shin-1さんの日記

○裏山に咲く野菊

 11月に入り晩秋の色が日増しに濃くなってきました。先日旅で訪ねた長野県木曽町のように錦織り成す紅葉は願うべきもありませんが、周囲の山々のハゼ紅葉が少し色づき始め、里の秋を少し実感しています。

 昨日は久しぶりに菜園に出てカブと大根を収穫しました。カブはカブ菜ごと漬物に漬けると柔らかい浅漬けの漬物が出来て熱々の新米によく合って食欲をそそり食欲の秋を満喫しています。また大根も葉っぱはおひたしやなめしご飯でいただけるし、大根ももうおろし大根に使えるような大きさに成長しました。昨日は大きくなった真っ白なカブを5個ほど娘の家に持って行ってやりました。産休の娘は料理が好きでわが家へ来ると必ず菜園のものをごっそり持ち帰り、生協の宅配と合わせて使っているようです。先日もカブを煮込んだスープをご馳走になりましたが、中々の腕のようで電子レンジでチンする世の中に生きてるのに、手料理を家族に食べさせる姿に少し安心しました。

 今朝裏山の斜面で野菊の真っ白い花を見つけました。わが家の周囲は自然が一杯で、夏の草刈りは骨が折れるものの、その分自然を満喫できるのです。草刈り作業で手の届かなかった場所に咲いている野菊の白い花を見て、よくぞ草刈機が届かなかったと愛しい気持ちになりました。ふと若い頃に読んだ「野菊の如き君なりき」を思い出したりして、柄にもなく少し感傷的になりました。

?しかし、野菊の周辺の草むらを見ると、名さえ分らぬ色々な野の花がいっぱい咲いて秋を演出しているのです。これらの花はこれまでにも咲いているはずなのに見る暇もなく、見る心や目もなくて見過ごしていたのでしょう。一生懸命咲かそうと努力した花は咲かないのに、何故か草刈機で刈った後の花は綺麗に咲いているのです。人間のエゴとでも言うべきなのでしょうが世の中は不思議です。

 少しだけ季節を感じたり楽しんだりしようと思うだけで凡人の私でも、こうも回りのものが見えてくるのかと不思議な気持ちになりました。そういえば私の暮しは不自然だったのかも知れません。自然が暗いのに明るくし、寒いのに温かくし、旬でもない冬に夏しか出来ないものを食べる不自然さが目につくのです。これからはできるだけだけ自然に近づける暮しがしたいと、野の花を見て感じた朝でした。

  「野の花は ものは言わぬが ちゃんと咲き 秋が来たよと 教えてくれる」

  「野の花を 一輪摘みて 机の上 部屋に漂う 不思議な香り」

  「草刈りの 届かぬ所 野菊咲く 白い花びら 風になびきて」

  

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shin-1さんの日記

○私は先生ではありません

 「先生」と呼ばれる人は学校の教師、お医者さん、政治家などがありますが、教師や医者などは誰でもなれる訳ではないので、「先生」と呼んでもいいと思うのですが、政治家は志を持てば免許も要らないので誰でもなれる可能性がありますから「先生」と呼ぶのには少し違和感があるような感じがするのです。最近は政治の混迷が続いているため国会答弁などがよくテレビで紹介されていますが、質問する側に対して質問される側が、「先生・先生」と相手を呼んでいるのを聞くと、まるで「質問をお手柔らかに」とゴマをすって持ち上げているようにも思えるし、質問する本人もまんざらではないような、少し鼻高々の感じさえ見てとれるのです。

 議員さんには市町村の議員から国会議員まで様々な議員という職があります。いずれも選挙で選ばれるのですが、平成の大合併で合併したとはいえ100票そこそこで当選する議員もいるのです。

 先日仲間と飲み屋へ行きました。酒を飲まない素面の私が目撃し聞いた話です。隣の席で飲んでいた胸にバッジをつけた市会議員さんが、対応しているお店の女性に、「私は○○市の市会議員だ。まあ先生と言われる職だ。私の事をみんなが先生と呼ぶので、先生と呼んでくれ」と言っているのです。その議員は顔見知りの人なのですが、その話をさも回りに言いふらそうと言わんばかりの大きな声で話していました。私は思わず噴出しそうになりました。「何が先生だ」と行ってやりたかったのですが、相手の議員はかなりメーターが上がっていたので、喧嘩にでもなったら大人気ないとその場は聞いて聞かぬふりをしました。お店の女性に聞いた話ですが、その議員はこの店に来ると「俺の事を先生と呼べ」と強要しているそうです。しかしこの議員の姿を見た市民は一体どう思うでしょう。大体プライベートで酒を飲みに来るのに胸の議員バッチも外さずに堂々と店にやって来るのは非常識もはなはだしいと思うのですが如何でしょう。たとえ店の女性が「先生」と敬語にも似た持ち上げをしても「私は先生ではない」と否定するくらいの度量がないと、市会議員などは務まらないものなのです。

 自由人である私が「仕事柄」というべきではないのですが、人の前で話す機会が多い私も、講演先のステージに上がると垂れ幕に「若松進一先生」とか、紹介の折、「若松先生は・・・・」なんて歯の浮くような紹介をされて、穴があったら入りたくなるようなことが日常茶飯事あるのです。その都度「私は先生ではありません」と打ち消してから始めるのですが、そんな時間も勿体ないのでついついそのまま話を続けてしまうのです。また私は大学の非常勤講師をしているので、学生から「先生」と呼ばれることがあります。授業中は先生と生徒の関係が成立するので仕方がないにしても、街中で学生に会うと「先生」と呼ばれて面食らうことだってあるのです。

 先日も学生がフィールドワークの授業でわが家へやって来ました。私の事を「先生」と呼ぶものですから、妻がゲラゲラ笑いました。妻にとってはタダの田舎のおじさんなのにです。

 学生には授業の始まる新学期に「先生」と呼ばないように、「若松さん」と呼ぶよう説明をしてから一年の授業を始めるのですが、学生は日常の癖で「先生」と呼んでしまうようです。先日も「先生」と呼ぶので無視したところ、「先生は最近耳が遠くなったのですか。先生と呼んでも反応がない」と言われました。私は即座に「私は先生ではありません」と答えてしまいました。

 最近はハガキの話しにつられて沢山のハガキが舞い込みます。中には「若松進一先生様」などと丁寧に書いているものもあり、届けた郵便局員は思わず吹きだしたに違いないと、汗顔しきりです。

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。本当の先生でもない人に先生と呼ぶのは止めた方がいいと思うのですがいかがでしょう。

  「先生と 呼ばれ戸惑う 私見て 耳が遠いの? 学生戸惑い」

  「わしのこと 先生呼べと 強要す 市会議員の 愚かな言葉」

  「ああ今日も 先生呼ばわり されそうで そこから話す 愚かな話し」

  「昨日来た 手紙に先生 困ったな 郵便局員 えっ誰のこと?」

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