shin-1さんの日記

○大恩人の卒寿

 私が公民館に勤めていた若い頃、私を全国という広い世界に押し出してくれた大恩人が二人います。一人は双海町の教育長をしていた中田豊さん、もう一人は県公民館連絡協議会の会長をしていた岡島明夫さんです。どちらも私の人生を語る上でなくてはならない思い出多き人なのですが、残念ながら中田さんは既にこの世を去っており恩返しが出来ません。岡島さんも90歳の高齢で入退院を繰り返し体力の衰えが気になっています。

 先日の日曜日公民館OBで組織する公友会の総会が今治市玉川町鈍川温泉であり、その際関係者も集まるので岡島さんの卒寿をお祝いしようという事になり、玉川町出身の井出サツミさんと中島町出身の古野セキエさと女性二人が優しい配慮で祝賀会が本人も出席して実現しました。さすがに足腰の衰えが目立ち終始用意した座椅子に座って感激の面持ちでした。

 私と岡島さんの出会いは公民館が縁です。岡島さんは県公連の会長、私は当時県の主事部会長でした。岡島さんが卒寿の謝辞で述べた思い出の中に私のはなしがありました。それは私が平の公民館主事という肩書きで香川県で開かれた第1回全国公民館研究集会の分科会司会をした時の武勇伝です。それまで公民館の世界では肩書きのない人が分科会や全体会の司会などしたことがないという信じられないような時代でした。岡島さんは自分の肝いりで司会に選らんだ事を中田教育長に電話を入れ了解をもらおうとしたのですが、中田教育長さんは「それはいいことです。本人の勉強にもなることなので是非協力させてください」と了承し、早速町長に話し旅費を予算計上してくれたのです。嬉しい全国大会への度立ちでした。私は当時は珍しいワイヤレスマイクを2本事務局に用意してもらいました。当時の全国大会はお昼ね出張(眠りこける)とトンズラ出張(途中で抜けて観光地を見て楽しむ)が横行して全国大会が形骸化していました。「眠っていたらマイクを回します。トンズラしたら記録係がきちんと名前を公表します」てな脅しとも取れる話を前置きして司会を始めました。普通分科会の司会はしか遺跡に座って司会をするのが常識な時代に私はマイク片手に午前中3時間午後4時間を動き回りました。平の公民館主事が果たしてどんな司会をするか全公連会長と事務局長が私の会場へわざわざ見えられその常識を超えた司会ぶりただただ驚き、その歳の全国大会の話題をさらったのです。

(数日前上京の際偶然にも前を通りかかった赤坂プリンスホテルです。ここで全国表彰を受けました。妻と幼い三男を連れて出かけたことが懐かしく思い出されました。)

 私が11年目でつかんだ全国公民館終了職員表彰の折にも中田教育長は旅費を組んでくれました。私は内助の功に報いるべく、高校の修学旅行以外行ったことない妻と小さい三男を連れて上京しました。その折も岡島さん私の表彰をわがことのように喜び東京で私たち夫婦のために祝賀会まで開いてくれました。

 私にとって忘れられない思い出はもう一つあります。それは公民館主事でありながら企画調整室係長、総務課係長などの兼務辞令をもらい双海町の町名変更騒動の片棒を担いだ咎で教育委員会から産業課へ異動を命じられた時でした。師と仰ぐ静岡県の朝比奈さんから「ぼうふらも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」という励ましを、岡島さんは「今が大事な充電期間」とエールを送ってくれたのです。この二つの言葉で気持ちが吹っ切れ、奥の深いこの言葉どおり急がず騒がずぼうふらになる事を待ち続け、次なるまちづくりの仕事で花開かせることが出来たのです。

 「人は人によりて人となる」といいますが、私にとって大恩人の岡島明夫さんの姿を見ていると30年後には私もあのような老人になりたいと思ったりしながら、感慨深げに尽きない話をしました。願わくばもっともっと長生きして欲しいものです。

 私の唯一の恩返しは更なる進化だと思いを新たにしました。

 その夜私は東京行きの出張があって、松山インター口発19時35分の夜行バスに乗らなければならないため、先生と硬い握手を交わして会場を後にしました。

  「大恩の ある人卒寿 祝にて 俺もあんなに 決意も新た」

  「恩返し 進化活躍 することだ 誓いの握手 力の限り」

  「両手花 やはり女性は 華やかで 九十なっても 色気大好き」

  「充電を せよと一言 言った人 それを守りて 今日まで生きた」



 

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