shin-1さんの日記

○高知県仁淀川町ルポ②・水物語

 かつて33号線を行き交う旅人は幾つもの峠を越えたものです。難所といわれる峠や辻々にはその痕跡のように旅の途中で行き倒れになったであろう人々の霊を慰めるお地蔵さんや、次の宿場を示す「○○まであと○○里」と書かれた道標が往時を偲ばせるようにひっそりとありました。高速道路が川之江ジャンクションを越えて南国方面へ開通してから33号線は国道改修が進まないことや風水害で通行止めになることから、スピード時代から見放され通行量は激減しました。当然旧吾川村の国道沿線にあったドライブインは軒並み潰れ、あっても開店休業状態のようです。橋が出来、ダムが出来てここならと思われる眺望のよいスポットにドライブインを構えれば観光客が立ち寄って儲かったのは過去の話で、今はそんなスローな旅をする人は殆どいなくなりました。「せまい日本そんなに急いで何処へ行く」と言ってやりたいような心境ですが、今度の仁淀川町への旅でしみじみそのことを思い知らされました。私が訪ねた早朝と帰宅した夜は車の数がここまで減少するのかと思うほど車に会わなかったのです。特に大型自動車は見る影も殆どなく、その結果私は仁淀川町から驚くなかれ僅か1時間半で帰宅してしまったのです。むしろ高速道路を走らない方が早くて安全で安いという珍現象なのです。世の中は高速道路や交通機関の普及によって近くて遠い、遠くて近いじだいになっているのです。

 かつては高知行き、松山行きの定期バスや観光客がトイレ休憩地として使っていた場所もかつての賑わいはありませんでした。その底流所の上に一際目に付くこぶしの樹を見つけて休憩しました。この花も前述の桜と同じように人知れずひっそりと咲いていたのが印象的でした。

 講演なのに出かけて時々ギョッとすることがあります。会場の入口に手づくりの看板が立っていました。先日関アジ関サバで有名な今は大分市と合併した旧佐賀関町へお邪魔しましたが、町のいた所に私の名前を書いた看板がやたらと置いてありました。聞くところによるとこれは私の知人で八幡浜出身の料理屋のご主人が書いたそうなのですが、その上手いこと惚れ惚れするような看板でした。その看板には「まちづくりの鉄人来る」なんてこれこそ看板倒れのような文字がズラリ並んでいました。訪れた鹿児島県宮之城町では町のいたる所に「ウォンテット」(指名手配)なるポスターが沢山貼ってあったこともありました。でもこうして人を一人でも多く集めようと頑張る主催者の心意気は見上げたもんだと思いました。看板を書かれたどなたかに敬意を表します。教育長さん、この方の給料を少しでいいから上げて下さい。それも駄目なら一杯ポケットマネーで飲ませてあげてください。

 この地でも、先日鳥取県大山町の町長さんとのお茶の話しをしました。お茶を出してもらった女性の気配りでその町の印象は決まるといっても決して過言ではありません。お茶の町を標榜するこの町も残念ながらいいお茶は出ませんでしたがお茶を出された女性は気配りの出来る人とお見受けしました。案の定私の直感は当たり私の元へ早速メールを送ってくれました。

 さあ、小型のマイクロバスに乗って町内見学です。地域の人とともに池川町の安居渓谷を目指しました。途中小説家宮尾登美子さんが若い頃赴任していたという小学校が川の向こうにありました。同行した地域の人から当時の様子を雑談的に聞きながら奥まった渓谷美を誇る公園に着きました。案内人の総合支所長さんとともに車を降りて川沿いに歩き飛龍の滝まで歩きました。川の水は何処までも清らかで岩肌を縫うように流れる清水はマイナスイオンの塊を全身に受けるような心地よさでした。冬の季節なので山は殺風景でしたが、その分山水画の世界は広がり、新緑と紅葉の季節を連想しながら進みました。山の吊橋、小さな小さな沈下橋、石の上を歩く感触は生きていることの確かさを伝えてくれました。



 

 突如として視界の中に彫刻が見えてきました。自然の反対を不自然と言うのでしょうが、私には文字通り不自然に見えました。



多分自然を求めてやって来る人にとってこの彫刻は私と同じく不自然に見えるのではないでしょうか。一瞬何処かの宗教団体を思い出しました。地元にとっては名のある彫刻家かもしれませんが、もっと別な場所に置くべきではないでしょうか。こんな立派な彫刻だから毎日見てもらえる役場周辺に置くことが望ましいと感じたものですから、失言承知で書きました。もしこの地に置くのなら、しっかりとした物語を作り、「乙女の像」に相応しい見方を考えなければなりません。十和田湖のほとりに高村光太郎の乙女の像があるのを思い出しました。見せ方を工夫しているので違和感なく自然に溶け込んでいました。要は見せ方なのです。世の中にはミスマッチが沢山あります。良かれと思って置いたゴミ箱も公園の風景を台無しにしたりすることだってあるのです。美的感覚のない景観はかえって自然破壊につながります。山の上から隣町の風車を遠望しました。風車はクリーンエネルギーですからこれからの時代には必要でしょうが、無秩序とも思える風車の乱立は、原風景を台無しにしてしまうのです。結局は「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」のですから、気が付いたら何とかすべきでしょう。プラスもまちづくりマイナスもまちづくりなのです。公園の一角に子どもの遊具を整備していました。これもミスマッチかも知れません。

 それにしても飛龍の滝は素晴らしいの一言です。滝の落差も滝口の大きさも、歩いて行くがゆえに感動物でした。探検家が滝を登ったそうですが、私もインストラクターの案内であの滝を登ってみたいと思いました。

 結局水は源流に行き着きます。水を考えるのは木の存在や四季の巡りを考えなければなりません。都会の人が憧れる水がこれほど自然にあることを田舎者は当然あるものと考えがちです。水を使えば面白い、そう直感しました。

  「この水が 海に流れる 不思議さよ 何処を巡って 俺が海まで」

  「看板の 一つに工夫 凝らしたる これぞ手づくり 今日はいい会」

  「こぶし咲く 山里長閑 峠道 地蔵腹巻 供えし団子」

  「いいことと 思ってやった ことなのに なるほどこれは ロダン彫刻」



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