shin-1さんの日記

○大恩人の卒寿

 私が公民館に勤めていた若い頃、私を全国という広い世界に押し出してくれた大恩人が二人います。一人は双海町の教育長をしていた中田豊さん、もう一人は県公民館連絡協議会の会長をしていた岡島明夫さんです。どちらも私の人生を語る上でなくてはならない思い出多き人なのですが、残念ながら中田さんは既にこの世を去っており恩返しが出来ません。岡島さんも90歳の高齢で入退院を繰り返し体力の衰えが気になっています。

 先日の日曜日公民館OBで組織する公友会の総会が今治市玉川町鈍川温泉であり、その際関係者も集まるので岡島さんの卒寿をお祝いしようという事になり、玉川町出身の井出サツミさんと中島町出身の古野セキエさと女性二人が優しい配慮で祝賀会が本人も出席して実現しました。さすがに足腰の衰えが目立ち終始用意した座椅子に座って感激の面持ちでした。

 私と岡島さんの出会いは公民館が縁です。岡島さんは県公連の会長、私は当時県の主事部会長でした。岡島さんが卒寿の謝辞で述べた思い出の中に私のはなしがありました。それは私が平の公民館主事という肩書きで香川県で開かれた第1回全国公民館研究集会の分科会司会をした時の武勇伝です。それまで公民館の世界では肩書きのない人が分科会や全体会の司会などしたことがないという信じられないような時代でした。岡島さんは自分の肝いりで司会に選らんだ事を中田教育長に電話を入れ了解をもらおうとしたのですが、中田教育長さんは「それはいいことです。本人の勉強にもなることなので是非協力させてください」と了承し、早速町長に話し旅費を予算計上してくれたのです。嬉しい全国大会への度立ちでした。私は当時は珍しいワイヤレスマイクを2本事務局に用意してもらいました。当時の全国大会はお昼ね出張(眠りこける)とトンズラ出張(途中で抜けて観光地を見て楽しむ)が横行して全国大会が形骸化していました。「眠っていたらマイクを回します。トンズラしたら記録係がきちんと名前を公表します」てな脅しとも取れる話を前置きして司会を始めました。普通分科会の司会はしか遺跡に座って司会をするのが常識な時代に私はマイク片手に午前中3時間午後4時間を動き回りました。平の公民館主事が果たしてどんな司会をするか全公連会長と事務局長が私の会場へわざわざ見えられその常識を超えた司会ぶりただただ驚き、その歳の全国大会の話題をさらったのです。

(数日前上京の際偶然にも前を通りかかった赤坂プリンスホテルです。ここで全国表彰を受けました。妻と幼い三男を連れて出かけたことが懐かしく思い出されました。)

 私が11年目でつかんだ全国公民館終了職員表彰の折にも中田教育長は旅費を組んでくれました。私は内助の功に報いるべく、高校の修学旅行以外行ったことない妻と小さい三男を連れて上京しました。その折も岡島さん私の表彰をわがことのように喜び東京で私たち夫婦のために祝賀会まで開いてくれました。

 私にとって忘れられない思い出はもう一つあります。それは公民館主事でありながら企画調整室係長、総務課係長などの兼務辞令をもらい双海町の町名変更騒動の片棒を担いだ咎で教育委員会から産業課へ異動を命じられた時でした。師と仰ぐ静岡県の朝比奈さんから「ぼうふらも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」という励ましを、岡島さんは「今が大事な充電期間」とエールを送ってくれたのです。この二つの言葉で気持ちが吹っ切れ、奥の深いこの言葉どおり急がず騒がずぼうふらになる事を待ち続け、次なるまちづくりの仕事で花開かせることが出来たのです。

 「人は人によりて人となる」といいますが、私にとって大恩人の岡島明夫さんの姿を見ていると30年後には私もあのような老人になりたいと思ったりしながら、感慨深げに尽きない話をしました。願わくばもっともっと長生きして欲しいものです。

 私の唯一の恩返しは更なる進化だと思いを新たにしました。

 その夜私は東京行きの出張があって、松山インター口発19時35分の夜行バスに乗らなければならないため、先生と硬い握手を交わして会場を後にしました。

  「大恩の ある人卒寿 祝にて 俺もあんなに 決意も新た」

  「恩返し 進化活躍 することだ 誓いの握手 力の限り」

  「両手花 やはり女性は 華やかで 九十なっても 色気大好き」

  「充電を せよと一言 言った人 それを守りて 今日まで生きた」



 

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shin-1さんの日記

○5年目の春

 愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤講師になってあっという間に4年間が過ぎ去りました。大学は4年で卒業だからこの際身を引くべきかどうか思い悩んだ結果、大学に勤める娘婿や友人の勧めもあって今年も教壇に立つ事になりました。大学に関わって何が一番良かったか尋ねられたら、やっぱり若い人に接することで随分気分が若返ったと実感しています。元々私は青年団活動の出身者でもあり、また教育委員会に長らく務めていたこともあって若い人とのつながりは同一年代の人に比べ比較的多い方なのですが、それでも決まったように毎週若い学生と接する仕事をしていると、本屋に行っても街を歩いていても若者向きに目が移るのですから不思議なものです。

 私が今年担当する学生は24人です。夜間主のため講義は毎週水曜日の午後6時から90分の授業ですが、事業の準備をしたり学生と雑談したりする時間を含めると大学では概ね3時間くらいいることにあります。大学の経験は社会教育主事講習の折約1ヶ月程香川大学で学び単位を取得しましたが、高校卒業の私にとって最初はドギマギの連続でした。普通講演会などに行くと担当者が全てを取り仕切って、講師の私は話して質問を受ける程度のかかわりで良いのですが、大学は自分がカリキュラムを立て、自分で資料を作って配布しなければなりません。2年目からその仕事は飲み込めましたが、学生にレポートを提出させたり点数をつけたりするのも一苦労なのです。それでも昨年や一昨年の学生にたまに大学構内で会うとみんな懐かしがって声を掛けてくれ、「あのフィールドワークの楽しかった」とお世辞をいってくれるのです。先日も当時の学生がわざわざわが家にやって来て飯を食って帰りました。夜間主の学生は昔は夜学といって働きながら学ぶ人が多かったのですが、勿論アルバイトはしていてもそんな若者は殆どいないし、年齢的にも比較的若い子が多いのも現代的だと思うのです。

 昨日はデジカメを持っていたので愛大キャンバスの緑したたるケヤキ並木の風景を写真に収めました。1ヶ月前には枯れ木のように殺伐としていた校庭も昼なお暗い雰囲気になっています。ただ惜しむらくはベンチの置かれた広場には学生が飲んだであろうジュースの空き缶やペットボトルが片付けられもせず無造作に置かれて美観を損ねていました。私もビニール袋で時々学生に見えるようなこれ見よがしに清掃するのですが、変な目で見られる程度で一向に改まる気配はないのです。私は思うのです。大学も小学校や中学校、それに高校のように自分が使った場所の掃除くらいはさせても良いのではないかと・・・・。こんな本音と建て前の違う教育を幾らやっても、社会に役立つ人間は育たないと思うのです。昨日は先生か学生か分らない中年の方が私と同じように空き缶を片付けていました。余りの嬉しさに「有難うございます」と声を掛けましたが照れくさそうに去って行きました。

 大学で空き缶やタバコの吸殻とともに困るのは自転車の駐輪マナーの悪さです。今年から私たちの駐車場はカードを差し込んで裏口から入る場所に移動しましたが、これまでは私たちの駐車場の入り口に車が入らないほど駐輪するのです。その度に車から降りて自転車を片付けなければなりません。雨の日などはずぶぬれになったこともありました。愛媛大学の向かい側には一本の道を挟んで私立の松山大学があります。仕事柄この大学にも行くことがありますが似たり寄ったりのようです。

 少子化の影響で大学も生き残りを掛けて色々な策をうち学生の確保にやっきになっています。私だったら「日本で一番美しい愛媛大学」なんてキャッチフレーズを掲げ、学生と先生みんなでピカピカの大学を作ったらみんなこの大学で学びたいという心境になるかも知れません。そんな大学に私の教室だけでも心がけて行きたいものです。

  「小中高 掃除するのに 大学は 何でしないの 不思議でならぬ」

  「緑濃い ケヤキの並木 くぐり抜け 学生たちの 顔見る楽し」

  「先生と 言われるほどの 馬鹿でなし それでも今は 私先生」

  「靴並べ 言われて学校 出来るのに 家庭で何故に 子どもできぬか」

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shin-1さんの日記

○孫は反抗期

 4人の子どもを妻が育てた私には残念ながら子育ての苦しみや喜びはそんなにありません。大きな声で自慢できることではありませんが、子どもとの思い出は妻にも親にも反対された子どもの名前を私の名前の一字を取ってこだわっえ付けたこと(長女ー一子・長男ー一心・次男ー一生・三男・一公)と、子どもたちを無人島還付に連れて行ったこと、子供の学校のPTA会長を6年間やったことくらいしかありません。妻は子どもが成長の過程で何度となく迎えた反抗期のその度に大変な苦労をしたといいますが、まあ乗り切って成長した今の姿を思えばそんなに大したことはなかったと思うのです。(これは妻へは内緒の話です)

 「おじいちゃん」の愛称で孫から呼ばれる私は、子育ての反省からか孫の面倒は自分でも不思議なくらいよく見るのですが、これまでは従順で何でも言う事を聞いていた孫が、近頃になってダダをこねることが多くなった事に気がつきました。今朝その話を娘のお産の都合で実家から通っている娘婿に朝飯を食べながら話したら「それは反抗期かもしれない」と意見が一致しました。反抗期は子どもの成長にとってはむしろ喜ぶべきことであって、対処法は簡単で「いけないものはいけない」とどんなに泣こうが叫ぼうがする事にしました。

 孫はこの頃の恐竜ブームで恐竜のおもちゃやカードが大好きです。幼稚園でもそのことが話題になるのか遊びまで恐竜ごっこだし、外出するとゲームコーナーやマクドナルドのハンバーガーコーナーで貰えるカードに興味があって盛んにそちらへ手を引いて私を誘導するのです。最初は1つだけとか、誕生日までとか我慢の約束をさせていましたが、平気でその約束を破ろうとするし、周りに同情を得させ買ってもらおうと泣いたりするのです。可愛そうにと思う親心が持ち上がるとその次は歯止めの利かないことになってしまうのです。ましてや母親がお産で入院中なので寂しくて可哀想なんて甘い親心を出すともう駄目です。

(麦藁帽子に長靴、虫取り網と虫かご、重装備でVサイン、ご満悦の孫朋樹です)

 先日の土曜日チョウチョやカエルを捕まえたいという孫と一緒に100円ショップダイソーへ孫と一緒に出かけました。虫かご100円、網100円、占めて00円の買い物をしました。孫は大喜びであちらこちらを走り回りますが残念ながら孫に捕まえられるようなチョウチョもカエルも一匹もいませんでした。仕方ないので人間牧場へ出かけ堆肥置き場で団子虫を見つけました。一ヶ月ほど前に団子虫を怖がって触ろうともしなかった孫が団子虫を沢山捕まえて虫かごは急に賑やかになりました。そして出会う人毎に見せびらかすのです。

(団子虫でも僕の宝物、ほらほら動いてる)

 ところが大人の側はそんな孫の心など察せず、「何だカブトムシではなく団子虫か」とけんもほろろなのです。孫にとっては額に汗をかいて必死に取った生物なのに・・・・です。でも孫はこれを宝物だと思って自分の枕元へ置き寝るのです。妻はさすがに気持ちが悪いと言い含めて廊下へ出して寝ましたが、朝起きると直ぐに廊下へ飛び出し、団子虫が死んでいないことに歓声をあげてひとり団子虫と対話しているではありませんか。子どもの世界って他愛のないものだし、大人が「何だ」と思うことも成長の過程において必要なことだと思いました。

 孫のお気に入りの虫取り道具が揃ったことで当分は孫と私の遊びが虫取りになりそうです。孫にとって虫は興味があるし、しかし怖い存在でもあります。団子虫は手で触っても安全だということが確認できたので平気で追っかけていますが、まだカエルのヌルヌルした感触が気持ち悪いのか、カエルを見つけると「おじいちゃんカエルだ」と大きな声で呼びにきます。昨晩も虫かごをいじっていてカエルが部屋の中へ飛び出し大騒ぎとなりました。孫は「やっぱりしんから田舎育ちではない」なあと実感しました。今年の夏はカブトムシやクワガタムシをクヌギ林に行って捕まえることもやってみたいと思っています。

  「百円で 買った虫かご 網を持ち 虫捕り作戦 いざ出陣」

  「団子虫 これも立派な 道具です 枕元にて 孫とお休み」

  「何かにと 抵抗してる 反抗期 孫にとっても 成長過程」

  「○ちゃんも 友を引き合い 出しながら 自分の主張 しっかり述べる」

  

 

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shin-1さんの日記

○田舎もいいが東京もいい

 一昨日まで、東京で開かれた関東ブロックの町村会トップセミナーの講師として招かれ全国町村会館へ出かけて家もブログも二日間留守にしていました。電話しても留守、ブログも書き込みがないので病気にでもなったのかと優しい友人は気を揉んでくれましたが、はい、いたって元気で全国行脚を続けています。東京に行くと田舎の良さが分る田舎にいると東京に憧れるといいますが、私のような田舎者は憧れるというよりやはり世界の最先端であり日本の頭脳の集まる東京は何か違った異文化をショックとして感じる場所なのです。田舎の役場には驚くなかれ現職でも東京へ出張したことがないという人も沢山いて、ましてや合併後の支所勤務などになると余程のことがない限り仕事で東京へ行くことはない時代になりました。幸い私はリタイア組なのに未だに東京あるいは東京経由という仕事が入って、人様のフンドシながらそれなりの緊張感が味わえて嬉しい限りなのです。

 日本全国各県毎にある町村会も平成の大合併によりその数が激減し、組織を維持するのが大変なようです。関東は人口密集地ゆえにその悩みは深刻で、消えた村や町はイコール首長さんも議員さんも姿を消したわけですから、組織が弱体化し見えぬ将来の姿におびえながらの行政運営が行われています。当然これまで負担金で運営していた首長さんや議員さん、それに職員の研修会も関東ブロックといった広域的な連携をしないと効果が上がらなくなってしまったのです。

 今回のトップセミナーは群馬県が幹事を務める研修会でした。したがって最近群馬県へ足繁く通っているため草津の町長さんや上野村の村長さんなど顔見知りも多く、ほのぼのとした研修会でした。「町村が日本を救う」と題したジャーナリスト松本克夫氏や「日本を取り巻く国際情勢について」と題した外交ジャーナリスト手嶋龍一氏の話とどれだけコラボ出来たかは知る由もありませんが、売れっ子といわれる元NHKの手嶋龍一さんと同じ演題で話すのですから少し背伸びをした話にしないとと、何時になく力が入っていたようです。でも自分は自分人は人と開き直り、実践家の強みで彼らのような理論ではなく論理を喋ったため私の持ち味は存分に出せたのではないかと自画自賛しています。

 久しぶりにぶらり永田町界隈を歩いて見ました。首相官邸もすっかり様代わりしていました。32年前第10回総理府派遣青年の船の班長としてアメリカへ行く時、首相官邸で結団式が行われ当時の三木首相の話を聞いたのもこの場所でした。今は若い阿部首相がいるのです。そこから右にとって緩やかな下り坂を下ると国会議事堂が見えてきました。どこまでも青い空に凛として立つ議事堂は今も昔も日本政治の表舞台です。


?国会議事堂の裏手に議員会館があります。久しぶりなので参議院議員会館の受付で段本先生に連絡を取って2階の事務所を訪ねました。先生は北海道へ出張中で出会えませんでしたが、懐かしい高橋秘書にお目にかかりしばし談笑しました。後2ヶ月したら参議院議員の選挙です。参議院には表と裏、つまり改選の人とそうでない人があります。段本先生は今回が改選で票の読めぬ無党派層に一喜一憂しながら全国を歩いているようでした。国会議員の先生方も大変なようです。先生は来県の折人間牧場へも足を運ばれた気さくな方だし、力をお持ちの地方を大事にする政治家なので当選して欲しいと願っています。

 ついで本県選出の山本順三先生の事務所へも顔を出しました。先生は事ある度に夕日の話などをしていただいており、裏なので選挙はまだ先のことでしょうが、秘書の方と面談し名刺を置いて会館を後にしました。

 少し寄り道をして町村会館への道を逆に歩くと自民党本部へ出ました。物々しい警察官の警備が需要人物の警備にあたっていました。垂れ幕の選挙という文字がやけに大きく見えました。


 毎日何気なく新聞やテレビで見聞きする政治に関する出来事はこんな場所から発信されているのです。私には縁のない場所なのですが、ここで決まる法律が私たちを含めた国民の規範となるのですから少しは政治にも感心を待たなければならないと自分に言い聞かせながら初夏の東京、しかも緑したたる東京を歩きました。

  「縁のない 場所だと思えば 縁がない 私の一票 私の税金」

  「選挙さえ なければ楽な 議員さん 今は必死で 清き?一票」

  「国会を 見学している 子どもたち  あの中将来 ひょっとするかも

  「緑陰を 選んで歩く 東京に こんな静かな 場所があったか」


   

 

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shin-1さんの日記

○1冊105円の本

 東京へ行くと決まったように本屋さんに立ち寄って何冊かの本を買って帰るのが私の習慣になっています。別に松山の書店でもいいのですが何となく本の数が違うような気がしたり、日本一早い情報を少しでも早く求めたいと思う田舎者の心理なのでしょうか。ところが昨日は東京へ行ったものの本屋へ入る時間がなく新宿を歩いていると一軒の古本屋が目に止りました。早速中へ入りましたが、驚いた事に新品同様の本が所狭しと並べられていて、その金額も驚くなかれ一冊105円という安さなのです。私はやはり貧乏人なのでしょうか余り金額的に高い本は買いません。読みたい本であっても裏を見て金額が高いと立ち読みすることにしています。勿論タダで立ち読みするのですから、立ち読み代として安い本をいい訳程度に買って店を出るのです。

 昨日は105円の本を4冊買いました。その中の一冊に森山透著「50代で考えること」というのがありました。新刊は1300円+税なのですが古本なので105円です。誰が古本屋に持ち込んだかは知る由もありませんが、汚れてもいないので買い求め面白くて帰りのバスの中で殆ど全部を読んでしまいました。

 私は現在62歳で、50代をとっくに過ぎていて書いていることは役に立たないかもしれないと思いつつ読みました。でもこの本に書かれていることは今の自分に当てはまることが多くとても参考になりました。森山さんは自分の経験を、50代の定年前の人に対してメッセージしているのです。

 森山さんは一流大学を卒業、サラリーマンとして一流企業に就職し海外勤務を経験しています。幼い子どもと奥さんを連れてニューヨークに赴任し、彼の人生はばら色に見えました。ところが会社人間にとって家庭を省みる暇もなく、異郷の地で子どもを抱え不安な日々を暮らす奥さんのことなど殆ど眼中にありませんでした。ある日のこと帰宅すると居るはずの奥さんはメモを残して日本に帰郷していたのです。忙しい職責ゆえ誰にも打ち明けられず追いかけて買えることも出来ず、結局半年後に帰ったものの3年後に夫婦の間は破局を迎えたようです。転職を余儀なくされ、その職場も何年か後にはリストラに会い、死ぬことさえ考えた悶々の日々をまるでドラマのストーリーのように書き綴っています。

 命をかけて守ってきたものは家庭や身の回りの人でなく会社であったその会社さえも、いとも簡単に平気でリストラする会社に捧げた男の半生とは一体何なのか、問いかけているのです。

 人間は80まで生きると仮定すれば個人によって多少の差はありますが、20年間は親や社会の比翼の中で生きています。仮に20歳から働き始めると40年働いて定年の60歳です。だとしたら第2の人生はまだ20年もあるのです。団塊の世代がリタイアして世の中にどっと流れ出てきていますが、彼らにとって会社とは一体何だったのか、自分の人生とは一体何か、まさに男のアイデンティティが問われているのです。人間はここを引きずって生きています。でも過去の肩書きや名刺は定年後は何の役にも立たない事を辞めて始めて気がつく愚かな人間が日本には数多くいるのです。年間自殺者3万4千人の中には定年を迎えることもなくリストラされて路頭に迷う人だっていますから、転ばぬ先の杖ではありませんが、定年後の人生についてもっと50歳代から考えてほしいと彼は願っているようです。

 定年から始まる人生の仕上げの時代をどう楽しく生きるか、これこそ人間が人間として生まれ人間として死んで行く20年の生き方が試されているのです。

 2年前にそんな会社人間にいとも簡単におさらばし自由人になった私には作者森山透さんの話がわがことのように思われました。幸い私にはなんだかんだと言いながらも妻と家族という絆もまだ残っています。更には人生を乗り切る羅針盤や海図のような生活設計と年金が少ないながら最低限の暮しを支えるほど用意されています。でも家族も資金も健康で長生きというストーリー通りならいいのですがその保障は何処にもないのです。

 生きる意味を考えさせられるたった一冊の105円の本の価値は、私にとってどんな著名な著書より、どんな高価な著書より大きな示唆を与える値千金の本だったようです。多分この本は私が手にとって買い求めなかったらいずれ紙ごみとしてシュレッターにかけられることもなく焼却処分される運命にあるのかもしれないと思うと、妙にいとおしくなりました。多分私はこの本を大切にして生きて行くことでしょう。

 私の今年のベストセラーはこの本かも知れません。本屋さん有難う。

  「何気なく 立ち寄り見つけた 古本を なるほど言いつ 納得して読む」

  「古くても 必要性で 物の価値 高くもなったり 低くもなったり」

  「百五円 安い割には いいものを 手に入れさすが 東京たのし」

  「俺古い 古本骨董 店歩き 目利き褒められ 思わず買った」 

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shin-1さんの日記

○孫の遠足と孫の誕生

 娘の第2子お産が近づき、昨日が予定日でした。県立中央病院で助産師を勤める娘ですから、お産など朝飯前かと思いきや、何と何と大騒動で、流産の兆候があるとかで新年早々2ヶ月間も入院し、そのため孫のお守りをしなければならずわが家が大騒動でした。もうそろそろ生まれるかも知れないと大事を取って昨日予定されている孫の遠足はおじいちゃん対応となってしまいました。親馬鹿ならぬおじいちゃん馬鹿になって昨日は妻の作った弁当を2人分リュックに入れ目的地である砥部動物園の玄関集合ということで9時過ぎに出かけました。空はどんより曇り、今にも降り出しそうな雲行きの中をカッパと傘持参で遠足です。

 孫にとってはおじいちゃんと遠足に行くなんてことはないために、昨晩寝るまではかなりご機嫌で、おやつのお菓子をリュックに出したり入れたりしていましたが、寝るころになってホームシックなのでしょうか、「お父さんと遠足に行きたい」とダダをこね始めました。結局は大学に勤めるお父さんに都合をつけてもらい、仰々しくも3人での遠足となりました。電話で連絡したとおりおとうさんが10時過ぎに動物園入口までやって来たのを見てそれは嬉しそうで、思わず私の存在などどうでもよく、さっさとお父さんにくっついて離れませんでした。

(さあやるぞ。気持ちは一人前、行動はノロノロ半人前)

(先生の注意事項に熱心に耳を傾けていました)
(お父さんが一番、おじいちゃんは忘れ去られた人でした)

 やがて幼稚園のノロノロ歩きの長い集団が動物園の中を歩き始めました。お目当ての動物の前で大きく声を上げたりポーズをとるなど様々な表情を見せて、動物園の折の中にいる動物よりも子どもの表情の方が何ぼか面白いと思いました。この日は私たちの幼稚園のほかにも幾つかの子ども集団や若者集団が遠足らしく、行く先々で見慣れた顔に出会いました。

 今の子どもは歩くのが苦手なのか体力がないのか、最初は元気だったのに1時間半も経った昼ごろにはまるでヘトヘト、昼食を食べる予定のモンキー広場ではお遊戯などそっちのけでベンチに腰掛け、背中のリュックサックに入った弁当やお菓子を盛んに気にしていました。さあお楽しみの昼食です。思い思いの場所に陣取って食べ始めました。鼻をつまむような動物園特有の臭い臭いも慣れてくると何てことはなく、心地よい風と受け止めて舌鼓を打ちました。

 娘婿は携帯電話で娘とお産の事について盛んに連絡を取り合っていましたが、どうやら雲行きが怪しくなったとのことで、象に持って来た果物を親子で食べさせ、早速私と孫を残して病院へ直行する事になりました。昼食後解散なので孫のリクエストに答えてトラやカバ、動物資料室、スネークセンターなど、何度も来たことのある動物園をわが者顔で私を連れまわすのです。今度は孫より私がかなり疲れ、2時に先生たちに別れを告げて動物園を後にしました。孫もさすがに疲れたのか帰りの車のチャイルドシートでは動物園を出ると直ぐにお昼寝タイムとなり、わが家に着いてからも一向に起きようとせず4時まで眠りました。

 間もなく娘婿から電話があって娘が無事男児を出産したとの知らせです。予定日きっかりに産まれるなんてやはり助産師らしいとその確かな出産に驚きもしました。仕事から帰って来た妻と孫と3人で早速病院へ駆けつけました。周産期センターではまだ分娩後の処置をしていて、7時まで面会することが出来ず、新生児も呼吸の大事をとって保育器に入ったとかで、結局顔を見ることもできず、孫も妻も少々ガッカリしました。娘婿が白い病院着を着て新生児室へ娘とともに入りカメラに収めたのを見せてもらいましたが、心配することもなく元気な赤ちゃんのようです、とにかく母子ともに健康で安心しました。

 これで孫が2人目になりました。今年の夏には長男夫婦に子ども誕生の予定で一気に3倍になり、若松家の外孫とはいいなから若松家にとってもいよいよ賑やかな家族の誕生です。妻の気苦労はもう少し続くようです。

  「さすがだね 助産師だけの ことはある 予定日どおり 子供生まれる」

  「動物園 オリの中より オリの外 気にする遠足 孫の行方を」

  「鼻つまむ 臭い臭いの その中で 弁当広げて 何ともなしに」

  「お兄ちゃん なったと俄然 胸を張り 自覚できたか 口で強がり」

 


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shin-1さんの日記

○子どもを守り育てる

 「私たちの子どもの頃は・・・・・・」とついつい口に出る話は、平成の時代が19年間も続くともう昭和の話しなど昔話になってしまいました。ましてや戦後の緩やかな時の流れとは比べものにならないほどのスピードで世の中が変化し、時折ついて行けないような気持ちにもなることがあります。私たちが子どもの頃は田舎にも人が溢れ、子どもの数も相当いて学校は田舎ながら必ず学年2クラスもありました。小さな校区なのに分校が2つもあって4年生になると閏住分校から、中学校になると富木分校からそれぞれ同級生が編入され、それは賑やかでした。いつの頃かその分校も統合によって火が消えて本校といわれた小中学校さえ児童生徒の激減で複式や統合がささやかれているのです。

 そんな子どもを巡る教育事情は地域にも暗い影を落とし、学校の統合は地域が消えるととばかりに地域の猛反対にあって中々統廃合が出来ない状態が続いているようです。小さいながら教育長として教育行政を預かった経験からいうと、いじめや教育基本法もさることなながら、田舎の児童生徒の減少こそ「教育の危機」だと思っています。私の学校教育に対する基本的な考え方は、「小学校は児童が歩いて行ける距離に設置、中学校は学力重視、活動重視で統合」でしたから、当面わが町に2つある中学校は統合を急がねばなりません。部活もままならないようでは子どもたちの将来に禍根を残すと、2年間の教育長時代に統合の道筋を(地域と行政の合意)つけたつもりでしたが、未だにその方針が実行されないのは怠慢では済まされない大きな問題だと思っています。波風や反対を恐れては何も出来ないと思いつつ、一線を去って影響力のないわが身のジレンマを寂しく感じてい増す。

 私たちの子どもの頃には何処にでもあった子ども会がなくなりました。私たちにとって子ども会は楽しくも思いで多い子どもによる子どものための活動でした。季節ごとの催しがあり、補修的な勉強も子ども会でやったものです。また公民館の掃除や村祭りの参加など子どもの社会活動も活発で、生き生きと輝いていたように想うのです。

 一昨日園芸組合の総会に招かれ会場となった下灘コミュニティセンターに行きました。センターの二階には児童館のような部屋が2つあり、地元の子どもが熱心に勉強したり楽しそうに遊んでいるのです。これは児童数の減少に対応して放課後の安全と有効活用を考えて設置しているものです。予め登録された児童たちは学校が終わるとこの部屋に直行して、指導員の女性2人の指導の元宿題や読書をして過ごすのです。児童たちの家庭は農業や漁業なので帰ってもかぎっ子なので、勉強が終われば夕方まで児童館やその周辺の遊び場で過ごし、夕方になると迎えの車でそれぞれの家へ帰って行くのです。この方法は行政も学校も地域も家庭も、子どもまでも全幅の信頼を得て運営されていますので、俗に下灘方式としてすっかり定着しています。むしろ子どもが少ないことが生んだ知恵として高い評価を受けているのです。

 中に入って子どもたちに話しかけても実に子どもらしい反応が返ってきます。青少年おもしろ教室の代表をしていることもあって顔見知りの子どもも多く、私の事を「進ちゃん」などと愛称で気軽にすり寄ってくる子どもたちと1時間余り会話をしましたが、実に素直な子どもたちです。嬉しいのはインストラクターやアドバイザー、サポーターのような役割を一手に引き受けている2人の女性の存在です。子どもは放っておいたら無秩序になりますが、教育一つで整理整頓や相手を思いやる気持ちがどんどん育つのです。見るからにいい運営が出来ているなと思いました。

 子育ては自分の家庭だけでは絶対出来ません。子どもにとって子ども社会や遊びでの学びが重要な意味を持っています。この児童館には子ども社会と遊び、学び、躾、秩序があるように感じました。子どもを守り育てることの難しい現代の知恵袋なのかもしれないとほのぼのとした気持ちで部屋を出ました。子どもたちが「また来てね」と笑顔で手を振り見送ってくれました。

  「本を読む、宿題もする 子どもたち 学びの多さに 思わず拍手」

  「田舎ゆえ 出来る知恵あり 児童館 まるで蜂の巣 子ども歓声」

  「伝記読む 子どもに自分 ダブらせて 夢を描いた 懐かし日々を」

  「パソコンの ゲームオープン これがいい 巣篭もりしない 友とワイワイ」

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shin-1さんの日記

○地元での講演

地元には商工会、農協、漁協、森林組合などの産業団体がありますが、農協の合併を皮切りに様々な団体が統廃合を行って、随分様変わりをしています。双海町には農協系として農協と果樹園芸組合が二つずつありましたが、それが全てJA中央えひめという巨大な組織に統合され支所が2つになりました。本部から見れば5500人程度の取るに足らない町に2つも支所を置くことは合併のメリットがないといわんばかりに合併の条件にしていた諸施設の整備を渋っていて、地元の農民からはいつも「約束が違う」というブーイングが聞こえてくるのです。幸い2支所には金融部門があって統廃合が出来ないことが幸いして今のところ2店舗を堅持しています。わが町はみかんを中心にした果樹農家が多く農協と園協という団体がまるで犬猿の仲のようにしのぎを削って活動してきました。全農系と日園連系という系統の違いから組織も運営方法もまったく違ったものだったのですが、いつの間にか統合し現在の全農系になっていました。でも末端では未だに従来組織の未練が尾を引き混乱しているし割り切れない気持ちがあるようです。

 一昨日園芸組合系総会の記念講演を頼まれ出かけました。ブログにも書いたように繰り上げの勘違いと間違いで2日も前に出かけたいわくのある集会です。総会行事は午後3時から午後4時までで、午後4時から記念講演という事になっていたため午後3時過ぎに会場入りしそこら辺で時間を気にしながら過ごしましたが、総会が長引き何と記念講演が始まったのは16時40分からでした。私はこの日愛媛大学の講義日で午後4時から始めても午後5時には終わるだろう、そうすれば高速道路を使えば何とか講義時間に間に合うだろうと逆算して講演を引き受けたものですが、間違いと勘違いでテンションがダウンしている上にイライラが募りいの痛むような時間でした。予め大学へは30分遅れの予約を入れてはいるものの、それでも講演の内容に不備があっては失礼と思いを込めて70分間熱弁をふるいました。講演が終わったのが午後6時なのでとりあえず降り出した雨の中を車を走らせ大学の授業は大幅に遅れましたが、待ってくれていた学生を相手に1時間弱の講義を終え、二つのお座席をヘトヘトになりながら務めました。

 総会の会場となったコミュニティセンターホールはほぼ満席の状態でした。参加者は子どもの頃から知り尽くしている方々ばかりで、顔や目が合う度にあちらこちらから笑顔の会釈が返ってきて懐かしさがこみ上げてきました。私の話は11時間半の組み立てを1時間10分に縮めて早送りしましたので、少し理解できない部分もあったかも知れないと反省をしていますが、「下灘発元気印」と題した講演は概ね次の通りです。

 1、双海町をフィールドにした私の今までの活動

   ①漁師としての7年間

   ②青年団活動の8年間

   ③公民館主事としての13年間

   ④結婚披露宴537組の司会活動

   ⑤広報ふたみ10年間240号の執筆活動

   ⑥夕やけコンサートなど20年の夕日を資源にしたまちづくり活動

   ⑦20年で100人の人を育成した人づくり活動

   ⑧退職後下灘に設置した人間牧場での2年間の活動

 2、四国で頑張る4人の人たちとその発想の原点

 3、私のふるさとづくりの原点と想い

 4、人間4つの願望

 5、下灘元気印への提言

 昨日は、講演に参加した方々からお電話をいただきました。感想や激励です。「懐かしかった」「いい話だった」「人間牧場へ是非行って見たい」「これからも頑張ってください」などなど様々な反応でした。私はその方々にハガキを書きました。多分今日は届いた予期せぬハガキに驚くことでしょう。

  「面映い 感じで話す 壇上に 笑顔の反応 嬉し恥かし」

  「講演を 終えていただく 鉢植えの アジサイ綺麗 俺に似合って」

  「久方に 昔の顔が そこにある みんなそれぞれ 歳をとったな」

  「進み行く 時代の流れ 何故故に 後退するのか 田舎暮しは」

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shin-1さんの日記

○開封された貯金箱

 書斎の机の上に大きな郵便ポスト型をした貯金箱が置いてあります。私は子どもの頃から貯金箱が好きで、市販の貯金箱など普及していない子どもの頃は二節を両方に残して切った竹筒に鋸目を入れて投入口を作り、まさに手づくりの貯金箱を利用していました。しかしそんなに小遣いの豊富な時代でもなかったので、一年間貯めても振るとガランガランと音がしたものです。そこへ行くと赤い貯金箱は日々の暮しのつり銭を入れるのでこの2年間で重いほど貯まり、ついには入口を塞いでしまう結果となりました。紙幣は入れず硬貨だけですから一円玉や五円玉まで入り、重いけれど三万円くらいいかなあと思っていました。自分で開けるのも面倒臭いし、どうせ金額を確認するのだったらと思いつき、先週の金曜日郵便局へ持ち込みました。郵便局は馴れたもので、「少し時間がかかりますがよろしいですか」と貯金通帳とともに引き受けてくれました。そのことをすっかり忘れていたら一昨日、郵便局の女性職員が帰宅途中に持参してくれたのです。私は人間牧場の草刈から帰った直後であり、妻も庭のプランターにガーデニングよろしく花を植えている最中だったので、私が受け取ることになりました。実はこの貯金箱は妻も存在は知っていましたが、私のへそくりなのでその中身の金額など妻に知られたくなかったのです。「しまった」と思いました。仕方がないので妻と二人で通帳に記載されている貯金箱の中身を確認して驚きました。〆て86,598円なのです。早速妻は「お父さん山分けしよう」と相談を持ちかけてきました。私は「これはわしのへそくり貯金だから」と頑固を張りましたが、世の中は秘密などを持つとろくなことはないし、後でしっぺ返しでもされたら大変ですから、妻の申し出を甘んじて受けなければならなくなりました。

 それにしても86,598円とは塵も積もれば山となるの諺どおりで驚きました。すっかり軽くなり空になった赤い郵便ポスト型の貯金箱を手にしながら、今度この貯金箱が一杯になるのは何時の日だろうと夢を膨らませました。実はこの貯金箱は教育長に就任した折、それまで缶詰のようなカンカン貯金箱を使っていたのを今度のように郵便局へ持っていて数えてもらった時郵便局長さんからプレゼントしてもらったものなのです。その時は「こんな大きな貯金箱に一杯になるのには何年ぐらいかかるかな」と冗談を言ったものでした。退職までは教育長室の片隅で、退職後は自宅書斎の机の上で、気の向くままに小銭を入れ続けました。

 小銭どころか大金もない私ですが、酒もコーヒーもタバコも飲まない私には小遣い銭など余り必要ではなく、時折孫におもちゃや本を買う程度だし、財布も出かける際はきちんと妻が配慮をして中身を確かめて恥をかかないようにしてくれています。妻は無駄遣いをしない私への信用があると見えて、お金のことは余りいわないのです。

 わが家にもう一つイノシシの親子を形をした貯金箱があります。妻が農協から貰ってものですが、これは時折やって来る孫のものです。来る度に10円とか1円とか、まだお金の値打ちの分らない孫にとっては枚数が多いほど喜ぶようで、先日は1円を10枚ほど入れてやりましたら、中身をジャラジャラいわせながらとても喜んでいました。多分貯金箱の意味すら分らない4歳なのですが、それでもこうして小さい頃から金銭感覚を身に付けさせることは大切なことだと思っています。夕べやって聞いて「おじいちゃんの貯金箱と競争しよう」と相談をしました。頑張らないと孫の貯金箱に負けそうです。

  「何気ない 小銭集める 貯金箱 積もり積もって 旅行くらいは」

  「煙草銭 酒代思い 入れてゆく 小銭貯まれば 大銭貯まる」

  「筒なのに 何故に貯金 箱という わが家に幾つ あるのだろうか」

  「大木を 流して木っ端 集めてみても 所詮はかない 貧乏暮し」

 

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shin-1さんの日記

○自慢できない自慢

 昔は「男子厨房に入るべからず」なんて言葉がありましが、今は男女同権の世の中、特に若い方は積極的に台所へ入って家庭料理をしており、羨ましくも微笑ましい姿がテレビなどで紹介される度に、自分の時代遅れを恥じています。今は学校でも家庭科にかなり時間を割いてそうした時代を反映したような教育を男性にもしているし、それが当たり前の共稼ぎの世の中になっていることも周知していますが、やはり古い人間でしょうか本音と建て前は違うようで、自慢ではありませんが結婚して37年が経っているというのに、未だにわが家の厨房には殆ど立ったことがなく、自慢できない自慢を告白するのです。

 教育長と中央公民館長を兼務していた2年前まで、公民館の講座に「男の料理教室」という人気講座がありました。役職柄講座の開講式、閉講式には招かれてあいさつをするのですが、今にして思えばこの時も分ったような話をしたような記憶があります。でも何故か料理は妻、私は外なんて不文律を破ることなく、娘からは「お父さんはお母さんが亡くなったら完全に生きていけない」とか、「お父さんは退職して給料が入らなくなったらお母さんから退職離婚を宣言されるかも」なんて散々脅かされながら今日まできてしまいました。

 私は20年も無人島に子どもたちを連れて行き、野外活動はお手のものなのですが無人島キャンプは仲間で料理の上手な河上さんという無人島シェフがいて、私はもっぱらひょうたん型由利島大統領として主に指導畑をたんとうしたので、野外活動でも20年間料理はまったくしませんでした。自慢できない自慢です。

 これは退職した2年前からの心構えなのですが自慢できる自慢が一つだけ出来ました。それは魚料理をすることです。料理といっても魚を捌くことなのです。私たちの町は漁師町なので魚が沢山獲れますし、漁師さんの親戚もあって時々魚を貰うのです。その度にその魚を捌いたり3枚に下ろしたりするのです。自慢ではない自慢ですが宇和島水産高校の実習船愛媛丸の船上でコック長から直伝された技でそれは上手いものです。

 昨日は親戚の漁師さんから大きなチヌやサメなどをトロ箱いっぱいいただきました。あいにく妻は職場への出勤前でしたので、「お父さん宜しくね」とさも見透かしたように出て行きました。さてどうするか思案はしたものの結局自分がしなければ片付かないと長くつと捻り鉢巻で屋外調理場で孤軍奮闘と相成りました。大きな専用の出刃包丁を砥石で研ぎいよいよ作戦開始です。まずは2枚のチヌから始めました。鱗引きで鱗を丹念に取り頭を落とし内蔵を取り水洗いです。そして水気を切って三枚に下しアラは小切りにしてアラ煮が出来るサイズに切り分けボールに並べてゆくのです。身の部分はヒハラを削いで切り落とし刺身用にボールに並べます。素早く上にラップを掛けて冷蔵庫に収納して出来上がりです。昨日はこちらの方言でノークリと呼ぶサメを4本いただいたのでこれも三枚に下ろしてサメ肌といわれる皮を削いでてんぷら用に小切りをして同じようにラップを掛けて終りです。内臓を全てビニール袋に入れて専用ゴミ箱に収納し、まな板、包丁、流し台やそこら辺を洗剤で水洗いして約1時間半の作業は終わりました。予め風呂を沸かしてもらっていたので、服を脱ぎ風呂に入って魚の臭みの染み付いた身体を洗いました。

 昼食時に妻が帰って来ましたが、「いつものことながらお父さんは魚の料理だけは凄い腕前じゃねえ」と持ち上げるものですから、それが快感になっている今日この頃なのです。妻は私の調理したアラを小分けにしてチルド袋に入れて冷凍庫に収めました。こうすれば貧乏所帯でも3日や4日は不自由することなく美味しい魚料理が食べれるのです。

 正直な話しこれ以上の料理にかかわるつもりはありません。「お魚ママさんの講習を受けて魚料理は人に指導できるほどの腕前の妻もそのことは分っていて、魚料理だけでもしてくれるようになった進歩の跡がうかがえる夫の成長ぶりに目を細めているようです。

 親父も漁師だったため魚の料理は凄い腕前ですが、母存命中は厨房には殆ど立たない亭主関白を絵に書いたような人間でした。それでも母亡き後は炊事も洗濯も何でもこなせる家庭マルチ人間になっているのですから、私もその気になれば自活は出来るものと楽観しています。自慢できない自慢話をしてしまいました。

  「海の町 魚を捌く ことぐらい 出来ないようじゃ 男じゃないよ」

  「若い頃 船で覚えた 料理法 やっと今頃 自慢の腕に」

  「普通なら 魚を肴に チョイ一杯 今は禁酒の 舌が乾いて」

  「食卓に 自分料理の 刺身出る 自慢しつつも 飯をお代わり」 

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