬けに早代わりします。私は妻の料理の進み具合を見計って、秋刀魚の添えにするすり大根を柄にもなくおろし金でおろしました。少し大目のすり大根は、食卓では一品の感じがするほど居場所を主張していました。

 やがて秋刀魚の熱々が食卓に並び、秋刀魚の刺身もネギ、しょうがが添えられ、さあ夕食です。まあその美味しいこと、「美味い」という言葉が夫婦の間で何度出たことでしょう。新米の輝くような白さや食感も格別で焚きたてご飯を、普通は茶碗一杯なのに軽くお代わりまでしてしまいました。

 やはり食べ物は旬ですね。食後のデザートもリンゴと新高梨ですから申し分ありません。折りしもテレビでは美味しい味めぐりのような番組でしたが、一切れ何万もするような高級な牛肉やキャビア、フォアグラなどが、俳優のやらせのような食べ方で紹介されていました。あんな物ばかし食べるから肥満や成人病になるのだと思いつつ、わが家の旬の日本的食卓の幸せを感じたり、「わが家の秋刀魚でも美味しいよねえ」と二人で納得しながら秋の食卓を囲み、幸せをかみ締めました。

  「焼き魚 玄関先まで 匂ってる 今日は秋刀魚か 大根添えよう」

  「フォアグラや キャビアや松坂 なくっても 秋刀魚で充分 満足お代わり」

  「白いカブ まるでお前の 肌のよう 口が滑って 言ってしまった」

  「この大根 お前の足に 似ていると カブで株上げ 大根おろし」 

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shin-1さんの日記

○「俺の夢はなあ・・・」

 昨日は高知県で旧友の課長さんに会いました。旧友といってもそんなに長く付き合っている訳ではありませんが、どこか気が合い、どこか懐かしく感じる人間味溢れる課長さんなのです。

 私「課長さんは幾つになりましたか」

 彼「はい58歳になりました。定年まで後二年ほどです」

 私「ほう、もう二年ですか。ところで課長さんは役場を辞めてからの夢はお持ちですか」

 彼「はい私は障害を持った娘がいまして、その子ども夢は日本中を旅をする夢を持っています。桜前線を追っ

   かけて、南から北へ旅をしようと思っています。子どもの夢が私の夢なのです」

 私「ほう、それは凄い夢ですね」

 彼「世の中には娘が嫁に行って寂しいという親がいますが、私は娘と一緒に暮らせて幸せもので、娘に感謝し 

   なければなりません」

 私「・・・・・・・・・・・・」

 彼「娘が子どものままでいてくれて、私は毎日が楽しいです」

 私「いいですね。私も子どもが四人いますが、みんな成長して巣立って行きました。親は寂しいものです」

 彼「私の方が幸せかもしれませんね」

 私「はいその通りです。

 彼「一度娘に会ってやって下さい」

 私「是非一度会いたいものです」


 先程の酒宴交流会の余韻覚めやらぬ彼と私は、同席した仲間たちと別れ、飲み屋の暖簾をくぐって小雨の降る道をそんな会話を交わしながらゆっくりとホテルまでの道を歩きました。さっき車の中で彼が私の夢を聞いたものですから、その気になって話した矢先だけに、朴訥と語る彼の話にはとても重みがあり、頭を殴られるような衝撃でありながら、どこかほのぼのとして彼らしい夢だと感心したのです。彼の話を聞きながら昨日ブログに書いたオードリー・ヘップパーンの話を思い出したのです。「目も耳も口も手も両足も相手のためにある」というヘップパーンの言葉そのものなのです。こんな身近な所にこんな素晴らしい考え方を持って生きてる人がいる、いかもその人は私の友達なのです。人の前で偉そうな事を知ったかぶりで話す自分が急に恥かしくなりました。

 その夜はホテルのベットにもぐりこんでも課長さんとの会話が頭の中を走り中々寝付かれませんでした。「私はまだまだ修行が足りない」と思いました。

 ホテルの朝食を済ませた頃を見計って、その課長さんはホテルまで見送りにやって来ました。見送った後道の駅の近くの路上に立って通学の学生を見守るのだそうです。ウーン、参ったなあ。帰路車のバックミラーに立ち番をする課長さんの姿が残像となっていつまでも残っていました。

  「夢は何 尋ねた友の 返事から 親の愛情 深く感じて」

  「俺などは まだまだ修行が 足りぬなと 眠れる旅の 一夜を過ごす」

  「お早うと 昨日の酒の 抜けた人 まったく別人 そんな顔して」

  「旅先で あの人知ってる 話題出る 世の中狭い そんな気がする」  

  

 

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shin-1さんの日記

○高知県須崎市へ行って来ました

 昨日は自家用車を運転し、山間の道を片道150キロ走って高知県須崎市へ行って来ました。須崎へはこれが3度目とあって、知人友人も沢山出来て、行くが楽しみな反面、3度とも同じ話をすることもできず、少し快いプレッシャーを感じながら出かけて行きました。国道378号を長浜まで走り、大洲市街から国道197号を進んで、大洲市肱川、西予市城川町、鬼北町日吉の分岐から高知の梼原、須崎へと走るのですが、あいにくの雨で期待した紅葉も見えず、それでも雨や夕闇を心配して早めに家を出たため、2時間半ほどで4時30分頃須崎へ着きました。

 到着して市役所の前に差し掛かった時、見透かしたように土居さんから電話が入り、市役所であう事にしました。居合わせた新聞記者や企画課の職員と談笑してホテルへ向い、チェックインを済ませ、迎えに来た土居課長さんの車で、すっかり暗くなった雨の道を走って文化センターへ到着、いよいよ夜の集会の始まりです。

 この日のテーマは住民自治基本条例の検討委員会の委員の皆さんへのお話です。基本条例についてはこれまで他市町の視察をしたり、一回目の会議で企画課長さんから説明があったものと思うので、私は条例が何のためにどのようなプロセスで作られるべきか、その条例がどのように使われるべきか様々な角度から話をさせてもらいました。最近は住民の参画と協働ということもあって、条例の検討委員会の委員は公募をするようですが、田舎に行けば行くほど公募に応じる人の数は、主催者の思いとは裏腹に少ないようです。でもどんな理由にせよ委員に就任した限りはそれなりの役割を果たしてもらわなければならないので、一生懸命話をさせてもらいました。

 私は住民自治基本条例のこの日の話のために知人友人にお願いして全国の条例を10例余り取り寄せて読んで見ましたが、どれも立派にできていて、コンサルに頼んだのではないかと見まがうほどの出来栄えでした。これらの条例がどういう参画と協働によって造られたかは知る由もありませんが、作るプロセスを間違うとまちづくりでの条例活用や市民への理解新党が出来なくなる恐れがあるのです。また条例の趣旨を生かしたまちづくりも出来なくなるのです。

 1時間半の私の話が皆さんに理解できたかどうかは、今後の活動に委ねる事にして、いささかなりとも関わった私としても、須崎の条例制定過程やその後のまちづくりも注意深く見守りたいものです。

 その夜は会議も終了したし、前2回は日帰りだったのに今回は宿泊する予定なので、懇親を深めることになりました。課長さんはじめ7人で酒を酌み交わしながら議論を深めました。私は残念ながらお酒を断っているため食い気一本でしたが、さすが高知の飲み倒れだけあって、飲むほどに酔うほどに坂本龍馬ののような心境になって大いに語り合いました。企画課長さんが西土佐の和田課長さんと知り合いだったり、世の中の狭さや不思議な縁を噛みしめる有意義な一夜となりました。




 明くる日の今日も朝から雨でした。今日は厚生年金受給者協会の講演会が新居浜であるので、午後といこともあって国道56号から外れて峠道を走り、佐川、伊野、吾北を通って寒風山トンネルを越える道を選びました。

(高知名物沈下橋、旅の途中で見つけました)

(山の吊り橋)
(道端に咲いていた珍しい桜)
(四国でも長い方の寒風山トンネルは5432メートルで、トンネルの中ほどに高知県と愛媛県の県境がありました)

 狭い道を縫うように走って本線に出て山に分け入ると、小雨、霧雨に切れ間から紅葉が見えました。本来なら立ち止まっては写真に撮るのでしょうが、数日前日本一と目される長野県木曽町や上松町赤沢の紅葉を見ているものですから、トイレ休憩で立ち止まった以外は、県境峠の5千メートルを越える寒風山を一気に走りぬけ瀬戸内へと帰ってきました。わが家から太平洋沿岸へ、太平洋沿岸から県境を越えて新居浜へ、そして瀬戸内のわが家へと一泊二日300キロの旅も午後5時にやっと終わりました。今回もいい旅でした。

  「三日前 木曽の紅葉を 見ただけに 四国山脈 どこか貧素に」

  「寒風の トンネル前の 道路には 桜が咲いて 驚き眺め」

  「条例が あっても街は よくならず 必要すれば 街はよくなる」

  「飲み方が 違う高知の 宴会は 盃返杯 はちきんですね」


宴席が終り小雨の中、土居課長さんと吉本さんにホテルまで送ってもらい、ホテルの人となりました。

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shin-1さんの日記

○裏山に咲く野菊

 11月に入り晩秋の色が日増しに濃くなってきました。先日旅で訪ねた長野県木曽町のように錦織り成す紅葉は願うべきもありませんが、周囲の山々のハゼ紅葉が少し色づき始め、里の秋を少し実感しています。

 昨日は久しぶりに菜園に出てカブと大根を収穫しました。カブはカブ菜ごと漬物に漬けると柔らかい浅漬けの漬物が出来て熱々の新米によく合って食欲をそそり食欲の秋を満喫しています。また大根も葉っぱはおひたしやなめしご飯でいただけるし、大根ももうおろし大根に使えるような大きさに成長しました。昨日は大きくなった真っ白なカブを5個ほど娘の家に持って行ってやりました。産休の娘は料理が好きでわが家へ来ると必ず菜園のものをごっそり持ち帰り、生協の宅配と合わせて使っているようです。先日もカブを煮込んだスープをご馳走になりましたが、中々の腕のようで電子レンジでチンする世の中に生きてるのに、手料理を家族に食べさせる姿に少し安心しました。

 今朝裏山の斜面で野菊の真っ白い花を見つけました。わが家の周囲は自然が一杯で、夏の草刈りは骨が折れるものの、その分自然を満喫できるのです。草刈り作業で手の届かなかった場所に咲いている野菊の白い花を見て、よくぞ草刈機が届かなかったと愛しい気持ちになりました。ふと若い頃に読んだ「野菊の如き君なりき」を思い出したりして、柄にもなく少し感傷的になりました。

?しかし、野菊の周辺の草むらを見ると、名さえ分らぬ色々な野の花がいっぱい咲いて秋を演出しているのです。これらの花はこれまでにも咲いているはずなのに見る暇もなく、見る心や目もなくて見過ごしていたのでしょう。一生懸命咲かそうと努力した花は咲かないのに、何故か草刈機で刈った後の花は綺麗に咲いているのです。人間のエゴとでも言うべきなのでしょうが世の中は不思議です。

 少しだけ季節を感じたり楽しんだりしようと思うだけで凡人の私でも、こうも回りのものが見えてくるのかと不思議な気持ちになりました。そういえば私の暮しは不自然だったのかも知れません。自然が暗いのに明るくし、寒いのに温かくし、旬でもない冬に夏しか出来ないものを食べる不自然さが目につくのです。これからはできるだけだけ自然に近づける暮しがしたいと、野の花を見て感じた朝でした。

  「野の花は ものは言わぬが ちゃんと咲き 秋が来たよと 教えてくれる」

  「野の花を 一輪摘みて 机の上 部屋に漂う 不思議な香り」

  「草刈りの 届かぬ所 野菊咲く 白い花びら 風になびきて」

  

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shin-1さんの日記

○私は先生ではありません

 「先生」と呼ばれる人は学校の教師、お医者さん、政治家などがありますが、教師や医者などは誰でもなれる訳ではないので、「先生」と呼んでもいいと思うのですが、政治家は志を持てば免許も要らないので誰でもなれる可能性がありますから「先生」と呼ぶのには少し違和感があるような感じがするのです。最近は政治の混迷が続いているため国会答弁などがよくテレビで紹介されていますが、質問する側に対して質問される側が、「先生・先生」と相手を呼んでいるのを聞くと、まるで「質問をお手柔らかに」とゴマをすって持ち上げているようにも思えるし、質問する本人もまんざらではないような、少し鼻高々の感じさえ見てとれるのです。

 議員さんには市町村の議員から国会議員まで様々な議員という職があります。いずれも選挙で選ばれるのですが、平成の大合併で合併したとはいえ100票そこそこで当選する議員もいるのです。

 先日仲間と飲み屋へ行きました。酒を飲まない素面の私が目撃し聞いた話です。隣の席で飲んでいた胸にバッジをつけた市会議員さんが、対応しているお店の女性に、「私は○○市の市会議員だ。まあ先生と言われる職だ。私の事をみんなが先生と呼ぶので、先生と呼んでくれ」と言っているのです。その議員は顔見知りの人なのですが、その話をさも回りに言いふらそうと言わんばかりの大きな声で話していました。私は思わず噴出しそうになりました。「何が先生だ」と行ってやりたかったのですが、相手の議員はかなりメーターが上がっていたので、喧嘩にでもなったら大人気ないとその場は聞いて聞かぬふりをしました。お店の女性に聞いた話ですが、その議員はこの店に来ると「俺の事を先生と呼べ」と強要しているそうです。しかしこの議員の姿を見た市民は一体どう思うでしょう。大体プライベートで酒を飲みに来るのに胸の議員バッチも外さずに堂々と店にやって来るのは非常識もはなはだしいと思うのですが如何でしょう。たとえ店の女性が「先生」と敬語にも似た持ち上げをしても「私は先生ではない」と否定するくらいの度量がないと、市会議員などは務まらないものなのです。

 自由人である私が「仕事柄」というべきではないのですが、人の前で話す機会が多い私も、講演先のステージに上がると垂れ幕に「若松進一先生」とか、紹介の折、「若松先生は・・・・」なんて歯の浮くような紹介をされて、穴があったら入りたくなるようなことが日常茶飯事あるのです。その都度「私は先生ではありません」と打ち消してから始めるのですが、そんな時間も勿体ないのでついついそのまま話を続けてしまうのです。また私は大学の非常勤講師をしているので、学生から「先生」と呼ばれることがあります。授業中は先生と生徒の関係が成立するので仕方がないにしても、街中で学生に会うと「先生」と呼ばれて面食らうことだってあるのです。

 先日も学生がフィールドワークの授業でわが家へやって来ました。私の事を「先生」と呼ぶものですから、妻がゲラゲラ笑いました。妻にとってはタダの田舎のおじさんなのにです。

 学生には授業の始まる新学期に「先生」と呼ばないように、「若松さん」と呼ぶよう説明をしてから一年の授業を始めるのですが、学生は日常の癖で「先生」と呼んでしまうようです。先日も「先生」と呼ぶので無視したところ、「先生は最近耳が遠くなったのですか。先生と呼んでも反応がない」と言われました。私は即座に「私は先生ではありません」と答えてしまいました。

 最近はハガキの話しにつられて沢山のハガキが舞い込みます。中には「若松進一先生様」などと丁寧に書いているものもあり、届けた郵便局員は思わず吹きだしたに違いないと、汗顔しきりです。

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。本当の先生でもない人に先生と呼ぶのは止めた方がいいと思うのですがいかがでしょう。

  「先生と 呼ばれ戸惑う 私見て 耳が遠いの? 学生戸惑い」

  「わしのこと 先生呼べと 強要す 市会議員の 愚かな言葉」

  「ああ今日も 先生呼ばわり されそうで そこから話す 愚かな話し」

  「昨日来た 手紙に先生 困ったな 郵便局員 えっ誰のこと?」

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○長野県木曽町を訪ねる・ルポ④

 池田さんの案内で赤沢自然休養林を訪ねて帰る途中も、渓谷美にしばし足を止め車を降りて景色を見せてもらいました。目の覚めるような景色にただ驚きの声を上げるのが精一杯でした。こんな景色を都会の人は勿論のこと、地元の人も案外知らないものです。ゆっくり歩いて散策する人やカメラで記録する人などまばらでしたが、いつの日か私もあの人たちのように美しい日本の季節の移ろいを心で感じるような人になりたいと、しみじみ思いました。

 池田さんに案内されて営林署の貯木場を見学しました。ある所にはあるもので1本100万円は下らないという、無節の檜が生前と並べられていて圧巻でした。池田さんはこんな木を仕入れて製材し、材木として日本全国の神社仏閣は勿論のこと住宅用に販売しているのです。この木が一本100万円以上ですから驚きです。でもその値打ちは充分にあると思いました。

 見納めの紅葉も綺麗でした。

 遠い山々の峰には既に白く冠雪が見え、束の間の秋の後の厳しい冬の寒さを連想しました。山深いこの地方も間もなく冬の寒さが駆け足でやって来ることでしょう。

 池田さんの貯木倉庫を見せてもらい帰りにちょっと虫のいい話を思いつきました。今月の11月15日と16日の両日、わが町で国土交通省主催による観光カリスマ塾が開かれます。私が塾長を務めるのですが、その折人間牧場で夕日寄席という落語ならぬ落伍をやる予定で準備を進めています。その高座は何と高知県馬路村産魚梁瀬杉の切り株の上です。樹齢150年の切り株なのですが、その上に63歳の私が座り30話の中の一部を話すのです。年輪の話はその中心なのですが、池田さんからお土産にもらったお盆を使って木曽檜や池田さんから聞いた古株に宿る小さな檜の生命について話すことにしようと思って、池田さんに今日量化してもらうよう手紙を書きました。そしてその手紙にはもっと虫のいい話を書きました。西の魚梁瀬杉の切り株があるのだから、真ん中の木曽檜の切り株を手に入れようと愚かな事を考えたのです。営林署の貯木場の隅に落ちている要らなくなった年輪が数えるぼろい切り株はないものか、ひょっとして・・・・・。

 来月北の秋田へ参ります。その折にも秋田杉の年輪を少し意識して見たいと思いました。それというのも人間牧場に来た人、特に子どもたちが魚梁瀬杉の切り株の年輪を数えて遊ぶものですから、思いついたのです。

 吉報それとも・・・・。大目さんまた宜しくね。

  最後は木曽八景の一つと言われ奇岩が切り立つ「寝覚の床」の側でレストハウス木曽路を営む丸山時恵さんを訪ねました。時間がなくなってしまい、駆け足になってしまいましたが、レストハウスの展望レストランから見る寝覚の床はまさに絶景でした。丸山さんは敷地内に私立の美術館を持っており、小さいながらも学芸員を置くなど凄いことをやっている人です。この日はほんの駆け足でしたがそばを食べる天つゆ湯飲みは2千点も収蔵しているそうです。私たちが到着したのは昼頃でしたが、バスが7台も8台到着する時間帯だったので料理の数や大変な量でした。ここにはまだ観光神話が残っているようでしたが、それがまた丸山さんの深い憂うつにもなっているようで、同情しました。

 ふと思い出したのは、何年か前講演に来た折、この下の線路を走ったなあと記憶が蘇えりました。電車は天下の景勝地なのでスピードを落とし、過ぎ行く景観を楽しむよう車内放送があり、粋な計らいに感心したものです。

 丸山さんが「若松さん、電車が来ますよ」というので見下ろすと、さりげなく電車はゆっくりと通り過ぎて行きました。

 創造塾の半坂代表世話人もわざわざ見送りに来ていただきました。半坂さんは土木会社の社長さんですが、間もなく温浴施設もオープンさせる予定だと昨晩2枚の名刺をいただきました。前向きな実直な方でした。

食事が出来なかった私のために丸山さんは、レストハウスの前で販売している熱々の五平餅を包んで手渡し、熱い握手を交わして分かれました。

 列車の中でそれぞれの人や訪ねた土地を思い出しながら、丸山さんにいただいた五平餅を食べました。隣の席に座った子どもにもう一本の五平餅を差し上げ、寝覚の床と丸山さんの話をデジカメの再生ボタンでクリックしながら話してあげると、今度行って見たいと目を輝かせていました。塩尻から特急あずさ号に乗り換え新宿を目指しました。

 高知県馬路村で大目さんと出会った不思議なご縁が広がりました。このご縁も深くなりそうです。

  「握手した 手の温もりや 五平餅 別れし人を 思い出しつつ」

  「一本が 百万円も するという 木曽の檜の 寝床訪ねる」

  「連山に 雪を抱きて あき深し 風林火山の 破れし幟」

  「またいつか 必ず訪ね 会いたいと 暇乞いして 列車乗り込む」

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shin-1さんの日記

○長野県木曽町を訪ねる・ルポ③

 今回の長野県木曽町を訪ねる旅は、そのきっかけとなった木曽町役場の大目さんに再会したのを始め、多くの深い出会いがありました。その一人が池田聡寿さんです。大目さんからのメールの予告どおり、「木材や森のことだったら池田さんに聞け」といわんばかりの噂にたがわぬ人でした。池田さんは今は合併してわが町の隣町になった大洲市の天守閣築城にも選木や納品で深く関わった人だそうで、初対面ながらすっかり気に入ってしまいました。講演の後の懇親会で酒を飲まない素面をいいことに、池田さんに明くる日木曽檜の原生林を見に連れていってもらうよう約束してもらいました。池田さんの会社は隣町上松町にありました。大目さんの車でホテルを朝9時に出発しました。木曽川に沿って上松まで下りましたが、木曽町の木曽川が女性的なのに対して上松沿いの木曽川は男性的で紅葉に映えて綺麗でした。池田さんの会社を訪問しましたが色々な事に取り組んでいて、能面などの材から神社仏閣の用材まで凄い会社です。ここで池田さんの車に乗り換え、木曽五木の代表的産地で日本三大美林といわれる赤沢自然休養林を目指しました。

 木のことは檜とさわらさえも見分けがつかない私など無知に等しく、池田さんの軽快な説明にただただ納得するばかりで、右を見て、左を見てと池田さんが珍しい物を説明する度に車から下車してその姿をカメラに収めるのがやっとでした。

 一番最初にカメラに収めたのは道路の直ぐ側の大きな石の上に自然に生えたさわらの巨木でした。池田さんの話によるとこの木でも小さく見えるのに200年も経っているのだそうです。

 この辺の檜は根上がりが多いのですが、親木の古株の上に種が落ちて芽を出し、切り株親株の養分を得て育ち、やがて親株が朽ち果て土に帰る頃には若木がせめぎあいの中で生き残って成長するという自然の生命引継ぎが、神秘的に行われているからだと聞いて納得しました。

 やがて私たちは赤沢自然休養林の入り口で車を止め、歩く事にしました。本来ならお金の要る駐車場も顔見知りな池田さんの仲間がいて顔パスなのです。それにしても川床が浅いため川と遊歩道がまるで一体のようで、ウッドデッキ風な遊歩道は歩き易く、足の速い山歩きに慣れた池田さんに、私でも充分ついて歩くことが出来ました。山は紅葉真っ只中で、一年中で最もいい季節の最もいい日を選んだことに感謝や感嘆の声を上げました。

水は何処までも透き通って、川面にもみじの色と針葉樹の緑が見事に調和して映っていました。

 この堰は木材を搬出するため人間が木材を使って作った名残の堰だそうで、自然に見事に調和していました。

 この切り株にも既に若い命が宿って次の世代の息吹が感じられました。

 しばらく歩くと森の中に東屋が見えてきました。伊勢神宮の造営に使う神柱を切り出した時の切り株が厳かにこうして保存されているのです。池田さんは木材に関わっている人ゆえ、敬虔な祈りを捧げ賽銭を入れて拝んでいました。池田さんの話だとこの切り株は樹齢200年を超えているのだそうですが、まるでその年輪を数えられない石のようなもので、過酷で厳しい自然の中で育つことの意味を感じました。

 池田さんが定点観測をしている切り株に出会いました。この切り株にも無数の檜やさわらの苗木が芽吹いていて、池田さんからいただいた「木曽檜天然木の成長の過程」という資料を読みながら納得したのです。池田さんは博学だし文章力も凄く、この事を題材に絵本を作る計画だそうです。

 遊歩道と平行して森林鉄道が走っていました。遠くで森林鉄道の「ぽー」という音が聞こえていました。この日は女優の宮崎美子さんが来られるとかで、カメラが数台スポットで待ち構えていました。

 この根上がり檜はまるで宮崎駿監督のトトロの冒険に出てくるような根上がりで、この中をくぐると幸せになるそうなのでくぐりました。

 

 高知県千本山の魚梁瀬杉の大木を連想しての入山でしたが、左程大きく感じない檜でも、さすがに木の根元に立つと凄い大きさで、私と大目さんが小さく見えるほどの檜があちこちに立っていました。まさに伊勢神宮と深いつながりのある神木の森でした。

  「切り株を 養分にして 子が育つ 生命のリレー 自然の営み」

  「分け入りて 樹齢二百の 大木に そっと耳あて 言わぬ声聞く」

  「根元から 樹上見上げりゃ 見事なり 威風堂々 神木茂る」

  「そこここに 落ちてる朴葉 踏みしめて 静寂な森 黙って歩く」 

 

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○長野県木曽町を訪ねる・ルポ②

 山間の宿場町、しかも小雨そぼ降る人通りもまばらな木曽福島に秋のとばりが下りて、夜の集会のためにホテルを出る5時半頃には、もう足元も見えないほどすっかり暗くなって、小雨にぼんやり霞む街灯の明かりが旅の風情を醸していました。迎えに来た役場職員の「お待たせしました」という声と、「行ってらっしゃいませ」と言う交錯する言葉に迎え送られて車の後部座席に乗り込みました。役場まではほんの数分で、会話を交わす暇もない

速さで到着しました。控え室で代表世話人の半坂さんと名刺交換して会場へ入り、開会あいさつや講師紹介が終り早速講演です。

 「まちづくりの新しい風」と題した約90分の短い時間でしたが、私の話しにみんな熱心に耳を傾けていただきました。木曽交流創造塾は木曽地方の広域的な異業種交流で近隣の町村からも来ていました。

 講演後私のカバンを真似て大目さんの発案で作った木曽檜のカバンと私のカバンの初めての出会いが実現しました。

 私のカバンは20年も使っていて手垢に汚れ浮世の風にさらされてすっかり色あせていて、木曽檜で作ったカバンはまるで貴婦人のような神々しさで、少し恥かしいような感じもしましたが、それでもやはり先輩格だけあってどっしりとした重厚感が漂っていました。

 この方が作者の畑中工場長さんで、今後の参考にするのか私のカバンをマジマジと見とれていたようです。要はカバンが立派かどうかではなく、どんな使い方をするかだと口幅ったくもアドバイスしました。

 講演が終わり場所を変えて交流会がもたれました。連れて行かれた所はまるで蔵のようなレトロ調で古めかしい場所でしたが、これが中々素晴らしい西洋風料理が出て、そのギャップに度肝を抜かれてしまいました。

 この夜の交流会には私と同じく酒も飲まないのに地方事務所の太田所長さんやレストハウス木曽路の丸山社長さん、それに日本でも指折りといわれる木材会社専務の池田さんが見えられ、大いに盛り上がった話をしました。夕方の講演会では話さなかったことを話すものですからみんな興味深々で、これからの交流につながるいい出会いとなりました。時間を大幅に延長しての交流を、池田さんの朗々たる木遣りのような謡と締め拍子で終え三々五々引き上げましたが、明くる日再会しようという話になりました。

 明くる朝私は午前7時半に朝食を済ませ、迎えの来る9時まで一人木曽福島の街中を散歩しました。ホテルを出て大寒屋敷に向いました。朝の宿場町もいいものです。

 木曽川にかかる橋を渡ると代官屋敷がありました。早朝なので入館することも出来ないので、周辺をウロウロしましたが、庭の紅葉がとても綺麗で、思わずパチリ一枚失敬しました。


 しかしどうです。この紅葉の色は。思わず立ち止まり呆然としてしまいました。これぞ美しい国日本です。

 再び元の道を引き返して関所への道を一人ゆっくり歩きました。この日の朝は曇り空ながら雨も上がって、少し肌寒いものの歩けば丁度よいくらいでした。急な坂を登って関所の後へ行きました。江戸時代は日本の4大関所と言われるほど中仙道の重要な関所だったそうで両側に迫る山が関所に適していたのでしょう。その時代は宿場町として栄えたに違いありません。坂の上には関所や島崎藤村ゆかりの屋敷などがあって、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚にとらわれました。

(背の高い木柵が関所の面影を留めています。)

(イチョウの黄色が白壁に映えていました)

(真赤なもみじ越に見える木曽福島の町並みも綺麗です)
 

 急な坂海を下ると、前日大目さんが連れて行ってくれた蔵風の木工品販売所に出ました。

(蔵風の木工芸品展示即売所、大目さんの同級生が経営していました。


 この街は何度も大火にあっているそうで、古いものが残っていないと言われましたが、一歩路地に入ると消防車も入れないような狭い路地が幾つもあって、宿場町の面影を今も残していましたし、和菓子屋さんが多いのもその名残なのかと納得しながら散策を楽しみました。

 細い路地を意の向くまま足の向くまま辿ると、小粋な木造橋と足湯ができる観光スポットに出ました。「えっここは温泉があったっけ」などと一瞬立ち止まりましたが。

(名前が粋ですね。二人橋だそうです)

(足湯がありました。「湯加減はどう」と足湯をしている若者に尋ねたら、「少しぬるめ」と答えました)

(木曽川に流れです)

(大通寺の山門も雨に濡れて風情がありました。境内には大きな枝垂桜があって、和尚さんが今流の落ち葉を吹き飛ばす掃除機で無造作に作業をしていました。「おはようございます」「・・・・・・・・・」。聞こえなかったようです。

 お寺に山門も見事でした。パンフを見ていると私の町のお寺と同じ名前だったものですから訪ねてお参りの手を合わせました。

 こうして一人1時間ほど街中を散策しましたが、とにかくいい町です。そして紅葉の季節なものですから、私の下手糞な腕も何とか見れる写真に仕上がったようです。

  「普通なら 白黒写真の 似合う町 秋はカラーの 彩り似合う」

  「この町は どこか懐かし 雰囲気が 菓子屋看板 どうぞどうぞと」

  「代官に 関所とくれば 水戸黄門 タイムスリップ 俺通行人」

  「少し冷え 足湯ぬくもる 旅の朝 何処から来たの そんなに遠く?」





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shin-1さんの日記

○長野県木曽町を訪ねる・ルポ①

 木曽創造塾の招きで長野県木曽町を訪ねました。そもそもの発端は木曽町の地域調整課長補佐大目富美雄さんと高知県馬路村で、この夏6月8日~9日に行われた地域づくり全国交流会で知り合ったことがきっかけでした。200人も集まった中で大目さんが注目を集めたのは名刺交換でした。車の免許証を引用した奇抜なアイディアは、私の似顔絵名刺とともに高位置にランクされ、お互いが気が合い手紙のやり取りとなったのです。大目さは小まめな方だし、自分の顔写真を切手に印刷するようなアイディアの持ち主で、交流会の当日は参加者の中でも群を抜いて人気者だったと記憶しています。当日私の基調講演を聞かれて、近いうちに木曽町へ話しに来て欲しいと頼まれていました。

 その後私の持っている木になるカバンに感化を受けたようで、木曽檜でカバンを作りたいから了解して欲しいと言うや否や、地元王滝木材加工企業組合の畑中工場長さんに頼んで完成し、それが地元の新聞に載ったと掲載紙まで送ってくれました。まあ実行力のあるお方とお見受けしましたが、大目さんが世話人をしている創造塾の研修会に招かれたという話です。

 木曽町は長野県といってもどちらかというと飛騨高山や名古屋に近いところに位置していますが、私は東京新宿から中央本線に乗って塩尻で乗り換え木曽福島へと入るルートを選びました。あいにくこの日は到着する頃に小雨が降り始めましたが、大目さんと開田の散策をしました。合併前の開田は看板も殆どなく屋根の色調も条例で統一され環境に配慮した村だけあって、そこここに長閑な山村の佇まいや原風景が感じられました。

 大目さんの案内でまず遅い昼食を食べに大目食堂へ出かけました。そばが大好物の私に配慮して新そば、しかもここでしか味わえないとうじそばという珍しい食べ方を賞味しました。一見何処にでもありふれた旅館兼そば屋ですが、なめこやすんき(かぶ菜を乳酸菌で発酵させた漬物)の入った熱いだし汁に小さい竹篭に入れたそばをお碗に入れて食べるのです。そばのしゃぶしゃぶとでも表現した方がいいような、まあこれが絶品で、私は大盛りに加え大目さんの分まで食べてしまいました。大目さんから「昼食はそば」とメールが入っていたので、いやしいかな朝食を抜いていたものですから美味しい美味しい昼食になりました。

 その後地元産の木曽馬の牧場へ出かけました。愛媛にも今治に野間馬が飼育されていますが、木曽馬は中型馬だそうで、保存を目的に大切に育てられていました。

 この日は地元の中学生が労働体験で牧場にやって来ていました。大目さんの計らいで嬉しい事に馬に乗せてもらうkとになりました。牛やラクダは乗ったことがありますが生まれて始めて馬という動物に乗りました。

 インストラクターに手綱を持ってもらって、室内練習場のような場所で2週も乗りましたが快適でした。

 天気の良い日は木曽節に歌われている御嶽山が見える広場に案内してもらいましたが、残念かな山は全然見えませんでした。インターネットの画面に映っているの御嶽山なのですが、返す返すも残念でした。でも正面のブルーベリーの真赤な紅葉がとても印象的でした。


 そばを食べ、そば饅頭を食べ、ついでに人気のソフトクリーム屋さんに立ち寄りペロリなめました。これも天気の良い土日ともなると行列が出来るのだそうです。

 夕方まで少し間があったので、一夜の宿を借りる地元では老舗のつたやグランドホテルへ到着し、お風呂をいただきました。部屋の窓、風呂の窓から見える木曽川を挟んだ山々は今が盛りの紅葉で、何と表現したら良いのか分らないくらい綺麗な色をしていました。このところの急な冷え込みで紅葉が一気に進んだそうで、今度の連休は大勢の紅葉狩りで賑わうことでしょう。


  「♭木曽のなあー♯ 誰でも知ってる 木曽節を 風呂で歌って 紅葉楽しむ」

  「とうじそば 大盛りプラス 人のまで 食べて満足 友に携帯」

  「木曽川は 何処に流れて 行くのやら あてなく見える されども海へ」

  「この紅葉 見せてやりたい わが妻に やがて散るのか 勿体ないな」 


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