shin-1さんの日記

○車じゃ近いが歩けば遠い

 私は現職の若い頃、よく酒を飲みました。多い時は仲間4人で飲み始め、家の横に造っている私設公民館煙会所という4畳半の部屋の周りに飲み干したビール瓶を並べて行き、最後はついにビール瓶に囲まれて終えたという武勇伝も残っているほど無茶飲みしたものです。そのつけか後遺症か分りませんが健康上の理由で酒を止めなければならない羽目になってしまいました。深く反省しつつも後悔先に立たずといった諺を思い出すこの頃なのです。

 酒をよく飲んでいた頃は松山からわが家のある双海町まで25キロもあるのに、年に4~5回呑んだ勢いで歩いて帰ったりしていました。背広に革靴、しかも寄った勢いの無茶は、歩くほどに酔いがさめ「何てバカの事をしたんだろう」と歩きながらよく反省をしたものです。特に伊予市と双海町の間には三秋峠という追いはぎも出そうな急峻な峠があって、勾配もきつくヘトヘトになりながら歩いて帰ったものでした。双海町の高野川という海沿いから伊予市の出会いの橋までは車で走れば5分そこそこなのですが、歩いてみると結構長くてきついのです。

 昨晩9時半ごろわが家に電話がかかってきました。私はパソコンに向かってブログを書いていましたが、電話に出ると家にいるはずの妻の声です。「お父さん向けに来て」と悲壮な声なのです。妻は夕方「今晩帰る」と電話で言ってきた三男のために急遽思いついて伊予市のスーパーへ「ちょっとそこまで」てな感じで、私にも告げず自分の車で買い物に出かけたようです。買い物を終えて帰る途中の三秋峠の頂上付近で車が突然エンストしてしまい、動くに動けぬ状態となりました。妻はあいにく携帯を持たず出かけたものですから結局暗い夜道を公衆電話のある伊予市向原まで引き返し、自宅への電話と相成ったのです。私は早速取るものもとりあえず車で「救出「に向かいました。三秋峠を少し下りた国道に妻の車は乗り捨てていました。その車をそのままにして妻の元へ走ったのです。不安な気持ちと疲労困憊で私を持っていた妻は助け舟に乗り込んで元の道を引き返し、エンストした車を手で押し邪魔にならないよう路側帯に止めてロックし放置しました。日曜日の夜のことゆえ加入のJAFに連絡することも出来ず、結局は今朝の処理となるようです。

 昇り始めた満月の月を見ながら歩いたと述懐する妻の言葉は「来るまで何気なく走る道も歩けば遠いのね」でした。「ごめんなさい」と謝る妻は「今度からは出かける時携帯を必ず忘れない」「サンダルで出かけたけど今度からは靴を履いて外出する」などと反省の弁しきりでした。

 10時過ぎ警察官の息子が帰ってきました。わざわざ買出しに出かけハプニングの中で買った食材で妻は久しぶりに帰ってきた息子に心からなる手料理を作り食べさせていました。駐在所勤務の息子は「やっぱりおふくろの味は美味しい」と盛んに持ち上げていましたが、独身自炊のためか少々痩せた感じのする息子も反面逞しくなったような気もしました。

 降って湧いた妻が起こしたちょっとした騒動に、「まあこれくらいの出来事でよかった」と胸を撫でながら、風呂に入り妻と同床の人となりました。さすがに余程疲れたのか妻は軽い寝息のようです。

  「車では たった五分の 短さも 歩く夜道は さすがに遠く」

  「月を愛で 夜の散歩と しゃれ込むが 公衆電話 行けど何処にも」

  「夜道にて 歩く人有り 徘徊と 間違われそう 初老妻見て」

  「置き去りに したあの車 今頃は 寂しく一人 一夜過ごしぬ」

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shin-1さんの日記

○ツーリズム

 何年か前私は下関市の合併記念イベントで、講演やシンポジストを頼まれて訪れたことがあります。下関といえば関門海峡に架かる大橋や関門トンネルをはじめ日本海と瀬戸内海の二つの海を有し、日本に完たる風光明媚な場所として知られています。しかし近年は後追いだった博多の繁栄に押され、加えて対岸の門司のレトロに押されて何となく影が薄くなっているような感じを持っていました。バナナの叩き売りの口上もふぐの取り扱い日本一を誇るグルメの町も、博多ラーメンの庶民性にお株を奪われたように思うほどです。

 しかし下関は私が海大好き人間だからかも知れませんが、歴史の中に生きてきたレトロな感じや海に向かって建つ佇まいは、どことなしか懐かしい香りがするのです。

 そんな下関のシンポジウム会場で大分県安心院の中山ミヤ子さんに会ったのも懐かしい思い出です。安心院はご存知のようにグリーンツーリズムの先鋒として急速に脚光を浴びている町ですが、中山さんの話はとても魅力あるものでしたし、その話を確認すべく仲間を集めて農家民宿を営む中山さんの家へわざわざ出かけたりもしました。

 中山さんの話はとても面白いものでした。大学の先生の話と違って理路整然とはしていないものの、朴訥と語る方言丸出しの話は時には可笑しく、時には悲しく、それでいて真髄を突くようなものだったと記憶しています。田舎の時代遅れの代名詞と言われた五右衛門風呂や溜め置きの便所さえ非日常ゆえに、都会の人には魅力として映るのだそうです。別に風光明媚な土地でなくても、別に美味しい牛肉や魚がなくても、自信を持った生き方さえすれば日々の暮しが観光資源になるということを話してくれました。

 今私たちの住んでいる田舎はどんどん人が減って過疎となり、子どもを生まなくなったことと医学が進んで長生きするようになる少子高齢化という社会現象の波が押し寄せ、限界集落といわれる集落を幾つも抱えているのです。多分そこに住む人たちの殆どは何をやっても上手くいかない負け組み意識に苛まれながら自然消滅の時をじっと待っているような感じさえするのですが、中山ミヤ子さんの話はその田舎への応援歌ともとらえられる頼もしいものでした。

 最近旅のかたちが少しずつ変りつつあることを感じるようになりました。先日学生を連れて訪ねた今治でもグリーンツーリズムが少しずつ芽を吹いていると報告されていましたし、昨年20回もお邪魔した高知県四万十市西土佐村でもツーリズムに目覚めつつある人たちを沢山見てきました。昔は「いい景色のところにみんなで行って、温泉に入って美味しいものを食べて」が旅の主流でした。勿論今でもそんな旅を好む人は多いけれど、ただ「見る」だけでなく「体験する」ひtが増えているところに現代の人のモヤモヤ感のようなストレスを感じるのです。

 グリーンツーリズムは農業体験、ブルーツーリズムは漁業体験ですが、「旅に行ってまで働くの?」と感じる人もいるようですが、ビルの中でデスクワークしている人たちにとっては自然の中で大地や海やそこに生きる人々と接しながら身体を動かすことは意味のあることのようで、手ごたえや体感を求める人が修学旅行までも変えようとしているのです。

 ある意味では田舎が都会を求める20世紀に比べ、都会が田舎を求めるいい時代になったし、知恵さえ出して行動すれば田舎という負の遺産も大きな商品価値になるかも知れない期待感を持つのです。既に密造酒の代名詞のように言われたドブロクだって「ドブロク特区」などという用語まで飛び出しているのですから面白いものです。

 諦めかけていた田舎の人に少し自信を持たせるツーリズムの動きも、儲け主義を追求し過ぎるとリピーターは増えず、折角資金をつぎ込んで整備した水周りへの投資も回収できずに廃業なんてことになるのかも知れません。ツーリズムの命はやはり心と心の温かいふれあいの上に存在する事を肝に銘ずるべきだと思うのです。

  「ツーリズム 俺もやろうと 皮算用 客足伸びず 元の木阿弥」

  「こんな場所 人がよく来る 不思議がる もてなし心 ネット情報」

  「火吹き竹 穴かな息を 吹き込んで 真赤な顔は まるで赤鬼」

  「五右衛門の 風呂に浮かんだ 下簾板を 取ってアイタタ 底抜け騒ぎ」

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