shin-1さんの日記

○本当の意味が分らない

 私たちは日々の暮らしの中で何気なく使いっている言葉が沢山あります。特に英語の苦手な私にとって、英語なのか和製英語なのか分らないカタカナ語は本当に困ってしまいます。「それは何?」と聞けばいいものを、分からないのに分ったような顔をしていなければならないのもつらいことです。私はその都度資料の端にメモをして帰り、イミダスやカタカナ語辞典などで意味を調べるようにしていますが、こうもあり過ぎると間に合わずお手上げといった感じです。

 その昔、まちづくりの現場でアメニティやコミュニティといった言葉が流行したことがありました。今なら誰もが知っているこの言葉も最初は戸惑い、使う度に説明を付けて喋っていました。私にとって役場35年間の後半部分は議会議員さんとのやり取りや議会対策が必要な職責だったため、随分と物議をかもしたことを今でも忘れることが出来ません。議員さんは知らなくても知ったかぶりで横文字やカタカ語を平気で喋ります。その方が格好いいし、知的に見えたり勉強しているように見えるからかもしれませんが、とにかくカタカナ語をよく使いました。こちらも負けずと答弁書には横文字をふんだんに取り入れ、議員さんの質問を煙に巻くのです。

 アメニティは飴を食べてお茶を飲むからアメニティと冗談交じりに言った言葉を本気にしてみんなの前で大笑いした滑稽な話ならまだ許されるのですが、シンポジウムについては新聞にまで載るほどの混乱ぶりでした。

 ある年の3月議会だったと記憶しています。町長がシンポジウムに要する予算の提案理由を説明しました。ところがある議員が「町長質問」と手を挙げました。議長に促されて質問に立ったある議員さんは「ただ今町長の説明されたインポジウムの予算について質問いたします」と大真面目で質問したのです。議会全体から思わず大きな笑い声が聞こえました。その笑い声を聞いたその議員は「私がインポジウムの予算について説明を求めているのに笑うとはけしからん」と怒り始めたのです。笑いを止めた町長は「A議員にお答えいたします。シンポジウムは町を起こすためにするのですが、インポジウムでは町が起きません」と名言中の名言を答弁しました。A議員の横にいたB議員がA議員に「おいシンポとインポは意味が違う」と諭され、自分のいった事に気付いたA議員は議長の許しを得て発言のお訂正を求めたという笑うに笑えない話です。このように一字違いで前々意味の違う言葉は沢山あります。

 最近テレビショッピングやカタログ販売が普及して、コールセンターがあちらこちらに出来ています。先日ある村おこしで有名な村にコールセンターオープンしました。その開所式である議員があいさつに立ち知ったかぶりで横文字を並べて喋ったのです。議員さんはコールセンターに若い女性を沢山雇えた雇用促進を強調したかったのでしょうが、コールセンターに勤務する女性のことをコールガールと盛んに何度も喋ったのです。ご存知のようにコールガールとは電話で呼び出される売春婦のことで、決して好ましい言葉ではないはずなのですが、何人かの出席した女性からブーイングが起きたのです。

 知らない言葉は喋らない。聞いて分らなかった問い返す。決して恥でないこんな気持ちで日々を暮らしたいものです。

  何時の間に 知ったかぶりの カタカナ語 そういう私も 意味は分からず」

  「横文字を いえば頭が いいような 錯覚誤解 日本語使え」

  「教えてる 人に学生 質問す カタカナ言葉 理解できない」

  「テンションを 高めて話せ 妻が言う 何処で覚えた あんたは偉い」

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shin-1さんの日記

○勘違いの間違い

 地元の農協から講演を依頼されたのは2月頃でした。代表を務める清水さんは双海町の第1回海外派遣生としてアメリカへ行った方だし、私が教育委員会で社会教育をやっていた若かった頃、青年団長をした肝胆相照らす中なので無碍に断ることも出来ず渋々受けていました。正直言って地元での話は好きではありません。フィーリングがピッタリ合って参加者に受け入れられれば良いのですが、中には不満な人もあって必ず後であれこれといわれるのです。「5月15日は随分向こうだな」と自分に納得させていましたが、先方の都合で日程を変更して欲しいと一ヵ月後に連絡が入り、「一日繰り上げて欲しい」というのです。明くる日の水曜日は大学の講義日なので月曜だったらと、何のためらいもなく予定表の5月14日欄に「下灘園芸組合総会講演」と書き込みました。田舎のことなので公文書による講師依頼書もなくてっきり5月14日だと思っていました。そして一昨日午後3時に会場となっている下灘コミュニティセンターへ出かけました。会場周辺には130人も集まる予定ですから車の置き場もないだろうと予測して出かけたものの、駐車場はガラガラ、会場も散閑としていました。支所に勤める顔見知りの女性にそれとはなしに聞いてみましたが、「今日はそんな集会はありません」「組合が会場を借りているのは何日ですか」「5月16日です」「そうですか・・・・・・」でした。

 私の完全な勘違いでした。「一日繰り上げる」という日本語を私は「一日前に持ってくると思ったのです」。その夜相手である清水さんに確認したところ完全に私の一人相撲でした。「繰り上げる」という言葉は数字の上では大きい方へ転じることですから16日で間違いないのですが、予定を繰り上げるというのは「早める」ことだと思いつつも、支所で恥をかき、清水さんに恥をかき、「それはななたが確認しないからだ」と妻からも相当文句を言われて一件落着しました。それでも間違いつつ相手に迷惑を掛けなかったことだけは救いでした。16日を17日に勘違いしていたらそれこそ大変なのです。

 しかしここでまた小さな問題が発生しました。今日水曜日は大学の講義日です。講演が終わるのは午後5時です。下灘から車を走らせれば愛媛大学まで優に1時間半はかかるのです。伊予市から高速道路に乗ると便利なのですが、午後5時過ぎの松山インターチェンジ付近はかなりの混雑が予想され、間違いなく講義に遅刻するのです。大学に勤める娘婿にことの次第を説明し、若干時間が遅れる事を学生に伝えてもらうよう万全を期したのですが、今日は憂うつな一日になってしまいました。それでもこんな事にくじけず、こんな事のないよう肝に銘じながら今日一日を乗り切りたいと思っています。

 昨日人間牧場へ行っていたら、お昼休みに地元の屋外有線放送が聞こえました。「明日は園芸組合の総会です。若松進一さんが講演します」と放送が流れびっくりしました。だまってこっそりと思っていたことが、ここまで大きくなっているなんて思っても見ませんでした。益々憂うつな気持ちになりました。

 私はおっちょこちょいなのでしょう。時々こんなへまをやります。何年か前は和歌山県へ行く予定をすっかり忘れていました。朝早く和歌山県から電話があり、間違いに気付いた私は空港へ電話をしました。しかし残念ながら空いた席はなく満席との事、万事休すと思い電話を切ろとすると、「今キャンセルが一席でました」というのです。急いで身支度を整え僅か1時間という時間で自宅から空港まで突っ走って飛行機に乗り、伊丹に迎えに来てもらった担当者のお陰で和歌山の会場入りしたのが5分前、何食わぬ顔で90分の講演をこなし、再び元来た道を送ってもらって和歌山日帰りの講演旅行は何事もなかったように終わったのです。

 勘違いによる間違いが多いのは歳のせいだけではありません。不注意なだけです。今日を迎えるために何度となく清水さんと打ち合わせをしたはずなのに、大切なことの確認が疎かになりました。

 もう一度鍛えなおして励みたいと肝に銘じました。

  「間違って 二日も前に 講演に 俺ってアホだ 誰もいないで」

  「秘書もなく 自ら管理の 予定表 繰上げしたが 繰上げもせず」

  「妻にさえ 馬鹿にされたる 失態を 学生たちに 何と侘びよか」

  「二日分 講演料を 貰いたい そんな人には 半分十分」

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shin-1さんの日記

○草刈と芋植え準備

 人間牧場に初夏がやって来て、今日などは戸外にいると汗ばむほどの陽気です。今日は人間牧場の草刈をしようと、妻に弁当を作ってもらい早朝7時半に一人で家を出ました。国道から農道へ入ると、周りの景色は眩しいほどの緑色に彩られ、山が目の前に迫ってきて、思わず深呼吸をしたくなるような雰囲気です。遠くではビワの実を狙って暗躍するカラスからビワを守ろうとガス爆発の音がけたたましくこだまして、時折ハッとしたりしますが、慣れてくるとそんな音も草刈機の音にかき消されて感じなくなるのですから不思議なものです。今日の草刈は一番下の梅林から始める事にしました。一番草を刈った4月21日にはまだ小さかった梅の実も、約1ヶ月でかなり大きくなり、昨年の経験だと6月2日に収穫しており、後2週間もすれば収穫できそうです。梅の実は既に生理落下が始まって、未成熟な実が梅の木の下に無数に転がっていました。この現象は自然摘果のようなもので、落ちずに残った実に養分が貯えられて大きくなるのです。

 梅の木の下草を刈っていると義兄がやって来ました。今朝人間牧場に着いた折、かねがね一度は人間牧場へ来たいといっていた義兄夫婦に「今日なら人間牧場にいるので上がって来ないか」と誘ったのです。急な思い付きによる案内だったので姉は来ず、義兄一人がやって来ました。義兄はそこら辺をうろうろしながら遠望の素晴らしさ驚いていましたが、やがて蕗を取り始めました。この頃の蕗は大きくなって中には背丈ほどもあり、10本も取れば十分で姉への土産が出来たと喜んで帰って行きました。

 今日は火曜日なので下灘漁港の漁船は休漁日なのですが、このところの天気周期が出漁日と合わないため止む無く出漁したようで、漁港は空っぽの状態で、港の中かが広く見えました。

(豆トラで農地を中l耕する木曽さん。額の汗が輝いていました)

 草刈機を使っているとポケットに入れた携帯電話がマナーモードのバイブレーターにしても、発信音が出るようにしていても、草刈機の騒音や激しい労働によって中々気付かないものです。給油のために草刈機を止めた時その確認をするのですが、089-986-1114という着信番号を受信していました。私の携帯は余り機能のないシンプルなものを使っていますので、相手の確認が中々難しく、携帯電話以外だと職場の人を特定できず、「私に電話をかけた人はいませんか」なんて突拍子もない質問を相手にしなければなりません。運良くその人が電話を取ればいいのですが、時には受信後時間が経ったりすると相手も分らず右往左往したりすることも度々です。今日は教育委員会の木曽さんから間近に迫った少年少女おもしろ教室の打ち合わせ電話でした。私は縁あってこの教室の実行委員長を教育長在任中からやっています。多分夢基金からの助成で運営しているので民間代表者が必要なための措置でしょうが、今年から実行委員会を実のあるものにして運営したいという事務局の思惑もあって、盛んに打ち合わせを寄っているのです。芋植えと人間牧場での私の話をセットにした開講式を私と木曽さんが担当しているので、早速その準備をしたいと言うのです。彼は公用車に豆トラと草刈機を積んでやって来ました。農家の長男だけあって手馴れたもので、草刈機を使い豆トラで予定した場所をあっという間に中耕してしまいました。私は3日前に刈った枯れ草を寄せ集めるの精一杯という状態でした。綺麗に耕された農地に一週間後は子どもたちがやって来て芋植えを楽しむことでしょう。


(綺麗に耕された農地。来週は子どもたちの歓声に包まれそうです)

 時刻は4時を回り、妻との約束もあって5時までには下山しなければならないと思って片付けをしている矢先、役場の武田さんと西尾さんが立ち寄り、世間話を30分余りしました。合併後の行政の窮屈さは区長をして感じてはいましたが、旧町出身の彼らにとってもかなりのストレスのようで、積もる話から私の人間牧場に至る人生観まで話は尽きないようでした。

 毎日のように人間牧場を目指してやって来る人が後を断たなくなりました。今のところ私の毎日が忙しく順番待ちだし、こうして臨時的に飛び込みでやって来る人もいます。悩みを持ち、夢を持ち様々な課題を持ってやって来る人たちに出来る私の役割は希望と勇気を与えることでもあるので、その対応は真剣です。中には酒や焼肉目当ての遊び半分でやって来る人もいますし、主人不在を気にせず平気で土足のままウッドデッキで勝手にはしゃいでその痕跡だけ残して帰ってゆく人もいます。役場に勤めていたことを知っているので、この施設は役場の延長でやっているのだろうと勘違いしている人もいます。人間牧場は山岡哲太郎の「この槌は宝打ち出す槌でなし 野良くら者の頭打つ槌」の如き槌の役割も果たさなければなりません。いい槌にならねばと思い戸締りをして人間牧場を後にしました。

  「二番草 綺麗に刈りた 梅林の 木陰腰かけ 遠望楽しむ」

  「イノシシに 食われた芋に 再挑戦 草刈豆トラ 機械農業」

  「卵抱く キジの巣作り 脅かす 近くでケンケン 盛んに鳴きて」

  「合併で 悩み増えたと 頭かく 苦悩ありあり 乗り越えなければ」 

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shin-1さんの日記

○見た目と中身

 「人間は見た目でものの値打ちを7割以上判断する」という話があります。全ての人ではないのですがこれも7割以上の人間に共通していることだそうです。なるほど女性も男性も相手によく見てもらおうと化粧をしたり着飾ったりするのはその証拠かもしれません。顔の美しい人はそれなりに、普通の人はそれ以上に外見にお金をかけるものですから、洋服や化粧品が売れ社経済が上手く回っているのです。でも本当はそんな見せ掛けよりも見えない部分こそ大事なのだと言っては見ても、見えないものを推し量る度量を持った人が全体の3割以下では7割へのアプローチの方が断然有利であることは子どもでも分る理論です。

 今朝わが家にえひめ地域政策研究センターの清水研究員がやって来ました。朝食を食べながら妻を交えて色々な話に花が咲きました。彼は朝フル(朝食にフルーツを食べて健康になる)の実践者で朝フルーツを食べる生活習慣の変化で減量に成功しています。ですから私のリンキャベ(朝食はリンゴとキャベツ)についても関心があって、理論武装などしていない私に薀蓄のある話を随分アドバイスしてくれました。

 彼は今朝手土産に外国系ながら自分の家で作っているナベリーナという珍しいオレンジを4個持って来ました。色こそ熟していましたが、ヤノネカイガラ虫が沢山ついて、所々にはカイヨウ病までついています。ましてやヘタは取れていますから、まあみかん王国愛媛だとこの手のオレンジなら外品で畑の隅にでも落ちていそうな果物なのです。「奥さん済みませんがこのオレンジを輪切りにしてくれませんか」と言うものですから、言われるがまま妻は輪切りにして皮を取り除き食卓に並べたのです。私も見た目に綺麗でないオレンジという7割の先入観があるものですからそんなに期待はしていませんでした。ところが木って皮を剥いたオレンジはとても美味しいのです。見た目から中身の味で判断した瞬間でした。妻も私も美味しいと体感したのです。

 オレンジはこのように外見を見た目以外に食べる事によって中身を確かめることが出来るのですが、人間の心は推し量り難たいものですから時々騙されたりすることもあるのです。

 農産物を売る場合消費者には大きく分けて4つの分かれるそうです。農産物の価値が分って金を払って買うAタイプが2種類、農産物の価値が分らず金を払わないBタイプが2種類です。Aタイプには農業の価値が分る消費者層と健康志向型消費者層があります。一方Bタイプには意識と行動が分離した分裂型消費者層とどうしようもない消費者層があるのです。

その割合を調査した数字は次の通りです。

 ・農産物の価値が分って金を払うAタイプ        21.9パーセント

        農業の価値が分る消費者層        ? 5.4パーセント

        健康志向型消費者層             16.5パーセント

 ・農産物の価値が分らず金を払わないBタイプ     75.4パーセント

        意識と行動が分離した分裂型消費者層?? 52.4パーセント

        どうしようもない消費者層         ?? 23.0パーセント

 私は現在、生協の学識理事をやっていますが、毎月の理事会で議論する理事さんの殆どは賢くて農業の価値が分る消費者層だし健康志向型消費者層のAタイプのようだと思います。安心や安全が第一で、無駄なお金は使わないが価値あるものにはお金を出すのです。

 この数字の中で気になるのは農産物の価値が分らず金を払わないBタイプで、75パーセント強の人が安ければいいと思って中国産に飛びつき行動するということです。困ったことはこの人たちは何かが起こると風評をでっち上げ、周り全てが悪いかのように風評被害を拡大させて行くことです。

 農産物の価値も分らず金を払わない人にどうやって農業や農産物の良さを伝えるのかは大切なことかも知れませんが、かなり難しいことだと思います。これまで農業団体や農業者は正直言って誰という消費者層を相手として意識せずに対応してきた感じがあります。これからはその事も考えないと効果は上がらないのです。

 このところグリーンツーリズム運動の高まりによって都市と農村の交流が盛んに行われるようになってきました。でも思ったほどの効果が出ないのは何を(ウォット)、いつ(ウェン)、どこで(ウェアー)、誰に(フー)という4Wをしっかりらえないと、長続きはしないし成果も上がらないのです。

 見た目だけでなく中身の大切さを感じた朝フルミーティングでした。

  「いいだろと 強調しては みたものの 中身分らず 結局売れずに」

  「まず見た目 それから中身 七割も 考えますね 農産開発」

  「農薬で 見た目いいもの 作ったが 人も自分も 身体壊れた」

  「農家さえ 食わないものを 何故に売る 金になるから それはないだろ」 

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shin-1さんの日記

○キツツキの死

 「若松さんですか。人間牧場のロケ風呂に張った網に鳥が絡まっていますが、まだ生きているので網を切って逃がしましょうか。それと・・・」と携帯で連絡が入ったのは2日前でした。教育委員会の職員2人が今月26日に行う人間牧場での少年少女おもしろ教室の準備下見を兼ねて出かけての発見でした。私は急なことなので言われるように野鳥愛護の立場で網を切って逃がすべきか、それともそのまま残酷にも殺してしまうか随分迷いました。でも人間のエゴとはいいながら人間牧場の外壁をやりたい放題穴を開けて知らんふりしているキツツキを許すことが出来ず、結局は「そのままにしておいて下さい」と告げて電話を切りました。

 事の発端は人間牧場の水平線の家が完成した一年半前ころから家の外壁に何やら穴が開き始めたのです。最初は何で開くのか原因が分りませんでした。私が人間牧場へ行っている時は人の気配を察知して寄り付かなかったキツツキが、慣れてくると中でお喋りをしていても、くちばしてコツコツと穴を開け始めたのです。手をたたいたり中から内壁をたたいて脅かしたりしますが一向に止む気配はありませんでした。業を煮やした私は息子と相談してカラスのダミー威しを吊ったりしましたが効き目がなく、新築の水平線の家は何ヶ所も穴を開けられて台無しになりました。それでも人間と野鳥の共生などと格好いいことをいって、穴はその都度大工さんにお願いして継ぎ接ぎして修理していました。やがてロケ風呂が完成すると今度はその外壁に穴を開け始め、これまたひどい状態となり、打つ手なしといった状態で、ブログに穴の状態や何か妙案はないか書いたのでした。結局妙案もなく長男夫婦と次男は先週末に大工さんに長いはしごを借りて網を取り付けました。利口なキツツキのことなので私もその効果については半信半疑でいました。ところがところが早速冒頭のような捕獲となったのです。このキツツキが穴を開けた犯人であるかどうかは指紋もないしわからないのですが、その責任を取ってキツツキは網に絡まり短い一生を終えたのです。

 今朝人間牧場へ草刈作業に出かけ、網にかかったキツツキの死骸を網から話しました。もがいた様子や外壁に爪を立てる鋭い足、それに鋭いくちばしが自分を自滅へと追いやったのです。

 キツツキには色々な種類があるようですが、今回網にかかったのは頭の上に赤い冠のような毛が生えて赤ゲラだと人目で分るような姿でした。羽根はウグイス色でとても美しく、こんな綺麗な鳥が何で悪さをするのか不思議に思うほどなのです。

 私はキツツキの死骸を袋に入れて持ち帰りました。そしてその写真を撮りました。2ヶ月前家の池で飼っている鯉が一匹死んだ時、親父が畑の隅に埋めて小さな鯉のお墓を作っていますので、その側に穴を掘り埋め戻してお茶とお菓子をお供えしてねんごろに弔いました。悪い事をした鳥をそこまでと思われるかも知れませんが、これが私の最大限のキツツキへの譲歩なのです。

 人間牧場を開設して1年余りが経ちました。その間イノシシによるサツマイモの全滅被害を始め、自然との共生や環境問題などといいながら様々な出来事に直面し、その度に共生の難しさをしみじみ考えさせられてきました。特に被害甚大だった外壁はその度に大工さんのお世話になって修復をしてきたのです。私も息子もキツツキへの憎しみは限界を超えていたようです。

 この写真は3月31日に書いたブログの記事に添付したロケ風呂外壁のキツツキ被害の状況です。この反対側も同じような被害に遭っていますが、犯人死亡のままキツツキ君を不起訴処分にすることにしました。この上はキツツキ君の家族や仲間が同じような過ちを繰り返さないよう天国から祈ってください。南無阿弥陀仏。

  「お尋ねの キツツキ網に 引っかかり あえなくあの世 南無阿弥陀仏」

  「キツツキの つつき痕跡 今はなく コンコンコンと 音のみ耳に」

  「へえこれが キツツキ鳥か まざまざと 手に取り姿 哀れを誘う」

  「キツツキは 深山の鳥と 思いきや 里の近くで 悪さの限り」


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shin-1さんの日記

○讃岐路を旅する

 昨日は合併して出来た香川県三豊市の保育研修会に招かれました。香川県西部に位置する観音寺が途中にあるものですから久しぶりにぶらりカメラを提げて周辺讃岐路を散策しました。長閑な初夏の観音寺周辺は昼下がりということもあって観光客もまばらでしたが、小高い山の上から銭形公園を見下ろす風景は何時見ても絶景で、改めて人間のなせる知恵と技に感心しました。この古銭を模して造った砂絵は藩侯巡視の折藩侯を慰めようと地元の人が造ったそうですが、百数十年を越えて今でも年に一回市民ボランティアによる砂ざらえで大切に原型を留めているというから大したものです。これぞ文化を重んじる日本の心だと思うのです。

(燧灘の青と松の緑が見事にマッチしていました)

(周囲300メートル余り、上下と左右の長さが微妙に違うものの、遠望では殆ど正確な円形に見える砂絵を、よくもここまで仕上げてものです)

 この山を下った所の道上に値上りの松がありました。松の幹はそんなに大きくはありませんが、まるでタコが足を広げた、いやひょっとしたらタラバガニが足を広げたような格好の奇妙な姿は、凄い年月をかけて根のマサ土が風雨で流されて出来たのでしょうが枯れもせずひっそりと生きていて、訪れる人も少ないのかゴミや落ち葉が散乱していました。運良く車の中にゴミ袋を持っていたので車まで取りに下りて再び戻り、観光カリスマ百選としてみて見ぬふりも出来ないので、ひとり清掃活動をしました。遍路の姿をした若いカップルが登ってきましたが、清掃する私をまるで邪魔者ように無視して携帯カメラでキャーキャーいいながら柵の中に入って値上がり部分に登り写真を撮っていたので、「ここは入ってはいけません。木にも登らないで下さい」と厳重注意をしてやりました。遍路姿を何と心得ての巡拝なのでしょう。日本人の旅の心を知らない若い不届き者もいるものです。

 折角なので、二つのお寺に参拝しました。このお寺は珍しいお寺で、山門をくぐると同じ境内に2つの札所があるのです。

 石段から見上げた場所に彫刻を施し扇垂木を配した立派な鐘楼があり思わず見とれてしまいました。

 また境内には二つのお寺の本堂を結ぶような場所に根元のそれは立派な大きな楠木がでんと座っていました。何の説明版も見当たりませんでしたが、これも銘木に数えられる曰く因縁のありそうな大樹とお見受けしました。八十八ヵ所参拝の途中にこの木にもめぐり会っているはずなのに、思い出せないのですから私の記憶もいい加減なもののようです。


 さてすっかり道草をしてしまいましたが、研修会の会場となっている旧仁尾町文化会館を訪ねました。会場では役員さんが大勢玄関まで出迎えに出ていただいていて、関係者180人は既に着席して開会を待っておられました。使用前・使用後ではありませんが、この写真が講演会の始まる前のリラックスした会場風景です。

 

 下の写真は1時間半話した後の写真です。参加者は講演などを聞きなれているのでしょう。反応がとてもよくってビンビン跳ね返って、最近では一番話しやすい研修会だったようです。それぞれの心にどう響いたか知る由もありませんが、まあよかったのではないでしょうか。私は再び元来た道を引き返しわが町わが家を目指してひたすら走りました。

  「讃岐路も 高速道路で 近くなり 昼出て所用 夕方帰宅」

  「寺参り 話す雑談 国なまり ちゅうちゅう言うは 高知弁だな」  
  「反応が 良くって悦入り 喋り過ぎ 時間オーバー これはしまった」

  「根上がりの 松に登って 写真撮る 偽善者ぶって 注意促す」 

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shin-1さんの日記

○夢工房での語らい


 役所に勤める人は、意外と異業種交流の場に姿を現しません。多分公僕としての守秘義務やあらぬ噂に巻き込まれたくないという気持ちが先に立つようです。でも同業者といわれる役所の人たちだけと々傷をなめあうような会議や交流をしても、余り役に立たないものであることをもっと知るべきでしょう。10数年前県庁に勤める若手職員と市町村に勤める若手職員(果たして若かったかどうかは疑問ですが、少なくとも心の若さは持っていました)で県と市町村の垣根を越えた交流のための「夢工房」という研究会を立ち上げました。当時は県と市町村の関係は縦社会で、県は市町村を下や指導対象として見ていました。当然市町村も県を上や補助金を貰える対象としてすり寄る態度がありありでした。そんな中県民や市町村民に目線を合せたいい仕事をしようと、役所おしでありながら異業種交流とも取れる集団をつくりました。集団と行っても別に会長などの役員がいる訳でもなくこの指とまで的な性格で、2ヶ月に1回程度の集会も県内にいる著名人を呼んできて卓話を聞き、それを肴に飲むといった単純なものでしたし、今もその方法に変りはありません。昨晩も四十雀という店のご主人には叱られますがそんなに立派でないJR駅前裏通りにある縄暖簾のかかる飲み屋で会合を持ちました。昨晩の卓話者は中央省庁から県庁に出向して来られている局長さんをお招きしました。私は昇任校長・教頭研修会の後の交換会に出席していて、残念ながらその話の殆どを聞き逃してしまい返す返すも残念です。当時は若かった会員も頭に雪化粧し、早い人は私を筆頭に定年を迎える人もいたり、県庁組みは課長や課長補佐、係長を拝命し、油の乗った面々に成長しているのです。時の流れの早さを感じながらも職場のこと、家庭のことなど色々な積もる話をしました。中でも課長や課長補佐といった職責の重大さを改めて感じている話はかなりなストレスとして重くのしかかっているように感じました。


 昨日は管理職についての話に花が咲きました。職場で働く人間にとって課長や課長補佐になりたいという思いは誰しも持つ当然の願望です。傍から見ている上司は威張れるし命令も出来て何となく楽をしているようにさえ見えます。「あんなんだったら私も・・・・」と思ってその歳になって管理職を拝命してみると、肉体的な労働はないもののストレスの多い知的労働が頭を悩ませることに気付くのです。ましてや職員の不祥事など自分がやってもいない不始末の責任を被らなければならないのですから、これほど割に合わない話はないのです。私はそれを夕日に例えて話をしました。ご存知水平線に沈む夕日は光の到達する時間を科学的に考えると私たちが見ている夕日は既に沈んでいる。明らかに見えている夕日は錯覚の世界です。自分の定年退職年齢時を頂点としてダブらせを羨望の眼差しで見ていた格好いい課長や課長補佐の殆どは、登りきっていないのに既に見えない部分では下り坂になっているのだということを知らなければならないのです。

 昨日は偶然にも昇任校長や教頭との出会いや夢工房がダブリ、人間は何のために生き、何をするのか随分考えさせられた一日でした。その話が話題になる度に「若松さんはいい生き方をして羨ましい」と言われました。そうです。私には辞めてからもやることが幾らでもあって、むしろ現役時代より忙しいのではないかと妻が言うほど毎日背広を着て日本全国へ行脚に出かけています。友人とのそんなやり取りの中で、「いずれは私もくたばるだろうが、その日までニコニコピンピン生きよう」と思いました。生涯現役の気概で、後に続く友人たちのモデルになるような生き方をするには、まだまだ学びが足りません。ワンランクアップを目指し更に進化したいと思って会場を後に深夜の道を妻の待つわが家へ帰って来ました。

  「夢紡ぐ そんな想いの 集団で 人生色々 学び今日まで」

  「もう一年 すればあんたの 仲間入り どこか寂しい 定年待つ日々」

  「見た目ほど 楽な仕事じゃ ありませぬ 伊達に給料 高くはないぞ」

  「我々の あんたは見本 頑張って 先を走るが どうぞお先に」 


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shin-1さんの日記

○昇任は責任

 昨日は愛媛県内で今年誕生した昇任校長先生と昇任教頭先生の研修会が県庁であり、お話を頼まれて出かけました。「昇任」という言葉がピッタリの参加した40代後半の教頭先生と50代前半の校長先生からは、打てば響く太鼓のような卒啄(卵が孵化する時内と外でお互いが卵を割ろうとつつき合う様)にも似た、何かしら初々しさややる気が感じられました。しかし一方でこれから長い教員生活の締めくくりを管理職として責任を全うしなければならないであろう事の重大さを思うと少し哀れにも思えてきました。「昇任は責任」を伴うのですから・・・・。

(県庁第2別館6階大会議室での研修風景、私の話が終わった直後のスナップです)

 私の話は、①時代の変化を読む、②子どもたちは今、③地域の教育力=学+社+家=融合、④教師に一言(日本人や教師の常識は世界や社会の非常識-世界地図の教え)、⑤教師と教頭に一言というストーリーのはずでした。しかし予定された1時間10分の短さでは、いくらスピードを上げても間に合わず①と②が中心で③はスピードアップ、④などはさわりもせず⑤で締めくくってしまい、聞く人を無視したシナリオの不味さを痛感しながら壇上を下がりました。まあその話の続きは私のブログにアクセスしたやる気のある方のみの個人授業となってしまいそうで、アクセスしなかった方々には何の処方箋もないままにおさらばしそうです。早速松山市の沖に浮かぶ中島に赴任しているA教頭先生から昨晩のうちにメールが入っていました。私は夕べ11時過ぎまで仲間と松山市内での激論酒宴に加わっていて昨晩はメールを見落としていました。

 ⑤の昇任校長と教頭に一言だけ書いておきます。

 ①責任を取る。

 校長や教頭に昇進して嬉しい反面、責任の重さを痛感していることと思いますが、昇任して管理職になることは責任を取らなければならないことを意味します。校長は学校の経営や起こるであろう様々な事象、特に今の時代何が起こるか分らない部下教員の不始末までも責任を負わなければならないのです。日本全国では数えればきりがないほど学校をめぐる問題が起こっており、今の時代切腹などありえませんが、その度に死を持ってその責任から逃避する校長もいるほどの悩みにさいなまれるのです。校長という役職は何かあった時責任を取って「辞める」という覚悟の辞令かも知れません。私も小さな町の課長や教育長という役職を10年余りやりましたが、小さな不祥事はその都度小さな責任を取ってきました。幸い辞めなければならないような事態には至りませんでしたが、責任の重さは相当なプレッシャーでした。

 ②説明責任を果たす。

 校長と教頭に一任された学校経営の向こうには子どもと親と地域があります。子どもはそんなに文句を言いませんが、親と地域は少しでも理不尽と思われることがあると、必ず反抗や説明を求めます。昔のように子どもは先生に任せる時代ではなく、一時預かり所的な甘い考えの、しかも高学歴で理論武装した見勝手な親は一筋縄ではゆかないものです。こちらの弱みには必ず付け込んだり大きな声を武器にします。ましてやマスコミを味方に引き入れるような事態になるともうそれはパニック状態になります。事の推移をしっかり見て、こちらに非があれば謝らなければならないし、教育委員会への報告や指示も早めに手を打つべきでしょう。情報公開の時代であることを肝に銘じ、穏便にとかもみ消すといったことだけは慎むべきです。

 ③数値目標を掲げそれを達成する

 教育は行政や民間のように成果が目に見えにくくプロセス的な意味合いを持っています。しかしそれは過去のことであって、今は学校評議委員会制度の導入など、抽象的なスローガン倒れの学校経営でお茶を濁すことはできないのです。教育長をやった経験からいえば各学校の計画は抽象的過ぎて何をどうしてどうなるといった表現が少ないようです。数値目標を掲げ、教師も子どもも親や地域から何を目標にどんな事をしてどうなったか公表できるようにしなければなりません。私は現在3つの学校の評議員を依頼されてしていますが、年度末にその成果や出来なかった事を反省評価することこそ、次年度につながるのです。校長は多分普通だと3年間はその学校に留まります。3年の中期計画を立てて1年毎にステップアップすることが肝要だと思うのです。

 ④上を見ず下を見る

 校長は得てして自分の成果のために教育委員会や教育事務所を視線の向こうに見ようとします。しかし子どもや親や地域を無視して上を見る姿が子どもや親や地域に感じられるとそこには大きな意識的な隔たりが生じるものです。学校教育の基本は子どもですから、絶えず意識の対立軸の向こうは子どもと親である事をしっかりと肝に銘じなければなりません。

 ⑤危機管理

 このことは多分、県や市町村の教育委員会や教育事務所からマニュアルが提示されているので触れませんが、意識の底に学校内は勿論のこと通学途中や地域内も「子どもの安全」領域であることを考えて行動して欲しいものです。

 ⑥進化

 人間は夢や目標を持つとサムシング・グレート(目に見えない大自然の偉大な力)が働き、遺伝子のポジティブスイッチ(自ら進んでやろうとする積極的な力)がオンに入ります。逆に日送り日和見な優柔不断だとネガティブスイッチ(否定的・消極的な力)がオンに入るのです。私はこれまで「夢はドリームではなくターゲットである」と考えて行動してきました。一日3枚のハガキを20年続けてきたことも、毎朝3時間砂浜の掃除を12年間続けたことも、殆ど毎日ブログを書くこともポジティブスイッチをオンにしたからこそ進化したのです。

(参加した校長52名、教頭55名、総勢107名の中で、懇親交流会にくじ引きで私の横の席w引き当てた川之江南中学校のK教頭先生と縁の不思議を話しながらウーロン茶を飲みました。ハガキ道の半田さんを広島向島に訪ねたほどの活動家です。またお会いましょう)

 ⑦校長と教頭のコンビ

 双海町翠小学校の鹿島校長と山田教頭の3年間を話しました。(鹿島校長は管外に異動しました。)

  「校長に なって嬉や 高潮す 紅潮顔が 好調語る」

  「教頭の 中から校長 いずれなる 今は修行だ 花を持たせて」

  「昇任は 責任あると いうことを 肝に銘じて 頑張れエール」

  「やる気ある 校長早くも メール来る ポジティブスイッチ オンに入った」

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shin-1さんの日記

○自然回帰志向

 日本の人口は減少傾向にあって、私が死んでいないであろう50年後には1億人を割り9800万人になると予測されています。地球上では日本のように人口減少傾向にある国もあれば人口爆発といわれる増加傾向の国もあって、全体的には増加の一途をたどって、近い将来食糧問題が深刻との予測も出ています。都市と地方の人口問題では抱える悩みが違います。地方の人口減少は加速され、北海道などでは今でさえ市町村の9割以上が1万人以下の小さな自治体であり、たとえ合併をして一時的に人口が増えたような錯覚を覚えても、端々には限界集落というのが幾つもあって、自治省の推計によるとこれから10年間で日本全国では1600もの集落が消えるかも知れないと予測されているのです。私たちが子どもの頃から始まった過疎と過密という現象は過疎対策法などの効果も出ないまま現在も緩やかに、時には激しく続いているのです。

 しかしこうした地方が長年抱えてきた過疎化や高齢化は、一見過密と思われる都会にも知らず知らずのうちに忍び寄っていたのです。都市は今数多くの高齢者と単身世帯という両極端が暮らす悩み多い地域なのです。高齢者や若者を合算した人口を高齢者の数で割るとその地域の高齢化率が出てきます。若者の数が多い都会では高齢化率は一見低いように見えますが、これは数字のまやかしで、ニュータウンなどともてはやされた尊工住宅団地などでは深刻な高齢化が進みゴーストタウンになるのではないかと危惧する人もいるほどです。地方と都市という質の違う悩みを持った両極が今後均衡ある地域を形成してゆくには、交流がキーワードになることは間違いのないことだと思うのです。

 最近そうした動きが活発になってきました。人口減少に悩む地方では団塊の世代のリタイアに目を付けて「帰ってこいよ」と盛んにラブコールを送っているのです。中には農地農家付きでという間合い誘惑もあって、団塊の世代の人の心情をくすぐっています。団塊の世代の人は元をたどれば田舎出身者です。集団就職列車に乗せられて暗くて貧しい貧乏から開放されたい一心でお上りの人となりました。多分心の奥底にはふるさと回帰のような心がくすぶっていて、「いつか俺も出世をして郷土に錦を飾りたい」という思いで頑張ってきたに違いないのです。でも40年という時の流れは地方も都市も一変させました。ましてや都会で知り合った相手たる妻は都会の便利な暮らしにどっぷり漬かり、夫のそうした心の底に流れる「ふるさと回帰志向」など考えもせず、「ふるさとへ帰り人生を終えたい」言い出そうものなら「どうぞお一人で」となってしまうのです。折りしも年金分割という新たな印籠を貰った妻の鼻息は荒く、結局は終の棲家で一人寂しく都会での満ち足らない暮らしをしながら一生を終わるのです。

 定年→帰農は果たして地方が言ってるほど魅力的なのか、地方の側から言わせればそんなに生やさしいものではないのです。田舎には住むに必要な一定のルールのようなものがあってライフラインといわれる水も道も、コミュニティ活動も全て役割分担しながら汗をかかなければなりません。都会では自分が汗をかかなくてもお金で全て解決していたのに、汗などかいたこともない人にとってそれは封建的な古い因習やしがらみだと思うに違いないのです。まずここでボタンを掛け違うと、「こんなはずではなかった」という信頼関係が損なわれてしまうのです。都会の人は何でも権利だと主張します。田舎は何でも義務だと言い張ります。権利と義務、たった4文字の間に入った「と」がとてつもなく深い意味を持っているのです。

 最近はそういう時代を反映してか、私の元へは沢山の自然回帰志向の人が相談にやって来ます。人間牧場を見てその構想や施設の数々に感動するのですが、これを日々の暮しや今後の人生にダブらせて考えると大変な誤解を生じるのです。田舎暮らしの大原則は「車に乗れて夫婦が長生き、地域とともに」が大前提なのです。景色の良い所は必ず不便です。公共交通機関の発達していない田舎は車がないと身動きがとれません。夫婦のどちらかがなくなれば完全にリタイア組みは独居老人です。最後は老人ホームなどでお世話にならなければならないのです。地域も金持で他所から来た人ですから最初は優しくしてくれますが、毎日優しくする訳にもいきませんから普通の人になって役割を押し付けるのです。

 まあたった一度の人生ですから自分がどう生きたいのか、生活設計を立ててしっかりと覚悟を決め生きることでしょう。

 先日やって来た夫婦にきついそんな話をしてあげました。するとすっかりメル友となってあれやこれやの交流が始まりました。最近はわが家へ夫婦でやって来てすっかり親戚気取りの都会人がいます。高い航空券を夫婦で買ってこんな田舎へ何をしに?」と妻は不思議がりますが、まあこれも交流でしょう。

  「住みたいと 田舎志向の 人ありて 冷遇するも またやって来る」

  「田舎住み たまに東京 いい気分 こんな贅沢 俺しかできぬ」

  「パソコンが 田舎暮しに 魅力増す 情報あれば こっちのもんだ」

  「鳥かごで 一生終わる 馬鹿もいる 俺など自由 大空大地」 


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shin-1さんの日記

○夕やけこやけラインを走る

 私が「夕焼けプラットホームコンサート」を下灘駅でやり、夕日のまちづくりに確かな手ごたえを感じ始めて間もなく、二つの事業を手掛けました。一つは国道の愛称を公募する事業です。その事業を始めるに当たって私は、国道を管理する愛媛県の出先機関である当時の伊予土木を訪ねました。「国道に愛称をつけたい」という私の申し出に頭のお堅いお役所は「本庁に聞いてみないと何とも」と右往左往し、結論は「国道には番号があるので愛称などもっての外」という「NO]という結論でした。開き直った私はことごとく金を出さず口を出す県庁に対し「勝手にやるから見て見ぬふりをしてくれ」と決裂状態で帰えって来ました。そして当時行政の事業としては珍しい賞金まで出してこの事業を公募し始めたのです。新聞記者の知人に記事を書いてもらい始めたところ、同じ国道を持つ隣町長浜町から「一緒にやらせて欲しい」という申し入れがありました。「まちづくりは隣町戦争」といわれるように「隣に倉が立ったら腹が立つ」ような時代だっただけに、隣町からのすり寄りは何よりも嬉しい出来事でした。しかし二つの行政が手を組むなど、ソフト事業ではやったことがなく、審査員の人選や募集の方法などで余りにも意見が食い違い、前途多難を感じさせました。

 新聞や公募雑誌で紹介されたこの事業はさまざまな形で話題となり、前代未聞と思われる外国からも応募があり、何と応募総数3800件にもなったのです。慌てたのは県と隣町でした。地元でお茶を濁すはずだった審査委員もそれなりの対応をと、県内マスコミの知識人を並べ、地元有志とともに頭を並べ慎重な審査をしました。しかし結果的に内なる人は「サンセットロード」、外なる人は「夕やけこやけライン」という意見が対立する形になってしまったのです。最後は審査委員長を務めた地元紙の部長さんが「この愛称は誰に向けて情報発信したいのか」という一言で決着し、「夕やけこやけライン」が誕生したのです。もとより私は事務局なので表向き口を挟むことはできませんでしたが、今になって秘話を明かせば、「夕やけこやけライン」こそ最高の名称と思い、密かに暗躍しながら委員長に名称を選んだ基本コンセプトまで考えてもらって誘導したのです。今やロードマップにも必ずといってよいほど記載され、ドライバーの間ではすっかり知られるようになった「夕やけこやけライン」の愛称も、静に振り返ると命名当時のことが懐かしく思い出されます。

 一昨日夕方保内町宮内公民館から講演依頼があり夕やけこやけラインを走りました。夜7時半からの会合だったので6時半を挟んでのドライブとなりましたが、右手に広がる海となんの遮りもない水平線に綺麗な夕日が沈んでい行く様は、まさに天体ショーと呼ぶにふさわしい、そして日本一と呼ぶにふさわし見事なものでした。

 それでは少しの間、ブログ画面で夕やけこやけラインの夕日をお楽しみください。

(双海町西海岸満野付近の夕日、この辺りでは国道から海面までが低くて近く、まるで金色の道ができているような錯覚にとらわれます)

(長浜町沖浦を過ぎた場所からは葦竹やネレゲヤキの樹間から南国風のムードで夕日が楽しめます)

(少しデジカメをアップにして狙ってみました。)

(長浜町須沢付近の夕日です)

(と大洲市長浜町出海辺りからとらえた写真です。何組ものカップルがガードレールに腰かけて夕日を見ながら恋を語っていました)

(八幡浜市保内町と大洲市長浜町の境辺りからみた夕日です。)

(この日は残念ながら最後の夕日は、夕やけこやけラインの終点ゴゼトンネルに入ったたため、これが見納めの夕日でした。)

 伊予市双海町高野川から始まる夕やけこやけラインは双海町分16キロと長浜町分に加え保内町のゴゼトンネルまで約40キロ余り続いています。何の特長もない変哲な一直線の道ですが、それでも海から吹き上げる潮風が満開を迎えたみかんの花の香りを漂わせ、加えて美しい夕日と穏やかな海はやはりとっても魅力的です。「夕やけこやけライン」の愛称はこれからも長く人々の心に残るロマンチックな道であって欲しいと願っています。

 宮内公民館の集会を終え再び暗闇の国道378号を少しスピードを上げ気味でわが家へ急ぎました。往路とは違い暗闇の海は車のヘッドライトの光で何にも見えず、先を走る車の赤いテールライトが鈍く光っていました。明日も天気かも・・・・。

  「この道に 愛称つけた 馬鹿がいる 周囲反対 今はすっかり」

  「まじまじと 夕日眺めて 走らせる 日本一だと 納得しつつも」

  「金色の 道の向こうに 夕日あり そのまた向こう どこの国かな」

  「もう少し 遅れて生まれて いたならば 恋の一つも 語っていたかも」


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