shin-1さんの日記

○木枯らし一号

 金曜日には天気予報の予想がはずれて雨になりました。人間牧場で開いた観光カリスマ塾が終わって直ぐの雨だったため強運に恵まれた感じですが、相次いで視察に訪れた高知県須崎市の社会教育関係者にとって見れば迷惑な雨で、折角夕日を楽しみにしてやって来たのに、夕日どころか大降りの雨に出会い、私は14人の方々の傘を用意するべく奔走したのですが、人間牧場に到着した頃には激しかった雨も上がってホッとしましたが、雨が上がった頃から急に寒くなり風が吹き始めました。海に面したわが町の北西の季節風はまるで嵐のように吹きすさびます。この日も強風注意報が全県下に出て、冬の足音が急に大きくなったような感じがしました。

 この風を木枯らし1号というのでしょうか、昨日まであった裏庭のもみじの葉っぱが一夜のうちに吹っ飛んで丸裸になったり、洗濯物も飛んだりで、思わぬ強風に一気に冬景色になって、景色全体が灰色のようになってしまいました。 

 それでも裏庭のしのぶの葉っぱは落ちることなくまるで山水画のように秋色を濃くしているようです。自然の色とは不思議なもので、人間が人工的に絵に書いてもこんな綺麗な色は出せないと、窓越しに一人箱庭のようなこの景色を楽しんでいるのです。

(現在のしのぶ)

(一ヶ月前のしのぶ)
 晩秋から初冬へ確実に季節は移ろってきました。先週の土曜日、ブログで「電話ではマッタケの香りも味も分らない」と書いたところ、西土佐の和田課長さんがはるばる高知から地物のマッタケを一本届けてくれました。私が孫が泊まりに来るのを迎えに行って留守中だったので、家族でやって来た長男の妻とマッタケ汁を作っていました。妻は私のために半分を残しておいてオーブンで焼いて食べさせてくれました。この数年の間、カナダ産か韓国産のマッタケは食べたことがありますが、日本の路地物など食べたことがないので、少ない量ながらしっかり味わって食べました。オーブンから取り出したマッタケは香りがよく、みんな満足したようです。欲を言えばもう一本あったら、ハモとマッタケの土瓶蒸しが食べたかったと、貧乏人のないもの強請りをしてしまいました。少しお金の余力が出来たらマッタケを買いたいものです。

 3日前、高知県馬路村の東谷組合長さんからユズが沢山届きました。マツタケにユズはこれまた相性が良く、マッタケ汁をより美味しく感じさせました。高知県からの相次ぐ贈り物はこればかりではありません。観光カリスマ塾にやって来た木下課長さんは高知県特産のお寿司を持参してくれました。筍寿司や大根かと思いきやそうではないシャキシャキ感のあるお寿司、それにお稲荷さんや太刀魚の握り寿司などを沢山持って来てくれました。妻と二人で堪能するほど食べて満足です。

 その夜は風呂に2個のユズをほおり込んで湯時風呂としゃれ込んでみました。外は木枯らし1号が吹いているのに、マッタケ、ユズ、ユズ風呂と暖かい物と人情にに囲まれ、至福の時を過ごしました。

  「マッタケが 届かないよと メール書く するとどうです わざわざ持ち寄る」

  「ユズをニ個 風呂の湯の中 プッカプカ まるで温泉 花歌気分」

  「高知から 皿鉢料理の 寿司届く 美味い美味いと 全て平らげ」

  「ユズの酢が 隠し味です 高知産 ユズ湯で私 高知に染まる」

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shin-1さんの日記

○伊予市の職員組合に招かれて

 今晩は伊予市の職員組合に招かれて小さなシンポジウムに行きました。えひめ地域づくり研究センターへ伊予市役所から出向している松本研究員によって働きかけられ実現したものですが、それにしても面白い顔ぶれが揃いました。伊方町の塩崎さんと西条市の近藤さんは、私と3人でえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員であるし、コーディネーターを務める岡崎さんは事務局長なのです。この4人が同じステージに上がるのは後にも先にも初めてとあって、面白い企画だと、この話を持ちかけられた時内心思いました。まちづくりといっても4人ははそれぞれ違った生い立ちを持っていますし、現在の置かれている立場も全然違うので、4人4様それぞれ違った主張があるものと私自身も期待しました。

 今日の集まりはインターネットで流したこともあって、大洲など違う市町村からも勉強に来ていましたし、職員雲組合から市会議員にも案内をしていたらしく熱心な議員さんが4~5名くらい参加してもらっていて、私としては大歓迎なのです。しかし案内した課長以上の管理職は誰一人として参加していないようで、少し物足りなさを感じましたが、それも愛嬌で上滑りな感じは否めませんが、それでも限界集落やオンリーワンのまちづくりについて質問用紙が寄せられるなど、少し突っ込んだ意見が交わされました。

 みんなが強調したかったことは、合併によって末端では様々なひずみが起こっている事に職員としてもっと直視し耳を傾けて欲しいということでした。その上で行政をやらねば信頼される行政にはならないからです。

 「今求められる自治体職員とは」、~まちづくりの視点で語り合おう~、地域住民の繁栄なくして、自治体職員の真の幸福はない、と書かれたこの日の資料がキーワードなのでしょうが、私はふと今年の8月末に職員研修で訪れた東広島市でのことを思い出しました。今朝その時の資料が出てきたものですからカバンの中に入れて今晩の研修会に望みました、そして時間がないので棒読みのような形になりましたが、みんなに紹介しました。

    市役所職員に望むこと

 1、市役所職員である前に一人の人間であること

 2、市役所職員である前に一人の市民であること

 3、市長に雇われているのではなく市民に雇われているということ

 4、市役所の常識は社会の非常識が多いこと

 5、あなたの代わりは幾らでもいるということ(やらにことをやれないというな)

 6、ふるさとを愛し、ふるさとのためにやり、ふるさとをよりよい方向に導くということ

 7、市民の輪の中に入り市民の声に耳を傾けること

 8、あなたにしか出来ない事をやること

 9、今をテーマにせず10年先を見るということ

 10、オンリーワンの日本一を目指すこと

 それにしても職員組合がまちづくりの視点を持ってくれただけでも大きな前進です。伊予市の同じ市民といいながら合併後間もないこともあって、半分以上の職員の顔を知らない私にとって、まちづくりの提案は余りにも多過ぎて、多分言っても消化できないだろうと思っていましたが、こうして話画でいただけでも大きな前進です。これからも共通の認識の上に立っていいまちづくりをしたいと思いました。

 私は愛媛大学法文学部総合政策学科のフィールドワークで、今年は今治市、伊予市、西予市の3市にお邪魔しましたが、住みたいまちづくりと訪ねたいまちづくりという2つの視点で学生たちが伊予市に下した評点や、今治市と西予市のまちづくりの取り組みを聞きながら、やはりいいまちづくりのキーワードは職員の資質だと思ったものです。既に始まっている合併後のまちづくりの胎動が少し遅れていたりレベルが低かったり感じていることを、積極的に介入した方がいいのかどうか、迷っているこの頃です。

  「世の中も 変わったものよ 組合が まちづくりなど 語るのですから」

  「議員来て 課長一人も 来ないとは これまた不思議 困ったものよ」

  「この街を 発展させたい 一心で 乗り込み話す 煙たがられて」

  「有難う 友遠方より 加勢しに 来てくれ嬉し 意見交わしぬ」

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shin-1さんの日記

○仁淀川町への旅

 昨日は木枯らし1号とでも呼ぶべき北西の季節風が吹き荒れて、温かい昨日とはうって変わった寒い一日となりました。このところの忙しさで余りかまってやれなかった孫朋樹を誘って、高知県仁淀川町への小旅行をしました。それというのも昨日は仁淀川町教育委員会から講演の依頼が舞い込んでいて、午後からの会合なので晩秋の33号線沿いを散策する絶好の機会と思ったのです。しかし残念ながら蓋を開けると行楽とは縁遠い寒い一日になってしまいました。

 妻と三人のデコボココンビで行き当たりばったりの旅に出かけた先は、まず面河渓谷でした。久万の町を過ぎて美川の軍艦岩を右に見ながら石鎚スカイラインの入口まで走りました。途中面河の茶屋で一休みし、沿線に植えられた見事なまでのもみじの紅葉を満喫しながら、田楽やトウモロコシを食べました。

 途中何度も沿線の見事なまでに紅葉したもみじを満喫するため路側帯に車を止め、その都度孫は袋を持って戸外へ出てもみじの美しい葉っぱを拾って袋の中に入れて行くのです。「このもみじは何で赤くなるの?」なんて質問にたじろきながら、賑やかな会話を車中で交わしながら、行く秋を体一杯に感じ取りました。

 愛媛の景勝地面河渓も相次ぐ不況や高齢化で、かつての活気ある姿は既になく、あちらこちらのドライブインも閉めて久しい感じがしました。この道を通る度に旧友の菅務さんを思い出します。彼は意思半ばでガンで亡くなりましたが、この茶屋を作るときも色々なアドバイスを求めてわが家へやって来ました。特産品販売所である茶屋が出来たときの喜んだ姿は今も忘れることができません。茶屋のおじさんにその事を話すと菅さんの話に花が咲きました。

 茶屋のおじさんの忠告どおり面河渓谷のもみじは既に散っておりました。紅葉狩りを当て込んだ観光バスも先を急ぐように走っていましたが、風に吹かれて散ったもみじにガッカリしたのか、早々と下りてきているようにも見えました。それでも面河渓谷は雄大な姿を見せていました。

 昼食は何処で何を食べるか車の中で孫と妻に聞くと異口同音に「ソバ」でした。それなら吾川村の、いや合併したので仁淀川町の観光センターでと、大きなダムの堰堤を走ってダムを見下ろす高台にあるセンターへ立ち寄りました。食堂に入ると顔見知りの双海町の人が数人既に食事をしていました。懐かしく談笑しながら食事を注文しましたが、残念ながら孫のお目当てであったザルソバはありませんでした。でも温かいソバで体を温め孫も満足なようでした。私たち夫婦は旅をする時、特に講演などに行く時は必ずその土地へ感謝の気持ちを込めてお金を落とすように心がけています。食事もそうですが、特産品の買い物もガソリンもその土地で調達するのです。些細なことですが、それも気配りだと思っています。しかし昨日は弱ったそうです。ガソリンスタンドが一軒も開いていなくて、結局は遠い向こうの町へ入れれニ行く羽目になったとか。まあ時間的余裕があったので一件落着です。

 この日の集会は中学生の主張と私の講演を抱き合わせる盛り沢山のプログラムでした。

 6人の中学生の主張を聞かせてもらいましたが、どの発表も堂々として私など真似が出来ないと思いました。小さな町だからできるきめ細かな配慮が何よりも嬉しい一日でした。なお私の講演は「地域で育てる子どもたち」という演題で話をさせてもらいました。

  「木枯らしが 吹いてもみじを 散り染める 踏みしめ道を 奥まで歩く」

  「孫の手と よく似たもみじ 足元に 見つけて袋 一杯になり」

  「堂々と 胸張り主張 中学生 俺にもこんな 時代あったな」

  「田舎には こんな素敵な 子どもいる 何故か寂しや 人が減りつつ」


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shin-1さんの日記

○オホーツク海のほとり紋別に行きました(ルポ・②)

オホーツク海に面した紋別の夕暮れは早く、後援を終わった4時半頃には既に外は薄暗く、さすが北の街だと実感しました。多分明日の朝は早く太陽が昇るだろうと、少し期待をして家と変わらず4時には起床しましたが、暖房を切って寝たため少し寒さを感じながら窓のカーテンを開けました。まだ外はうっすらと明かりが感じられる程度だったので、暖房とテレビをつけ、例によって東京で仕入れた2冊の本を相手に早朝読書を試みました。

 気がつくと外はもう明るくなっていて、知床半島方面からきれいな朝日が昇っているのが窓越しに見えました。今日は天気予報だと曇りのち雨のようでしたが、朝空はよく晴れわたっていました。

 今日は会場では分科会が行われるようでしたが、私は無罪放免で教育委員会の浜松係長さんの案内で、市内を散策させてもらいました。この浜松さんは紋別市きっての情報通で、紋別のことならこの人に聞けと言われるほどだと、昨晩の懇親会で他の人から聞いていたので、期待をしつつ待ち合わせの時間を待ちました。9時ジャストにホテルへ来るあたりさすがと思い、公用車で4箇所ほど案内してもらいました。一番最初に行ったのはガリンコ号の係留されている港でした。2月になるとこの海は流氷で埋め尽くされるのですが、その流氷見学の船が砕氷船ガリンコ号なのです。船としては余り優美には見えませんが、まるで海のブルドーザーにも似ていて、その名が示すように、かなりユーモラスな格好です。この船体が回転式ローラーで流氷の上に乗り上げ氷を割って進むのです。この船は北海道遺産に登録されている、日本を代表する船なのです。



 港の近くには回虫展望台やアザラシの飼育場がありましたが、展望台は歩いて行かなければならないためと、ガリンコ号と距離があるため苦戦しているようでした。アザラシは20数頭飼っていて、若い女性が調教をやっていました。いずれも公開されていて身近に体験できる気安さがあり、情報発信次第では紋別の新しい顔になるような気がしました。私もアザラシに出会わせていただきましたが、しっかりと調教されていて感動物でした。

 次に訪れたのはオホーツクを丸ごと体感できるミュージアムです。広大な敷地にポツンと立っているミュージアムの外観からは無機質な感じもしましたが、中に入った驚きは凄いものです。何せ年中マイナス20度の厳寒とブリザード、それに流氷が直接体感できるのです。

(流氷が体験できるオホーツクミュージアムの外観、地下は冷凍施設になっていて、マイナス20度が年中体感できるのです。私も傍観具を身に纏って中に入りましたが、とにかく寒いという印象でした。紋別の人たちはこんな寒さの中で冬を過ごすのです。南国四国の私には到底考えられない世界です)

(意味ありげな入口のポール、何だと思いますか?。ヒントは温度です)

(ミュージアムのロビー)
(念願だったオホーツクの天使クリオネにも出会い感動しました)

(オホーツク海n向って立つステンレス製のモニュメントも印象的でした)

(公園内には至る所にハマナスの真赤な実が実っていました)

 次に訪れたのは流氷岬でした。この海岸を流氷が埋め尽くすのだそうです。海岸では鮭を釣るために何本もの釣竿が立っていました。

(流木を利用したいきな流氷岬の看板)

(ここからは寒いため氷点下20度になると真四角になる旭が見られるのだそうです。いつか訪ねた北海道留萌の黄金岬で見た氷点下15度の真四角な夕日を思い出しました)

 最後の目的地は紋別の街が一望できる大山という小高い山でした。実にいい眺めです。右の彼方は知床、左の彼方には釧路辺りになるのでしょうが、弓なりのオホーツクの海をバックにした紋別の街はとても美しく見えました。

 簡単な昼食を済ませて空港へ行くと船木さんはじめ多くの方々が見送りにきてくれました。この空港は飛行機へはタラップまで歩いて搭乗するのですが、2階の送迎デッキから寒い中をみんなが手を振って送ってくれました。人なつっこい北の大地に生きる人たちの優しさを感じながら、北海道を後にしました。

(多くの方が手を振って見送ってくれました。ちょっぴり涙が滲みました)

(上空から見た紋別の街)

  「先々で 出会う人有り 温かく 少し涙の 別れ寂しく」

  「クリオネと アザラシ出会い 嬉し旅 流氷体験 全て心に」

  「マイナスの 二十度こんな 土地にでも 逞し生きる 人間凄い」

  「もう一度 必ず訪ね たい思い 今度は妻も 同伴したい」 

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shin-1さんの日記

○オホーツク海のほとり紋別に行きました(ルポ・①)

 私が初めて北海道の大地を踏んだのは今から40年も前の23歳の時でした。愛媛県ではその当時青年国内研修という制度があって、東北・北海道班の募集に応じた青年の中から選ばれた20人が、幸運にも北海道へタダで行けたのです。その当時の若者にとって東北や北海道への旅など夢のまた夢のような時代でしたから、多数の応募があり、それぞれの市町村教育委員会から推薦された青年たちはいずれもつわもので、選ばれた青年もまた青年団長などの要職を歴任している人ばかりでした。当時伊予郡青年団長を務めていた私は幸運にもその切符を引き当て、メンバーの代表として参加する事になったのでした。

 あれから40年の時が過ぎ去りましたが、その間北海道は段々近くなり札幌オリンピック時には再び愛媛県から派遣された青年のメンバー代表として皇太子殿下ご夫妻と一緒にカレーライスを食べる幸運を掴んだり、観光や全国大会など度々北海道を訪れました。春・夏・秋・冬とそれぞれの趣きを感じたり、北海道の厳しい自然を体感してきました。最近になっては北海道から講演依頼が舞い込むようになって、毎年のように北海道へ足を踏み入れているのです。

 今回の北海道への旅は、今年の夏高知県馬路村で開かれた地域づくりの全国大会で、北海道の船木耕二さんと知り合い、網走館内の社会教育大会に招かれたのです。

 愛媛から北海道へは残念ながら直行便が先月廃止されたばかりで、ましてやオホーツク紋別空港となると、東京からの便が一日一往復しか飛んでいないので、松山~羽田~オホーツク紋別と飛ばねばならず、空の便を利用すると行けば明くる日の便しかない不便な空港なのですが、それがまた魅力だと内心ワクワクして出かけました。紋別への旅立ち日が近づくと何となく北海道の天気や気温が気になって、毎日のテレビで天気予報が出る度に一喜一憂するする姿は、少年の頃の遠足前日に似ているような気がしました。

 羽田を経由した飛行機は津軽海峡を渡り、札幌付近の上空を飛んでいよいよ紋別です。窓際の席を取ったもののあいにく主翼の上付近で視界は余り開けませんでしたが、それでも眼下には白く雪で薄化粧した山々や黄色く色づいたカラマツ林が開け、北海道へやって来た実感が湧いてくるのです。紋別空港はオホーツク海沿いに開けた場所にあり、飛行機は一度オホーツク海に出てから回転して滑走路に下りるのですが、その雄大な海の広さたるや、さすがオホーツク海といった感じで、湖もあちらこちらに見えました。

 紋別空港は紋別の街から非常に近い場所にあり、飛行機が20分ばかり遅れ、2時からの講演に遅れるのではないかと内心気を揉みましたが、何とか余裕があって用意していただいた弁当をかき込んでの仕事となりました。


 この日のテーマは「生涯教育とまちづくり」という私の十八番なので、90分の話は参加者の共感・共有・共鳴を呼び、その夜の宿泊交流会では予想以上の反応に驚いた程です。

 交流会での話題を写真で三つ紹介ておきます。


(外国人英語教師、いわゆるETさんは来道以来まだ三カ月余りだというのに、日本の伝統的楽器の琴に興味を持ち、お師匠さんと見事なコラボレーションを披露しました。日本の同様をメドレーで弾いたのですが、まさに生涯学習の真髄を極めた光景でした。日本人を越えた彼の日本文化を目の当たりにして、日本人として恥かしく思いました。

(劇団の方が、高齢化社会を寸劇で披露しましました。筝曲の師匠も、劇団の座長も社会教育委員だそうで、この劇団の主宰者は大会の司会も担当していて、磨かれたその技に脱帽してしまいました。

(庭木屋さんだそうですが、紋別の歌を凄い声量で披露しました。普通のカラオケなんてものではなく、これは名人芸にも似た素晴らしい技でした。自分の街の歌をこれだけ自信満々で歌える人は珍しいと思いました)

 その夜は誘われてホテル近くの飲み屋へ大勢で繰り出し、交流会は深夜にまで及んだようです。残念ながら私は旅の疲れを配慮していただいた担当者にホテルまで送ってもらい、少し早く席を立ちました。その夜の気温はかなり下がっていて、吐く息も白くなるほどでした。多分この外気温は、四国では真冬波の寒さではないかと感じ、改めてオホーツクの冬の寒さを垣間見ました。

  「羽田発 往復一便 しかないと いわれて乗った 空港降り立つ」

  「会場と なるべき部屋の 窓越しに 一本線引く オホーツク海」

  「何処となく 冬の足音 感じつつ 紋別の街 白息吐いて」

  「ひょっとして 一番遠い 所にて 講演聞かす 四国訛りで」

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shin-1さんの日記

○和歌山への旅

 先日、大阪駅から特急くろしおという列車に乗って日本一の梅の産地といわれる和歌山県南部町を目指しました。和歌山は様々な土地へお邪魔をしているので、久しぶりに来たというのにどこか懐かしい感じがして、大阪駅で仕入れた何冊かの本を読みながら、車窓を流れては消え行く風景を飽きることなく眺めていました。次は何処の駅と車内放送がある度に、訪ねた町の記憶を思い出しつつ、近づきつつある目的地に思いを馳せました。和歌山へは途中に関西空港があるためアクセスもよく、あっという間に着くのですが、そこから向こうは白浜はいざ知らず新宮などは同じ和歌山とは思えないほど遠いのです。私の目指す場所は南部町と書いて(みなべまち)と呼ぶ紀淡海峡とも太平洋ともとれる、列車の名前の通り黒潮が流れる温暖な土地なのです。晩秋だというのに無霜地帯だけあって、早くもエンドウの花が咲いていて南国を思わせる雰囲気でした。

 ついウトウトしてハッと目が覚めると車窓に何やら風変わりな橋が見えました。カエルの格好をした面白い橋です。

 南部が近づくにつれて、海の彼方に細長い半島が見えてきました。多分見えないあの向こうには潮岬があるのだろうと思いつつ、デジカメで一枚車窓の風景を撮りました。

 やがて列車が南部の駅に着きましたが、一便早く着いたので駅界隈を散歩する事にしました。駅の入り口に新聞少年の銅像「働く少年の像」が立っていました。珍しいので裏の碑文も珍しいので写真に収めました。昔はこの働く少年の像のように、苦学して学校へ通う人を何人も見ましたが、今は学校へ行きたくないのに学校があるような感じで世の中も随分変わったものです。私は現在愛媛大学の夜間主の授業を担当していますが、この大学の夜間主も例外ではなく、自分の知能に合った大学を選び通ったからやって来ただけの学生もいて、私たちの考えるイメージとは随分違うようです。

 南部の駅から歩いて5分ほどで海沿いの砂浜に出ました。この日の集会が予定されているホテルが遠望できる美しい自然海浜は、想定される南海地震への備えなのか防潮堤のように門が取り付けられていました。砂浜では側にある南部中学校の子どもが砂浜に沢山下りていて、人なつっこく話しかけられデジカメに応じてくれました。縁とは不思議なものでその引率の先生が愛媛大学の出身で、私の知っている堺先生などを知っていたのには驚きで、ついつい立ち話をしてしまいました。




 駅前に戻ってみましたが、相変わらずタクシー乗り場はタクシーも出払っていて、駅員の話だとそのホテルまでは歩いて20分もかかるというので歩く事を断念し事務局の人に電話を入れました。運良く準備のために和歌山から高速道路で近くまで来ていて、乗り合わせるとのことでホッとしながら、駅前のベンチに座り、持ってきたハガキを2枚書いてポストに投函し車上の人となりました。

 和歌山県の町村議会委員長研修での講演は午後からなので、事務局長さんが南部の町を案内してくれる事になりました。前述のとおり南部は梅の産地です。そこここに梅の木が沢山植わっていて、春先の梅の花の頃、初夏の梅の実の実りの頃を想像しながら見て回りました。ご当地だけあって梅のミュージアムも思考が凝らされていましたが、残念ながらシーズンオフであったり、少しアカデミック過ぎるため、客の姿は殆どなく、私たちだけが貸切のような形で見学しました。中でも100年前の梅干しにめぐり合ったのが印象的でした。塩漬けのために梅干しは長く持つのだそうです。また私の干支は申年ですが、十二年ごとに巡る干支のにちなみ、申年の梅は縁起がよく珍重されるとあって、少し得意になった気持ちになりました。

 会場となったロイヤルホテルからの眺望は素晴らしく、昼食も梅にちなんだご当地バージョンで工夫の後が読み取れ、満足な料理に舌鼓打ちました。

 研修に参加した県内町村の委員長さんもみんなそれぞれ熱心で、あっという間に90分の持ち時間を終え、ホテルの車で南部の駅に送ってもらいましたが、事務局から送られて来た特急の時刻表が間違っていて、次の特急は2時間もまたなければならず、とりあえず普通電車を御坊、和歌山と乗り継ぎ、結局和歌山から快速電車で大阪まで帰る羽目になり、あわやその日に帰れないハプニングに見舞われました。これも旅のよき思い出でしょうか。

  「もう一度 梅花咲きし 春の頃 訪ねてみたし 南部の郷を」

  「愛大を 卒業したと 先生が 懐かしがりて あれやこれやと」

  「申年の 私がもしも 梅ならば 干支で一番 重宝がられ」

  「あるはずの 特急なくて 鈍行で これも旅ゆえ 思い出記す」

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shin-1さんの日記

○上場を目指す東予産業・中予電器という企業の挑戦

 先月一人の女性から電話がかかってきました。電話によるとその会社は何年か先に株式上場を目指しているとのこと、そしてそのキックオフの重要な会議で記念講演をして欲しいというのです。あいにくその日は四国中央市で開かれる予定の厚生年金受給者協会にお話に行くスケジュールが入っていたし、午後2時からという時間設定は高速道路を使えばどうにか間に合うのですが、そんな重要な会に遅れては申し訳ないとお断りをしたのですが、時間を1時間ずらすからといわれるので引き受けました。

 もともとその女性佐々木みかさんとは一度現役中に役場で会っているし、社長の宮嶋さんとは金融公庫の勉強会でもお会いしているのですが、佐々木さんも宮嶋さんも名刺交換程度で深い出会いではないため、更には上場を目指すというようなこんな立派な会社の会議に果たして私の話など役に立つのかと少々躊躇しました。佐々木さんの話だと金融公庫での勉強会での私の話を社員に聞かせたいということなので、勇気を出して引き受けました。

 四国中央市の集会を終え、カーナビで会場となる工業技術センターを入力し高速道路を走りました。少々遅れての出発でしたが、余裕を持って到着し、ロビーで佐々木さんと面談しました。先日佐々木さんから会社案内を送っていただいていたので余計なプレッシャーがかかっているようでした。

 立派な会場へ入ると満場を社員が埋め尽くしていました。軽快な司会の紹介が凄くフィットしていい気持ちで90分喋りまくりました。洗脳された社員なので少し早目の語り口で話したつもりですから、2時間番組を1時間半に早送りしたような感じでした。

 それにしても会社も私のようなまちづくりもよく似たことを考えているなあと思いました。その日のメモには次のことが書かれていました。

 Challengers 失敗を恐れず、絶対に諦めないこと。

 Agility 拙速、多少荒削りであったとしても素早い行動を心がけること。

 Flexibility 変化自在、顧客・市場の要求を最優先に考えること。

 Originality 皆をわくわく、ドキドキさせる斬新な方法を考え出すこと。

 Education どんなに苦しく、忙しくとも教育はやり続けること。

                          (以下省略)


 会社は挑戦者の集まり(Challengers)だし、俊敏性(Agility)、柔軟性(Flexibility)、独創性(Originality)が求        

められています。それを成し遂げるのは個性的な人材教育(Education)なのです。

 創立50周年である2014年に株式上場するという明確な目標を掲げて5年前に5年後を夢見る会社に大きな拍手を送ります。

 普通こんな会社が、株式上場という崇高な目標を掲げた場合、どこかの会社の社長さんに話をしてもらったり、コンサルさんの話に終始するのでしょうが、極めて分りやすい私のまちづくりという手法をあえて参考にしようとする社長さんの生き方は、多分今をテーマに、今しか見えない大部分の社員にとっては首をかしげたことでしょうが、これこそC・A・F・O・Eなのです。

 社長さんは終りのあいさつでロゴマークについて話されました。この会社の新しいロゴマークには山をデザインしていました。山には日本一の富士山もあれば世界一のエベレストもあります。目標は日本一であり世界一です。私のようなオンリーワンを目指した山もありますが、あくまでもオンリーワンを貫きながら富士山やエベレストを目指して持続可能な発展をして欲しいと願っています。そっと見守りたい会社です。ご発展を祈ります。

  「上場を 目指す企業で 話する 基本は一緒 人の良し悪し」

  「英語など できぬ私が すんなりと 英語の単語 平気で喋る」

  「どの山も 登山の道は 多くある どの道登る 頂上一つ」

  「早速に 話し聞いたと メール来る 撒き餌食いつく 社員のありて」



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shin-1さんの日記

○夕日亭大根心デビュー

 昨日と今日の二日間、伊予市双海町を舞台に国土交通省主催の観光カリスマ塾が開かれました。昨日はふれいあいの館で開会式や私の講演、そしてエクスカーションとして翠小学校、海舟館、私設公民館煙会所、シーサイド公園などを視察し、夜は大交流会が深夜まで行われました。東京や神奈川、山口、香川、高知、熊本、愛媛などから、定員20人を上回る24人が参加し、私を含めたスタッフ12人を含めると36人の賑やかな顔ぶれとなり、それぞれが観光に関する学習を行いました。

(受付風景、国土交通省の小野さんと地域政策研究センターの坂本さんが受け付けをしてくれました)

(会場の入り口には私の等身大の人形がお出迎えです。本物より格好よい看板に自分自身もびっくりです。
(全国から集まった方々は熱心に勉強しました)
(私がカリスマ塾の塾長です。背広を脱ぎ捨て2時間も熱弁をふるいました)

(エクスカーションでは翠小学校を訪問し、あいにく留守の和田校長先生に代わって山田教頭先生に説明してもらいました)

 今日は舞台をふれあいの館からわが人間牧場に移し、高座と討議の二本立ての研修会を行いました。私は今朝早い朝食を済ませて一人で人間牧場へ行き、風呂を沸かして足湯の準備をしたり、一足遅れてやって来たスタッフと、高座の準備をしたのです。高知県馬路村魚梁瀬杉の切り株をみんなで持ち上げてウッドデッキの上に出し、参加者が水平線の家の中から海を見ながら落伍が聞けるようにセットしました。普通はこの切り株を部屋の中に置いて海を背にして聞くのですが、イメージをすっかり変えてのステージです。

(参加者が海に向って見聞きできるように設えた高座です。めくりも松本さんが腕によりをかけて作ってくれました)

 やがて9時になるとバスでやって来た参加者がワイワイ言いながら坂道を下りてきました。一通り人間牧場を見学した後、いよいよ高座の始まりです。

(さあ落伍の始まりです。まず最初の演目は「第5話ハーモニカが吹けた」から入りました)
 
(参加者は室内やウッドデッキに座り私の高座に聞き入ります)

(「さてお立会い、美人と思しき人前へどうぞ」と諭されて前に出てきた女性の指に、赤トンボを止らせる究極の演技に、大きな喝采の拍手が起きました)

まず、松本さんが拍子木を鳴らして口上を述べ、清水さんが用意した出囃子を地域政策研究センターの浜田女子がテープレコーダーで音出しし、三崎の塩崎さんから貰った裂き織のちゃんちゃんこを着た私の登場です。

参加者の拍手に出迎えられいざ高座へ、演目を示す捲りもちゃんと用意され、私に与えられた三つの演目30分を目指して笑いを意識しながらお話ししました。昨日は2時間びっちり話したのにそんなに長く感じませんでしたが、僅か30分の公演はかなり難しく時間的余裕があったので40分になってしまいました。

 自分の評点はまずまずといったところでしたが、さて参加した会場の人はどんな反応だったのか少し気になるところです。でも台本を配り、木戸銭と称して500円をいただく有料講演ですから、たとえそれが高座本代だとしても手を抜くことはできないのです。今日は鳴り物としてハーモニカや角笛を使い、小道具として扇子やトンボの模型を利用しました。特に受けたのは赤トンボの模型で、会場にいた女性に向って「美人と思う人いらっしゃい」とアドリブで言ったら、嬉しいではありませんか、さっと手が上がり、前に出てきて人差し指の上にトンボの模型を乗せタリして、大そう盛り上がりました。また鳴り物のハーモニカもかなり受け入れられてようで、アンコールの?拍手までいただきました。

 高座後は少しの時間参加者と観光について私がコーディネータを務め話しこみました。観光で人を招き入れ、地域を経済的に活性化したいという思いはみんな同じで、様々な意見が出されましたが、結局のところ観光は温かい人の心を売ることだという話で終わったようです。そのためには不燃人でなく可燃人となり、やがて自燃人になることが大切だと締めくくりました。

 小さな町の夕日をテーマにした小さな取組を素材として開催した今回の観光カリスマ塾は、少なくとも他のどのカリスマ塾とも違った新しいスタイルの研修であることを参加者に意識させる意味では大きな成果がありました。またこのカリスマ塾が今後につながるような予感を感じさせるオンリーワンの塾だったことも大きなプラスだったような気がします。新しい時代を切り開くことは容易ではありませんが、こうして一つ一つ可能性の扉を開いてゆかなければ何も変わらないのです。宿命と思ったことが、自分たちの気付きによって運命に変わった二日間でした。

(高座本の出版にかかわった清水さんと村上さん、等身大の人形製作に関わった加藤さんです)

(囃子などの裏方に徹してくれた地域政策研究センターの女性たち)

(領収証代わりに添付します。高座本の製作代金を即金で支払ったところ、驚いて金を数えるにんまりの村上さんです)

  「いやー楽し 高座にみんな 興味有り 笑い飛ばして これにて失礼」

  「お前より 男前だと 人形を 見比べ皮肉 これもご愛嬌

  「いつもより 少し緊張 したのかな 話芸難し もっと修行を」

  「いい人に お世話いただき 初舞台 予想以上の 効果確認」


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shin-1さんの日記

○念願の本が出来ました

 10月は忙しい合間を縫って偲び書きのような感じで書斎に閉じこもり、本の原稿を書いていました。55歳の時に出版した「昇る夕日でまちづくり」の時も、「今やれる青春」の時もそうでしたが、尻に火がつかなければいい文章が?書けない性質なので、その事を承知で自分を納得させながら原稿を書きました。

 この本の出版のきっかけは、人間牧場「水平線の家」に置いている高知県馬路村産150年生魚梁瀬杉の切り株が発端でした。人間牧場でやった「逆手塾」という集会で、たまたまこの切り株の上に座布団を敷いて話したところ、居心地も座り心地も、話心地もよかったので病み付きとなり、盛んにやるようになったのです。そしてこれを水平線の家のメインテーマにしたらどうだろうと考えるようになりました。そしてこともあろうにこの150年の年輪にあやかって、150話を終局の目標とすることを思いつきました。早速30話5部編成の1部目作成作業に取り掛かり、えひめ地域政策研究センター清水研究員の全面的なバックアップをいただいて企画を練ったのです。

 そして今日と明日開かれる私が塾長を務める国土交通省の観光カリスマ塾での初舞台を想定し、担当してくれた松本研究員とも秘策を練って今日まで準備を進めてきたのです。

 本の出版にはまず金がかかります。今回の出版はポケットサイズの60ページ程度の小さな本ですが、それでも安く見積もって1000部で30万円もするのです。紙質を落とし、原稿はファイル持ち込みなどとそぎ落とし、やっと25万円まで値切りました。しかし消費税の5パーセントは値切るに値切れず、結局は〆て262,500円になりました。資金の調達はこれまで自分の出版した「昇る夕日でまちづくり」で貯めたお金をはたきました。この本が全て売れると次の作業で2部目を出版するという仕組みにしましたが、多分その回収は可能だと思っています。

 さてこの本とセットで考えている切り株の上での話芸ですが、今回の本はお喋りと組み合わせた珍しいもので、その名前も「夕日徒然草」という本です。そしてこの企画のために私の芸名を考えました。「夕日亭大根心」です。もともとこの名前は私が自分の町双海町の広報を担当していた頃のペンネームで通称「だいこんしん」と読みます。この名前で落語ならぬ落伍家として話をするのです。したがってこの本は落伍の台本となるのです。

 昨日前準備でやって来た清水さんがとりあえずの本として100部持って来ました。梱包した紙包みを開けると中から念願の真新しいインクの匂いのする本が出てきたのです。私の叔父である森脇松太郎さんに書いてもらった墨文字が何とも格好いい本で一遍で気に入りました。

 僅か60ページの小さな本ですが、それでも私にとっては退職後初めての本なので、この本に全勢力を傾注して、負けないような話芸を披露したいと思うのです。いよいよ明日はこの本をネタ本にした初舞台が組まれており、少しだけドキドキの緊張感が漂ってきました。

 何度となく人の前で話す私ですが、落語ならぬ落伍や話芸となるとこれまた初めての試みだし、ネタ本どおり話して笑いを誘えるかどうか心配です。

 今後の予定としては宮本武蔵の五輪の書にあやかり、地の書・水の書・火の書・風の書・空の書と続けてゆき、全て30話が書ければ150話の物語が出来る仕組みになっているのです。地の書が出来たので、早速水の書のネタ探しにとりかかりたいと思っています。

  「念願の 地の書が出来て ホッとする 次は水の書 夢は広がる」

  「退職後 金もないのに 思いつく 懐寂し 秋の夕暮れ」

  「ネタ本を 基に話を 組み立てる 思っただけで ワクワクするね」

  「初舞台 そのうち真打ち なるように 精進重ね もっと成長」 


 

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shin-1さんの日記

○足湯がいいなあ

 今日は国立大洲青少年交流の家の浅野さんが引率をして、大州地方の子どもたちが10人ほど人間牧場にやって来ました。明日から始まる観光カリスマ塾の準備があって午前中に地域政策研究センターの清水さんが、子どもが帰ると宇和島市遊子の山内さんが相次いで来たため、風呂の準備などもあって人間牧場へは今日だけで4回も往復したのです。でも今日の本命は何といっても子どもたちですから、私は昼前に風呂を沸かしたり、ストーブを焚いて火を起し焼き芋の準備をしたりしました。今日の瀬戸内は穏やかで晩秋とは思えない爽やかな一日だったので、ストーブは要らないかも知れないと思いつつ、焼き芋のこともあって火を入れました。

 清水さんが帰ってから子どもたちはやって来ました。さてこの子どもたちにどんな話をしてやろうかと思案しましたが妙案が浮かばず、結局は思いつきの話しになってしまいました。

 今日の話のメインは自分の目と人の目の話しです。人間は殆ど誰もが2つの目を持っています。この2つの目があるから遠近の距離感もつかめるのですが、この2つの目でしか相手を見ることが出来ないのです。そう思うと人間の視野などは狭いものだとしみじみ思うのです。

 しかし自分以外の人の目は場と機会にもよりますが、多くの人たちの目が自分を、人数分の倍だけの目で見ているのです。

 人間が仮に悪い事をして逃亡したと仮定します。その場合人間の心理として人目につかない場所を選んで逃げ回るのですが、そんな不審な行動が何となくそわそわして、かえってソワソワし人目に付くのです。ある知能的犯罪者で時効寸前に逮捕された人は、むしろ好んで人前に出て雑踏の中に身を置くのが人目につきにくいのだそうです。まるで犯罪心理学者のような読みですが、実際には当っている部分と当らない部分があるようです。

 今日来た子どもたちにその事を話してやりました。引きこもってしまうと自分というもう一人の自分とのみの会話が成り立つので、みんなの中に入る方が随分楽だなのです。

 子どもに私の話がどれほど通じ受け入れられたかは分りませんが、その後は自分の話を基に自分の得意を発見することをやってみました。歌が好きな子ども、絵を書くのが得意な子どもなど様々な趣味を持っている事に驚きました。要はこの自分が特異と思っている事をしっかり確認してその事を伸ばすようにすれば、自信が出来て人生が楽しくなると話してやりました。

 その後子どもたちをロケ風呂に案内し、足湯を試みました。釜が冷えているので少し厚めに沸かしたつもりだったのですが、以外と早く冷めて丁度な湯加減でした。子どもたちは風呂釜の周囲に車座になって座り、様々な話をしました。同じ釜の飯ならぬ同じ釜の湯なのです。来た時は少し表情が硬かった子ども達もすっかり打ち解けて、「足湯が気持ちよかった」「体がポカポカする」などと口々に言っていました。足湯ですがお風呂上りにストーブの中で焼いた焼き芋をみんなで頬張りました。銀紙に包んで焼いたものの管理不行き届きで少し焦げましたが、みんなみかんとともに美味しいといって食べてくれました。

 子どもは国の宝といいますが、まさにその通りだと思います。子どもが病むのは親や家庭、それに社会が悪いのです。こんな温かい雰囲気の中で子どもを育ててやりたいものです。手抜きをせず、目を見て話し、子どもに話しかけ、子どもの言葉を話させる、足湯と焼き芋と、みかんだけのお接待でしたが、こちらも子どもたちから元気を分けていただきました。

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