shin-1さんの日記

○広島からのお客様

 日本全国の市町村を訪ね歩く私にとって、行きずりの街もあれば思い出に残ってその後の出会いに発展する街もあります。まちづくりは人が深く関わることから私と不特定多数の人であっても、その後の手紙やメールのやり取りで近しい関係になって行き来する人は結構多いのです。多分そのことこそがまちづくりなのだと思うのです。

 昨日広島県世羅町から升本大田公民館長さん以下8人の方が人間牧場へ見えられました。大田地区振興会連絡協議会のメンバーなのですが、この町でも合併後の住民自治の在り方を巡って様々な試行錯誤が行われ、現在の公民館が20年度から自治センターと名称を変更し、22年度からは振興会がその施設をも管理するとのことでした。公民館は教育施設ですが、自治センターは行政施設です。教育長や公民館長、さらには公民館に13年間も携わった私として、一言意見を挟むなら、こうした教育機関を行政機関に安直な方向転換する行政のやり方は如何なものかと思わざるを得ません。勿論教育行政のトップたる教育長さんも承知の政策転換でしょうが、教育行政側から言わせればとんでもない出来事だと思うのです。

 合併によって広域化した行政区域内に住む住民に行政の効果効率とまちづくりへの住民参画を促すのは何処の自治体も一緒です。財政悪化のつけをこうして教育と行政の混同でお茶を濁すようではいいまちづくりは出来ないのです。これこそ教育委員会制度が形骸化していると言われるゆえんであり、教育への不当介入だと言わざるを得ないのです。残念なことは教育の現場がそのことに気付いているのかいないのか、それとも気付いていても文句が言えないのか、寂しいことなのです。

 まあ、他所の町の出来事なので余り目くじらを立てることもないのですが、それでも大田地区振興会連絡協議会の人たちはみんな真剣で、これからの住民自治について真剣に勉強して帰りました。

 彼らが私の元へやって来たのはもう一つ理由があります。それは大田という山の中の町と双海町という海に面した町の交流を探ることです。海のない町にしてみれば海のある町はとても魅力があります。勿論その反対の海の町が山の町に憧れる事だってあるのですから当然でしょう。彼らは早春の磯の香りを嗅ぎながら閏住地区の菜の花畑や人間牧場からの海の眺めを満喫していました。世羅町は今年の高校駅伝日本一の町だし、花の観光ではかなりの知名度を持った町で、夕日の日本一美しいといいながら足元にも及ばないいい町です。でも私の町だって自治公民館活動は50年もの長い歴史を持った素晴らしい町です。お互いが行き来をしながら高めあう意味は十分にあるようです。自由人になった私がその橋渡し役をしなければならないのですが、さて受けてたる双海町の気持ちをこれから解きほぐしてゆかなければなりません。合併前の昔だと一も二もなくOKでしょうが、合併後は何かと上の意向を聞かねばならず厄介なようです。

 みんなで遅い昼飯に行きました。潮路という人間牧場の下にあるお店ですが、この店はカモメの餌付けをしており、私たち遠来のお客さんのためにテンカスをやってカモメを呼び寄せてもらいました。みんな始めて見る光景に驚いた様子でしたが、この餌付けこそまちづくりのヒントが隠されていると思い色々な話をしました。

 まああせらず、ボツボツと外堀を埋めて行こうと思案しています。世羅町に兼丸さんという面白い方がいます。彼は博学で民具の収集家で、そして家も茅葺という面白い生き方をしています。先日お手紙が来て、茅葺屋根の葺き替え写真を同封してくれました。今回も同行して私の車に乗ってマイクロを先導しましたが、いい巡り会いを感じています。私の家も民具を改造した倉庫に展示していますが、兼丸さんの収集物はその数の多さ、その広さには「目を見張りました。家の横で炭を焼いていますが、常識では考えられない鉄製の炭窯で毎日炭を焼いているのです。是非近々完成した茅葺屋根の容姿を見に行きたいと思っています。

 公民館長さんも、振興会長さんも広島弁丸出しの魅力的な方々です。更に交流を深めたいものです。

  「山人が 海人会いに やって来た 自慢の炭米 車に乗せて」

  「行政が 教育侵食 何か変 何とも思わぬ 人が可笑しい」

  「一束が 千円超える 茅を葺く 草屋懐かし 田舎消えつつ」

  「景観は 努力があって 出来るもの 無造作看板 町並み台無し」

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shin-1さんの日記

○春を食べる

 春になって野山には様々な山菜が顔を出すようになりました。折からの天候で東北では思わぬ雪が降り、暖冬で今年の営業を諦めかけていたスキー場が慌てて再オープンしたり、関ヶ原では雪のため東海道新幹線が徐行運転するなど、相変わらずの気象異変に国民は首をすぼめているようです。でも私たちのような四国に住む者にとっては寒いといっても氷点下以下に下がる訳でなく、暑いといっても沖縄ほどでない程々の気候ですから我慢しなければなりません。

 昨日人間牧場へ行ってツワブキを獲ってきました。他所の地域では馴染みの少ないツワブキですが、私たちの町はツワブキの自生地で、その気になれば幾らでも獲ることができます。最近はその味を知ってる人が沢山やって来て、処かまわず獲って帰るのです。中にはツワブキの可憐な黄色い花を楽しむために公園に植えているものや、自家山菜として栽培しているものまで勝手に獲ってゆく不届き者もいてちょっとした騒動まであるようです。

 この頃のツワブキは茶色の綿毛を被ったそれは可愛い姿をしています。親株に見守られるように生えているツワブキの子を抜き取って収穫するのですが、目ざとい人は片っ端から獲って帰るので、後追いに回ると中々収穫ができないのです。それでも何本かのツワブキを自宅に持ち帰り、新聞紙を広げて剥き始めるのですが、皮を剥く作業がまた一苦労で、ツワブキの灰汁で指先はニコチンが吹いたような汚さになります。最近はナイロンの薄い手袋が出回って手袋さえすれば指を汚さなくて済みますし、指に食酢をつけながら剥くとまるで裏技のように綺麗に灰汁が取れるようです。剥いたツワブキは水に晒して灰汁を取り軽く茹でて更に水に晒し、煮付けの魚などと一緒に煮付けるのです。ほんのり苦いその食感はまさに春の味でお酒などにも良く合う食べ物なのです。

 シーサイド公園の特産品センターには皮を剥いたツワブキが小さな袋に小分けされて200円程度で販売されており、手間暇かけずに春を味わうことが出来るし、ツクシやタラの芽も同時に買い求められます。間もなくするとワラビやゼンマイ、筍やイタドリも出て春の旬を思う存分味わうことが出来るのです。こうした山菜の数々は子どもの頃は灰汁が強くて口に合わず殆ど食べなかった嫌いな食べ物でしたが、やはり歳のせいでしょうか、山菜の味が分るようになって来ました。

 山菜と並んでわが町は海の町なので海の幸が沢山味わえます。海岸に下りて少し大きめの石をひっくり返せばニナという小さな貝が取れます。長靴と軍手の出で立ちで磯遊びをするのもこれからの楽しみです。獲ったニナは一日だけ塩水につけて砂を吐かせ、茹でにして爪楊枝で抜きながら食べるのです。ビールのつまみに最適でほんのり苦い食感もやはり春ならではの味なのです。少し深い水辺を歩けばワカメやヒジキも獲れますが、特にこの頃のワカメは柔らかく、茶色の海草が熱湯の中に入れるとまるでリトマス試験紙のように深い緑色に大変身するのです。ワカメの刺身もおつな物で、プーンと磯の香りが漂ってきます。

 昨日は魚編に春と書いて鰆と呼ぶ鰆の刺身を食べました。まるでトロのように口いっぱいにとろけます。まさに春、春、春のこの頃です。忙しい日々に変わりはありませんが、それでも2年前までの勤めていた時代とは違って私は現在自由人です。季節を楽しみ、季節を食べ、季節の中に身を置いて生きている実感をしみじみと噛みしめています。自由人っていいなあー。

  「分け入りて 綿毛被りし ツワブキを 御免なさいと 二三引き抜く」

  「そんな手も 灰汁が付いたら 大変と 手袋はめて ツワの皮剥く」

  「食卓に ツワブキワカメ 春姿 湯気の向こうに 美人の?妻が」

  「裏山の 日毎濃くなる 春の色 百合根緑葉 大きく伸びて」 

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shin-1さんの日記

○忙しい一日

 昨日は久しぶりの忙しい一日に午前中は松山市で3時間講義、午後は旧野村町で1時間半講演、夕方は氏神様である天一稲荷神社幣殿新築上棟直会、夜は上灘中学校評議員会と4つもの会をこなしました。さすがに「疲れたなあー」と感じる一日でした。夕方の飲み会と夜の集会は主体的ではなく幾分自由で気が抜けましたが、昼飯も食べず松山から野村まで2時間の移動時間を挟んで都合4時間半のお喋りは少々きつい感じもしましたが、それでも行く先々で出会いと確かな手ごたえがあって心地よい疲れのようです。

 最近朝か昼には妻と二人でNHKの「芋たこなんきん」という田辺聖子原作のホームドラマを見ますが、藤山直美演じる主人公の町子と石田あゆみが演じる秘書を見ながら、「俺にも秘書がいたらどんなに助かるだろう」と思ったりします。作家の町子ほどではありませんが、私も昨日のような忙しさだと、ついついポカをしてしまうのです。

 例によって昨日は9時からの講義だったので松山入口の渋滞事情を考えて7時30分にわが家を出ました。案の定藤原町付近で渋滞に会い、結局は約束の30分前に会場となる身体障害者センターに到着はしましたが、その折家を出て500メートルの所にある旧役場前で、上灘中学校の奥村先生が朝の交通指導をしている姿を見ました。その姿を見てとっさに忘れていた夜の評議員会を思い出したのです。早速渋滞で停まって動かぬ車から家へ電話をしました。上灘中学校の電話番号を聞くためです。先日携帯を取って警察に捕まった苦い経験があるのでそこは慎重に法に触れない程度にやりました。幸い息子が家にいて電話番号を聞きだし、早速教頭先生と今晩の集会を確認し事なきを得た次第です。息子は電話を切る時「このところの僕はお父さんの秘書みたい」と言うのです。確かにこの2年は午後から学校に通う息子が家にいる機会が多く電話番をしてくれたのです。その息子も間もなく就職するので少しばかり残念です。本当は妻に私のホローをしてもらいたいのですが、妻も孫の世話やパートの仕事に加えおじいちゃんの世話と一人何役もこなしているので、これ以上は無理がいえません。この上はもう少し自己管理に気配りをしポカの出ないようにしたいものです。でも朝奥村先生を見かけなかったら夜の集会は失礼な話ですが完全に忘れていたでしょう。

 午前の会はシルバーさん8人を相手の小さな会議での講義でした。キャップの杉本さんの仕切る会議のため請われるままに馴れぬレジメを出し、レジメがプリントされて皆さんに配られていたのでハプニングの連続でした。シルバーさんなので出来るだけ休憩を取って出来るだけゆっくり喋ろうと思って始めたのですが、前半の社会の変化と子どもたち、中盤の家庭の変化とこどもたちに予想以上の時間を食って、後半の学校の変化と子供たちや逞しい子どもを育てるためにはほんのさわりだけに終わってしまいました。返す返すも残念でした。でも参加した人は私たちと同年代に生まれ同年代に育ち、同年代に生きてきた共有意識が根底にあるようで共感・共有の話になったようで一安心でした。

 午後の会は野村町で活動している金融広報実践地区あさぎりの総会でした。会場はやく80人で満員の盛況でした。「心豊かに生きる」というタイトルでお話をさせてもらいました。田舎の穏やかな気質にも助けられあっという間に笑いの絶えない講演会は終わりました。会場には知人友人も沢山いて旧交を温めたり、ひな祭りの季節でしょうか机の上には美味しそうな雛豆が置いてあり、それをかじりながらの講演会でした。帰りには野村特産の珍しい地酒を2本も土産にいただき、早速親孝行のつもりで親父の土産にしました。

 昨夜はさすがに疲れたのでしょうか、「お父さん、夕べは軽いいびきをかいていましたよ」と一緒の布団で寝た妻に今朝言われました。普通は風呂から出て書くブログも夕べは書かずに寝てしまいました。

  「秘書もなく 日々の仕事を 組み立てる 時々ポカの あるは当然」

  「俺の秘書 ならぬか妻を 誘ったら いいですハンソン 洒落で断る」

  「日に四つ 少々無理な 日程を こなして寝息 疲れを語る」

  「ああ俺も 歳だな予定 忘れてた でも事なきは 天の助けか」



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shin-1さんの日記

○孫は動くおもちゃ

 孫からおじいちゃん・おばあちゃんと呼ばれるようになった私たち世代はいつの間にか歳を重ね、明治時代や大正時代生まれの人が段々いなくなって、気がつけば平成生まれの人が早くも成人式を迎える年齢になっているのですから驚きです。相撲の関取に平成生まれの人が登場したりする現実を聞く度に「昭和は遠くなりにけり」なんて、かつて聞いた名セリフを思い出さなければならない年齢になっているのです。「おじいちゃんなんて呼ばせない」と空元気を言ったり、「老人会には誘われても行かない」などどと胸を張ってみた所で老いは確実に私たちの所へ忍び寄って来ているのです。

 そんな初老の私たち夫婦にとって、62歳になってもまだ孫の数が1人とは、子どもが4人もいるのに何とも心もとない感じがします。しかし嬉しいことに今年は5月、長女夫婦に2人目が、8月長男夫婦に待望の1人目が誕生する予定で、今年は一気に3倍になるのですから、おじいちゃん・おばあちゃんの目尻も8時20分を差す時計のようです。

 このところ一週間ほど、頻繁に来ていた孫がすっかり顔を見せなくなりました。忙しい娘婿の年度仕事も一段落して孫の面倒を見れるような春休みが近づいているので、入院している娘がいなくても久しぶりに父子の穏やかな生活を楽しんでいるようです。いたらいたでうるさく感じる孫の存在ですが、いなければ何か物足りなく感じるもので、昨日は久しぶりに電話をしてやりました。電話に出た娘婿が「朋樹、おじいちゃんから電話だよ」と、電話口に孫が出たのは良かったのですが、「おじいいちゃん、僕は今おもちゃの片づけで忙しいの、電話せんとって」といきなり電話を切られてしまいました。「あれほどおじいちゃん、おじいちゃんと言っていたのに」と少しショックでしたが、直ぐに娘婿から電話がかかり直して少しホッとしたのです。いつの間にか孫も主張を始めました。これも成長の過程だし、いずれ成長するにしたがって私たちの手の届かないところに行くのだろうと内心腹をくくった次第です。

 孫は私たちにとってまるで「動くおもちゃ」のようです。2年前から始めたデジカメにはもう何百枚というほどの孫の写真が収められ、パソコン画面には孫のツールが用意されて日々更新されているのです。最近ではハサミの使い方もうまくなって先日は仮面を作って遊びました。まるでナマハゲのような仮面を被ってヒーローになったような錯覚で北斗の剣とかを持って私と戦うのです。悪者役は何故かおじいちゃんです。

 先日は今治の大西星の浦公園で落ち合いましたが、危ない石の上に登ってもこうしてヒーロー気取りでポーズを取っています。

 

 最近はよく孫と一緒にお風呂に入り、孫と同じ布団に入って寝ます。2~3ヶ月前は寝る頃になるとおばあちゃんがよく、私の元を離れていましたが、成長したのでしょうか「男同士」なんて言葉をよくいいます。孫と寝ていて気付くのですが、子どもは寝ている間も休みなく動きます。私などは寝たらそのままの姿で朝を迎えるような動きのない寝姿ですが、孫は処かまわず動き回ります。多分ああしてエネルギーを使って寝ている間も成長するのでしょう。お陰で孫と寝ると布団からはみ出す度に布団の中に引きずりこまなければならず、浅い眠りに終始してしまうのです。

 最近は寝小便が気になるらしく、寝る前のお茶も自ら律するいじらしさです。

 今晩はまた孫がやって来ます。「ああーああー」と「ワクワク」かな?。

  「一夜寝る 度に成長 孫姿 寝小便 気にする 歳になったか」

  「ヒーローに なったつもりの 孫相手 私はいつも 悪と負け役」

  「明日また 孫が来るから 早寝して 満を侍したる おばあちゃん」

  「何欲しい 電話予約の 甘い祖母 餃子作りて 心待ちする」

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shin-1さんの日記

○転居手伝い

 転居と聞けば普通のサラリーマンなら人事異動に伴う住家の変更なのでしょうが、私の友人でえひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんは親の人事異動による子ども時代を含めると、驚くなかれ20数回も転勤をされているそうです。私などのように地元の役場に就職した者は人事異動といっても机が別の部屋に移る程度の異動だったので、彼らのような転勤族を何とも羨ましいものだと思いました。でもいざ実際異動をしてみるとこれは大変なことだと、今日改めて思いました。

 私の末息子(三男)は念願かなって警察官になりました。警察学校を卒業して管内の警察署に配属され、交番勤務をこの一年間してきました。警察の勤務は24時間勤務ですから1日勤務すると勤務明けが2日間とローテーションが組まれるのですが、ご存知のように世情不安定な日本になりつつある現代ではその勤務も大変なようで、テレビで見る格好よさとは違って現場の仕事も大変なようです。

 数日前その息子から警察署の内部移動で一人だけの交番勤務のため、官舎を出て交番へ転居することになったのでトラックに乗って手伝いに来るよう頼まれました。私の仕事も今日は空きがあったので、姉の家でトラックを借り受け、三男の部屋のベットを取り外して、前の会社の寮生活時代に使っていた洗濯機とともに積み込み、家内と二人で朝早くから手伝いに出かけました。昨夜来の心配された雨もあがり、強風は吹いて寒さは厳しかったのですが、着込んで出かけました。妻は私より一足早く起きて朝食用の弁当を作り、お茶を魔法瓶に入れてまるでピクニックにでも行くような出で立ちです。

 日曜日の朝は比較的道路も空いていて2時間弱、9時過ぎには官舎に到着しました。異動の季節なのでしょうか既に引越し業者の車が数台来ていて、同僚が盛んに荷物を運ぶ手助けをしていました。息子の官舎は僅か6畳一間の足の踏み込む場所もないような小さな部屋でした。でもここで息子は一年間過ごしていたのかと思うと何だか懐かしく、花粉症の息子も鼻をグスグスいわせながらマスクをしての作業に余念がありませんでした。同僚や後輩が片付いた分からせっせと運び出しましたが、男所帯の寂しさなのか埃もかなりあるようで、妻はせっせと次に入居する人のことを考えて「立つ鳥後を濁さず」などと、そのことの方が気になるようでした。私のトラックと息子の乗用車で二往復でやっと荷物を運ぶことはできましたが、その片づけがまた大変で、カーテンを買いに行ったり、物干し道具や掃除道具など、一通り揃えなければならず、何かと物入りでその度に妻の財布から小銭が出て行ったようでした。粗方の片づけが済んで引越しにつき物の引越し蕎麦を食べようと3人で暖簾をくぐった頃には時計の針は1時を過ぎていました。

 息子の新しい勤務地である駐在所は4DKです。広々とした室内や外の日当たりも抜群で今までの独身寮とは比べ物にならない程の広さです。おまけに収納スペースの押入れもふんだんにあって、昨日までとは天地の差のようでした。まだ事務引継ぎも出来ていないのですが、早くも市民が何やら相談に来たようで、早速書類をテキパキ作成したり忙しい仕事の始まりを予感しました。食事が終わって粗方の片づけが終わった3時過ぎ、私たち夫婦は駐在所を後にしました。息子の朝食にと妻が作った弁当は結局食べず終いで、息子が夕食に食べるのだそうです。

 長い転居の手伝いで疲れ、汚れたので途中の温泉に立ち寄って気分を一新して我が家へ帰りました。息子にとっては新任地への転居と今回の転居で早くも2回目です。職業柄これからも県内の警察署を点々とする転居が続くものと思われますが、いい人間関係の中でいい仕事をして欲しいと願っています。親ばかなのでしょうか。

  「転勤に 伴う転居 手伝いに 妻と二人で トラック乗って」

  「一部屋の 独身寮に 別れ告げ 四DKとは リッチなもんだ」

  「春異動 前も後も 荷物積む 車行き交う 忙しそうに」

  「少しだけ 成長したな ありがとう 別れる際に 殊勝な言葉」

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shin-1さんの日記

○大豊作のほうれん草

今年の冬、わが家の畑ではほうれん草が大豊作で、殆ど毎日といっていいくらいほうれん草のおひたしを食べています。若い頃からどちらかというと肉よりも魚が好きな私は、その付け合せともいえる野菜が好きで特にキャベツは毎朝常食として食べています。妻の作る料理にはふんだんに野菜が使われるため、当然ながら野菜が好きになったのです。

 あるお医者さんの話だと地球上に住んでいる人間は大別すると肉食と草食に分かれるのだそうです。まるで恐竜の世界の話のようですが、肉食を好む人種は腸の長さが短く、草食を好む人種は生まれた時から腸がとても長く出来ているのです。勿論私たち日本人は草食動物的人種なので腸はかなり長いようです。これは肉と草の消化時間の違いから長い食生活習慣によって進化を遂げてきたわけですから、肉が好きだからといって急に腸が短くなるのではないのです。ところが草食人種であるはずの日本人の食生活がこの50年で大きく変わりました。草食から肉食に変わったのです。肉を消化するには短い腸で出来るだけ早く便にして外へ出さなければならないのに、腸が長いものですから宿便や便秘になって体内に留まり、ついにはそれが腐敗して胃や腸の内面を壊すのです。胃ガンや大腸ガンがこの50年間で死亡率のトップになった原因はここから来ていると断言する人さえいるようです。

 そういえば日本人の食生活は私たちの子どもの頃と今と比較すると雲泥の差です。年に1度か2度しか食べなかった肉を日常食として食べるようになりました。松坂牛に代表される霜降りの柔らかい脂身の肉をテレビのコマーシャルにつられて食べ続けると誰だってコレストロールが増えたり肥満になったりするのです。それでも飢餓を体験した私たち世代は豊かさの象徴としてそんな食生活に未だに憧れているのですからおかしな話です。50年の食生活の変化に腸の長さがついて行けるほど人間の細胞の進化は早くはないのですから、日本人が草食人類であることの理解をしっかりとすることが長生きの秘訣かも知れないのです。

 ほうれん草を毎日のように食べると、発癌物質が多いので要注意と言われています。でも肉を毎日食べるとガンになるとは誰も言いません。それでも私はほうれん草を食べる方が健康にいいと思って食べているのですから、よほどの変わり者か偏屈なのでしょう。

 ほうれん草はグラタンにしても美味しいです。妻は若い頃ほうれん草の食べ方はおひたしくらいにしか思っていませんでしたが、

少し時間的余裕が出来たのか、料理の本などを捲ってレシピを見ながら色々な料理を作ってくれます。例えばグラタンもその一つですがこれが滅茶苦茶美味くて、結構気に入っているし、ほうれん草を湯がいたものを芯にした巻き物も中々美味しいです。ほうれん草が豊作になった一番の功労者は暖冬という気象異変と種から育ててた親父なのですが、近所へ配っても冬野菜のことゆえ結構喜ばれます。近所に住む人の中には野菜を全て買う家庭もかなりあるので、無農薬で栽培するわが家のほうれん草は重宝がられているようで、先日は御礼にと珍しい物をいただきました。

 ほうれん草は冬野菜、谷間に位置するわが家では冬の太陽が中々顔を出してくれません。ですからブロッコリーも大根も、キャベツも、もう春の話題がちらほらというのに冬野菜の全てがこれから旬を迎えます。まさに遅咲きの旬と言ったところでしょうか。

  「エンダイブ 珍し野菜 食卓に ピリッと辛い 春の味する」

  「報告や 連絡相談 ホウレンソウ 行政マニュアル 聞いた聞いた」

  「グラタンを フウーフウー言って 口にする 春の香りが 口に広がる」

  「食べますか チャイム鳴らして ホウレンソウ 差し出す私 中からいつも」 

 

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shin-1さんの日記

○春の準備

 ♪どこかで春が生まれてる どこかで芽の出る音がする 春よ三月~♪なんて、「どこかで春が」という歌を子どもの頃に口ずさんだような記憶があります。この歌のように春がそこまで来ているような感じです。三寒四温の巡りも活発になってテレビでは早くも桜の開花予想が今月17日ごろと第一回の発表さがありました。「ああ春か」とウキウキする心がある反面草丈が伸びる心配や春の準備が遅れている自責の念が頭を持ち上げ少し憂鬱な気持ちにもなっています。年末年始に痛めていた腰の具合も随分よくなり人間牧場へ行って農作業をしたいのですが、このところの忙しさでそれも適わず悶々の日々なのです。

 一昨日の午前中少し時間が取れたので思い切って人間牧場へ行きました。人間牧場界隈は冒頭の歌のように確かに春の近づきを感じるように草の色が青くなり、進入道路のコンクリート舗装の上にさえ草が生えつつありました。昨年秋にイノシシがのたうった道の両側の崩れも美観を損ねているので思い切ってその作業から始めました。鍬で草をおごしテミでくぼ地へ運ぶ作業なのですが、やはり腰のことが気になって少しずつの作業しかはかどりませんが、それでも両側を含めると4分の1も道路を占拠していた草を除け土を取ったお陰で随分すっきりした道になりました。本当は一度にやりたかったのですが無理は禁物と途中で止めてそこら辺の枯れ木を集めてストーブに火を入れ、お昼の休憩準備をしました。

 「野良なお前が珍しい畑仕事をするからこんなに寒いと」と苦笑する親父の話のように、この日はとても冷たい北西の季節風が吹き荒れ、山には薄っすらと雪化粧、しかも時折粉雪が舞うあいにくの天気です。じっとしていると足元から寒さが伝わってくるし、畑は前日の時雨で少々ぬかるんでいるようにも見えましたが、これ以上農作業を遅らすとジャガイモの作付けにも影響素するとあって、思い切って耕耘機を動かすことにしました。

 この耕運機はまちづくりの仲間である大洲市田処の亀本耕三さんが、牛糞と一緒に昨年持ってきてくれたものです。斜面ゆえ耕運機を使う作業は腕や足に堪えますが、ガソリンを満タンにしてチョークを引き2~3度始動のための紐を引っ張ると、勢いよくエンジンがかかり、凄い勢いで耕し始めました。昨年は荒れた畑だったため約1週間もかけて鍬で丹念に作業したのに、僅か2時間で深耕し、今更ながら現代的機械の威力に脱帽しました。


 もう少し温かくなったらこの耕耘機を収納する小屋も作らなければなりません。長男とはその算段を何度となくしているのですが、設計士の息子ゆえハードルが高く中々私の思う通りにはなりません。息子の試算だと40万円くらいかかるとか、投資金額の多さに耳を疑うのですが、資金源たる妻の首は容易に振れそうもなく、未だに決断しかねているところです。当面今年の人間牧場の目標はこの納屋づくりに合わせた奥戸さんづくりですので何とか資金を捻出して一日も早い完成を目指しています。

 薪で風呂を沸かすようには出来ました。今度は薪で煮炊きが出来るようにすることです。特に薪でご飯を炊いたりしたいのですが、息子は石釜まで構想にあるようで、全て資金調達はオーナーなどとおだてられる私の責任なのです。でも先のことを思うと時間がないので、早く決断して夢の実現に一歩近づけたいものです。

 農作業中もひっきりなしに携帯電話がかかってきてビジネス?もしなければならず困ったものです。農作業中頭上よりはるかに低い見下ろすような場所を海上保安庁のヘリコブターが爆音を響かせ行き来し始めました。一瞬何事が起きたのか驚きましたが、沖合いでつき磯のため石を海上投棄している作業を水質汚濁がないか監視しているようにも見えました。この沖合いでは海上自衛隊の大型ヘリが訓練のため日がな一日飛び交うこともあり、海上自衛隊の艦船も見学できるなど、見方を変えれば何かと面白い場所なのです。

 

  「春が来た 草刈りはたまた 農作業 しんどい春も 頭をよぎる」

  「去年は 鍬で一週間 今年は僅か 二時間足らず 耕運機偉い」

  「土興す 草の根 早くも 動いてる 心痛めつ 前へ前へ」

  「蜂ならぬ ヘリの爆音 驚きて 見下ろす海に 白き物体」 

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shin-1さんの日記

○近いうちにいっぱい飲もうや

 私たちまちづくりや社会教育に携わる者は決まったように久しぶりに会うと別れ際「近いうちに出会っていっぱい飲もうや」とあいさつ代わりに言葉を交わして分かれるのが普通のやり方です。「何時」や「誰と」、「何処で」という細かい打ち合わせもないのですから口から出任せといった感じでしょう。例によって先日大洲青少年交流の家での研修が終った別れ際、その余韻を引きずったまま玄関に見送りにきてくれた担当職員と「近いうちにいっぱい飲もうや」と言ったのです。相手の先生も同調して「近いうちにいっぱい飲みましょう」で握手をして分かれました。何日かして私のメールにその先生から「先日お約束の飲み会の件なのですが、何時がよろしいでしょうかお返事を下さい」と入ったのです。慌てたのは私の方でそういえば別れ際「近いうちにいっぱい飲もう」といっことを思い出しました。メールが入って何日かして再び催促のメールが入りました。「やばい」と思って日時を設定しようとしたのですがあいにく日程が積んでいて中々取れなかったのですが、数日前に相手の都合で講演がキャンセルとなったので、相手にメールを送り、今日の夜の飲み会となったのです。その職員は東京から来ている人で気真面目な人なので真に受けたのでしょうが、お陰で所長以下8人もの職員と飲む機会を得ました。でもその職員がいなかったらこんな楽しい集会はなかっただろうと、ほのぼのとした気持ちで帰って来ました。

 今日の話は青少年の家の職員だけあってみんな真面目で、それなりの資質を持ち合わせているため随分盛り上がった酒盛りとなりました。私がつい最近青少年交流の家のお手伝いをする機会が多くなったこの2年間は職員との付き合いも自然と多くなり、気心は知れてると思っていましたが、飲み会と研修会は別の世界で日ごろ聞けない話をお互いが話し込み、時には自分の座る場所を変えて話し込んだのです。

 今日の飲み会で私は2つの約束をしました。相手はみんな酒を飲んでいて明日になると忘れるかもしれませんが私は3時間以上もウーロン茶で頑張る素面なので忘れませんからどうぞご安心ください。

 まずひとつは大洲青年の家時代(今は大洲青少年交流の家)、青年の家から双海町の役場へお嫁に来ている原木の置物を里帰りさせるプロジェクトです。この話は書くと当時の職員を傷つけることになるので書きませんが、とにかく双海町の役場、今の伊予市双海町支所のロビーに置いてる原木の置物を元の置き場に返すことなのです。このことを知っているのは私と元町長だけだし、役場も合併をしてその役割を終わっているので、私個人としては返そうかという気持ちになりつつあります。元町長との打ち合わせも残っているのですが、その説得は私がするので、まず事業課長さんに手紙を書くよう勧めました。今年度中に処理したい目標を立てているのでこのプロジェクト事業はまあ70パーセントまで可能だと所長さんに話しました。

 もう一つは4月中に人間牧場で今日の集会の第2ラウンドをやることを決めました。担当の窓口となる職員も決まり早速日程調整しなければなりません。私の人間牧場へ来たいという人は順番待ちの状態で青少年交流の家の職員の順番はまだまだ先のことでしたが、願望は順番を狂わせます。飲み会の盛り上がりで結局は承諾してしまいました。ただし私の人間牧場へ訪ねてくる限りは今よりグレードアップした進化の後が見えない人は来るなといっていますので、多分その気持ちでやって来ることでしょう。そのためには私個人も目標を持って進化しなければなりません。「人は人によりて人となる」という言葉のように、いい人に巡り会ってこれからの人生を豊かなものにしたいものです

  「夢語り 人生までも 語りかけ 飲むほど酔うほど 自分高まる」

  「ああ俺も あんな時代が あったっけ 若さはみ出し 議論吹っかけ」

  「約束を 二つも引き受け 素面にて 忘れたなどと 言い訳できぬわ」

  「好きになる 相手も私を 好きになる そこから始める 会話の一歩」 

 

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shin-1さんの日記

○高知県仁淀川町ルポ④ 学び

 最後の訪問地はやはり橋でした。仁淀川町には歴史的建造物、いわば近代化遺産といわれる橋が2つありました。一つは珍しいアーチ型の沈下橋です。私も四万十川周辺で幾つもの沈下橋を見てきましたが、規模は小さいものの珍しい形です。自然の石を橋脚に生かした橋はコンクリートながら幾度もの水害に沈みながらも丸みを帯びて自然に近い形に収まっているのです。

 

 そして下流に目をやると川の中には大きな石の塊がゴロゴロと無造作に並んでいました。

 一方少し下流に下るとレンガ造りの橋脚とその後補強した橋脚が並ぶ橋を見ました。ここが旧吾川村の中心で今も仁淀川町の中心と鳴っています。この橋は代替橋がその横にあって、この橋の上では日曜市のような場所として賑わいをなしていましたが、今はその面影程度のようでした。

 

 さていよいよ長かった町内視察も終りいよいよ本題の講演会です。昼間の集会にもかかわらず沢山の方々が中公民館3階ホールに集まっていました。話のテーマは地域資源を活かしたまちづくりですが、私の町と同じようにここも中山間地域の厳しい現実の中でのまちづくり、結局は知恵を出し行動を起していかない限り地域の発展は望めないということです。そのためには負け組みというあきらめ意識を捨て、町にも自分にも潜在能力があると信じることです。そしてまず学びから始めることです。田舎の悲劇は学ばないことです。学べば気付き、何が問題で何をすればいいかが分ってくるのです。合併によって生まれた仁淀川町を愛し、町をいい方向に導く努力なしにいい町はないのです。さあ今日から学びましょう。長者のイチョウの樹が教えてくれました。結局は行き着くところ人であることを・・・・・。

 追伸

 旧仁淀村の旅館で交流会をしました。今までの視察でも講演会でも話せなかったことをみんなで話しました。嬉しいことに若い人も集まりました。途中から高知大学の坂本先生も加わり、次の希望が見えてくるような話がどんどん出ました。また私がその日のうちに帰って書いた教育長さんを紹介したブログ記事に隣町久万高原町の渡辺さんからメッセージもいただきました。偶然でしょうが大分県の渡辺さんとも電話で仁淀川町のことを話しました。二人の渡辺さんを次は案内したいものです。

 高知県にはよく似た川に四万十川があります。残念ながら仁淀川沿線の人たちは、四万十川沿線の人より一歩も二歩も遅れています。十年後の仁淀川が四万十川にはもう既に取り組みとなって成果を出しています。遅れていることは目標があることですから何も心配することも卑下することもありません。気が付いたときに気が付いたことを、気が付いた人がやるのがまちづくりです。今回の学集会で一番にいい学びをしたのはひょっとして担当した西森さんではなかったのかなと内心思って、仁淀川町のルポの筆を置きます。

  「いい人に 会って色々 教えられ 俺も育った あなたも育つ」

  「偶然か 渡辺ふたり 海と山 音信通じ 仁淀川発」

  「若い子が 俺の撒き餌に 食いついた さてどうするか 町の外向き」

  「まちづくり ガラスコップの 共磨き 外を磨くは 外の日となり」

 

 

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shin-1さんの日記

○高知県仁淀川町ルポ③文化物語

 昼食をした場所は廃校になった学校でした。「何で廃校?」と思わせるほど立派な学校が、生徒数の激減でついには廃校になった現場をこの数年間嫌というほど見てきました。豊かさを追い求め続けてきた田舎の終着点がこの有様です。今開かれている国会では時あたかも格差国会などと言っていますが、議論の中にはこんな小さな田舎町の学校の苦悩など知らないのか誰も口にしません。でも学校が廃校になり地域のコミュニティが音を立てて消えているのです。先日の新聞だとこれから10年かで1800の集落が日本の各地で消えるそうです。信じ難い話ですが現にこの仁淀川町だって高齢化率は限りなく50パーセントに近づこうとしているのです。高齢化率50パーセント以上を限界集落というのですが、この町は限界町なのです。小学校が消え高校までもが消える運命にあるのです。

 でも嬉しいことにこの地域では地域を愛する人が立ち上がり屁のツッパリと言われながらも学校跡を整備してもらい、校区のみんなが集落合併をしてこの学校跡を生かして使っているのです。卒業生にとって学び舎がなくなるのは心の港を失ったような空しさです。また周辺に暮らしている人たちにだって学校は心のよりどころなのです。かつての校長室は食堂と村の飲み屋に生まれ変わり、教室は宿泊室になりました。開業以来2年弱で2千人足らずの宿泊客のようですが、赤字になることもなく細々ながら経営を続けている姿に大きな拍手を送りたいと思います。村の茶の間を充実するために囲炉裏部屋を作っていました。

 外には大きな水槽が二つ置いてありアメノウオが人間様に食べられる前の束の間を日向ぼっこしていました。

 それにしてもお昼に食べた芋の煮っ転がしや手打ちそばの美味かったこと、何よりのご馳走でした。

 校舎の一室にはこんな怪しげな看板があり、番外編で最初に書いたNASAも認める教育長さんの研究室がありました。壁には在りし日の学校を彷彿するような花いっぱいコンクールの表彰状や卒業写真が一杯飾られていました。特に花いっぱいの賞状は私の町も何枚かもらっているので特に興味を引きました。施設の片隅にはその名残の石碑まで建っていて、これこそ文化だと思ったのです。「文化って何?」と訪ねられたらあなたはどう答えるでしょう。文化会館や東京発の文化を連想する人が多いかも知れませんが、私流に言わせれば「文化とは人間がよりよく生きるために考えを形にする営み」だと思うのです。この施設にはそんな文化が一杯詰まっています。是非田舎流の素晴らしい文化を残して欲しいものです。

 私たちの一行は長者という集落へ行きました。長者のシンボルとでも言うべき樹齢千年といわれるイチョウの大木に出会いました。息を呑むような木霊宿る巨木でした。残念ながら風説の重みに耐えて少し傷んでいましたが、年月を超えていき続けているこの樹には自然治癒力があるから大丈夫なのです。それにしてもこの地にしっかりと根を下し村の生き様をじっと見続けてきたイチョウの寿命に比べると人間のたかだか100年の寿命なんて端数ほどなのですから大きな顔はできないのです。

 妙案その1  まず長者棚田の地図を3枚作ります。持ち主現状地図1枚、耕作現状地図1枚、夢地図1枚を用意します。勿論役場で造ってもらった素図を使ってその地図作りはみんなの手でやります。そうすれば現状と夢のハザマにある問題点が明らかになります。夢地図は区分けをして担当を決めます。夢の実現はみんなではなく俺の役割を明確にしなければ実現しません。

 妙案その2  金と人と物を試算します。この試算がないと絵に書いた餅になります。今はその気名なればこれだけ文化的価値の高いものですから、国や県のお金を投入することは可能なのです。人も長者だけでは高齢化しすぎて力もなく、諦め過ぎていて知恵もなく何の役にも立ちません。悪口や足を引っ張るだけの人はもういらないのです。高知大学にお願いして大学生を毎年草刈十字軍なんて組織するのも一考です。

 妙案その3 役場の力と外の知恵を借ります。役場にとってもこの文化遺産を守ることは大きな仕事のはずですから、町長さんや議員さんも口だけではなく汗もかいてもらわなければなりません。外なる知恵は情報発信で十分やれます。

 妙案その4 シナリオづくりと経済効果への誘導をすることです。どんな素材でどんな人にどれだけ来てもらいどんな経済効果が期待できるのか、農協も役場もみんなで考えれば出来ることです。長者の片隅に小さな良心市がありました。もう既に心ある人は経済をやっています。農協のいり口で鮮魚を売っていました。農協も経済をやっています。やらないのは役場だけです。

 まあ色々な手法がありますが、三人寄れば文殊の知恵です。

(山の上にある珍しい池、隕石が落ちたと伝えられている星が窪、昔は近郷から沢山の人を集めて競馬が行われていたようです)

(星が窪の池の近くで大きながま蛙を見つけました。折からの陽気に誘われて冬眠から覚めたのですが、寒波襲来で動くに動けずじっとしていました。)
(星が窪から見える向こうの山には他所の町の風車が沢山見えました)

(澄み切った冬空の向こうに石鎚山が見えました。また反対側の山の頂上には石灰岩を掘り出す日鉱の現場も見えました。須崎までベルトコンベアーで運ばれ船積みされるのだそうです。日鉱のお陰で長者にはアパートが建ち子どもも長者の学校に通っているようです。日鉱がなければどうなったか。印象的な言葉でした。)

  「石垣の一つ一つに 汗と知恵 先人生きた 苦悩の歴史」

  「文化って? 聞いてあなたは 何思う 思わず腕組み 言葉すら出ず」

  「このイチョウ 村の歴史の 生き証人 笑われてます 知恵がないわい」

  「地図上の 等高線を 見てるよう 起伏激しい 空まで上りぬ」



 長者の自慢は石垣積みの棚田です。昔は美田として脚光を浴びたこの棚田も耕作放棄地が毎年増えて、保存運動に取り組んでいる心ある人の心を痛めているようです。唐突に同行した地元出身の人に何か妙案はあるか」と尋ねられました。

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