shin-1さんの日記

○高知県仁淀川町ルポ②・水物語

 かつて33号線を行き交う旅人は幾つもの峠を越えたものです。難所といわれる峠や辻々にはその痕跡のように旅の途中で行き倒れになったであろう人々の霊を慰めるお地蔵さんや、次の宿場を示す「○○まであと○○里」と書かれた道標が往時を偲ばせるようにひっそりとありました。高速道路が川之江ジャンクションを越えて南国方面へ開通してから33号線は国道改修が進まないことや風水害で通行止めになることから、スピード時代から見放され通行量は激減しました。当然旧吾川村の国道沿線にあったドライブインは軒並み潰れ、あっても開店休業状態のようです。橋が出来、ダムが出来てここならと思われる眺望のよいスポットにドライブインを構えれば観光客が立ち寄って儲かったのは過去の話で、今はそんなスローな旅をする人は殆どいなくなりました。「せまい日本そんなに急いで何処へ行く」と言ってやりたいような心境ですが、今度の仁淀川町への旅でしみじみそのことを思い知らされました。私が訪ねた早朝と帰宅した夜は車の数がここまで減少するのかと思うほど車に会わなかったのです。特に大型自動車は見る影も殆どなく、その結果私は仁淀川町から驚くなかれ僅か1時間半で帰宅してしまったのです。むしろ高速道路を走らない方が早くて安全で安いという珍現象なのです。世の中は高速道路や交通機関の普及によって近くて遠い、遠くて近いじだいになっているのです。

 かつては高知行き、松山行きの定期バスや観光客がトイレ休憩地として使っていた場所もかつての賑わいはありませんでした。その底流所の上に一際目に付くこぶしの樹を見つけて休憩しました。この花も前述の桜と同じように人知れずひっそりと咲いていたのが印象的でした。

 講演なのに出かけて時々ギョッとすることがあります。会場の入口に手づくりの看板が立っていました。先日関アジ関サバで有名な今は大分市と合併した旧佐賀関町へお邪魔しましたが、町のいた所に私の名前を書いた看板がやたらと置いてありました。聞くところによるとこれは私の知人で八幡浜出身の料理屋のご主人が書いたそうなのですが、その上手いこと惚れ惚れするような看板でした。その看板には「まちづくりの鉄人来る」なんてこれこそ看板倒れのような文字がズラリ並んでいました。訪れた鹿児島県宮之城町では町のいたる所に「ウォンテット」(指名手配)なるポスターが沢山貼ってあったこともありました。でもこうして人を一人でも多く集めようと頑張る主催者の心意気は見上げたもんだと思いました。看板を書かれたどなたかに敬意を表します。教育長さん、この方の給料を少しでいいから上げて下さい。それも駄目なら一杯ポケットマネーで飲ませてあげてください。

 この地でも、先日鳥取県大山町の町長さんとのお茶の話しをしました。お茶を出してもらった女性の気配りでその町の印象は決まるといっても決して過言ではありません。お茶の町を標榜するこの町も残念ながらいいお茶は出ませんでしたがお茶を出された女性は気配りの出来る人とお見受けしました。案の定私の直感は当たり私の元へ早速メールを送ってくれました。

 さあ、小型のマイクロバスに乗って町内見学です。地域の人とともに池川町の安居渓谷を目指しました。途中小説家宮尾登美子さんが若い頃赴任していたという小学校が川の向こうにありました。同行した地域の人から当時の様子を雑談的に聞きながら奥まった渓谷美を誇る公園に着きました。案内人の総合支所長さんとともに車を降りて川沿いに歩き飛龍の滝まで歩きました。川の水は何処までも清らかで岩肌を縫うように流れる清水はマイナスイオンの塊を全身に受けるような心地よさでした。冬の季節なので山は殺風景でしたが、その分山水画の世界は広がり、新緑と紅葉の季節を連想しながら進みました。山の吊橋、小さな小さな沈下橋、石の上を歩く感触は生きていることの確かさを伝えてくれました。



 

 突如として視界の中に彫刻が見えてきました。自然の反対を不自然と言うのでしょうが、私には文字通り不自然に見えました。



多分自然を求めてやって来る人にとってこの彫刻は私と同じく不自然に見えるのではないでしょうか。一瞬何処かの宗教団体を思い出しました。地元にとっては名のある彫刻家かもしれませんが、もっと別な場所に置くべきではないでしょうか。こんな立派な彫刻だから毎日見てもらえる役場周辺に置くことが望ましいと感じたものですから、失言承知で書きました。もしこの地に置くのなら、しっかりとした物語を作り、「乙女の像」に相応しい見方を考えなければなりません。十和田湖のほとりに高村光太郎の乙女の像があるのを思い出しました。見せ方を工夫しているので違和感なく自然に溶け込んでいました。要は見せ方なのです。世の中にはミスマッチが沢山あります。良かれと思って置いたゴミ箱も公園の風景を台無しにしたりすることだってあるのです。美的感覚のない景観はかえって自然破壊につながります。山の上から隣町の風車を遠望しました。風車はクリーンエネルギーですからこれからの時代には必要でしょうが、無秩序とも思える風車の乱立は、原風景を台無しにしてしまうのです。結局は「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」のですから、気が付いたら何とかすべきでしょう。プラスもまちづくりマイナスもまちづくりなのです。公園の一角に子どもの遊具を整備していました。これもミスマッチかも知れません。

 それにしても飛龍の滝は素晴らしいの一言です。滝の落差も滝口の大きさも、歩いて行くがゆえに感動物でした。探検家が滝を登ったそうですが、私もインストラクターの案内であの滝を登ってみたいと思いました。

 結局水は源流に行き着きます。水を考えるのは木の存在や四季の巡りを考えなければなりません。都会の人が憧れる水がこれほど自然にあることを田舎者は当然あるものと考えがちです。水を使えば面白い、そう直感しました。

  「この水が 海に流れる 不思議さよ 何処を巡って 俺が海まで」

  「看板の 一つに工夫 凝らしたる これぞ手づくり 今日はいい会」

  「こぶし咲く 山里長閑 峠道 地蔵腹巻 供えし団子」

  「いいことと 思ってやった ことなのに なるほどこれは ロダン彫刻」



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shin-1さんの日記

○高知県仁淀川町ルポ①・橋物語

 高知県は太平洋に面して足摺岬と室戸岬がまるで両手を広げたように位置しているため海の県だと思われがちですが、愛媛県と徳島県に接する県境辺りでは山が深く、山また山、谷また谷の感じを強く持ちます。昨日仁淀川町の依頼で地域活性化講演会に出かけました。伊予市から砥部町を経由して国道33号を久万高原町から行く最短距離のルートを走りましたが、旧柳谷村を越えればもう仁淀川町なのです。旧吾川村に入ると山や谷を縫うように仁淀川に沿って走るのですが、川の途中にはダムや発電施設が幾つもあって、湖の側を通るような錯覚すら覚えるほど仁淀川町は山の町であると同時に湖の町でもあるのです。吾川に入るとまずカラフルないくつもの橋が目に飛び込んできます。「あの橋の向こうにはないがあるのだろう」と考えるだけでワクワクしますし、いつかはあの橋を渡って訪ねてみたい頭の中はもうメルヘンタッチです。私の今回の仁淀川町ルポの1ページはこの橋物語から始めることにします。

 

最初に目に飛び込んできたのは赤い橋でした。橋の種類は後ほど仁淀川町の担当者に聞くとして話をすす進めますが、さすが川の町だけあって橋があるわあるわで、橋を見るツアーでもしたら凄い観光になると直感しました。そのためには橋の由来と建造年月日、それにまつわる古い話や古い写真、それに一年中で一番美しいとされる季節や撮影スポットを調査研究して、「仁淀川町橋物語」という一冊の本を刊行すれば観光に役立ちます。私独特の駄洒落で「刊行・観光」です。さらにこの刊行本を利用して橋巡りをするといいのではないかと思いました。私は去年の6月から12月まで四万十市旧西土佐村の集落講演会に20回も日帰りで出かけました。往復250キロ、合計5000キロの旅をしたのですが、最初に訪れた玖木という地区でこの話をしたら、早速自分の集落を見て回ったそうです、。この集落には橋が20を超えてありました。勿論小さな沈下橋もありました。結局春と秋の2回小さなことから始めようと「玖木橋巡り」という小さなイベントをやりました。のうかのおじちゃんやおばちゃんが餅をついたり藁草履を作ったり、コンニャク作りにも挑戦してそれは面白いベントになりました。橋はあるだけなら橋でです。橋を使うのは一休さんの知恵でしょう。


(普通橋は水平にかかっていますが、この橋は愛媛県側から見ると坂道のように傾斜があり面白い話題のようです)

 そんな目で見ると仁淀川町の入口から出口まで立派な橋がやたらと目に付きますし、橋を取り込んだ周囲の景観はほらこ通り素晴らしい一枚の絵になる風景なのです。この日は戻り寒波の影響で風が強くて立っておれないほどの強風でしたが、そのことが一層湖を美しく見せて茶畑を近影にした景色はまるで去年訪れたカナダのロッキーのようでした。

(ダム湖では無表情なコンクリートの塊さえ長年の自然の営みによって見事な風景を作りあげているのです)
 この日は9時半に集合して午前と午後の5時間余り、合併した旧池川町、旧仁淀村、旧吾川村の観光スポットを見る予定だったのですが、私は少し速く家を出て、集合地の仁淀川中央公民館へ行く道すがら旧吾川村と旧仁淀村を自分だけで少し歩いてみました。まず目に付いたのは国道の下にある高校でした。多分少子化や過疎化の進むこの地での学校存続は難しいと思われるそのままの風情で、人影もなくひっそりと静まりかえっていました。聞くところによれば定員割れ、数年後廃校予定だそうですが、跡地利用も含めて遅過ぎる行政の対応が中山間地の苦悩を物語っているようでした。

 国道33号線の看板に旧仁淀村とあったので、懐かしさに誘われるまま右折しました。



しばらくすると一本の桜の木が目に留まりました。この山深い地には一足早く春がやって来ていて、大島桜のような淡い白色の桜が咲いていました。時折通る車は多分この地に住む人だと思うのですが、朝の通気時間帯ゆえか、それともそんな余裕がないのか桜を愛でるでもなくスピードを上げて通り過ぎてゆきました。猫に小判かもしれません。

 

 この村にはひょうたん桜という銘樹があります。できれば「桜物語」も考えられるストーリー、全山を埋め尽くす界隈の桜は是非散策したいものです。今回は残念ながらひょうたん桜に面会することはありませんでした。旧仁淀村には2~3度仕事で来ています。その時は村役場の案内で訪ねましたが、その時は気付かなかった二つの沈下橋を見つけました。高校のいり口辺りでしょうか、町営通学バスが高校生を降ろしていました。側には幾つもの橋が架かって沈下橋はまるで役目を終えたようにひっそりとした佇まいを見せていました。かつては村民の生活を支える大きな役割を担っていたであろうにと思うと、栄枯盛衰の時の流れを感じ悲しくなりました。

(この橋はどこか風情があります。残しておきたいスポットです)


  「この町に 幾つ橋ある 指を折り 数えてみたが 数え切れずに」

  「仁淀川 川は庭石 展示場 一つ欲しいが 持って帰れず」

  「四万十が 母なる川なら 仁淀川 父なる川と 呼びたいほどに」

  「四万十を 最後の清流 呼ぶのなら 仁淀最初の 清流呼びたい」

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shin-1さんの日記

○400年の進化論

 昨日は吾川村・池川町・仁淀村が合併して誕生した仁淀川町にお邪魔しました。町内視察を昼食を挟んで5時間ばかりやった後講演会を1時間半、30分移動して旧仁淀村の旅館で懇親会を持ちました。役場や教育委員会に勤める若い職員も飛び入り参加してそれは賑やかな交流会となりました。高知の人は「飲み倒れ」といわれるように、酒が入るとにかく夜が元気です。酒の飲めない私でさえウーロン茶でよったような錯覚になり、3時間近くも飲み会に付き合いました。その席上10人ほどの人それぞれに興味深い話を聞きましたが、教育長さんの話はとても興味のある内容で、仁淀川町のルポよりも先にその話を紹介したいと思います。この教育長はパソコンを学校で習っていない昭和29年生まれなのですが何故かデジタル通で、特に日本ではここだけしかない土星や太陽の観測所を廃校になった一室を使ってやっているのです。それはNASAが注目したりするほど専門的な分野で、町内視察の折にお邪魔しましたが、金をかけずにパソコンなどを使って観察を続けているのです。どうもこの学校のある位置が東西に方向にあることや、すり鉢の底のようで要らぬ電波が入らないことなどの条件を満たしているそうで、先日も太陽からなのデジタル波が異常な動きをしたのをキャッチして地元新聞で話題になったというのです。

 彼は俳優の安宅伸?を彷彿させる男前な風貌をしたダンディ男性なのですが、この教育長から「ヘーえ」というような驚くような話を聞きました。彼の家は高知の人がその地域を空と呼ぶような山のてっぺんにあるため、小学校3年生まで電気がなくランプ生活だったそうです。昭和19年生まれの私の家も今も変わらぬ貧乏さんでしたし、未だにクーラーもない(ちょっと自慢しますが一昨年一部屋だけつけていますが、クーラー嫌いな私は使ったことが殆どありません)生活をしていますが、生まれた時既に電気だけはついていたようです。

 彼は太陽が昇ると活動を開始し太陽が沈むと寝るといった自然の摂理に合った少年時代を過ごしたようですが、電気がないためお風呂の焚き口に座り燃える薪の火灯りで本を読んだそうで、二宮金次郎や蛍の光窓の雪の歌詞を思い出すような話でした。

小学校3年生の時電気がついたそうですが、電気の明るさやテレビの存在に目を見張った少年の驚いた姿を垣間見るようでした。以後都会に出ましたが家族の懇願にあって帰郷し遍歴を経て今の職にありますが、私の62年の生涯における進化と比較しても、いわば小学3年生をゼロにして始まり、土星や太陽のデジタル観測が出来る現在までのハイスピードな彼の進化は、江戸時代の人に例えると400年もの年代を一気に40年余りで駆け上がった計算になるのです。彼は自他共に認める町内きってのデジタル通で、進化しているはずの役場のどの職員よりも遥かに進んだデジタル技術を持っているのです。

 多分彼の進化曲線の伸びで推計すると私や役場の人の進化曲線の伸びで推計するどの人よりも進化のスピードが速いのですから、進化500年なんてことも夢ではないかもしれないと想像してしまいました。

 数年前まで田舎は都会に比べ時代遅れだと誰もが思っていました。東京で起こった出来事は電波や活字となって私たちの所へ届くのですが、時には長い時間をかけないと山里や山間僻地には届きませんでした。今の時代も景気回復などある面では都会との格差があって都会に比べ遅れた感じもいなめませんが、それでもデジタルの普及が情報格差をなくしてくれ、その気になれば彼のように田舎にありながら一歩進んだ生き方が出来る時代になったことは喜ばしい限りだし、その気になれば田舎にいても都会を相手に進んだ仕事が出来るのです。

 田舎は彼のような進んだ人もいれば、未だに車に乗れない戦後と少しも変わらない歩いたり自転車に乗ったりしかできないスピードや、パソコンさえも縁遠い社会に暮らしている人がいたりと、格差社会は益々広がるばかりです。多分10年後には少しはこの格差は解消しているのでしょうが、都会と田舎、田舎の中央と遠隔地の暮しが平均化された現代社会にあっても、自らの高い目標とそれを手に入れる努力をしない人の間には益々格差は広まってゆくものと思われます。

 或る講演先で「ブログ」のことを話したら、チンプンカンプンの人が殆どでした。2年前の自分を見ているようで、笑えない笑い話となりました。

  「ブログって 何と尋ねる ある人に 苦笑しながら かじり知識を」

  「へえー凄い こんな田舎に NASAがある 驚き見張る 宇宙の電波」

  「四百年 一気に進化 この男 只者でなし 学ぶことあり」

  「人は皆 得意個性が あるものだ 武器はあるのに 戦もせずに」

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shin-1さんの日記

○男の厄年

日本人の一生にどれ程の厄年があるのか分らぬまま過ごしている私にとって、これまでの人生の中で意識した男の厄年は42歳と60歳の2回でした。厄年には前厄・本厄・後厄というのがあるそうですから、二つの厄年だけでも都合6回も厄年を経験した計算になります。世の中にはこうした厄年を邪気として受け止め、神仏に救いを求めようとしている人が大勢いいて、とりわけ同級生や妻はその都度私の厄年を気にしてことを起してくれました。私には地元の小中学校を卒業した同級生が90人ほどいます。団塊の世代の少し前の昭和19年に生まれているため人数的には決して多い方ではない年代なのですが、それでもあんな小さな下灘村に生まれても2クラスあって、今の少子化が信じられないくらい近所には沢山の同級生がいました。厄年が近づくと必ず御幣担ぎの同級生がいて、厄年の同級会をしないかと誘ってくるのです。多分それは先輩たちがしてきたことを口伝えに聞いてきたから、自分たちのクラスも当然すべきだと思っているからではないかと思うのです。その言いだしっぺに限って同窓会の発起人会には名を連ねてはいるものの、決して自分から神輿を上げず、私のような役場に勤めている人間に白羽の矢を立てて、名簿の作成や案内状の作成、更には当日の準備や運営などを頼むのです。断る理由もない私はその都度忙しい仕事の合間を縫ってそれらをこなし、結局は会費以上の足が出ると自分で残金処理をしてまで同級会の面倒を見てきたのです。

 42歳はそんなこんなでもう随分昔のことになるので余り覚えていませんが、菊間のお寺さんに厄落としのお参りに出かけたことや、厄落としに「町に吹く風」という自著本を出版したことを覚えています。でもその時初めて自分が42歳になった自覚をしましたし、次なる60歳の還暦に向けてとにかく病気をせず頑張ろうと思ったものでした。

 あれから18年が過ぎ数え年ですから3年前、まあ何とか無事に還暦まで生きて来れたのです。そして3年前同級会を盛大にやって、自らの厄年を祝いました。同級生の中には既にこの世にはいないものまでいたり、自分の連れ添いを亡くしたり病気になって看病の日々を過ごしていたりと人生それぞれの近況を風の便りに聞いてきました。若いと思っていた私も今年の10月には63歳を迎える熟年期となって、健康への誓いを新たにしている所です。

 昨日は西予市皆田という地区で行われる厄年講演会に呼ばれました。この地区では人生のそれぞれの厄年を祝う風習があるようで、集会所の会場には紅白の幕が張られ、講演会終了後は手料理で懇親を深めるという手の込んだ催しでした。集会を主宰した市役所職員の松本作幸さんとは公民館職員時代の旧知の間柄であり、2ヶ月前に電話がかかり引き受けることにしたのです。この日は前日からの鳥取県大山町の生涯学習推進大会に招かれていて日程的に無理だったのですが、大山町の集会を日帰りでこなしたため実現しました。

 皆田地区は真面目な田舎なのでしょうか、会場は参加者でいっぱいでびっくりしました。昨日は春2番が予想されるような南の風が吹く早春とは思えぬポカポカ陽気で会場内は熱いくらいの熱気に包まれていました。厄年講演会なのに「地域の活性化」がテーマなのもまた田舎らしいと感心しました。

 昨日遅く帰った私を気遣って妻と孫が同伴してのちょっとした遠足気分の集会は、私自身の人生をちょっと立ち止まって考えるいい機会になったようです。

  「旧友に 頼まれ厄年 集会に 楽しい喋り 花を沿えつつ」

  「久しぶり 見覚えある顔 次々と 控えの部屋に 笑い声あり」

  「あの人の 近況卒中 倒れたと 聞いて悲しや 厄年集会」

  「ああ俺も そんな年齢 迎えたか 人の歳聞き 自分の歳知る」


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shin-1さんの日記

○鳥取を旅する(大山町)

 昨年の9月頃から鳥取県の市町村を軒並み訪ねる旅をしています。昨日は3町が合併して出来た新生大山町の生涯学習推進大会に招かれ、すっかり見慣れた鳥取への道をただひたすら自家用車で走り続け、5時間余りで会場となる旧中山町へ午前11時に到着しました。旧中山町へは今回が3度目だそうですが、大山の裾野に広がる肥沃な台地は梨やブロッコリーなど農産物が豊富だそうで、職員さんからいただいた名刺にはちゃんと観光地と特産品が細かい文字で紹介されていました。勿論町長さんの名刺も同じようなデザインで、控え室での話はもっぱらその話に花が咲きました。

 どの町へ行っても最近は日本茶かコーヒーが出ます。案の定大山町でも女性職員さんが美味しいお茶を入れてくれたのですが、名刺に刷り込んだ特産品の欄に紅茶と書いてあるのを目ざとく見つけました。緑茶と紅茶は減量が一緒なのですが製法が違っていて紅茶は発酵させて作るのですが、紅茶といえばリプトンのティーパックというイメージが強過ぎて、紅茶を日本茶のように入れるのは馴染みが薄いようです。談義の過程で町長さんが「大山町自慢の紅茶は置いてないか」確かめたところ買い置きがないとの返事でした。町長さんは開会のあいさつを終えたら直ぐに遠出の出張だそうで、係りの人にわざわざポケットマネーを渡し、紅茶を買ってくるよう指示しました。そして「私はあいさつが終われば失礼しますが大山町の紅茶をお土産に差し上げますので飲んでみてください」と言って出て行かれました。余りにも早い決断と行動にあっけにとられた私は結局その言葉に甘んじて紅茶を土産にいただいたのでした。

 ふと昔同じような出来事があったのを思い出しました。今は久万高原町に合併して自治体はなくなった美川村へ講演に行った時のことです。美川村の入り口には「スキーとお茶の町」という立派な看板が目につきました。役場に入って応接間に通されましたが、出されたお茶は残念ながらいいお茶ではありませんでした。対応に出た村長さんが「この村はお茶が自慢です」と言うのです。私は「村長さん、そんなに自慢のお茶は余程美味しいのでしょうね。これは提案なのですが、自慢のお茶だと言うのであれば村役場に来られた人に、少しお金が要るかも知れませんが美味しいお茶を出されて宣伝をしたらどうでしょう」と話しました。村長さんはいたく心を動かされてそれ以来お茶の入れ方を職員に勉強させ、お茶の薀蓄を語って販売量が随分増えたという話を後にお聞きしたのです。結果的には昨日の町長さんと同じように高級なお茶を手土産にいただき恐縮(妻は失礼なしたたかさだといいますが)してしまいました。

 日本全国にはお茶が名産の市町村は多いようですが、何故かそんな市町村へ行っても美味しいお茶は出てこないばかりか、何処の国のものか分らないコーヒーを出して平然としている役所の職員が多いようです。特に日本茶はその入れ方によって味がぜんぜん違うのです。お茶を出せばそれで接遇は終りという間違った考えを捨てて、お茶の町ならお茶のソムリエを養成するくらいの気概で望むと話題になります。できれば「大山町は来客にコーヒーを止めて、地元特産のいいお茶でもてなす工夫した」という話題をニュースで振りまけばあっという間に有名になるはずです。これは面白いアイディアだと思うのですが如何でしょう。

 合併して誕生した大山町はバランスのとれたいい町になりました。観光の旧大山町、水産の旧名和町、農業の旧中山町が合併したのですから、伯耆町のお株を奪う鬼に金棒かもしれません。大山の裾野に広がる新しい町の第二ラウンドのゴングが間もなく鳴りはじめます。

 そんな思いを講演では話し、雪を被った伯耆大山が見たくて農面道路を走りながら国道に出て、峠を越えた雪のないスキー場を横目に一路しまなみ海道を走り、無事四国へ帰ってきました。

  「コーヒーを 飲めない私 紅茶好き 茶の町名刺 話題にしつつ」 
  「どうだろう 役場くらいは コーヒー止め 農家支援の お茶を飲んだら」

  「お茶濁す つもりで言った 茶の話 滅茶苦茶受けて お茶を土産に」

  「町長さん さすが直ぐやる 職員も 脳内革命 起してください」


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shin-1さんの日記

○雨過天声雲破処

 五年前に出版した私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の前書きに、雨過天声雲破処」(うかてんせいくもやぶれるところと読みます)という言葉を書きました。雨上がりの西の空に何ともいえないような綺麗な光景を見ることがありますが、それが北宋時代の皇帝が好んだ焼き物の色だと教えていただいたのは恩師からの手紙でした。昨日の6時ごろ孫と一緒にシーサイド公園へ夕日を見に行きました。晴れたり曇ったり雨が降ったりとすっきりしない一日だったのですが、夕方晴れだしたので単車に孫を乗せてひとっ走りしました。空一面は黒い雲に覆われているのに西の空が空いてきて、夕日が双海町の海や山や町を真赤に染めて沈もうとしていました。孫は「おじいちゃんあそこで見よう」とさっさと恋人岬の石のベンチを陣取って夕日を眺めていました。私は持ち合わせたデジカメで忙しく400mの砂浜を走り回りながら盛んにシャッターを切るものですから、孫にとっては何とも不満顔で、大きな声で「おじいちゃーん。おじいちゃーん」と呼ぶのですが、私にとっては千載一遇のチャンスとばかりによいアングルを探し回りました。シーサイド公園の景色はもうすっかり春で、私が秘策中の秘策、アイディア中のアイディアを駆使して造った恋人岬のモニュメントに夕日が沈む光景がやった撮れるような季節になりました。最高のシャッターチャンス日は3月22日春分の日なのですが、少し方向を我慢すればどうにか天体ショーの一部始終が見えるのです。

(夕闇迫るシーサイド公園の砂浜や海や突堤)
(夕日の観覧席に座って夕日を眺める孫朋樹です。町中がセピア色に染まりました)

(恋人岬のモニュメント辺りに落ちる夕日)

(夕日がモニュメントの穴にスッポリ入った風景)

(少し位置を変えてモニュメントの右端に造ったくぼみに置いた夕日)

(孫をモデルに砂浜の撮影会です。ちょっと絵になる光景です)

 この撮影が終わって直ぐに200メートル下手の突堤へ行き、違ったアングルで海に沈む夕日を撮りました。この日は最後まで水平線に沈んで、ダルマの夕日になりましたが、残念かな孫が突堤で転んで泣き出してダルマの夕日は撮影が出来ませんでした。それでも美しい天体ショーで、泣きべその孫ですら泣くのを忘れて最後の一瞬まで見ることが出来ました。

(残念ながらアップにすると手ブレが出てこんな写真しか撮れませんでした)

(水平線にかかった夕日)

(ダルマになる前の夕日)

(半円形の夕日。空も海もすっかり茜色に変わっていました)

 思いがけない早春の夕日に心を洗われ孫と再び単車に乗って帰りました。孫にとっても忘れられないのか、家に帰ると「あのねおばあちゃん。今日おじいちゃんとこーんな大きな夕日が産みに沈んだんよ。綺麗かったよ」と誇らしげに話すのです。海の近くに住んでいながら意外と見る機会の少ない夕日を見た思い出は潜在意識として、孫の心の中に残像として残るのでしょうか。4歳の孫にそんな期待は野暮かもしれません。

  「鼻歌に 夕焼け小焼け 歌いつつ 家路を急ぐ 孫と二人で」

  「長閑なり 平和だなあと 思いつつ 夕日眺めて 心癒され」

  「海と空 町まで茜 色してる 自然の力 何とて及ばず」

  「今頃は 地球の裏で 朝迎え おはようさんと 日の出拝んで」

 

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shin-1さんの日記

○自分の名前の記憶

 自分の名前は私が生まれた時、私の知らぬまま両親が何らかの願いを込めて付けてくれたものです。物心ついてからこれまでどれ程の数の自分の名前を書いてきたことでしょう。答案用紙の名前、持ち物の名前、ネームプレートの名前など数え上げれば切りがありませんが、役所や友人から届く封書やハガキ、メールにも自分以外の人が沢山私の名前を書いてくれるのです。

 私は「若松」という苗字も、「進一」という名前も自分では当然のことながら気に入っています。両親に感謝しつつも自分の子どもの名前の一騒動を思い浮かべるのです。

 私の子どもは私の名前の一字を取って頭文字にして一子(長女)・一心(長男)・一生(次男)・一公(三男)とそれぞれ名前をつけているのですが、特に長女はこの古臭い名前に随分抵抗しました。今流行の愛や舞など、漫画に出てくる名前に憧れていた少女時代には当然のことかも知れません。結婚して子どもが出来て、その子どもに名前を付ける頃になるとさすがにあきらめたのか、この名前も結構味があるなんて話してくれるようになりました。

 自分の名前で一番目に付くのは玄関に掲げている表札です。この表札は30年前家を新築した時、木調の杉の木に書家に頼んで書いてもらったものですが、30年の風雪に耐えたことを物語るように今は判読さえ難しい程墨字が消えかかっています。自分の体力と比例するなと先日しみじみと見つめました。昨日は自治会へ月一回の広報配りがあるので27人の組長さん宅に伺いましたが、特に町営団地などは仮住まいのこともあるのか、はたまた迷惑な訪問防止なのか玄関に名前すら表示しない家が増えてきました。表札も個人情報といえばそれまでなのですが、迷惑な訪問者は表札がどうであれポストの中にどんどんダイレクトメールやチラシを投げ込んで去って行きますが、私のような幼児のある訪問者にとっては表札もなく、ましてやポストは一括して一階の階段付近に部屋番号だけなので中々訪ね難いものです。

 私の名前には自分では殿も様もつけませんが、人様は殿や様をつけて敬称で書いてくれます。私の名前を最後に書いてくれるのはやはり葬式の時でしょうか。母親が死んだ時疎素式を終え、葬祭場へ霊柩車で運びお別れの焼香をして焼却される焼却炉の入口に、母親の名札が空しくかかっている姿が印象的に私の心の中に焼きついて、今も忘れることはできないのです。「ああ、私も最後は葬祭場の人は私の名札を書いてあそこに吊り下げるのかと思うと、何だか悲しくなります。でもそれが人間の運命なのです。

 何気なく書いたり、何気なく使っている自分の名前も、こうして思い返してみると、様々な場面を思い起こします。自分の歴史のひとコマ、ひとコマが自分の名前で成り立っているのです。入学式の日に自分の名前を呼ばれた記憶、卒業証書に書かれた自分の名前の記憶、新築した家に誇らしげに妻と二人で表札を掲げた記憶、全てが自分の記憶として思い浮かびます。

 しかしこの表札を見て最近気がついたことがあります。この家では私が世帯主ですから当然私の表札でいいのですが、はて当然でしょうか。この家は私と妻の共同作業で造りました。だのに何故に私の名前だけなのでしょう。これまで何の疑いも持たなかったこの辺にも、日本の男尊女卑が垣間見えます。今度新しく表札を作るときには妻の名前も入れたいものです。

  「表札の 名前気になる 男尊の 長い歴史が 女卑たらしめて」

  「名前付け 役場に届けて 六十年 若松進一 使い古して」

  「何気なく 使う名前の 当たり前 最後は焼き場 表札掛りて」

  「篆刻で 彫し名前の 印を押す 印影見つつ よくぞここまで」


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○或る女

 「或る女」なんてタイトルをつけると、何か有島武郎の小説のような気もしますが、実はこの女性に10年来久しぶりにお会いをしました。ことの発端はもう30年以上も前になる昭和51年の出来事でした。私は総理府派遣第10回の青年お船の班長としてアメリカ・メキシコ・ハワイに向けて航海するにっぽん丸の船上にいました。昭和の咸臨丸と銘打ったこの船には350人もの選ばれた日本人青年に混じってアメリカ人青年やメキシコ人青年も乗船し、母国に帰る船旅をしながら国際交流しようしていたのです。

 それらの青年のまとめ役として私と同様30人の班長が全国の応募者から選ばれ乗船していましたが、その中の一人が今回のヒロイン「或る女」なのです。彼女は偶然にも私と同郷の愛媛県(八幡浜)出身でVYS活動の指導者でした。班長に選ばれるだけあって希に見る才媛で知的な彼女の仕事ぶりは目を見張るものがありました。当時班長の資格は26歳から30歳まで、私の年齢が30歳でしたから彼女も私より少し若いそのくらいの年齢だったと記憶していますが当時は独身でした。帰国後も国際交流の活動で行動をともにした時期が何年かありましたが、彼女は結婚して横浜に移り住み、音信も途絶えがちな年賀状程度のやりとりで、あっという間に30年の歳月が流れたのです。

 3日前留守中に電話がかかり、応対に出た妻の話だと「実家に帰省中なので久しぶりに会いたい」と、彼女の携帯電話番号がメモされていました。その日は午前・午後・夜の集会が重なって遅い帰宅となりましたが、失礼とは思いつつ10時過ぎに電話をかけました。私「こちらに帰っているんだって、その後元気ですか」。彼女「はい元気です。所用で母の元へかえってます。何日かいるので久しぶりにお会いしませんか」。私「二日後に八幡浜のライオンズクラブから頼まれて私の夢作文コンテストの審査会があり、審査員として出かけますので、午前中会いましょう」。彼女「じゃあ市役所前で午前11時に待ってます。お食事でもしながら懐かしいお話でもしましょう」。まあこんな具合で海岸国道378号線を西下し八幡浜に向かいました。この日は時折雨のパラつくあいにくの天気でしたが、彼女は私が到着した10分前には既に待ち合わせの場所に立ち待っていました。この30年間の最近はまったく会っていませんでしたが、笑顔で手を振る姿を見て直ぐに彼女と分りました。

 彼女の遠縁に当たるという粋な和食の店へ行き、小さな部屋で二人だけの食事をしながら過ぎ越し人生を2時間ほど積もる話しを話し込みました。彼女の話だと何でも30人の班長で組織している班長会を2年後に愛媛でやりたいという仲間からの伝言を伝えに来たようでした。私は班長会への出席をまだ1回しかしていません。多分そのペナルティのつもりでの大役だと自認しつつ引き受ける返事をしたのです。

 それにしても30年は長いです。同じ船に乗り寝食をともにした同志ともいえる彼女も既に3人の子持ち、偶然にも石油会社に務めていた旦那さんと数年前講演依頼された石油プラントでお会いしましたが、その旦那さんも既にリタイアされたとか、彼女の姿と私の姿をダブらせながら、タイムトンネルを経た二人の姿を、食事を持ってきた店員さんにお願いしツーショットの写真を撮っていただきました。彼女少しふっくら、私少しげっそりの姿に思わず「うふっ」でした。

? しかし三十年経てば言葉使いも変われば変わるものです。どこはばかることなく八幡浜弁でしゃべていた彼女が、「だってサー」なんて関東弁を堂々と語るのです。いやあ驚きました。彼女ら夫婦は八幡浜の出身です。いずれ田舎にでもと思っているようですが、若い頃田舎に住んで歳をとって都会に住むのなら分るけど、若い頃都会に住んで歳をとったら田舎なんて考えはよした方がよいかもと忠告をしました。今や田舎は過疎という名の基に交通機関も跡切れがちで、車に乗れなくなればそれこそ足をもがれたタコのようで、不便極まりないのです。夫婦が元気で長生きという保障はどこにもありませんし、親類が広くても、金がなくなればアウトです。田舎はそんな厳しい現実があることもじっくり考えて老後をお過ごしください。

  「三十年 時の流れは 早いもの お互い違う 世界を生きて」

  「同じ船 乗りてアメリカ 目指したる 友の頭に 白髪見つけり」

  「ふっくらと げっそり顔を 見合わせて 何を思うか ウフフにウフフ」

  「手土産に 貰ったみかん 食べながら 妻に聞かせる 青春の夢」


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