○歌は世につれ世は歌につれ
私が最初に歌を聞いたのは多分母親の背中で聞いた子守唄ではないかと思われます。哀愁を帯びた子守唄を聞く度に亡き母を思い出したり心がうずくのはそのせいだと思いつつ、先日妻が泣き止まぬ孫をあやしながら歌う子守唄もまた同じような節回しだとしみじみ思いました。私にとっても妻にとっても子守唄はまさに体感音楽ではないかと思うのです。
何年か前、私はNHKラジオ深夜便「心の時代」というラジオ番組に二夜連続で出ました。夕日を地域資源にしてまちづくりをした顛末を大いに語りました。その時ディレクターの求めに応じて得意でもない下手糞なハーモニカで「夕焼けこやけ」と「赤トンボ」という曲を二曲吹きました。放送されるやいなや全国各地から400通を超えるハガキや電話をいただき、その反響の大きさに驚きましたし、熱望する人が多く再放送されましたが、その時も同じように多くのお便りや電話をいただきました。その中に東京に住む目の不自由な人からの電話があったのです。
要約すると「私は生まれた時から目が不自由で、あなたの話の予告を聞いた時、『ああ夕日の話か、目の見えない私には余り関係ない話だ』と思っていました。ところが話を聞いてみると面白く、心が開けた感じがしました。特にラジオを通して流れてくる『赤トンボや夕焼けこやけ』の歌は私の心に突き刺さるようでした。多分これは母親の背中で聞いた遠い幼子の頃の歌に違いないと母親を思い出し、目の不自由な私が散々迷惑をかけた母親への追憶で涙が止らず、眠れない朝を迎えました。これは多分私の身体に組み込まれた体感音楽ではないかと思われるのです」と結ばれ、早速目の不自由な仲間に聞かせたいので、二日分のテープをダビングして送ってくれるよう依頼されました。私はNHKにお願いしてテープを二本送ってもらい、そのテープを馴れぬデッキでダビングして送ったのです。数日後その女性からお礼の電話がかかってきました。「私の友人も目が見えないのですが、『友人4人と双海町の夕日を見に行こう』ということになりました。『目が不自由、しかも不案内なので松山空港まで迎えに来て欲しい』と言うのです。当日私は空港まで迎えに行きました。行く道すがら私は「この人たちは目が不自由なのに何で夕日を見に来るのだろう」と不思議に思ったものです。でもその人たちをシーサイド公園の童謡の小路を案内しながら請われるままハーモニカを吹いてあげたのですが、彼女たちは目にいっぱい涙を溜めて泣きました。この光景は今でも忘れられない思い出なのです。
通知表音楽2のような私がハーモニカを吹けるなんて今でも不思議です。でも今は妻の買ってくれた2本のハーモニカで160曲以上吹けるのですから驚き桃の木山椒の木です。私は残念ながら楽譜が殆ど読めません。でも私の体感音楽は口にしたハーモニカが音を奏でてくれるのですからこれまた不思議なのです。同級会で吹いてくれとせがまれ吹いた井沢八郎の「ああ上野駅」も、高知の人から吹いてくれとせがまれて吹いたペギー葉山の「南国土佐を後にして」も、もう古い歌として人々の記憶から忘れ去られた歌なのに、何故か参加者たちは心の琴線に触れてしんみり聞いてくれました。
「青い山脈」や「高校三年生」「幼馴染」「ぎんぎんぎらぎら」「紅葉」「みかんの花咲く丘」など、童謡から流行歌まで幅広いジャンルで思いつくままにハーモニカを吹いていますが、その歌を吹く度に遠い日の思い出が鮮やかに蘇って来るのです。
「思いつく ままに吹きたる ハーモニカ 心の扉 開き思い出」
「同級会 請われるままに 上野駅 思わずみんな 大きな声で」
「孫あやす 妻の歌った 子守唄 亡き母思い しんみり聞きて」
「カーラジオ 流れる歌の 懐かしく 思わず声を 出して歌いつ」